【紅い月】


そぞろ歩く夜の小道で、お前はふと立ち止まる。
俺の話の相槌も忘れ、黙って頤を上げるその先には、
お前の髪の色にも似た紅い月。

薄闇の中に浮かび、妖しげな色を放つ。
その色にお前は何を思うのか。
過ぎ去った幸せを見ているのか。
血塗れた悲しみを噛みしめているのか。

俺のことなど忘れ、妖しげに揺らぐ月に魅せられて
黄金色に輝くお前の瞳は、
忘れた過去を呼び起こし、
亡者の声に囚われる。

闇を見つめ、闇に潜むお前の心に
蛍の灯りほどにでも俺の心が伝われば……

いつか届くことを願いながら、
お前の側で、俺も紅い月を見ていた。



「くそぉー! いったい此処はどこなんだ!!」
 手近な木へと腹立ち紛れに繰り出した左之助の拳によって、何の罪もなくすっくりと立っていた杉の木が、大音響を響かせて、ささくれだった痛々しい白い腹を見せる。
 右を見ても、左を見ても雑木や雑草の他は、何も見あたらない。
 頭上を見れば生い茂った木々の穂先が、空の片鱗しか映さない。
 踝まで埋まる落ち葉は、何の行き先も示さない。
 深い森の中を歩きながら、昨日から繰り返される何度目かの行動だった。

 中山道をはずれてからどれほど彷徨っているのだろう。
 行けども行けども山また山を越えるばかりで、一向に森の中から抜け出す気配はない。
 足下のシダを踏みしめ、落ち葉を蹴散らし、鬱蒼と生い茂る木々の中を、頭上の太陽だけを目印に、西へと道は取っている。
 だが、いつまで経っても道らしい道もなければ、人家一つも見あたらない。
 左之助は信濃の山の中で、完全に道に迷っていた。

 東京を出てから安中の宿までは、何と言うこともなかった。
 松井田へと向かう道すがら、脇に立っていた「近道」という立て札に、つい心を動かされたのが今となっては恨めしい。
 人家の中を通り抜け、田圃の畦道を辿り、道は次第に山の中へと入っていった。そのうち次第に細くなったが、炭焼き小屋や山小屋が、ちらほらと見え隠れして、いかにも地元の人々が通う道だと思われて、何の不安も覚えなかった。
 それがどこでどう間違ったのだろう。
 気が付けば更に細くなり、人がやっと通れるほどの道は、蔓やツタで覆われた獣道へと変わっていた。
 信濃で有れば庭も同然。
 そんな軽い気持ちで、引き返すことなど更々考えず、京都へと、一人旅立った剣心の後を追うことだけに、夢中になっていた。
 だが、迷ううちにとっぷりと日は暮れて、旅籠どころか山小屋さえ見つからず、昨夜はとうとう、繁みの中で野宿する羽目に陥った。
 そして、今日も朝から迷い続けている。
 荷物の中の餅は、残り少ない。
 碓氷川のほとりにある、茶店の老婆の笑顔につられて、余計に餅を買っておいて良かったと、胸を撫で下ろしたのは昨日の夕刻。今夜もとなっては心許ない状態だ。
 新緑の狭間で、夏のような陽気を見せていた太陽も、そろそろ山の端影に隠れる頃だ。
 どうやら本道へ出ることを諦めて、今夜のねぐらを探す方が賢明らしい。
 誰にとも無い腹立ちを覚えながら、ドシドシと山を踏みしめて、木々の間を分け入った。
 数丁も歩かぬうちに、木立の間に空間を見つけた。
 もうすぐ薄闇が、山全体を覆うだろう。
 今夜のねぐらのためにと、目の利く間に、足下に転がっている小さな木ぎれを拾い集めた。 火を熾し、切り株に腰を落とす。そして、ささやかな夕餉の始まりだ。
 その間にも、山はとっぷりと日が暮れて、そよぐ風に揺られた木の葉がざわめく他には、物音一つ耳に届く物はない。
 山は深閑と静まりかえっている。
 頭上に広がる僅かな空間に、目覚めたばかりの星が煌めく。
 その夜の闇の中に、あの日の月は紅かったと、数日前の交わした会話が、思い出された。


「ちょっと座ろうか?」
 足下の柔らかそうな草を爪先で示して、剣心が言った。
 来たな、と思った。
 明日は5月14日。
 大久保への返事の答えが出たのか。
 まだ傷は癒えきっていないとはいえ、俺をわざわざ送って行くというお前に、何か話があるのだろうとは感づいていた。
 嬢ちゃんにも弥彦にも話さず、俺にだけ、その胸の内を明かしてくれると言うのだろうか。
 お前と肩を並べる男だと思い、お前の力になれると俺は喜んだ。

