【明治喧嘩屋恋模様】
 〈泡盛下心編〉

「おっす。
  俺は相楽左之助。
  この辺りじゃ喧嘩屋斬左でちょいとは名の知られたモンだ。
  えっ? イイ若いもんが昼間っから ナニため息吐いてんだって? 
  コレにゃぁいろいろ理由があってよ。いや、理由って程のモンでもないが、俺にも悩みはあるわけで……
 あんた、口は堅いか? 
 だったらちょいと聞いて貰おうか……
 だがよ。コレはココだけの話にしといてくれよ。
 俺の周りの奴らと来たら、俺が悩んでるっていうだけで笑い出すような奴らばかりだし、その悩みの内容を聞けば、さんざん笑ったあげくに嬲りモノにするのは目に見えてるからな。

 悩みってぇのは他でもない、恋煩いというヤツよ。 
 あっ、今笑ったな? 
 ん?思い過ごしだって? 
 まぁいい……
 それでどんな相手かって?
 そりゃ俺が惚れるぐらいだから、いっち上玉に決まってんだろうが……
 色は白くて目はきりっと二重、鼻筋はすーっと通っていて、サクランボのような唇がちょこんとついてる。それでいて目元には、時たまゾクッとするほどの色気があったりする。
 ところがよ、本人は少しもそんなことに気がついてねぇんだな。 
 料理だって上手いしよ、何でも結構機敏にこなすんだな。頼りがいも有るし…
 かと思えば、儚げで時には俺がついててやらなくちゃとも思わせられる……
 そんな別嬪、一度は拝んでみたいって? 
 あはははは…
 そうだろう、そうだろう。
 四の五の言わずにさっさと押し倒せって? 
 馬鹿言っちゃいけねぇ。相手はめっぽう強いんだぜ。
 そんなことをしたら命が幾つあっても足りゃしねぇ。
 そんな強い女が居るのかって? 
 ああ、まだ言ってなかったか。相手は女じゃねぇんだよ。
 問題はそこなんだよ。
 そりゃ悩みが深いねぇって、分かってくれるのかい?
 こう見えても女にゃ不自由したことはないんだが、よりにもよってと言うか、俺も因果な相手に惚れちまったもんだ…… 
 それで言うに言えずにこうして悩んでるって理由よ。
 それはお困りでしょうって…
 オイオイ、人ごとだと思ってやけに軽く言ってくれるじゃねぇかよ。こうして打ち明けたからには、手筈の1つも教えてくれるのが筋ってぇもんじゃねぇのか? 
 えっ? 男相手は経験がないって? 
 普通はそうだよな。俺もホトホト困っちまってんだ。下手に言って口も聞けなくなるようじゃ、俺も浮かばれないしな…… 
 なにかいい案はないのかよ?



 冬の間はめっきり人通りも少なかった湯島天神もうららかな日差しに誘われて、今日は多数の参詣の客で賑わっている。
 その門前の茶屋に有る赤い床几に腰掛け、長い足を大儀そうに組んで、片手で頬杖をつきながら、左之助は何度目かの溜息を吐いた。
 悩んだところでどうにかなるわけではないけれど、青春真っ盛りの左之助は、悩まずにはいられない。
 そうはいっても、生来、物事を深く考えるのを得意とするわけでもない。大概のことは溜息を吐けば次の瞬間には、悩みは消えている。ところが、今度ばかりは幾ら溜息を吐いても脳裏から去らず、そればかりか、日に日に剣心への想いが強くなっていくような気がするのだ。 そんなわけで、何をする気も起きず、朝寝を決め込み、起き出してからは足の向くままフラフラと町を彷徨い、出逢った友人達と昼食を共にしたりしていたが、三々五々皆用事に出かけてしまうと、後はすることもなく、湯島天神の茶屋に腰を落ち着けて、行き交う人々をぼんやりと眺めていた。
 そこへ偶然にもその想い人の本人から声が掛かった。
「おや? 左之。どうした? こんなところで……」
「いよぉ、剣心じゃねぇか」
 会いたいと思っていただけに、左之助の声は1オクターブも上がる。
「丁度良かった。今からお主の所へ行こうと思っていたところだ」
