【 通り雨 】



頬を抜ける風がやけになま暖かい。これはひと雨来るかも知れない。
「クソッ、ついていない。」
腹立ち紛れにアクセルのスロットルを大きくあけた。
左右に飛ぶ景色が勢いを増す。
風の中を走っても昨夜の喧嘩が脳裏をよぎる。
いっこうに晴れぬ気分にさらにスピードを増した。



夕べの喧嘩は最悪だった。
左之助と言えば 接待で飲んで夜半遅くに帰り着いた俺の胸ぐらをいきなり掴んで
「おめェ!いったい何してきたんだ!?」
突然何してきたはないもんだ。
こっちは何のことだか判らずきょとんとしていると
「とぼけったって無駄だぜ。」
と言いつのる。
ちょっと腹が立ったから
「俺が何をとぼけるって言うんだ!!」
つい口調も荒くなった。
アイツが指さしたのは胸元の口紅。
そう言えば、トイレに行くと言って立ち上がった隣の女がよろけて俺に抱きついたっけ。
酒も充分入っていたし、やきもちを妬いてるんだと思えば少しからかってやろうかと 悪戯心でニヤリと笑ったのがいけなかったらしい。
眉間に皺を寄せて険しい表情をする。
「認めるんだな?」
認めるも何も全く身に覚えがないんだから こんな誤解はすぐに解けると からかい気分で言ったのがまずかった。
「へぇ〜。妬いてるのか?」
とたんにアイツの顔は怒りで赤黒くなった。

最近左之助は機嫌が悪い。
何かと言えばすぐに食ってかかるし、四六時中イライラしている。
俺の行動を根ほり葉ほり聞いたかと思うと 黙り込む。
いい加減こっちもうんざりしていたから こんな機会に仕返しをしてやろうと俺も思ってしまった。
「何が言いたいんだ?」
喧嘩ならいつでも受けて立つぜと言う素振りに カチンと来てつい言葉も荒くなる。
「何か言いたいのはそっちじゃないのか!?」
誤解だと説明すればいいものを 言ってやるのも癪に障るから 昂然と胸をそびやかした。
「ハン!! 語るに落ちるとはこのことだな。そんなに香水の匂いをぷんぷんさせてよぉ!」
そんなことを言ったって俺には覚えがない。座っていただけで隣から移り香をもらったとしか言いようがない。
しかし、何故こんなに執拗に疑うんだ?
確かに今夜は左之助との約束を反故にして仕事に出かけたけど だからといって俺が浮気をしていたとどうして結びつける?
だいたいおかしいのはお前の方じゃないか。
俺は何度か見て居る。
お前がバイクの後ろに髪の長い女性を乗せて走っているのを。

「誤解だ。俺は何もしていない。だいたいお前は自分がやましいから そうやって人を疑うんじゃないのか?」
「やましいってどういうこった?」
「じゃぁ、あの髪の長い女は誰だ?」
「何のことだよ!?」
「ふん、今更とぼけるのか? 人のことは疑っておいて。ずいぶん勝手だな。」
「だから何だと言ってるんだろうが!!」
「じゃぁ言ってやるよ。バイトだとか言ってお前は出ていった癖に 数時間後には西武の前を女を乗せて走っていたじゃないか。」
「何時のことだよ?」
「さぁ、1ヶ月前ほどじゃないか?」
思案げな顔で何かを思い出したらしい。
「あれはバイト先の店員が急に腹が痛いと言って帰れねぇとか言うから 店長が送ってやれって言ったんだよ。」
「ほぉお。じゃぁ、カワサキのショップに女を連れていたのは?」
「おんな?」
「とぼけるのか?」
「とぼけてなんかいやしねぇよ。覚えてないからそう言ってるんじゃねぇか。」
「都合のいい頭だな。俺は他にも見ている。」
「んなもんは大学のツレの付き合いで 後ろに乗せることぐらい有るだろうが。」
「じゃ、それでいいだろう・・・だったら、俺のこともとやかく言うな!」
「何だよ、それは!」
「言いがかりを付けてきたのはそっちの方じゃないか!」
「言いがかり!? てめェー! わかったよ、何も言わなきゃいいんだな!? 勝手にしろ!!」
「ああ、放っておいてくれ!!いちいちつまらん誤解で絡まれたら身が持たないからな。」
「悪かったな!つまらなくてよ!!金輪際気にしねぇことにするよ!!」
フンと言い残し、寝室のドアを思いっきり力任せに閉めていった。