 それは静かな夜だった。
 東から昇りかけた月は、遠く山の端に掛かり、魔性を呼び起こすように紅く輝いて、不気味な夜を演出していた。
 川の畔に並んで座った俺たちの視線の先には、小さなさざ波に逆らいながら、餌を求めて光る蛍の幼虫が彷徨っていた。途切れることなく耳に届くせせらぎは、広い海へと押し出す運命(さだめ) の音のようにも聞こえ、沈黙を保つ俺とお前の間を埋めていた。
 その静けさを破り、口を開いたのは俺だった。
「なぁ、剣心。お前、死にてぇって思った事ってあるか?」
 唐突に俺の口からそんな言葉が出てきたのは、数日前から俺の心の中を占めていた、あの光景が目に焼き付いて離れなかった所為だろう。
「自ら命を絶つと言う意味でか……?」
「ああ」
「死か……それを選ぶことが出来たら……」
 俺の問いかけにちらっと顔を上げ、お前は頭上の月を見た。
 妖しく揺らぐ、月の光に魅せられたかのように。
 そして、それっきり黙ってしまった。
 何か話があっただろうに、いつまでも切り出さず黙ったままのお前の影を見つめて、俺も自分の心の中を見つめていた。
 あの日から、狂おしいほどに魅了し続けるもう一人のお前を……


 何か聞こえる……
 耳の奥底に響く激しい争闘。
 俺はその物音で眠りから覚めた。
 だが、実際に騒々しい音がしていたわけではない。
 誰も居ない神谷の屋敷の一室は、不気味なほどに静まりかえっている。
 微かに耳に届くのは道場からの物音。何かに物がぶつかるような、壁を打ち鳴らす音がしていた。
 しかし、その合間から漏れ出る空気を振るわせるような異様な気配は、意識のハッキリしない俺の頭にも伝わり、神経を逆撫でする。その不快感から逃れようと首を動かすと、右の肩に激痛が走った。その痛みは、急速に俺に記憶を取り戻させた。
 アイツが来ている……
 何の根拠が有ったわけでもないが、俺の本能がそうだと言った。
 痛む右肩を庇いながらゆっくりと身体を起こし、ふらつく足で俺は道場へと向かった。
 道場へと続く細い渡り廊下は、その時の俺には千里の道のようにも思えたが、この気配の正体を見極める誘惑がそれよりも勝っていた。
 重い足を一歩一歩踏み出す内に、音の正体が次第にはっきりとしてきた。
 床を踏みならす二つの足音。
 時折響く金属音。
 その間から漏れる裂帛の気合いの声。
 それらの音に誘われて、俺はひたすら道場へと足を進めた。
 長い洞窟を抜け出た出口のようにぽっかりと空いた道場への入り口に、ましらの様な素早い影が走った。目の錯覚かと思うほどにそれは俊敏で、すぐに俺の視界から消えた。
 その影は俺に一つの予感をもたらせ、俺を道場へと急がせる。 まともに機能していない俺の足音に、最初に気づいたのは恵だった。
 ふらふらと柱に捕まりながら進む俺を認めて、医者らしく文句の一つでも言おうと思ったらしい。険しい表情で俺を睨み、寝床へ戻れと命令しようと口を開きかけたが、思い直したのかそのまま押し黙り、ついで俺の元へと駆け寄ってきた。俺の左の腕を取り、肩を貸してくれる。だが、恵らしく「バカね。」という一言は忘れなかった。
 やっと辿り着いた道場の入り口で俺が見たものは、僅かな空間を挟んで対峙し合う二人の男。
 一人は俺の右肩をいとも簡単に刃で貫き、圧倒的な力の差で俺をねじ伏せた元新撰組、三番隊組長、斎藤一。
 燃えるような闘気を身体の芯から揺らめき立たせ、斎藤は俺へと繰り出した技を叩き付けるべく構えを取って 薄い笑いをその口元に浮かべている。突き出した右手で狙いを定め、剣を握る左手を高く持ち上げ、切先は目指す急所を示していた。
 そしてもう一人は、俺の良く見知っている顔でありながら、常とはまったく違う凍り付くような冷ややかな色を浮かべ、斎藤を見つめる剣心だった。
 その身体から発せられる蒼い炎にも似た剣気は、小さな身体を何倍にも膨れあがらせ怖気を感じさせる。
 それは先ほど俺が予期した通りの二人の対峙であり、構図だった。
 向かい合う二人の間から、息も呑むような気迫が伝わってきて、見ている俺達の神経までも震えるような緊張で縛られる。
 僅か一呼吸ほどの空白の間、無の時間があり、震える空気がピタリと止まったかと思った次の瞬間には、道場全体が揺らぐのかと思われる張り裂けんばかりの咆哮が響き渡った。
 突き出した切先にすべての闘魂と重心を掛け、相手を確実に仕留める技、斎藤の牙突が怒濤のごとくに走る。
 対する剣心はその身体が一瞬消えたのかと見紛う早さで斎藤へと向かい、気合いもろとも剣を鞘走らせる。
 突進し、交錯する二つの影。
 鋭い金属の咬み合う音が交差する影から吐き出され、張りつめた空気が引き裂かれて真空の断層が生じたかのように、俺の肌にも痛みが走った。
 刹那の後、飛び違えた二人が構えを解いた時、斎藤の刀は切先五寸ばかりを叩き折られ、破片は弧を描いて弥彦の足下へと落ちた。
 「次は貴様の首を飛ばす」
 振り上げた刀をゆっくりと降ろし、逆刃の峰を返す。
 剣心の言葉を証明するように、一点の曇りもない刃に丁子の乱れが妖しく映し出される。
 あの小さい身体の何処にそんな力が秘められていたのか、凄まじい破壊力を目の当たりにして、俺は全神経が震えた。
 ほんの数ヶ月前に河原で俺とやり合った時とは比べ物にもならない程の剣腕だ。あの時でさえ、次々と繰り出される技に、俺は剣心の強さを桁違いだと認めた。
 それから後、どれほど一緒に闘ってきたことか。
 俺はいつも剣心の側でその闘いぶりを見てきた。
 手こずる相手も居るには居たが、胸のすくような早業と敏捷な身のこなしで相手を制し、そのいずれもが俺の知っている剣心であり、飛天御剣流の技だった。
 だが、今、目の前に立つ男はまったく別の人物。
 同じ剣を持ち、同じ技を振るうが、その身のこなし、その気配は、闇の中に潜み、鋭く神経を張り巡らせて息を潜める剣鬼そのものだ。 鬼火のようにゆらゆらと揺れる瞳の炎が見つめているのは、勝敗の行方でもなく、ましてや自分の生死でさえもない。一寸先の未来も映し出さずに闘うことだけを見据え、剣を振るうことにのみすべての闘気を傾けている。
 それは向かう相手の息の根を止めることだけがすべてだった。