 左之助の笑顔を認めた剣心も、いつものように優しげな微笑を頬にのせていた。
「コイツがさっき言ってたヤツよ。へっへ、どうだい? 俺が惚れんのも分かるだろ? 無理もないってか?  そうだろ、そうだろう。」
「お連れの方がいらっしゃったのか。それじゃぁ、又にしようか?」
「あん? 何、かまわねぇって。暇つぶしの相手をして貰ってただけだからよ。それよりどうした?」
「ああ、昨日、恵殿が患者さんから貰ったからと言ってな。筍を沢山持ってきてくれたんだ。 それで筍ご飯を作ったから、お主にもと思ってな」
 剣心の右手には、風呂敷に包まれた重が提げられている。男二人で食べても充分に余るほどの量なのか、ずっしりと重たげに見える。
「おお、そいつはありがてぇ。丁度腹が減ってたんだ。んじゃ、早速…」
 生唾をゴクリと飲み込むと、欠食児童の左之助は、剣心の右手から早くも風呂敷包みをもぎ取ろうと手を伸ばした。 放っておけばこの場で全て平らげかねない左之助に、慌てて剣心は後ろ手に重を隠した。
「相変わらず気が早いでござるなぁ。来る途中に魚八で、活きのいい鰺が有ったから買い求めてきた。それをタタキにしたら旨かろうと思ってな」
 肩すかしを食らわされ、剣呑な表情を見せていた左之助は、それを聞いた途端に急に追従の笑みを浮かべた。
「剣心! お前はなんてイイヤツなんだ。それじゃ、それで一杯やろうぜ。今日は急いで帰らなくてもいいんだろ?」
「ああ、拙者も今日はお主の所でゆっくりするつもりで、薫殿にはそう言って出てきたから、大丈夫でござるよ」
「おっしゃ。そうと決まればこんな所に長居は無用だ。早速酒盛りの準備を始めようぜ」
 顔を見たいと思っていた剣心に逢えて、その上、腹を満たす用意までしてくれている。先ほどまでの憂い顔などはどこへやら、至極上機嫌となった左之助は、言うなり立ち上がり、さっさと長屋へと向かって歩き出した。 その後ろを、剣心も軽い溜息を零しつつ、穏やかな笑顔を見せて付いて行った。
 食事の用意をする度に、ここ2,3日、姿を見せなかった左之助が何となく気に掛かり、大量の筍を前にして、その笑顔を思い浮かべながら、これで筍ご飯を作ってやったらさぞかし喜ぶだろうと、朝早くから筍をゆがき、用意をした。
 剣心の作る物は何でも旨いと言って食べてくれる左之助のその笑顔が、剣心には好ましい。 一人で生きてきた時間の長い剣心にとって、神谷邸に居着いてからは、誰かのために何かをする喜びというものを驚きを持って知り、みんなの笑顔を見る度に、実感として味わうようになった。
 自分の作った物を待ちきれぬ様子で喜ぶ左之助を目の当たりにすると、やはり朝早くから作ってきて良かったと、剣心の心もほのぼのと和む。
 家々の庭から顔を出す木々が、そぞろ歩く二人の鼻先にまで春の香りを運び、どちらの笑顔をも一層明るいものにしていた。
 取り留めのない話をしながら長屋へと向かう途中で、左之助は酒屋に、剣心は八百屋へタタキの薬味を求めるために、往来で二手に分かれた。
 酒屋の暖簾を潜ると、樽の香りがプーンと鼻に突く。
 先ほどから鳴き始めている左之助の腹の虫が、一段と賑やかになるようだ。
「いらっしゃいませ。」
 客の姿を認めた手代が、愛想のいい笑顔を向けて応対をする。
「おう。酒を2升ばかり貰いたいんだが」
「どちらの銘柄がお好みでしょうか? 今は丁度、灘も伏見も揃っておりますが」
「そうだな。灘でこう、はらわたにぐうっと染み渡るようなのを貰おうか」
 積み上げられた酒樽の中身を想像すると、腹の虫に加わってヨダレまでこぼれ落ちそうになる。左手でそれとなく口元を拭きながら、左之助は樽の銘柄をひとつひとつ読んでいった。 その姿が手代には酒好きと映ったらしく、
「お客様は随分と酒にはお強いんで?」