何だ?アイツは・・・・
商談もうまくいって久しぶりに楽しい気分で居たのが 胸くそ悪くなった。
確かに今夜は左之助とドライブがてらに飯を食いに行こうと約束をしていた。
だけど、向こうの都合で急に今夜と言われれば予定を変更するのもやむなしだろう?
アイツも渋々ながら行ってこいよと言ったじゃないか。それをいきなり疑うなんて いったいどういう神経をしているんだか。
卒論だか、レポートだか知らないけど そんなもんに煮詰まってイライラをぶつけられたらたまらない。
俺が浮気をしてきたなんて 何処をどう取ればそう言う考えが浮かぶんだか。
ホントにこれ以上はつき合いきれないな。勝手にさせてもらうさ。
けったくそ悪いから寝室の鍵を閉めてそのままベッドを独り占めしてやった。



朝目が覚めたら左之助は出かけていた。
今日は一緒に近場を走りに行くと約束をしていたのに いったい何処に行ったのやら・・
コンビニかもしれないとコーヒーをたてて、新聞でも読みながら待ってはみたけど、昼前になっても帰ってくる気配はない。
昨夜のことを根に持って 一人で出かけたのか?
向こうがそのつもりなら俺も好きにするさ。何も一緒でないと楽しめないこともない。せっかくの休みを 左之助を待つだけで終わらせるなんて馬鹿馬鹿しい。
出がけにメモを、なんていつもの習慣で思ってしまったが だいたい何にも言わないで出て行ったのは向こうなんだから 俺が気を遣ってやるのも腹が立つ。帰ってきたら勝手に待ってろ。そう思い直してガレージからドゥカを引き出した。



家を出た時には腹立たしいほどに照りつけていた太陽が 山へと向かうに連れて雲の陰に隠れだした。
何処へ行こうというアテがあったわけでもないが、サウナのようなコンクリートよりは広い景色と緑があった方がいい。ついでに河鹿の声でも聞こえればもうけものだ。
何処まで行っても家並みの続く関東平野を 唯ひたすらに山を目指して走っていった。

関越自動車道をそれて圏央道に入った辺りから雲行きはあやしくなっていた。山にかかる雲が厚い。鶴ヶ島インターチェンジで降りて奥武蔵グリーンラインへと道を取る。秩父まで尾根伝いに続くアップダウンは 久しぶりに野生の勘を呼び起こさせる。
ここまで来ると空気も清々しく、都会の喧噪が嘘のようだ。 湖上に浮かぶボートも道路に迫り出す樹木も自然の中で穏やかな時を過ごしている。鎌北湖でバイクを停め、肺一杯に空気を吸い込み、「う〜ん、爽快。」などと思ったのが最後だった。
顔振峠に上がる頃にはシールドに雨粒が幾粒か当りだし、山の向こうで雷が唸っているのが聞こえる。このまま走るか引き返すかと思案をしながらも アクセルは握ったまま、目の前のコーナーを 抜けていく。黒山の辺りでは見える筈の山々の尾根が 灰色の雲に覆われている。まばらに落ちていた雨粒も筋となって繋がりだした。不動の前の茶屋をちらっと眺めたが そのままやり過ごす。木立の中をくぐり抜け飯盛峠を超えた辺りには雨も本降りになってきた。とうとう刈場坂峠で走るのを諦めた。


木立の下にバイクを停めて休憩所の軒の下へと慌てて駆け込む。眺望の開けた場所も雨に覆われ、一面グレーに塗り潰されている。ぐしょぐしょに濡れたジャケットを 張り付く肌から引っぺがし、絞ってみると少し水が滴る。
「本当についてない。」
足にまとわりつくジーンズの気持ち悪さに顔をしかめながら、叩付ける雨に向かって独り言が口を出た。
自販機からコーヒーを1本取りだし、並んだ椅子の一つに腰を据えて落ち着くと 昼食も取らずにいたことを腹の虫が教える。その音がそんなに大きいわけでもないだろうが、返事をするように足の下から「ミャー」と声が返ってきた。
雨宿りなのか あるいは迷い疲れて寝ていたのか 椅子の下から子猫が一匹顔を出している。両手ですくい上げると子猫は手の平にすっぽりと収まるほどの大きさだ。白と黒の斑が愛嬌よく配置され、つぶらな瞳がぱっちりと俺を見つめている。
「お前のお母さんは何処へ行った? 置いてけぼりか?」
問いかけてみると子猫は「ミャー。」と返事をする。
「置いてけぼり同士、一緒に雨をやり過ごそうか?」
知り合ったばかりの友達を膝に抱き頭を撫でてやると 腹が減っているのか俺の指を鼻を鳴らして吸おうとする。
「困ったな・・・茶店は休みだし、コーヒーしかないぞ。」
缶からコーヒーを指に零し、鼻先に持っていくと 子猫はちろちろと柔らかい舌で旨そうにコーヒーを掬い取っていく。子猫にコーヒーを与えていいのかどうかは知らないが その可愛いそぶりに2,3度指を嘗めさせた。

