【エピローグ1】



「左之助さん、左之助さん。起きて下さいよ。そんなままじゃ風邪を引いてしまう。左之助さん。」
誰かが一生懸命俺を呼ぶ。ぼやけた頭に次第に声は大きくなり、茂平の声だとようやく気づいた。
霞の掛かった頭をもたげ、気怠い身体を持ち上げた。
「ん? 剣心は?」
「剣心? 誰です? そりゃ・・・私が来た時にはどなたも居ませんでしたが、昨夜どなたか見えたんですか?」
茂平の言葉に部屋の中を見回したが、剣心が居たような形跡は何処にもなく、何時もと変わらぬ風景がそこに有るだけだった。
「夢だったのか・・・・?」
「寝惚けてるんですか? 一体どうしたんです? 布団も敷かずにそんな所に寝て。うつぶせて寝て居るもんだから どうかしたかと心配しましたよ。」
次第にはっきりする意識に 茂平に説明するのも憚られ、俺は適当にごまかすことにした。
「ああ、わりぃ、わりぃ。どうも昨夜酒を飲み過ぎたらしい。」
「そうですか。気を付けて下さいよ。夜風は体に毒ですからね。此処に朝食を置いておきますからね。ちゃんと食べて下さいよ。」
茂平はそれだけ言うと 朝の日課になっている薪割りをするべく腰を上げた。


一人残された部屋で 俺はそっと自分の胸に手を当てた。
昨夜確かに貫かれたはずの傷は何処にもなく、変わらぬ自分の肌が温もりを伝える。流したはずの血糊もなく、昨夜のことは全て幻かと確かな記憶も揺らぎそうになる。

「剣心・・・お前は刃までも幻にしちまったんだな。」

見えぬ相手にそっと呟く。目を閉じれば小さな身体の温もりが この腕の中に甦る。
このまま幾つの時を過ごせば 再びお前に巡り会える?
お前が俺と巡り会うために掛けた時間を 俺もまた、待たねばならないのだろうか。

剣心、お前に会いたい・・・


俺は自分の心の叫びに従うことにした。
そして、町中を駆け回り、やっと花の残った金木犀の枝を見つけた。大半は花びらを落とし、僅かばかりの花がしがみつくようにして咲いている。その花の枝を手折り、胸に抱くと城へと続く山道へ向かった。
頂上付近に位置する城の石垣は苔むし、所々形を残さないほど崩れ落ちている。
その石垣に囲まれた高台の一隅に ひっそりと金木犀の木が植わっていた。
俺はその木に歩み寄り、静かに話しかけた。


「お前だったんだな? 剣心の思いを届けてくれたのは・・・すまねぇな、長い間・・・・・・剣心はこの下にいるんだろ? もうすぐ行くからよ。待っててくんな。」
根元には黄金色の小さな花が 香りを放つこともなく無惨な姿となって無数に散らばっている。胸に抱いた金木犀の花を ひとつも零さぬようにその根方に静かに横たえた。
用意したさらしを左手首に巻き、匕首を取り出し、その刃を手首に沿わす。こうしておけば 動脈から流れる血も吹き出すことなく 全てお前に注ぎ込めるだろう。最後の一滴までも 俺の思いを込めてお前の元へと届けたい。
刃を握った右手に力を込めて ゆっくりと引いた。
金木犀の幹に背を預け、俺は静かに目を閉じた。
俺の摘んだ花が僅かな香りを運ぶ。


「やっぱり来てしまったんだな。」
俺の心に剣心が語りかける。
「ああ、言ったろ? 離れやしねぇぜって。」
俺の胸の中で少し困ったような顔をして それから穏やかな笑顔を見せると
「おいで。」
そう言って俺に手を差し伸べた。
俺は迷わずその手を握り、剣心と共に歩き始めた。
これから何処へ行くのか、向かう先に何があるのか俺は知らない。
だけど、剣心と共に歩むのなら何があったって構やしない。
今、俺の心の中は400年の時を越え、静かな喜びに満たされていた。 



次の年、金木犀の根元から新しい芽が 吹き出した。
その芽はぐんぐん成長し やがて親の木に絡みつき2本の木がひとつの木になって 秋にはかぐわしい香りを里の人々にまで運んだ。
そして、若武者の噂も何時しか人々の記憶から忘れ去られていった。


金木犀は今年も花開く。
甘く切ない香りを乗せて。



                                   了

            
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