 と、揉み手をしながら聞いてきた。
「まぁ、弱くはねぇわな。特に相棒の方はウワバミだからな。だから酔える酒を選んでくれよ」
「それでしたらこちらの酒などいかがでしょう? 今朝入ったばかりなんですが、琉球の酒でめっぽう強いんですが」
「琉球?」
「ええ、泡盛と言いまして、酔ったことのない御仁でも酩酊なさるとか」
「それって、ザルでも酔うのか?」
「ええ。先日もそこの大黒屋のご主人が買い求められまして、5合も飲んだところで前後不覚になったとおっしゃられてましたが……
 大黒屋のご主人は常日頃から酒好きで聞こえたお方で、幾ら飲んでも酔ったことがなく、いつも、一度は酒に酔ってみたいものだとおっしゃっていたんですがね」
「ほぅ。そんなに強ぇのか? 」
 顎を撫でながら聞き入っていた左之助の脳裏に、はたと妙案が浮かんだ。
 この酒を剣心に飲ませて酔わせたら……
 普段なら到底押し倒せるような相手ではないが、意識もなく前後不覚になれば、後はこっちのもんだ……
 あらぬ想像が左之助の頭の中でにいっぱいになり、知らぬ間に頬が緩んでいた。 その表情から手代も左之助の思いを察したらしく、
「落とせぬ城もコレでイチコロですよ」
 いっそうの揉み手をしながら、お追従(ついしょう)を言う。
「おう。じゃぁ、これを貰おうか。それと灘の酒も徳利に入れておいてくれ」
「毎度ありがとうございます。ですがお客様、飲み過ぎにはくれぐれもお気を付けられますように。でないと いざって言うときに役に立ちませんからね」
 すっかり女を口説くと決めつけた手代は、下卑た笑いを口元に浮かべ、手早く用意をして2本の徳利を手渡した。そして、見事思惑通りに高い酒を売りつけることに成功した手代は、最上の客にしか見せない特上の笑顔を浮かべて、店の外まで左之助を愛想良く送り出してくれた。
 表の通りに出たところで、ニヤニヤと頬が緩みっぱなしの左之助を、買い物を済ませた剣心が不思議そうな顔で迎えた。
「どうした? なんだか嬉しそうでござるなぁ?」
「いや、何でもねぇって。それより買い物は済んだのかよ?」
 分かるはずもないのに、危ない危ないと、自分の胸の内を見透かされるのではないかと空いた方の手で頬を叩いて、左之助は気持ちを引き締めた。
「ああ、欲しい物は手に入れたでござるよ。これで鰺のタタキもとびきりおいしくいただけるでござろう」
「そいつは良かった。さっきから腹の虫が鳴きっぱなしなんだ。早く帰ってその鰺を食おうぜ」
 食事が目的か、それともその先が目的なのか、いずれともつかぬ逸る気持ちを抑えかねるように、左之助の足は先を急いでいた。
 長屋に着くと左之助は、敷きっぱなしの万年床を足で蹴飛ばし、二人の座れる場所を確保した。 取り散らかしたままの湯飲みや皿を井戸端へと持って行き、手早く洗う。 その間に剣心は器用に鰺を3枚におろし、ぶつ切りにする。ネギやショウガの薬味を添えて綺麗に皿に盛りつけると、左之助の前へと並べた。
 剣心が提げてきた重の中には、艶やかでふっくらとした筍ご飯が詰められている。その下の段には、筍の煮物がいっぱいに入っていて、左之助の腹の中に収まるのを待つばかりのようだ。
「これは旨そうじゃねぇか。何はともあれまずは一献」
 今にもわしづかみにでもして食べたい気持ちをぐっと堪え、したたり落ちそうなヨダレを拭きながら、それでも剣心へと一応の敬意を表するために、湯飲みになみなみと酒を注いだ。そして、自分の湯飲みにも酒を注いだところで、待ちきれず早速鰺へと箸をのばす。
「う、うめぇ!!」
「そのように慌てると喉を詰めるでござるよ」
 やんわりと注意をする剣心も、左之助の喜ぶ顔に笑顔がほころんだ。
 左之助は、駆けつけ一杯とばかりに勢いよく、ぐいっと湯飲みの酒を空ける。
 剣心の作った肴が、泡盛の味を一層引き立てるようだ。
