【金木犀】


モクセイ科の常緑小高木。中国原産で、日本各地の庭などに植えられ 10月頃葉腋に芳香のある花を密に開く。日本に渡ってきた物は 雄株のみで結実はしない。




或晴れた日の午後、俺は大和屋に呼び出された。
夏のうだるような暑さも収まり、空は何処までも高く澄み渡り、これから秋本番というような季節だった。
店を尋ねるといつものように若い人足が出入りをし、活気があり 商売は順調だと一目で見て取れる。材木を扱うこの店には一般の出入りの客は少ないのだが、代わりに大工や指物師が多く出入りする。だから俺がいつもの風体で店に入っていったところで 見咎める者など誰もいなかった。
そんな気安さもあり、この店にはちょくちょく出入りをする。
此処の主人の大和屋が ことのほか俺を気に入り 何かにつけては声を掛けてくれるからだ。

こんな大店の大和屋と喧嘩屋を生業とする俺が知り合ったのは 銀次に引っ張って行かれた新しい賭場で隣り合わせたのが縁だった。
俺たちが出入りをするぐらいだから たいした山を張るような場所じゃない。その日その日をどうやって暮らそうかというような奴らも多く出入りする。そんな中で、身なりの整った姿の大和屋は人目を引いた。
何故、こんな場所にこんな大店の主がと思ったが、話を聞いてみると元は火消し屋の三男坊で下町に育ったということだ。大和屋と火消しのオヤジが懇意にしていて 望まれて養子に入ったらしい。
「だからあたしはね、こんな場所にいる時が 一番ほっと出来るんですよ。」
いつだか酒の席でそう漏らしていた。
博打で儲けようなどという積もりは毛頭無い大和屋は 金の払いも綺麗なもので自分の決めた金額だけを使い切ると さっと席を立つのが常だった。
たまに勝つと周りにいるみんなを呼び寄せ、
「今日は皆さんのお陰でいい思いをさせて頂きましたよ。どうです? たまにはあたしに奢らせちゃ下さいませんか?」
等と言って 若い者を酒の席に誘う。
その誘われた中に俺も入っていたという理由だ。
親父ほど年の離れた大和屋だったが どういう理由か俺と大和屋は気が合い、酒の席を共にすることもしばしばだった。
そうこうする内にすっかり大和屋と俺は馴染みになってしまい、この店にも度々出入りをする間柄となってしまった。

店の奥では番頭の長兵衛が いつものように難しい顔をして伝票を繰っていたが俺に気づくと
「旦那様が先ほどより奥でお待ちかねですよ。」
と声を掛けてきた。
促されるままに店の奥へと上がり込むと 廊下の出会い頭でこの店の娘のお美代とぶつかりそうになった。
「よっ、お美代坊、祝言も近づくってぇと日に日に別嬪に成るじゃねぇか。」
「やぁだ、左之さんたら・・・何にも変わんないわよ。」
そう言って頬を染めながら 俺のお尻をピシャンと叩く。下町のおきゃんな娘のようなそんな仕草は 親父の気さくな人柄を受け継いでいるのだろう。近々いとこの千太郎を養子に迎え祝言を挙げることになっているが、色気の方はまだまだと言ったところだ。
「おとっつぁんが 首を長くしてるわよ。」
そう言ってにっこり笑うと 買い物に出るところだと言って店の方へと姿を消した。

