【小春日】 神谷邸の離れは静けさに満ちていた。 昨日までは大工たちが入り乱れ、金槌の音や頭領の怒鳴り声などでけたたましかったが 工事も終わった今日は嘘のような静かな空間が広がっている。 澄み渡った空には羊雲が二つ,三つほど浮いていて、障子を開け放した部屋の中までうららかな日差しが注ぎ込み、穏やかな陽気がうつらうつらと眠気を誘う。 その部屋の中で聞こえるのは 剣心がたたむ洗濯物のかすかな衣擦れの音と のんきそうに眠る左之助が立てる寝息の音だけだった。 弥彦と央太は朝から出稽古に出かけ、屋敷の中に居るのは剣心と左之助の二人だけだ。 左之助は家事をこなす剣心の後ろを何のかのと言ってはついて回り、剣心のすることに茶々を入れ、ついでに人目の無いのを見すませて身体のあちらこちらに触れてくる。しかし、どうやらそれも飽きてしまったらしい。穏やかな日差しに誘われてあくびを何度か漏らしたかと思うと 「ちょっと膝貸しねぃ。」と言って剣心の膝を枕に眠ってしまった。これでは洗濯物をたたむのに邪魔なのだが、寝付きのいい左之助は剣心が抗議の声を上げている間にも 夢の中へと誘われたらしい。生半可な返事はすぐに寝息へと取って代わった。 「これでは用事が片づかぬ・・・」 人の都合などお構いなしで 人目さえなければ朝となく夜となく剣心にべたべたとくっつき回るこの大きな犬をもてあまし、すやすやと寝息を立てる左之助に 溜息をつきつつも剣心はしばし膝を貸してやることにした。 さわさわと風が吹き抜け一年中軒下に吊したままになっている風鈴が 涼やかな音を響かせる。 あれはいつだったろう・・・ その音に誘われて剣心が遠い昔の記憶を呼び起こす。 どこかの神社の縁日で長屋の友人が風鈴を売り始めたから 一つ求めてきたと言って左之助がこの部屋の軒先に吊してくれた。荷物の少ない殺風景なこの部屋に それはいつも優しげな音を響かせ、彩りを添えてくれた。 夏が過ぎても 左之助が立ち去った後もそれはずっと剣心を見守り続け この離れの住人であり続けた。 時にはもの悲しく、時には歌うようにその時々で剣心の心を写し出す。 その送り主が居る今日は 風鈴は軽やかな音色を奏でていた。 膝の上の人物に目を落とし、そんな些細なことを覚えているのだろうかと 太平楽な寝顔からは想像もつかず可笑しくなる。 昔と変わらぬ強い髪に指を伸ばしそっと手に触れる。優しく撫でる指が頬に掛かる髪を押しのけて 日に焼けた肌をさらけ出した。 左之助が旅立った日から こんなに満たされた穏やかな時間が再び訪れることはないだろうと思っていた。 こうして手に入れてしまえば 何故手放せると思えたのかと昔の自分が不思議にも思える。 くっきりと額に走る黒い眉に 彫りの深さを印象づける目。すっきりとした鼻筋の下にはわずかに開かれた口唇。くつろぎきった穏やかな表情だ。 その口唇で剣心の視線が止まった。 微かに微笑み、そして静かに口唇を落とした。 わずかに触れて自分の口唇で左之助の存在を確かめ、軽く左之助の口唇を啄んでみる。確かに左之助はここに居ると思えて顔を上げ、閉じた瞼を開いたら 左之助が片方の目を開けしっかり剣心を捉えていた。 途端に剣心の頬に朱が走りぷいと顔を背けてしまう。 「起きていたのでござるか・・・・」 照れたその表情が可愛らしくて 左之助はついついにやけがちになる。 「お前から口づけるなんて勿体なくて寝てなんかいられやしねぇぜ。」 笑いを含んだその声にますます剣心の表情が硬くなっていく。 「お前も人が悪い・・・」 わずかばかり頬を膨らませて恨みがましい目で左之助を睨み付けた。 左之助の記憶を手繰ってみても 剣心が自分から口唇を寄せてきたことなど皆無に等しい。本人は分別のわきまえた大人だと言うが、左之助の目からすれば甘え方を知らない恥ずかしがり屋と写る。今もこうして頬を膨らませながら目元を赤くしているのを見ると 自分よりは遙かに年上のくせに まるでおぼこ娘のようで 左之助はついついからかいたくなってしまう。