 これが幕末に生きたお前。
 これが人斬り抜刀斎…

 僅か二尺三寸ほどの剣にすべての気を集中して、情けも容赦もなく、凍り付くほどの冷ややかな闘気を浴びせかける。
 獲物を追いつめたお前の目は、黄金色の鋭い輝きを放っていた。



「左之。お前は嬉しい時にも人は泣くものだと知っているか?」
 長い沈黙の果てにお前が独り言のように俺へと問いかけた。
「ああん? どういう意味でぇ?」
 わざわざそんなことを問いかけるお前が何を言いたいのか、俺にはまったく想像もつかない。
「俺のばあさまがそう言っていた……」
「お前ぇのばーさんが?」
「ああ……俺の幼い時のことだ」
 剣心が身内の話をするのは初めてだ。
 唐突に切り出された会話は異常に俺の興味を引きつけた。
「言ってみろよ」
 俺の促す言葉にお前は頷き、そして 長い昔語りが始まった


――――― 俺は山の中の貧しい農家に生まれた。
 親父は小作農だ。だからどんなに働いても、その日その日を食べるのがやっとの暮らしだ。それでも俺が五歳になる頃までは、両親やばあさま、そして妹が居て俺にとっては貧しいなりにも幸せな日々だった。
 親父とお袋は、日が昇るとともに田圃に出て日暮れまで働き通しだった。だから、俺と妹の面倒は、家で藁を打ちながらばあさまがみていた。ばあさまは長年の無理の所為かあまり丈夫じゃなかった。腰もずいぶん痛めていたようで、いつも背を屈め、腰に手をやって「よっこらしょ」と言って立ち上がるのが口癖になっていた。
 それでも農繁期には俺の手を引き、妹を背中に背負い、田圃に出て行くんだ。あぜ道に妹を寝かせ、親父やお袋と一緒に痛む腰を押さえながら、朝から晩まで田植えや草刈りをしていた。
 俺はその横で妹の面倒を見ながら、手伝いにもならぬ手伝いをやったものだった。
 ばあさまは畑仕事の合間に暇を見つけては、俺に笹舟を作ってくれたり、藁を打ちながら昔の話を聞かせてくれたりしたものだ。
 貧しい農家で何の娯楽もない俺にとっては、それが唯一の楽しみだった。
 左之。
 お前も農家の出だからその暮らしぶりがどんなものかは想像がつくだろう?―――――