「おっ、結構いけるじゃねぇか。この酒もよ」
「ん?」
 今しも湯飲みの酒を口に含もうとしていた剣心が、怪訝な表情で左之助へと視線を戻す。
「何でも琉球の酒らしいぜ。ウワバミのお前にはうってつけだと言うから、珍しいし、これにしたんだけどな」
「ほぉぅ。それでは拙者もご相伴にあずかるか」
「おう。ぐいっと空けな。もしも酔っぱらっちまったら俺が介抱してやるからよ」
 下心ありありの左之助は、これ以上にないほどの上機嫌で、どんどん飲めと徳利を振ってみせる。
「ハハハ・・・お前と違ってそんなには飲めぬよ」
「何を言ってやがんだ、このザルが」
 剣心と共に何度か酒を飲んだが、酔って潰れるのを見たことがない。そればかりか顔色さえさして変わらず、常よりも幾分饒舌になること以外は、まったく態度が変わることもない。
 その剣心を、今夜は酔わせることが出来るかもしれないと思うと、左之助の気分が高揚するのも仕方のないことだ。
「ほれほれ、もっと飲めよ」
 剣心に酒を勧めながら、自分は口いっぱいに筍ご飯を頬張る。
「う、うめぇ!!お前ぇ、また腕が上がったんじゃねぇのか?」
「そうでござるかなぁ」
「おお、そうだともよ。これだけ出来りゃぁ、いつでも嫁に行けるぜ」
「左之! 拙者は男でござるぞ。婿ならともかく…」
「アハハハ…… 言葉のあやってもんだ。だけど、1日働いて家に帰ってきて、こんなに旨いもんが食えるんだったら、俺がお前ぇを貰ってやるぜ。」
 ほろ酔い気分が、左之助の口を軽くする。 つい冗談めかせてそれとなく自分の気持ちを匂わせてみた。
「イヤでござるよ。左之のような甲斐性なしでは」
 あえなく断られた。
 だが、旨い酒に旨い飯。それに、惚れた相手の勺と三拍子揃っている。剣心が何を言おうとも、左之助の気分が損ねられることはない。 
「おっ、言ってくれるじゃねぇか。」
 豪快に笑い、軽口を叩く左之助の顔を見つめて、そこで剣心が少し頬を染めた。
「それに男の拙者では子も生めぬ。用はなさぬよ」
 俯き加減に言う剣心は、まるでおぼこ娘のようだ。
 その姿があまりにも可愛く、左之助は酔ったオヤジよろしく、もう一押ししてみた。 「なすかなさぬか試してみたら分かると思うけどよ。どうだ?」
「さ、左之!」
 左之助の問題発言に、剣心はまるで茹で上がったばかりのタコのように真っ赤になった。
「アハハハ…… 冗談だってば。そう目くじら立てなさんな。お前ぇはそう言うところがお堅くっていけねぇやな。どれどれ、こっちの煮物は……」
 まっ赤な顔でジロリと睨まれた剣心の視線を避けるように、左之助は筍の煮物へと箸をのばす。
「あっ、それは……」
 剣心が慌てて説明しようとしたが、左之助の箸は筍をつまむと、ひょいっと口に放り込んでしまった。そして、左之助に悶絶の声を上げさせた。
「うっ、ま、まじい!! ……嬢ちゃんか?」
 発酵を間違えて本当に腐ってしまった納豆を口に放り込んだような表情で、左之助が恨めしげに剣心に問うた。 その左之助へと、いかにも気の毒げな表情を見せるのは、剣心も先刻承知と言うことだろう。額に二粒ほどの冷や汗が滲んでいる。
「薫殿が、はりきって煮たでござるよ」
 申し訳なさそうに言う剣心へと、左之助の低い声が響く。
「こっちは嫁に行くのはまだまだだな……」
「近頃は少々腕も上がってきたのでござるがなぁ。今日は少し、塩加減を間違えたとか言っていたでござるから…」
「少しなんてもんかよ!! 何でこんなもんまで持って来るんだ!?」
「ちょっと沢山作りすぎたようでござってな。弥彦だけでは消化しきれぬから、左之にも食べてもらうようにと薫殿が……」
 一番の被害者でもある弥彦が、更に積み増しをして出来る限りこの重に詰め込んだことだろうとは、想像に容易い。
「嬢ちゃんは俺を殺す気か?」