長い廊下を二度ほど曲がると 母屋の大和屋の部屋へと辿り着く。
「何時来てもでけぇ家だぜ、まったく。」
何度来てもこの大きさには驚かされ、ついつい自分の長屋との落差に独り言が零れてしまう。障子を挟んで大和屋へと声を掛けた。
「ああ、左之さん、待っていましたよ。さあ、早く入っておくれ。」
「あん、それじゃ。」
障子を開けると部屋の片隅で布団に寝そべっている大和屋の姿が目に入った。
「おや? どうしなすったんでぇ?」
「わざわざ呼び立てして済まなかったねぇ。この通り、いつもの腰痛が出ましてね今度ばかりはちょっと立てそうにもなくてねぇ。それで、仕方なく怪我をしてる左之さんを呼び出してしまったという理由なんですよ。」
「いや、俺の方はもうどうって事もねぇんだが・・・大丈夫なのかい?」
「ええ、2,3日もゆっくり寝てれば 何とか起きあがれるとは思うんですけどね。それより左之さん、今日、玄斎先生から聞きましたよ。あんたのその腕の傷、治りが悪いそうじゃありませんか?」
「ちっ、あのお喋り藪が・・・」
「玄斎先生は腕のいいお医者様ですよ。先だってもほれ、大黒屋の女将さんの病を治したって 大層な評判じゃないですか。」
「腕はいいかもしんないがよ、あの爺さんと来たら やれ傷に障るから酒は飲むなとか不摂生はするなとか 口うるさくって適わねぇ。あげくに効くんだかどうだかわかんねぇような苦い薬を置いて行きやがる。」
「それも左之さんの怪我を案じてのことですよ。」
「怪我のことだって固く口止めしておいたのによ。こんな事が知れりゃぁ、喧嘩屋も廃業になっちまわぁ。」
「玄斎先生は左之さんとあたしの仲を知っていますからね。あたしじゃ話したところで 余所へ漏れる心配もありませんからね。あの先生なりに気遣ってくれているんですよ。」
「そうかねぇ・・・」
「ははは・・・左之さんに掛かると玄斎先生もかたなしだ。ところで左之さん、
あんたのその怪我はやっぱりあたしの所為なんでしょ? あたしが左之さんにあんな事を頼んだばっかりに・・・」
「そんな事はねぇよ。これだって俺の油断が招いたことで あんたの所為じゃねぇよ。」
「いいえ、隠したって無駄ですよ。玄斎先生からすっかり聞きましたから。ほんとになんと言ってお詫びをしたらいいものかと思ってねぇ。」
「よしてくれよ。喧嘩屋なんかやってると 恨みを買うのも一つや二つじゃねぇ。あんた絡みじゃなくったって、誰かが襲ってきたりするんだよ。だからあんたが気に病むことなんて これっぽちもねぇんだからよ。」
俺は大和屋が責任を感じねぇでいいように一生懸命説明した。が、この人のいい親父は 自分の所為だと言って頑として譲らねぇ。


そもそも事の顛末は一月ほど前のことだ。
大和屋に材木を仕入れたいと一人の男がやって来た。その男はこの頃流行の会社という組織を持ち、広く大工を集めて一手に工事を請け負っているということだ。今度水戸の方で幅広く商売を手掛けるから その仕入れを大和屋からしたいとの申し出だった。
吉野や紀伊から運び込む大和屋の材木の評判は良く、そんな申し出もままあることだそうだ。その男の希望する量の材木を用意し、店の人足にその男の持つ倉庫にまで運ばせた。
無事取引も終わったと思った翌日、柄の悪い数人の男を引き連れて その男は大和屋へとやって来た。昨日運び込まれた材木を調べると節や虫食いが多く 注文した商品とは似ても似つかぬ粗悪品だと言いがかりを付けてきた。 
そんな馬鹿なと 昨日収めた倉庫へ行ってみると 中の材木はすっかり入れ替えられて、納めた商品は姿を消していた。代わりに質の悪い材木が積み上げられていた。
夜の間に船ですっかり積み出してしまい、粗悪品を運び込んだという訳だ。見え透いた手口で材木をだまし取り、おまけに金を出さないと大和屋は汚い商売をすると世間に吹聴すると脅しを掛けてきた。
からくりはすぐに調べがついた。
そこで俺の出番となった理由だ。
こんな程度のヤクザものなら ちょいちょいと指を動かす程度で片は付いた。

が、いけなかったのはその後のことで、それから数週間後のある日のこと その日は末吉や銀次達とさんざんに飲みあかし、久しぶりに俺も酔っぱらいながら家路に着いた。後で考えりゃ、あまりに酒の回りが早かったのは、隣に座っていた奴らに酒を奢られてからのことだ。はなから仕組まれてたんだろうよ。
小名木川の高橋橋を渡り始めた時に 前と後ろから囲まれた。先日熨した奴らが意趣返しにやってきたという理由だ。
総勢20人ばかりいたっけか。
普段ならどうって事もない人数だが、俺もへべれけになっていたから 無様なことに襲ってきた奴らの一人に匕首で腕を掠られちまった。
頭に来た俺はもちろん、全員その場に叩きのめして半死半生の目に遭わせて帰ってきたんだが、思ったより怪我の状態は酷くて 玄斎の世話になるハメに成っちまった。酔っぱらって怪我をしたとあっちゃぁ、喧嘩屋の名が泣く。それで、玄斎には口止めをしておいたんだが、あのじじいと来たら飛んでもねぇお喋りだった。