「ああ…俺の所は山ん中だから、米なんか僅かばかりで、大根や蕎麦ばかり食ってたなぁ。白い飯なんて滅多と見られねぇ。初めて食った時なんか、こんな旨いもんが世の中にあるのかと驚いたもんだぜ」
 俺自身、剣心の話を聞きながら、遙か昔に捨ててきた信州の田舎を思い出していた。
 掘っても掘っても出てくる石に、開墾を諦めた荒れた農地。一握りの土を求めて切り開き、険しい斜面に植えられた大根や桑の木。 長い冬は雪に閉じこめられて、寒くてひもじかった。


――――― 農家の暮らしなんてみんなそんなものだ。
 俺達は米を植えていたが、口にはいるのは稗や粟だけだ。真っ白な米はみんな城下へと運ばれて行く。それでも、豊作の年には雑炊の中に白い米が混じるんだ。子供心にそれがすごく嬉しくてな、何よりのごちそうだった。
 その頃には隠し田と言って、俺たちの所では自分たちで新たに開墾した土地に植えた作物には、年貢がかからなかったんだ。だから、親から子、子から孫へと人々は寝る間も惜しんで少しずつ農地を広げていった。 そこに出来た作物が俺達の食料だったからだ。
 だが、俺が生まれた年に城主の代が変わり、新しい城主はずいぶんと才長けた人で、老中にも可愛がられたらしい。出世欲が強くて、そのために江戸ではかなりの運動をしたそうだ。当然莫大な金が要る。だが、幕末の頃は何処の藩も困窮していた。華美になりすぎた武士階級の格式と参勤交代の費用が重く藩にのしかかり、借金のない藩など国中ほとんど無かった。その費用の捻出は当然のごとくに農民から搾り取られることになる。
 俺が四つの頃に藩の税の徴収法が変わった。隠し田からも年貢が取られるようになり、折半だった年貢の割合が4:6更には3:7にまでなっていった。
 これじゃぁ、誰も食っては行けない。そこで近隣の村からも大人達が集まって、毎夜のように直訴の方法が相談されるようになった。
 最初は隣村の代表達が城下へと出向いて、俺達の窮状を訴えた。だが、更々そんな訴えを取り上げるつもりはなく、藩の重臣達は狼藉者扱いをし、簡単に斬り捨ててしまった。
 郡代達と結託している庄屋は当てにはならず、泣くのは農民ばかりだ。
 人々は飢えをしのぎながら働く日々が続いた。 そんな中で生活苦に喘いだ近隣の村人達が土地を捨てて隣の藩へと逃げ出す噂も聞こえてきた。 幸い俺の村は耕作面積も広く、藩の中では裕福な方だったから何とか飢えずに過ごすことが出来ていた。
 だが、ある年、冷夏が来た。
 来る日も来る日も雨は降り続き、上がるはずの気温はまったく上がらず、夏だというのに夜には藁を纏う始末だ。八月になっても太陽が顔を見せるのはほんの僅かの日数で、盆が過ぎればまた秋の長雨が始まった。
 水に浸かりっぱなしだった稲の根は腐り始め、普段なら重く首を垂れる稲穂は上を向いたままだ。
 九月になると人々のどの顔にも重く暗い影が立ちこめた。
 そして、その年は予想に違わず凶作の年となった。
 藩の方でも税の軽減など行われたが、俺達が生活できるほどの米は残らなかった。
 冬を越して春になるといつもなら筍や 蕗の薹 ( ふきのとう ) 、タラの芽など、山に行けば食べる物に不自由しない。しかしその年は、誰もが先を争って採れる物はすべて採り尽くした。生きていくぎりぎりの食糧を確保したんだ。 そんな中で人々は田に水を張り、苗を植えた。そして心配された気候も順調で豊作に間違いなしだと誰もが喜んでいた。
 だが、悪いことは続くもので、青々と実っていた稲が一夜にしてひどい状態になってしまった。 稲にほどよい温度はイナゴにも成育を促したようだ。
 俺は今でも覚えている……
 手のひらほどの石を田圃に向かって投げるだろ? 
 そうすると一面の田に霞が掛かるんだ。うす緑色の不気味な霞が…
 静かだった稲の葉がザワザワっと一斉に揺れて、空まで黄色い羽で埋まるんだ…
 子供心にも何故かその光景は悲しかったよ。
 俺達の村の田は全滅だと思われた。だけど、それでも順調に育っている田が有ったんだ。
 その田はみんな「城持ち」と呼んでいて藩主へと直々に献上する米で、その田だけは早くから人々が網を張り、精魂込めて育てていた。 村の黄色い田圃の中でそこだけは青々とした葉が生い茂り、多くの花をつけていた。
 あれは……
 刈り入れの時期を迎える少し前のことだった。
 俺の家の隣には吾平の一家が住んでいた。隣と言っても少し離れているんだが…
 吾平の家には病気の年老いた老爺と子供が五人、そして吾平夫婦で、上から三番目の子供が俺と同い年で三蔵と言った。家が近いこともあり、時折はその三蔵兄弟達と遊ぶこともあったんだ。 吾平の家は子供が多い分だけ俺の家よりも貧しかった。
 ある日、親父からもう吾平の家には行っちゃいけないと言われたんだ。
「どうして?」と訊ねても親父は不機嫌な顔をして藁を打つばかりだ。
 お袋とばあさまは「かわいそうにね。かわいそうにね。」と言って目頭を押さえていた。 それで吾平一家に何かとんでもないことが起こっているんだと、子供の俺にも想像できた。
 それは翌日、畦道で立ち話をしている大人達の会話で解ったんだが……
「見たか? あの吾平の様をよぉ?」
「ああ。さっきも前を通ってきた。俺はもう辛くって目も開けてられなかったぜ」
「ひでぇことをしやがる。いくら城持ちの米を盗んだからと言っても、たった一握りじゃねぇか」
「夫婦二人揃って ( たた ) きにするなんてなぁ。吾平だって自分一人でやったって言ってるのによ」
「おタネさんもがっくり首を垂れちまって、もう気の毒でなぁ。肌のあっちこっちが裂けちまって痛々しくってよぉ」
「誰だってこの飢えだ。目の前に食いもんがぶら下がってりゃ欲しくなるのは当然だろ。いくら献上米だと言ってもなぁ」
「吾平んちの下の娘が、もうどうやらいけねぇらしい。だからせめて死ぬ前に白いまんまを食わしてやりたかったんだろうが…」
「ああ、せめて白いまんまの汁なと吸わせてやりてぇよなぁ。5人目にしてやっと女の子が出来たってあんなに喜んでいたからなぁ。あの下の娘は幾つになったんだ?」