「左之。それは言いすぎでござるよ。薫殿も悪気があって拙者に持たせたわけではござらぬし……」
「悪気があってこんなことをされたんじゃ、たまんねぇぜ」
「まぁ、まぁ、そう怒らずとも…… それに醤油と砂糖を少々足して、甘辛く煮直せば佃煮のようにして食べられるでござるよ」
「佃煮ねぇ…… どっちかつぅと珍味のようにも思えるがな」
「左之。薫殿に聞こえたら、今度は間違いなく殺されるでござるよ」
「ハハハ…… 違いねぇ」
 薫のまずい料理も今夜の酒の肴に変えられたことで、左之助の箸のペースが落ちることはなかった。  
 気の置けない男二人で会話も弾み、食べきれぬと思われた重箱の中身は、どんどん平らげられていった。
 酒屋の忠告を肝に銘じていた左之助だったが、旨い料理と楽しい雰囲気に、つい酒の量も過ごしがちだ。
 泡盛でお互いの口の回りも軽くなったところで、常日頃気になっている薫との仲を問いただしてみることにした。
「お前ぇ、嬢ちゃんはどうなんだ?」
「薫殿でござるか? 元気に剣術に励んでいるでござるよ。左之もよく知って居ろう? 先週も竹刀を持って追いかけられていたではござらんか……?」
 不思議なことを聞くと、剣心の表情が物語っている。
 誰が嬢ちゃんの近況を聞いてるんだ。トンチンカンな事を言いやがって。
 左之助は胸の内で少々毒づきながら焦って問い直す。
「いや、そうじゃなくってよ。嬢ちゃんとは上手くいっているのかと聞いてるんだよ」
「おろ? 何を心配しているのでござるか? 喧嘩などはして居らぬよ? 少しばかり人使いは荒いが、弥彦も拙者もよくしてもらっているでござるよ」
「そうじゃなくって関係は? と聞いてるんだよ」
「家主と居候でござるが……それが何か……???」
 何を今更と、ほんのりと酔いを頬にのせた剣心が目を瞠る。
 ダメだ、こりゃ……
 鈍いのか判ってボケてやがるのか、鈍いとしたら少々薫が気の毒だと、ライバルながら左之助はいたく同情心が湧く。
「じゃぁ、恵はどうなんだ?」
 もう一人の手強そうなライバルのこともついでに訊ねてみた。
「ああ、最近は滅法評判もいいようでござるな。誰でも親切に看てくれると、皆から聞くでござるから」
 剣心の答えは、かなり的から外れている。
「いや…… 恵のことをどう思ってるんだと言うことなんだが……」
 かみ砕くように、左之助は言葉を重ねた。が、首を傾げた剣心の表情は、変わらない。 「ん? 恵殿はいい医者に成るでござるよ。勉強家でござるし、知識も豊富でござるからなぁ」
 恵も撃沈らしい……
「じゃぁ、豆腐屋のおみっちゃんは?」
「親切な人でござるなぁ。何時も油揚げをオマケしてくれるでござるよ」
「魚屋のお春ぼうはどうなんだ?」
「よく働く女子(おなご) でござるよ。お客にはとても愛想のいい子でござるな」
 愛想がいいのはお前ぇにだけだよ。
 胸の内で合いの手を入れるも、左之助はだんだんと馬鹿らしくなってきた。
「んじゃ、居酒屋の虎屋のお文さんは?」
「ん? お主と何度か行ったところでござるな? さて……余りよく覚えては居らぬよ。それより拙者に女子の評判ばかりを聞いて、どうしたのでござるか?」
「あのなぁ……」
 左之助が知る限りのライバルと思しき女のことを聞いても、剣心には一向に通じないらしい。 二の句が継げず、とうとう左之助は絶句した。
「変な左之でござるな……」
 キョトンとした表情で、剣心が言う。
「変なのはお前ぇだよ!」
「おろ?」
「大体お前ぇは、女には興味はないのかよ?」
 それなら話が早いと言うもんだ。
 左之助の深い悩みとも、今日限りでおさらばだ。
 身を乗り出して、じっと剣心の顔を見つめた。
「そんな事はござらぬよ。拙者も男でござれば、女子に好かれるのは嬉しいものでござる。 しかし、お主と違って拙者はモテぬし、女子から告白を受けたことはござらぬからなぁ」