「とにかく怪我もぼちぼち治って来てんだからよ。何にも気に病むことなんてありゃぁしねぇよ。」
「ですが左之さん、玄斎先生の話だと肉の付きようが悪いそうじゃありませんか。何でも、温泉で療養するのが一番だとか。」
「あのじじい、そんなことまで喋ってやがんのか?」
「あたしがしつこく尋ねたんですよ。そこでなんですがね。わざわざ来てもらったのは他でもない、その温泉のことについてなんですよ。私は箱根にひとつ別荘を持っていましてね、左之さんに是非に使っていただこうとこう思った訳なんですよ。」
「湯治なんてジジイ臭くていけねぇよ。」
「まぁ、そうおっしゃらずに私の話も聞いて下さいよ。箱根は海に近いだけあって食べるものもおいしいし、女も綺麗ときている。それに何より箱根に沸く湯が傷にいいときている。きっと左之さんの傷の治りも早いと思いましてね。ひとつ此処はあたしの願いを聞いちゃくれませんか?」
「そう言われてもなぁ・・・」
「あたしゃ何度も言ってますがね、あんたのことは実の弟か息子ぐらいに思ってんですよ。そのあんたの腕が二度と使えなくなるようなことが有れば、あたしゃ悔やんでも悔やみ切れませんよ。このあたしを助けると思って、何にも考えずにどうぞ療養してきて下さいよ。」
「そうまで言われちゃ嫌とは言えねえやな。じゃ、甘えて世話んなるぜ。だが、何もかも世話になっちゃぁ、こっちも気が引けていけねぇやな。今、持ち合わせがこれだけしかねぇんだがよ、飯代に取っといてくんな。」
「怒りますよ、左之さん。あんたにそんな心配させる為に此処に呼んだんじゃぁないんだ。そんな心配は更々無用にして下さいよ。」
「ああ、だがよ。俺も全部人様の飯だと思うと 喉の通りが悪くなる。足りねぇのは分かってるんだからよ、後は全部世話んなるから 俺の気持ちとして取っといてくんな。」
「分かりましたよ。一度言い出すと聞かないあんたのことだ、これはあたしが預からせて頂きますよ。だけど、左之さん。金輪際、遠慮は無しにして下さいよ。」
「ああ、分かった、分かった。」

そう言う理由で俺は箱根に湯治に出かけることになった。
銀次や常吉は一緒に行きたそうだったが、やっと来てもらった恋女房を置いて出て行く訳にもいくめぇ。
指をくわえながら 俺の旅立ちを見送ってくれた。



箱根にある大和屋の別荘は大層なもので、贅を凝らした入母屋造りの洒落た造りになっていた。家の中はさすがに材木を扱うだけあって、材の良さなど分からぬ俺でさえ 床の間にすっくと立つ柿の木の床柱や 桐の一枚柾目板の格天井などその質の高さに目を見はった。
庭は後ろに望む山々を背景に松や楓が一幅の絵のように配置されている。
有るところには有るもんだと 俺は腹の底から呻った。
この家の管理を任されている茂平が案内してくれた部屋は 楓をふんだんに使った広い部屋だった。
「おい、爺さん、他に部屋はねぇのかよ?」
「お気に召しませなんだか? この部屋はお客様用にと造らせた部屋だそうですがね。」
「あの、もっとよ、小せぇ部屋はねぇのかよ? こんな広い部屋で一人で寝てりゃ風邪引いちまわぁ。」
「さて、狭い部屋と言われましても・・・」
「あれはどうなんだよ?」
俺が指さしたのは庭の中に立つ離れの部屋だった。
「あそこは旦那様が描き物をする為にお建てになった離れですので 余り凝った造りではないんですが・・・」
「凝ってなけりゃ尚更結構。爺さん、俺はあそこの部屋を使わせてもらわぁ。そうすればお前ぇだって 掃除をする部屋が少なくて済むしよ。」
「変わったお人でございますね。旦那様からは何処でも好きに使ってもらうように伺っておりますので あのお部屋がお気に召したのでしたらそれでようございますがね。」
「んじゃ決まりだな。これからよろしく頼まぁ。」
茂平を促すと俺は離れを陣取った。粗末な造りだと茂平は言ったが、俺の長屋と比べりゃ天国と地獄ぐらいの開きがあらぁ。竹で設えた床の間が付いていて広さは8畳、廊下を挟んで御後架迄付いてやがる。てぇしたもんだと口をついて出た。