しかし、余計な一言を言って剣心の機嫌を損ねてはせっかくの雰囲気も台無しだ。頬に笑みを乗せて左之助はぐっと堪えた。 いつまでも視線を縁側から移さない剣心に その長い腕を伸ばし剣心の頭を擡げさせて もう一度自分へと愛しい口唇を誘う。抵抗するかと思った口唇が素直に左之助の元へと降りてきた。 重ね合わされただけの口づけがお互いの唇を啄み、深く合わさり、相手を貪るように変わってゆく。息を吸う合間に零れる吐息でさえも甘く切ない色を帯び始める。しばし二人は時を忘れ口づけだけに夢中になった。口唇が離れてもそれはお互いの笑顔を確かめるためだけであり、頬と頬、或いは額と額は合わさったまま、愛しい人の温もりを手放そうとはしなかった。 「今やっとお前を捕まえたって思えるぜ。」 すぐ目の前にある剣心の瞳を覗き込みながら笑顔の左之助が囁く。 「何故今でござるか? 左之が帰ってきてからもう何日も経っているというのに・・・」 不思議そうに見開かれた剣心の瞳は 薄く紫に煌めいて優しさに満ちている。 「ホントのことを言うとよ、春に帰ってきた時にお前が一緒に行くって言ったのが 時間が経つにつれてあれは夢だったんじゃねぇかと思えてな。喜んで日本に帰ってみれば、お前が居なくなっちまってるんじゃねぇかと心配したぜ・・・」 「拙者は信用がないのでござるな。」 自分の不安だった気持ちを訴える左之助が可愛くも愛しくも思えるが 声ばかりは拗ねた調子で訴える。 「お前一人を残しておくと 碌でもねぇことしか考えねぇからな。」 「碌でもないって、失敬な。」 「怒んなよ・・・」 甘い笑顔がふくれっ面に変わっても 左之助にとっては可愛らしくて仕方がない。笑顔を零しながら、頭を持ち上げた剣心の首に腕をかけて、自分の体を持ち上げる。怒って突き出した口唇に触れながら体重をかけて剣心を畳へと押し倒した。 「バカ、左之。昼間から。」 覆い被さってきた身体を押しのけようとして慌てて腕を突っ張るが 剣心よりはるかに重い左之助の身体はびくともしない。 「慌てなくっても何にもしねぇって。この方が話しやすいだろ? どうせ誰も居ねぇんだし。」 「本当でござるか? 話なら座っていても出来るでござろう。」 「会談じゃねぇんだから座ったままじゃつまんねぇじゃねぇか。せっかくお前を捕まえたんだ、もう少しお前を感じさせろよ。」 そう言って抱き寄せる腕に包まれると 左之助の体温が伝わってほのぼのとした心地よさが剣心を満たし始める。 「障子を開けたままでは もし誰かが来たら見えてしまう・・・」 「誰も来やしねぇって。いちいちうるせぇなぁ。」 答えながらも障子さえ閉めれば珍しく諾だと言う剣心の為に 左之助は下半身だけをずらせて器用に足で障子を閉めた。穏やかな陽気は薄紙を透かして淡い光が二人の身体を包み込む。 「これでいいんだろ? え〜っと、いったい何の話をしていたっけか?」 再び剣心の顔の間近に頬を寄せながら左之助が訊ねる。その惚けた男前の顔を見ながら剣心がくすくすと笑って応えた。 「お前が帰ってきたら拙者が居ないかもしれないとかじゃなかったのか?」 「あ、そうそう。お前が来るってんなら一応家とかも要るだろうし、家具とかも買わなきゃなと思ってあっちこっちで買い物をしたんだよ。と言っても、ほとんどは海の上だから家に落ち着いてられるのはわずかばかりなんだけどよ。」 「家など・・・拙者は何もなくてもかまわぬのに・・・」 「ああ、だけど 「ベッドって?」 「イギリスの言葉で寝台のことをな。見たらびっくりするぜ? お前とどんなに暴れたってずり落ちることはねぇぜ。」 「さ、左之!」 途端に剣心が真っ赤になった。その可愛らしい表情にいたく満足しながら左之助は剣心の額へと口唇を寄せて行く。だが、剣心からは見えないその黒い瞳は悪戯っけに満ちていた。 「今更照れるなよ。 「馬鹿!!」 声とともに剣心の両手が左之助の耳を引っ張り上げた。 「痛ぇ。」 