「まだ2つにもなって無かったはずだが…」
「そうか……可哀想になぁ」
「でも何で見つかっちまったんだ?」
「ほれ、郡代の所にごますりの手代が居たろうが?」
「ああ、山向こうの庄屋の倅とか言う?」
「ああ、同じ百姓だったくせに両刀を手挟んだら、さも自分は身分が違うと俺達に偉そうにしてるヤツだ」
「俺もアイツはどうにもいけ好かねぇ」
「そいつが徳兵衛ところのお咲に目をつけて、年貢の取り立てに手心を加えてやるからと言って毎晩通っていたらしい」
「嫌な野郎だ。徳兵衛もこの飢饉じゃ泣く泣くお咲を差し出したんだろうが……
徳兵衛ちの真ん前が城持ちじゃなぁ……」
「一昨日の晩もいつものように徳兵衛の家へ夜這いに行く途中だった所に、城持ちの中で誰かが動く気配を感じて、運悪く見つかっちまったと言うことだぜ。本人は夜這いなんて一言も言いやしねぇで、この飢饉で気になったから毎夜様子を見に行ってたなんてぬかしてやがったがな」
「一昨日って言ったら満月の夜じゃねぇか。そりゃ見つかっちまうだろうよ。吾平もよくよくついてねぇなぁ」
「雲に隠れた間を狙ったんだろうが、もたついてる間に晴れちまったんだろう。たった一握りの稲穂を握っているところを郡代の所までしょっ引いて行かれたって話だぜ」
「まったく人ごとじゃねぇぜ。俺だって何度もあの米を、って考えたかしれやしねぇ。俺んちの子供ももう何ヶ月もまともなもんを食わせちゃいねぇからなぁ…」
「ああ、俺んところもだ。城の奴ら以外にまともに食ってるヤツなんかこの村には居ねぇよ」
 俺はその話を道祖神の後ろに座って聞いていた。
 大人達が立ち去った後、一人でこっそり庄屋の家の前まで行ってみたんだ。
 家の前には少しの広場があり、そこに太い杭を2本立てて吾平夫婦が犬のように繋がれていた。遠巻きに取り囲む大人達の間から覗くと、厳めしい顔をした役人が、箒尻を容赦なく二人へと打ち下ろしていた。普通ならば50とか100で済むんだろうが、この飢饉で献上米を盗まれちゃ適わないと思ったのか、吾平夫婦は許してもらえず、人々への見せしめにもう三日も打ち続けられていた。 裸に剥かれた皮膚はもうボロボロに裂け、あちらこちらの肉が軋み、血止めにまぶされた砂と混じってどす黒い血を流し続けていた。 気を失うと頭から水を掛けまた打ち続ける。
 それを眺める村人達はみんな一様に、役人へとの憎しみを顔に浮かべていた。
 だが、誰も止める者はなく、ただ声を殺して見守るばかりだ。
 もし、助けてくれと嘆願をすればみんな同じような目に遭うのが解っていたからな……
 その光景は子供の俺にも怖いと言うよりも、社会の矛盾に対する憎しみを植え付けたよ。
 吾平一家には戸締めという採決が下っていた。だから飢えた子供達へと誰も手を差し伸べることも出来ずに、家の前をひっそりと行き過ぎるだけだった。
 結局、吾平夫婦は情け容赦のない役人の手で打ち殺されてしまった。 村の世話役が死体を引き取りに行っても許されず、一週間ばかり野ざらしにされていた。
 大人達は吾平の子供のことを案じていたが、何も出来ず、一月後にやっと許されて家の扉を開いた時には、がりがりに痩せた一家全員が、重なるように飢え死にしていた。
 たった一握りの稲穂で、吾平一家は死ななきゃならなかったんだ……
 こんな馬鹿なことってあるか?
 自分達が精魂込めて育てた米を一粒も口に出来ないで、飢えて死ななきゃならないなんて……
 それは子供の俺でも自分達の運命が、矛盾した社会に握られて、明日をも知れない命だと感じさせるには充分だったよ。
 そしてその年の秋だった。
 俺達の村には紅葉の名所があったんだ。
 村の飢饉とは裏腹に里山の紅葉は綺麗に色づいた。
 国には城主の側室のお松の方と言う人が居て、城主の寵愛を受けて城中では大層権力を振るっていたそうだ。
 そのお松の方が飢饉を見舞うという名目で、俺達の村へと紅葉狩りにやって来たんだ。
 絹で織り上げられた煌びやかな衣装に身を包み、側近の 女性( にょしょう) を多数引き連れて、出迎えた村の重役へと形ばかりに「大変でしたね。」と声を掛けていた。
 有り難くもないのにみんな平伏してかしこまって聞くんだ。
 国元では誰か賓客が来た時には、数人の子供達が選ばれて、その給仕役に当たることが習わしになっていた。
 その年は俺に順番が回ってきたんだ。
 庄屋に呼ばれ、風呂に入れられ、髪を結われて見たこともないような綺麗な衣装を着せられる。そして、礼儀作法を教えられるんだ。
 給仕といってもよそわれた飯を運ぶだけだから、たいしたこともない。粗相さえしなければ、後はかしこまって座っているだけだ。
 お松の方の前に出た俺達は、まず豪華な料理に目を丸くした。
 村では誰もまともに食うことさえ適わないというのに、そこには掃いて捨てるほどの料理の数々と、何処にこれだけの米があったのかと思うほど、お櫃の中にはふっくらと炊きあがった白い飯が入っていた。
 女性達は飢饉など知らぬげに口々に華やかに笑い、白酒を飲み、その料理を啄む程度口にした。
 よそわれた飯をそれぞれの膳へと運ぶと、それもほんのちょっと口を付けただけだった。
 椀に残った飯を、俺達は生唾を飲んで見守っていた。
 そこへ庄屋が飼っていた犬が庭先に現れたんだ。
 よく慣れた白くて可愛い犬だった。
 庭先から部屋の中を覗いて、尾を振ってせがむようにじっと見てるんだ。 そうするとお松の方がすっと立って、椀を持ち、食べ残した飯を犬にやったんだ。犬は喜んでがっついていたよ。
 俺達は犬が食べ終わるまでその様子をじっと見ていた。
 俺達は犬以下だ。
 誰もがそう思って悔しくて涙が出そうだった。
 だってそうだろ?
 吾平達はたった一握りの米粒さえ口に出来ずに、打ち殺されたんだ。
 吾平達だけじゃない。
 村の中では飢餓で老人や子供達がバタバタと死んで行ってるんだ。
 犬にやる飯があるなんて、あまりにも不公平じゃないか。
 江戸という時代が、徳川という政府が、俺達みんなを蝕んで行くんだ。
 だが、誰にもどうすることも出来ないで、延々とこういう世の中が繰り返されてきたんだ……
 