「へっ? 言わなくったって態度を見れば判るだろ?」
「おろ? まさか…… 誰か拙者を好きなのでござるか?」
 大きな目を一層見開き、何が言いたいのかと左之助に問い返す。
 まったくもって剣を持った時とは雲泥の差で、色恋沙汰にはとんと鈍いらしい。
 これじゃぁ、俺の気持ちをわかってくれと言ったって、どうにもこうにも埒外のようだ。 どうやって口説けばいいのかまるで見当も付かず、飲みかけの湯呑みを中空で止めたまま、左之助は黙って考え込んでしまった。
 それから、おもむろに剣心の目を見つめ、僅かな望みを繋いでもう一つ訊ねてみた。 「お前ぇは男から見てもそれだけの別嬪なんだからよ、今までに男から声を掛けられたなんて事はなかったのかよ?」
「何を言うかと思ったら……」
 急に真剣な表情になった左之助が、何を言うかと心配げに見つめていた剣心は、その質問がたわいもないことだと、ホッと胸を撫で下ろした。そして、酒の所為かクスクスと上機嫌で笑いながら、左之助を睨め付ける。
 そのほんのりと染まったうす紅色の目元が艶めかしい。
「酒に酔っている所為か、拙者を女子と間違えて声を掛ける者も時には居たようでござるよ。しかし、大概は男だと判ると、直ぐに逃げ出すでござるな」
「じゃぁ、逃げ出さないヤツにはどうするんだ?」
「刀の鯉口を切るでござるよ。これで大概は大丈夫でござるから」
 脇に置いていた逆刃刀の刃をちらりと覘かせて、剣心は左之助に実演して見せた。 それを目の端に納めつつ、左之助は思わず、落胆した声を漏らした。
「男には興味はないってわけか……」
「当たり前でござるよ。中にはそういう趣味のヤツも世の中にはいるようでござるがな。まさか左之は、そういう趣味があるのでござるか?」
「ま、まさか!とんでもねぇ」
「で、ござるよな」
 左之助の気持ちは知らず、納得のいく答えを聞き、剣心は我が意を得たりとニコニコしている。 反対に左之助は、どんよりと落ち込んだ。
 女にだってあれだけ鈍いんだ。男の俺がいくら人としてお前に惚れたと喚いてみたところで、その気になるなんて事は、天と地がひっくり返ったって有りそうもない。
 望みを絶たれた。そう思うと、手が知らずのうちに徳利へと伸び、速いペースで湯呑みを口へと運んでいた。
 無言で呑み始めた左之助の機嫌を気遣って、剣心が話題を探して笑顔で訊ねた。
「拙者にばかり色んな事を聞くが、そう言う左之は想い人などは居るのでござるか?」 「あん?」
 見返した目が、完全に据わってしまっている。
 こうなりゃやけだ。何でも答えて、とことんまで言ってやる。
 左之助はそう腹が据わると、湯飲みをがぶりと一呑みして
「居るぜ」
 ぶっきらぼうに答えた。
「ほぉぅ。いつからつき合っていたのでござるか?」
「つき合ってなんかいねぇよ。なんせ片思いだかんな」
「おろ〜。左之でも片思いなどするのでござるか?」
「何だよ? 俺が片思いをしちゃいけねぇのかよ?」
「い、いや…… そうは言っては居らぬよ。ただ、ちょっと意外な気がしたでござるから…… でも、左之に想われるなんてその女(ひと)も果報者でござるな」
 何を言っても噛みつき始めた左之助を、剣心は慌てて持ち上げる。 だが、その一言を聞くや否や、左之助は剣心にガバ〜っと抱きついた。
「剣心!!お前ぇは本当にそう思ってくれるのかよ?」
「お、思うでござるよぉ」
 悲壮な声の左之助に力一杯抱きしめられ、剣心は同情心を持って、半分悲鳴に近い声を上げた。
「嬉しいぜ、剣心」
 泣き出さんばかりの左之助を、剣心は何とか元気づけようとする。
 左之助のいいところを言ってやろうと、持てる記憶の中から無理に引っ張り出す。