耳を押さえながらさして痛くもないのか左之助は笑み崩れている。その笑顔を不機嫌そうに見つめて剣心が言った。 「お前は煩悩だけの男でござるか?」 「おう、百八つとも全部お前だ。」 ニヤリと笑ってまた剣心の口唇を掠め取った。 「んで、それからは寝る前にそのベッドの上で酒を飲むのが俺の習慣になった。」 どうせそのベッドとやらの上で碌でもないことを考えていたのだろうと思うが、想像するとまた顔が火照って左之助に馬鹿にされるだけだろうと 剣心は極力考えないようにする。 「それで?」 「お前が来たら何処へ連れて行こうかとか二人で何をしようかとか 想像すると楽しくってよ。早くお前が来ないかとそればっかり考えてた。そんなことを考えてるとすっげぇ幸せでな。でも、あんまり幸せすぎると今度はだんだんその幸せが嘘なんじゃねぇだろうかって思えて来ちまってよ。ここへ来てお前の顔を見るまでは不安で不安で 今度は夜も眠れなくなっちまった。」 少し照れながら素直に語る左之助の笑顔が眩しくて 剣心は微笑みながら目を閉じる。 左之助が帰ってしまった後の時間を 自分もまた不安を覚えたり要らぬ気を回したりしたものだ。そんな気持ちをうまく伝える言葉が見つからなくて 代わりに大きな背中に腕を回して抱きしめた。抱き寄せられた左之助の腕が剣心の頭を抱かえて滑らかな頬に自分の頬をすり寄せる。愛おしむ様にその行為を繰り返し、そして剣心の耳元で話続けた。 「一度はうんって言ったものの もしや離れてる間に気が変わっちまって お前がどこかへ消えてやしねぇかとすっげぇ心配だった・・・日本へ帰ってきて、お前の顔を見て、でも、それでもまだやっぱりあれは夢だったんじゃねぇだろうかって信じられなくってよ・・・・」 左之助の想像通り、一度した決心がぐらつき掛けたこともあったというのはお見通しというわけか。 「お前にしたらずいぶん気の弱い・・・・」 緩やかに微笑んだ微笑の陰にバツの悪さと照れくささを隠した。 「ああ。こうやってお前を抱きしめられる日が来るなんて 二度とねぇと思っていたからな・・・ここでお前や弥彦たちと過ごしていると 何となく時間が昔のままで止まっている様な気がして ああ、やっと帰ってきたって、俺の居場所を見つけた様な気がしたんだ。」 さも当然そうにここへ帰り着き、改築中の工事の邪魔になる事を理由にちゃっかり剣心の離れに腰を落ち着け、朝から晩までべたべたと鬱陶しいぐらいに剣心に纏わり付いていたのも 離れていた二人の時間を埋めようとしていたのだと気がついて 軽い驚きを覚える。 「左之も案外、寂しがりやな面があるのでござるな。」 「案外ってどういう意味でぇ? 俺だって人の子だぜ。気弱になることもあらぁな。特にお前に関してはな・・・」 「左之・・・」 「だから、こうやってくつろいだのんびりとした時間をお前と過ごしていると 俺の腕の中に剣心が帰ってきたって思えんだよ。やっと捕まえた、ってな。」 胸の中へと響くその優しい言葉を確かめたくて、頬の上にあった愛しい笑顔を両手で挟み、自分の間近へと引き寄せる。穏やかに微笑む左之助の黒い瞳に自分の笑顔が映っている。たとえようのない優しさに包まれて ゆっくりと口唇を近づけた。 羽の様に触れ、小鳥の様に啄む。その合間から剣心の言葉がこぼれ落ちた。 「拙者も・・・何度も夢ではないかと思った・・・・」 優しい口づけが思いの丈を伝える手段に変わる。絡め合った舌が どちらの物とも分からぬ口の中で戯れる。お互いの口唇の感触を味わっては また深い口づけが交わされる。その間にも左之助の指は 剣心の頬を耳朶を項をと滑り、緩く着付けられた剣心の袷の間から白い肩を剥き出しにしていった。 「ちょ、ちょっと待て、左之助。」 更なる行為に慌てた剣心が左之助を押しとどめようと肩を押すが しっかりと体重をかけた左之助の身体は紙一枚も動きはしない。それどころか項に舌を這わせ、剣心の弱い部分を責め立てて、欲情の海へと誘い出そうとする。 「やっぱ駄目だ、夜まで待てない。」 