 そして俺達は飢えに苦しみながら冬を迎えた。
 村は山に囲まれていた。
 その山々の中にひときわ高い山があって、何時からともなく「天の山」と呼ばれていた。
 今考えれば、天国に近い山とでも言う意味だったろうか。
 その山には子供達が近づくことは、ずっと昔から禁止されていて、大人達からは、神様が住んでいるからその聖域を侵してはいけない。もし、禁を犯して近づけば、神様が怒って大変なことが起こると聞かされていた。
 でも実際は、神様なんか住んでいやしない。
 山を歩けばゴロゴロと死体の転がっている姥捨て山だ。
 昔から飢饉が起こるたびに、老い先短い老人を真っ先に切り捨ててきたんだ。
 その年の2年続きの凶作に、大人達が出した答えは、慣習に従って年寄りを山へ捨てるということだった。
 それでなければ村全体が滅んでしまう。
 生き残る為のぎりぎりの選択を迫られたんだ。
 そして、村に初雪が降る頃、閉ざしたそれぞれの家の中から、ひっそりと一人、また一人と老人が消えていった。
 やがて、俺の家にも順番が回ってきたんだ。
 丁度その頃、幕府の高官がどこからか荷を運んで来て、俺達の村に立ち寄った。
 親父達は問屋場から呼び出され、雑役に駆り出された。山を越えて隣の藩まで荷物を届けるんだ。
 普段でも急な山道を、荷車一杯の荷を運んでいくのは並大抵な事じゃない。雪に車輪を取られ、轍に突っ込み、かなり苦労をして運んだそうだ。
 親父達が帰ってきたのは十日ばかり経った頃だった。
 帰ってきた親父は懐から懐紙に包まれた四つ程の餅を取り出した。最初の日に、雑役に駆り出されたみんなへと、労をねぎらう為か餅が配られたそうだ。それを親父は手をつけず、俺達へと食べさそうと大事に懐に仕舞って持って帰ってきたんだ。
 でも、十日も懐で温め続けられた餅は青いカビだらけだった。それをお袋は手を合わせて拝むように受け取り、細かく砕いて雑炊の中に入れてくれた。
 雪を掘り起こし、その下に生える雑草の根を、細かく砕いたものに混ぜた青カビだらけの餅の雑炊が、俺達にとっては久しぶりに食べるごちそうだった。
 それぞれの椀に取り分けられたんだが、その日はどういう理由かばあさまの椀にはいっぱい入っていたんだ。いつもならお袋は親父の分だけ少し多めに入れたりするんだが、その日は明らかに違っていた。
 自分の分を食べてしまった俺は、ばあさまの食べるのをじっと見ていた。 
 そうしたら、ばあさまが俺の椀に「もっと食べるかい?」と聞いて、餅を入れてくれたんだ。 ばあさまは「心太、おいしいね。おいしいね。」と、潤む声で盛んに俺に話しかけていた。
 でもよく見ると、ばあさまは泣いていたんだ。
 俺はまた持病の腰痛がひどいのかと思って心配をして訊ねた。
「ばあさま、どうしたの? どこか痛むの?」
「何処も痛くないよ。心太は優しい子だね」
「でもばあさま泣いてる。俺が餅を貰ったからか?」
 子供心に悪いことをしたような気になって、俺も悲しくなった。
「そうじゃないんだよ。心太。こうしてみんな揃っておいしいもんを食べて、幸せだなって思ったら嬉しくてね。泣けるんだよ」
「おいしかったら泣けるの?」
「ああ、そうだよ。人は嬉しい時にも泣くもんなんだよ」
 そう言って俺の頭を撫でてくれた。
 その時の俺には、それがどういう事なのかよく分からなかったんだ。
 たった一杯の青カビだらけの雑炊で「おいしいね。」と嬉しそうにして泣くばあさまの気持ちが……
 そして翌朝、目が覚めたらばあさまは家には居なかったんだ。
「ばあさまは?」と聞く俺を、お袋は抱き締めて、ばあさまは神様に会いに行ったと言ったんだ。
「もうこれからは、お腹が空くことも腰が痛くて苦しむこともないんだよ。神様がばあさまを守ってくれるから。ばあさまがちゃんと神様に会えるように二人で祈ろうね」
 そう言って泣いていた。
 そして、ばあさまが家に帰ってくることは二度と無かったんだ。