「左之は男気は有るでござるし、義理人情も大切にするでござるからな。それに何時も明るく前向きでござるよ。失敗をしても いっこうに恐れぬし……」
 出来る限りの世辞を言ってみた。
「それって…… 俺を馬鹿だと言ってないか?」
「言ってない、言ってないでござるよぉ」
 酔いのまわった力加減の判らぬ左之助に締め付けられ、剣心は息も絶え絶えになってくる。が、そんな様子は左之助の視野には入っていない。思い切り抱きしめたまま、左之助は剣心に語り続けた。
「俺はよぉ。お前ぇにだけは判って欲しいんだよ。判るか? この気持ちが。剣心、お前ぇに判るか?」
「判る、判るでござるよぉ。だから左之、もう少し腕を緩めてくれぬか?」
 すっかり出来上がってしまった酔っぱらいを(なだ) めるために、剣心も調子を合わせている。
「いや、緩めねぇ。緩めるとお前ぇは 逃げ出すつもりだろう?」
「逃げぬから…… お主がしたいようにしていて構わぬから、だからもう少し腕を緩めてくれ」
 だんだんと力の加わる左之助に、今や剣心も必死だった。
 大酒の挙げ句、酔っぱらった左之助に、括り殺されたなどということになったら、笑うにも笑えない。
「本当に逃げねぇか? 嬉しいねぇ。剣心」
 虎が獲物をいたぶるかのように、ゴロゴロニャンニャンと、左之助は剣心を腕の中に閉じこめたまま懐いている。そのまま骨までしゃぶり尽くしそうだ。
 完全に望みはないと思っていたのに、計らずとも自分の気持ちを理解してくれている。その証拠に、こうして抱き締めていても嫌な顔さえ見せないと、酔いのまわった左之助には思える。
 「お主は力加減という物を知らぬのか?」
 やっと息の楽になった剣心が、腕の中で抗議の声を上げた。
「いや、すまねぇ。すまねぇ。だがよ、お前ぇが俺を認めてくれてると思ったらよ、なんかすんげぇ嬉しくなっちまって」
「左之…… 苦しい恋なのでござるなぁ」
 酒の上でのこととはいえ、こうも友人の自分にまで甘えてくる左之助の片思いの辛さを思うと、剣心もいたく同情し、すげなくできない。
「判ってくれるのか? 剣心、お前ぇは、この気持ちが判ると言ってくれるのか?」
 またもや興奮した左之助が、力一杯に剣心を抱きしめようとした。が、今度はそうはさせじと剣心も力の限り腕の中で抵抗した。その反動で二人は畳の上に転がり、抱き合ったまま左之助が剣心の上に覆い被さっていた。
「好きだ、好きなんだよぅ。剣心」
 左之助は必死で自分の想いを剣心へと伝える。
「うん、うん。判る、判るでござるよ〜」
 相手の女に言うに言えず、胸の内に溜めていた想いを、代わりに自分にぶつけている。左之助にも可愛いところがあるものだと思っている剣心は、何とか慰めてやりたいと思う。それに上に載っている重い左之助から、早く解放されたい。だから、一生懸命に左之助の言葉に調子を合わせていた。
 だが、あまりの調子の良さに疑いを持った左之助は、はたと黙り、じっと剣心を見つめる。
「本当に判ってるのか? 剣心」
 口先だけで調子を合わせていたのを気づかれたと思い、剣心は気まずい思いで左之助を見つめかえす。
 視線と視線がぶつかり合い、一瞬、沈黙が二人を取り巻く。 そして、息の荒い左之助の顔が次第に剣心へと近づいてきた。 その距離、6寸、5寸、4寸と段々に狭まっていく。 だが、剣心に動じた様子はなく、これから起ころうとしていることさえ、いっこうに理解をしないような表情で、左之助を見つめ続けている。その剣心の蒼い瞳の中に、左之助の意識も吸い込まれそうになりながら、二人の距離は次第に狭まった。
 落ちた唇に触れた物は柔らかく、左之助を甘美な世界へと誘う。
 波打つ鼓動が指の先まで痺れさせ、意識は夢の中を彷徨う。
 唇は頤から項へと滑り落ち、首筋に口づけの雨を降らす。
 なんて柔らかいんだ。そして暖かい……
 俺と同じ匂いがする。男同士だからか?