部屋に落ち着いてしまうとする事の無くなった俺は 早速風呂へと出かけることにした。
東京の湯屋と違って、いくらでも湧いて出てくる温泉は 広い浴槽から溢れ出している。
「豪儀なもんだ。」
貧乏性が板に付いてる俺にとって 湯を溢れさせるなんてぇのは 勿体なくていけねぇ。俺が浸かると湯は浴槽からさらに滝のように溢れ出した。腕の傷に少々沁みるが これも早く治るのならば我慢のしがいもあるというもんだ。手足を伸ばして箱根の湯を心ゆくまで楽しんだ。

湯から上がった後は 街の中をぶらぶら見物して廻ったが、小さな町じゃそんなに時間も潰せねぇ。旅の疲れもあって その日は別荘へと真っ直ぐ帰ることにした。
離れにはもう酒の用意がしてあった。茂平が帰り着く頃を見計らい、気を利かせてくれたようだ。銚子は一本だけだったが 怪我をしてる身としちゃ贅沢は言えねぇ。俺がちびりちびりとやっていると 茂平が料理を運んできてくれた。さすがに大和屋が自慢するだけあって、深川土橋の平清でさえこんな生きのいいのは扱っちゃいめぇ。舌の上に乗せるととろけそうに旨い刺身を頬張った時には 来て良かったとつくづく思うんだから、俺の食い気もたいしたもんだ。
「いい所じゃねぇか。」
その日は単純に喜んだ。が、二,三日もするとすっかり飽きてしまい、潰れぬ暇にうんざりし出した。
町を歩いたところで小さな町だ。知り合いも居ねぇ。暇つぶしに喧嘩をしようにも誰と喧嘩をして良いのやら見当もつかねぇ。
女を買おうにも並んだ茶屋の女達は 浅黒い顔に一様に真っ白に白粉を塗り立てて、それが所々斑になった顔で ニィっと笑われた日には 辰巳芸者を見慣れた俺には怖気が震っていけねぇやな。
そんなこんなですっかり里心の付いた俺に 茂平が見かねて声を掛けてくれた。

「湯に浸かんなさるなら、少し遠いがいい場所がございます。岩で囲まれた露天風呂なんですがね、こんな秋の日には 時折いい花の香りがするんですよ。」
「この時期だけなのかい?」
「ええ、そうなんですよ。それに、花の香りが特に強く匂う時には この世の者とも思えないような美しい若武者が 湯に浸かりに来るんだそうで・・・」
「なんだ?そりゃ・・・」
「いえ、あたしは見たことはないんですけどね。噂じゃたいそう美しいそうなんで・・・・・村の人間は山に住んでる白狐が化かしてるんだろうって言ってるんですがね。真相は分かりませんやね。
しかし見た者の話によると たとえ狐が化けたにしても あんなに綺麗な若武者を見れるのなら いくらでも騙されたいって口を揃えて言ってますんでね。旅の人間が湯に浸かりに来ると出るという事ですから、もしかしたら左之助さんも逢えるかも知れませんよ。」
「でも、若武者と言うからには男なんだろ? 俺は男には興味はねぇよ。それが綺麗な花魁とでも言うなら 是非にも拝んでみたいところだがな。」
「ははは・・・そりゃそうですがね、その辺の女子よりは余程色っぽいらしいですよ・・・」
「ふ〜〜ん。まぁ、それでも俺は女の方がいいね。だが、気持ちのいい湯なら浸かってみてぇもんだ。どうせ暇も持て余してんだから行ってみるか・・・」