 翌年は、やっと普段通りの米が採れた。だけど悪いことは続くもので、疲弊しきった村にはコロリが流行り、体力のない村人達は次々に倒れていった。
 やがて、俺の家でも小さかった妹が、数日間下痢をした後、あっけなく死んでしまった。死骸を抱いて泣き続けていたお袋が、その後を追うように死に、親父が倒れた。次は俺の順番かと思って居たんだが、どういう理由か俺だけは罹らなかったんだ。
 そして親父が死ぬと、有るのか無いのか判らない借金の形だと言って、人買いが俺を迎えに来た。
 村人達は「しっかり働いていい暮らしが出来るように頑張るんだよ」そう言って、形ばかりに励まして俺を送り出したんだ。
 大人達はみんな、幼い子供の俺が行き着く先が判っていたんだろう。
 そしてその途上で、俺は剣の師匠に拾われた。
 それからは来る日も来る日も修行の毎日だ。 痣だらけ、切り傷だらけの日々だったが 強くなれると思えば、どんな厳しい稽古にも耐えることが出来た。
 俺は強くなりたかったんだ。
 この世の中の理不尽な物をすべて断ち切れるぐらいに。
 強くなれば、飛天御剣流で有れば、それが出来ると思ったんだ。
 そんな中で時代は大きく潮流に呑まれた。
 徳川の屋台骨の腐った今なら時代は変わる。
 新しい時代を切り開ければ、もう誰も飢えなくて済むんだ。もう誰もあんな悲しい思いはしなくて済むんだ。食べることが出来て、誰もが感じる普通の幸せを、みんな掴めるんだとそう思っていた。
 俺にとって徳川は憎むべき時代の権化にしか過ぎなかった。
 吾平達を殺し、村人達を飢えさせ、俺達を犬よりも劣る物として扱い、俺からばあさまを奪った。
 そんな時代はもう金輪際、見たくはなかった。
 もう誰の悲しむ顔も見たくなかったんだ。
 左之……
 お前に出会って、お前に抱かれた時、ふっとばあさまが言ってたことが蘇ったんだ。 「人は嬉しい時にも泣くものだ」と。
 今ならその意味が判るような気がするよ。――――――――