雨は激しく地面を叩き、大きな庇で覆われているこの休憩所の中まで飛沫が飛んでくる。
雷はひっきりなしにゴロゴロと音をさせ、関東平野が望めるはずの灰色の景色の中に 幾筋もの光の帯を走らせる。
眺望も望めず、ただ鬱陶しいだけのシチュエーションに それもこれも左之助の所為だと恨みがましい気分になってくる。
「だいたい何であんなに疑うんだ? お前どうしてだと思う?」
俺の問いかけに子猫は愛想良く返事をしてくれる。幾らか暇つぶしの相手にはなってくれそうだ。

左之助の機嫌があまり良くなくなったのは2,3ヶ月前から。そのころから変わったことと言えば、オフィスに礼子さんが入ったことぐらいか・・・・
礼子さんは叔父貴好みの結構美人で なかなかの秀才のようだ。俺には色々と気遣ってよくしてくれる。仕事の半分は受け持って貰えるし、お陰で休みも取りやすくなった。左之助もオフィスに顔を出した時に逢って、「すげぇ美人な。」と口笛を吹いていたっけ。浮気心というのなら 俺よりアイツの方がその気が多いんじゃないのか?
でも、しばらくすると「いけ好かない。」と言っていた。俺が理由を尋ねても「あんまり好みじゃねぇからだ。」としか言わない。左之助が機嫌を損ねる理由でもあったのだろうか? それからは俺が礼子さんの話をすると 決まって機嫌を悪くする。まるで俺と礼子さんの仲を妬いているみたいに。同僚との仲をいちいち疑われたんじゃ 俺もやってられない。だいたい世の中の半分は女なんだから。
かくいうアイツだって女友達はごまんと居るし、それを一人一人疑っていたんじゃ こっちの身が持たないから 知らん顔をしているけれど、時々腹が立つこともある。だからと言ってそれを口にして喧嘩をするのも馬鹿らしい。
要するに左之助は子供なんだ。自分のことは棚に上げて 俺のことばかりに目くじらを立てる。
「なぁ、そうは思わないかい?」
「ミャー。」
「お前は愛想がいいなぁ。ちゃんと答えてくれるのかい? でも、お前に恋の話はちょっと早すぎるかもな。」

言ってしまってから自分が言った「恋」という言葉に 突然顔が火照った。
何を今更、と思うが一緒に暮らすようになってからは特に意識をしたこともない。共に過ごす夜は甘やかで左之助を愛しいと思うけれど 今疼くようなこの胸の痛みをその時に感じることもない。
いつの間にか一緒に居ることが当たり前になって アイツの我が儘が目に付き、何故一緒に居るのか忘れそうになっていた。
アイツに出会って 一人で生きていくのが気楽だと思っていた俺の心の中にどんどんと入り込んできた。 無神経そうに見えてその実繊細で 細かな心遣いを見せたりする。そうかと思えば子供のような我が儘を言ってみたり、悪戯をしたりする。
年下のくせに妙に包容力があったりして いつも俺は驚かされる。
「アイツがもてない理由はないよな? あの機嫌の悪さはもしかしたら誰か女でも出来たかな?」
もし他に女が出来たら「良かったな」と言って 笑って別れてやるつもりで居る。


笑って・・・・・
わらって・・・・・・


イヤだ。
笑えるもんか!