 左之助は頭の片隅に様々な想いを駈け巡らせながら、譫言のように好きだという言葉を繰り返し抱擁する。
「さの…… 左之……」
 剣心が名前を呼ぶ声が聞こえる。
 俺の名を呼んでくれるのか?
 お前も俺と同じように感じてくれるのか?
「左之。左之。左之助……」
 剣心。嬉しいぜ。やっと想いが通じたんだ……
「左之……左之。大丈夫でござるか? ちょっと強くかけすぎたでござるかなぁ?」
 強く? 
 何が強いんだ? 
 ああ、それにしてもなんて柔らかい……
 まるで布団のようだ…… 布団…???
「左之!!」
 夢うつつだった意識が、剣心の大きな声で突然はっきりとした。
「大丈夫でござるか?」
 横たわる左之助の側にひざまずいて、剣心が心配そうに覗き込んでいる。
「ん? あれっ? 剣心……」
「やっと目覚めたか?」
「俺は……??」
「酔いつぶれたようでござるなぁ。お主が、これほど酒癖が悪いとは思わなかった」
「えっ? 俺はいったい……?」
「拙者に抱きつき、突然倒れ込んだと思ったら、布団を抱いて、好きだ好きだと喚いていたよ。そんなに片思いの相手に、想いを寄せていたのでござるなぁ」
「布団!? あれが全部夢だったと……」
「ああ」
「布団…… 夢………」
「そう気を落とすな。これからは拙者も、出来る限りお主の力になるゆえ…」
 がっくりと肩を落とした左之助を、心底気の毒そうな顔をして剣心が慰める。
「俺……何かしなかったか?」
 はっと思い当たった左之助は、口づけたのが夢ではなかったようにと祈り、剣心に確かめる。
「ああ、大丈夫でござるよ。拙者を想い人と間違えて居たようでござるが、思い悩んでいる時には、酒で乱れることもあろう。そう恥じなくても、幸い拙者しか此処には居らぬから、案ずることはないでござるよ」
 酒に呑まれて、前後不覚になったことを気にしているのだろうと、あんぐりと口を空いたままになっている左之助に向かって、剣心は優しく微笑んだ。
「しかし左之。これからは酒を呑む時には飲み過ぎぬように、重々気を付けた方がいいでござるよ。今夜は拙者だから良かったようなものの、女性が相手でござると、変な誤解や間違いが起こらぬとも限らぬからな。 意識も戻ったようだし、もう夜も遅いから、拙者はこれで帰るでござるよ。また今度、しらふの時にでもお主の話を聞くでござるから、あまり一人で思い悩まぬように、な」
 心からの慰めを口にして、ポンポンと2つ、3つ左之助の肩を叩いて元気づけようとした。
 そして、どんよりと落ち込んだ左之助を、ひとりそこに残し、剣心は長屋を出ていった。

「ふぅ〜〜〜。危うく左之に襲われるところでござったなぁ…… 芸は身を助くと言うけれど、師匠の気まぐれに付き合って、催眠術を習得していたのが役に立つとは……
左之も酒の上でのこととはいえ、拙者に口づけたなどと分かったら、気まずい思いをするでござろう…… これは内緒にしておいてやるかな……… 
 しかし、左之の想い人というのはいったい誰なのでござろう???
……でも… 左之の唇は温かだったでござるなぁ……」
 ひとり呟きながらニコニコと微笑んで、春の夜風に吹かれて、剣心は神谷邸へと帰途を辿っていった。

 一方、その頃、長屋に残された左之助は……
「くぅ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!アレが夢だったのかよぅ? 
あんなに触れたかった剣心と、やっと口づけが出来たと思ったのによぉーーーー。
あーーーーーーーーーーーーーー、俺の馬鹿ーーーーーーーーーーーーーーぁ!!
くそぅ、剣心!! やりて〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ぇ!!」
 布団の中で悶々とする左之助の雄叫びが、まだ春浅い夜、薄い長屋の壁を通して、隅から隅までずずずいっと響いていたのであった。
「うるさいぞーーーーー!コラッ!」
「いったい何時だと思っていやがんだっ!」
 ボコッ!!!        ←(注・長屋の住人から盥の投げられる音)

                                了 2003.4