緩やかな稜線を描く項から肩へと辿り、剣心の白い肩に歯を立てた。 「んっ・・・」 左之助がもたらす快感は 意志に反して身体の反応を返す。その快楽の声を更に引き出そうと左之助の指は 胸に咲いた花を摘む。抗議めいた視線は薄い瞼に覆われて、切なげに眉を寄せる表情へと変わっていった。 「何にもしないって・・・・話が違うじゃないか・・」 「こんな顔を見せられて何にもしねぇ方がどうかしてるぜ? ほら、お前も充分その気じゃねぇかよ?」 密着した左之助の腹を押し上げる剣心の下腹部を自分の腹で揺すりながら、左之助が嬉しそうな返事をする。 「馬鹿・・・・拙者はまだ用事の途中でござるよ・・・ほら、お前が暴れるからせっかく畳んだ着物が崩れてしまった・・・」 「んなもんは後で俺が畳んでやるからよ。気にすんなよ。」 そんなことは何でもないと 剣心の胸に口唇を這わせることに左之助は忙しい。 「薪割りもしなければならぬし・・・」 「それも俺が後で割ってやるよ。」 「風呂に水を張らねばならぬし・・・」 「後で手伝ってやるよ。」 「買い物にも行かねばならぬ。」 「それも面倒見てやるって。」 「それから。」 「おい! 何か用事を一杯押しつけていねぇか?」 軽く応えた用事の量が相当な物になるとやっと気づいて 左之助は剣心の顔を見る。 「すべて手伝ってくれるのでござるな?」 ニコニコと嬉しそうな剣心の笑顔が返ってきた。 「仕方ねぇ・・・分かったよ。全部手伝ってやるよ。その代わり腰が抜けるほどお前をイかせた後でな。」 言うが早いか左之助の手はもう剣心の帯に掛かっていた。藍染めの紬が開かれ襦袢の紐も抜き取られる。さらけ出された剣心の肌は 淡い光の中で白く艶めかしく浮かんでいた。 荒い息を整えて左之助が剣心を抱きくるむ。ぐったりと力の抜けた肢体が僅かに頭を擡げて左之助の胸の中へと収まってゆく。気だるい時間が優しいひとときを紡ぎ出す。無言で抱きしめる左之助の耳に 風鈴の軽やかな音色が届いた。 「ん?」 「どうした?」 「風鈴・・・・えらく季節はずれじゃねぇか?」 「ああ、お前が吊してからずっとそのままになってるから・・・」 「お前にしたらえらくものぐさじゃねぇか?・・・・」 「そうでもござらんよ・・・・・」 「そっか・・・・」 あえて問わずに剣心の背中に手を滑らせてみる。思いを分かち合った後でも細い肩は意地っ張りだ。だが、それさえも今は愛しく思える。 「なぁ、剣心。世界中の海を回ってあちらこちらでいろんな事をして、そして俺もお前も年寄りになってそれにも飽きたら いつか俺の 「左之の 「ああ、小さな農家を買って俺達が食う分だけの畑を耕して、お天道様を眺めて暮らすんだ。」 「ずいぶん畑違いでござるな・・・」 「しゃれを言ってんじゃねぇよ。」 笑いながら左之助が剣心の頭を小突いた。 「痛っ。そんなつもりでは・・・それで?」 「んで、いつかお前か俺か死んじまったら 残った方が墓守をして暮らすんだ・・・」 「ずっと共に、でござるか?」 「ああ、ずっと、ずっとな・・・」 「いつか・・・・お前の故郷を見てみたい・・・・」 「見せてやるよ。山の端に映える太陽や白く輝く銀世界。真っ直ぐに背を伸ばす麦の穂や畑一面に咲く蕎麦の花をな。だから・・・」 「左之・・・・」 見上げる剣心の目が遙か遠い未来を映して優しく微笑む。どちらからともなく寄り添って、口唇が重ね合わされた。 「左之・・・拙者は墓守は嫌でござる。だから、左之が墓守をして暮らせ。」 「テメェー。また自分だけ楽な方を選びやがって。」 「それまで側にいるから・・・・ずっとずっと側にいるから・・・・」 「ん、ずっとな・・・・」 「ああ、ずっと・・・・」 秋の清らかな風が庭の木立を揺らし、薄い障子紙の向こうで季節はずれの風鈴がまた小さな音色を奏でた。 日差しが落とす葉の陰でそよそよと風は揺れ、ざわめく光の中へと手招きされて 小さな音も緩やかに消えていった。 了 2004.4 |