考えただけで胸が痛い。
俺じゃない誰かがあの腕の中で笑うなんて 嫉妬で気が狂いそうになる。

「お前はいつも冷めてんな。少しは妬いてくれてもいいんじゃねぇのか?」
何時か左之助が言っていた。
こんな俺の胸の内を知ったらアイツは何と言うだろう?
ちっとも素直じゃなくて上手く気持ちを伝えられない。
「少しは左之助を見習うべきかな?」
目の位置に子猫を抱き上げ話しかけると 子猫は紅い舌で俺の鼻先をペロリと舐めた。
「うひゃー。」
声を上げて騒ぐ俺に 面白いのかじゃれつきたげに両足を一杯に広げて俺の鼻先を掴もうとする。
「ほほーう。お前は女の子か。きっとなかなかの美人になるぞ。」
言っている意味が分かるのか 気をよくしたように子猫は「ニャー」と鳴いて つぶらな瞳をくりくりさせた。

ひっきりなしに屋根を叩き、盛大な音を立てていた雨音も徐々に小さくなってきた。
先ほどまで空を染めていた光の帯も消え、西の空が明るい。
「なんだかお前になら素直に気持ちが言えるよ。お前、行くところがないのならうちに来るか? 左之助って言うヤツが居るけど。」
子猫は意を介さずにきょとんとしているが 子猫の都合はお構いなしに俺は家族に迎えることに決めた。
「やはり左之助にも一言断っておかなくっちゃな・・・・」
先ほどまでの腹立ちもすっかり忘れ、ジーンズの尻ポケットから携帯電話を取り出し、メールを打つ。
「美人を拾った。今から連れて帰る。鰹節と煮干しを用意しておいてくれ。」
送信してしまってから これじゃまた喧嘩になるかと少し後悔したところにすぐに返信が入ってきた。
「馬鹿ヤロー!いったい何処をほっつき歩いていやがんだ。女なんか連れて帰ったら承知しねぇぞ!!煮干しって何だ?」
ストレートな左之助の物言いに頬がほころぶ。そうだ、アイツはいつも自分の気持ちに正直だった。
「今夜辺り、俺も少しは素直になるかな?」
それがいいと言わんばかりに子猫に見つめられ、もう一度メールを送った。
「美人の子猫。きっとお前も気に入る。
P.S  昨日は俺も悪かったよ。」
素直に謝ったことがなんだか照れくさくて 一人山の尾根を見つめて笑ってしまった。
雲の切れ間から日差しが差し込み始め、山を覆っていた霧は晴れ、泣きやんでいた蝉も賑やかに夏を謳歌している。
着ていたTシャツを脱いでツーリングバッグの中に敷き込み、子猫をその中に入れた。
「ちょっと狭いけどすぐに着くから我慢してくれよ。」
まだ濡れているジャケットを素肌に羽織って 休憩所の大きな庇から1歩外へ出た。
木陰で雨を耐えていたドゥカに跨り、左之助の待つ東京の空を目指してエンジンを吹き上げ、スロットルを大きく開けた。
山の向こうにかすかな虹がかかっていた。




追記:

子猫はミュウと名付けられ、俺たち二人のアイドルになった。
そして、左之助のご機嫌斜めの理由は やはり礼子さんだった。
礼子さんは俺と左之助の間柄を知らないから、唯の同居人だと思って俺の居ないところで色々と左之助に尋ねたそうだ。
「お前に彼女はいるのかって聞くから つい居ねぇって言っちまった。確かに俺は彼女じゃねぇもんな。でも、なんだかやべぇなって思ったから 『でも、アイツはモテるからなぁ。』って釘を刺してやった。そうしたらなんて言ったと思う?『そりゃそうでしょう。そうでなくっちゃ私の彼にしがいがないわ。』ってぬかしやがった。いったい自分を何様だと思っていやがんだ? ああいうタイプが俺は一番嫌ぇなんだよ。なのにお前ときたら『礼子さん、礼子さん。』って。ホント頭にくんぜ。」
思い出しただけでも胸くそ悪ぃと中指をたてながら 俺に不満をぶつける。
俺は苦笑いを浮かべながら色々と下手な言い訳を試みた。
「同僚としてしか見たことはないよ。俺が礼子さんのことを話題にするのは 単に今日有ったことをお前に報告しているだけだよ。」
それでも左之助の機嫌は直りそうもない。
困り顔の俺に傍で寝ていたミュウが顔を上げ、がんばれと俺に合図をよこす。笑顔で頷きつつ、左之助の首に腕を回し、頬を寄せて耳元で囁いた。
「お前以外誰も考えられないよ。」
仏頂面が笑顔に変わり、珍しく左之助が頬を染めた。
左之助が喜んでくれるなら 素直に自分の気持ちを伝えるのも悪くはない。
俺はミュウに感謝した。



                            了  2003年7月