 俺の方へとちらっと顔を向けて薄く微笑み、そしてお前はそれっきり足下を見つめて黙ってしまった。
 俺はそれが、志々雄達が創ろうとしている時代を何としても阻止しなければならないと、俺に語りかけているのだと思った。
 俺達が力を合わせて立ち向かわなければならないのだと……
 しばらくして俺達は無言の儘、俺の長屋迄そぞろ歩いた。
 紅い月は天上にいて色を変え、まばゆいばかりに夜の闇を照らし出していた。


「ハンッ! アレが別れの言葉だったなんてな。この左之助様も安く見られたもんだぜ」
 手の中で弄んでいた薪が俺の怒りを受けて、音を立てて二つに割れた。
 何時の間に上がったのか、あの日から欠けだした更待月が木立の間に浮かび、薄く闇を照らし出している。
 手の中で無惨に砕けた薪を焚き火の中に放り込むと、ジジッっと小さく音を立てて爆ぜた。
 少し風が揺らいで、静かに眠っていた林の木々をざわめかせる。
 眠りを妨げられた森の獣がどこかで仲間を求めて啼いていた。
「ひよっこは邪魔なんだよ。」
 薄く笑った斎藤の言葉が俺の癇に障る。
 死ぬ時は一緒だと思っていた。
 本気でお前の片腕だと信じてた。
 だが、俺が弱いからお前は俺を置いてきぼりにしたのか?
 俺が邪魔になるから黙って出て行っちまいやがったのか?
「足手まといなんだよ。」
 斎藤の言に、一瞬言葉に詰まった。
 俺はそれほどお前に見くびられていたのか?
 俺はお前に庇護される立場の男なのか?
 斎藤やお前の腕には遠く及びもしねぇ。そんなこたぁ判ってる。
 だからといって、俺がお前に女子供のように扱われてそれで喜ぶと思ったのか?
 お前に命を預けている俺が、自分一人だけ身の安全を確保して、それで満足すると思ったのか?
 克と謀反を企てた時にも、お前は本気で俺を斬りに来た。
 俺の過去を真剣に断ち切りに来た。
 あれは、俺を一人の男だと認めたからじゃなかったのか?
 お前が斬るに値する男だと思ったからじゃなかったのか?
 
 俺は許さねぇ。
 お前一人でお前の過去に立ち戻ろうなんて断じて許さねぇ。
 お前が緋村剣心であろうと、人斬り抜刀斎であろうと、そんなもんはどっちでも構いやしねぇ。
 許せねぇのは俺を排除することだ。
 俺という男を無かったかのように扱う事だ。
 お前が修羅に戻るってんならそれも良かろう。
 その刃に血を吸い付くすってんならそれも認めてやろう。
 お前がどんなに陰惨な光景を繰り広げ、残忍であっても、俺はそれを丸ごと受け止めるだけだ。
 たとえその過程で俺が敵の刃に倒れたとしても、だ。
 お前が俺の過去を断ち切ろうとした様に、今度は俺がお前にむしゃぶりついてやる。
 緋村剣心という男を、人斬り抜刀斎という修羅を、すべて丸ごと食い尽くしてやる。
 お前が俺の存在を認めるまで。
 お前にとって、なくてはならない男になるまで。

「こんな事で諦めるぐらいなら、ハナからお前に手ぇなんか出しゃしねぇ。 俺の腕の中で泣いたってんなら、最後の最期まで俺の中で泣きやがれってんだ。 それを一人で重荷を背負い込んで、テメェ一人で人斬りに戻ろうなんて……
 お前の瞳がどんな色に輝こうが、俺にとっちゃ変わりはねぇ。
 たとえお前が新月みたくにその心を闇の中に閉ざそうが、俺はきっと見つけて照らし出してやる」
 めくらめっぽうに投げた小石が木の葉を揺らし、ざざっと夜の闇を揺るがした。 
 五月の夜の冷たい風が、顎を上げた頬を嬲っていく。
 俺はあの日の紅い月に向かってもう一度叫んだ。
「待ってろよ、剣心。」


                                 了 2004.6