俺はそんな話なんか信じちゃいなかったが、あまりに退屈なのと 山を見ながら浸かれるという風呂に惹かれて出かけていった。
「♪色が黒うて惚れ手がなけりゃ 山のカラスは後家ばかり・・・っとな。」
手ぬぐいを1本肩に掛け、鼻歌交じりに山の小道を進んでいく。
東京じゃ、まだ紅葉の季節には少しばかりはえぇが、さすがに山の中じゃ、色づくのも早いらしく、ほんのり黄色みを帯びたのやら、赤く染まったのやらが見受けられた。
「気持ちがいいではないかいいなぁ〜っとくらぁ。」
そんな文句が口をついて出る。それほどに山の空気は澄み渡り、鳥のさえずりも心地よかった。


小一時間ほどで 教えられた山の湯に着いた。地元の人間以外は まれに旅人が訪れるだけという湯は、予想通りに誰も浸かっている者は居なかった。
「この景色が全部俺だけのもんかよ。」
そう思うとなにやら贅沢な気がする。
小川と言うには少し広すぎる川の流れの一部を 岩でせき止めて湯船にしている。向かいの斜面は、切り立った岩が立ち並び、その岩の上に山から滑り落ちる水が 幾筋もの絹糸のように優美な線を描いている。眼前に滝、遠くに紅葉の山々、青く広がる空と景色は申し分ない。天然の風呂は 熱ければ湯船の端を崩して 水を誘い込めばいいようだ。
満々と湛えられた湯は 丁度いい湯加減だった。

すっかり気分のくつろいだ俺は 岩の縁に腕を置いて顎を凭せ掛け 景色を楽しみながら思いつく限りの小唄を口ずさんでいた。
何処からか金木犀の甘い香りが漂ってくる。
チャポンという音が聞こえ、
「いいお声だ。」と、背後から話しかけられた。
何時の間に入ってきたのか 見れば短身痩躯の美しい若者が 湯に浸かっていた。
チラッと脱衣場代わりの岩場に目をやると 長い段平が立てかけてある。
剣客か?
この身体じゃ あんな重たげな物を腰に差すと ふらついて真っ直ぐ歩けめぇ。
そう思わせるほど華奢な体つきをしているが よく見ると透けるような薄い肌の下には 鍛え抜かれて引き絞られた無駄のない筋肉がひっそりと息づいている。
先程のまったく気配を悟らせない足運びといい、余程の腕の持ち主であると俺はふんだ。
「お侍さん、あんたも湯治か?」
「いや、拙者は旅の途中に此処にいい湯があると聞いたもので 物珍しさに寄ってみただけでござる。」
「旅って何処へ行くんだい?」
「当てはござらん。」
「当てもなく旅してんのかい?」
「人を捜して居るのでな。その尋ね人が何処に居るものやら・・・」
「尋ね人? 仇か何かか?」
「いや、そんな物騒なものではござらんよ。昔世話になった主君筋に当たるお人に会いたくて 旅を続けておるのでござるよ。」
「何で離れちまったんだい?」
「戦で・・・」
ああ、ということは先の西南戦争か?薩摩の人間にしては訛りがない。と言うことは政府軍か? 俺はそんなことを頭の中で巡らしながら 暇つぶしに色々尋ねてみた。
「へぇ〜、良かったらその尋ね人の人相でも聞かせてくんねぇか? 俺に心当たりが無いとも限らねぇ。 おっと、紹介がまだだったな。俺は相楽左之助。この通り腕に怪我をして 此処の湯が効くって勧められて湯治に来てんだ。」
「これは・・・こちらこそ失礼した。緋村剣心と申す。」
「んで、そのお人ってぇのは 若いのか?」
「ああ、年の頃なら二十歳ぐらい、色は浅黒く眉目の整った御仁でござるよ。」
「ふ〜〜ん、背は高ぇのか?」
「丁度お主位でござるよ。そう言えば、お主は似ているでござるな。」
「よせやい! 若君様って柄でもねぇぜ。こっちは根っからの柄っぱちでぇ。
んで、何処で離ればなれに成っちまったんだい? 田原坂辺りか?」
「田原坂というと九州でござるな? ああ、お主は勘違いをして居る。西南戦争ではござらぬよ。」
と言うことは 鳥羽伏見の戦いか? えれぇガキの頃じゃねぇかよ。そんな前に離れちまったんなら お互い顔の見分けもつきやしねぇだろ。聞くだけ無駄だな、これは・・・そう思った俺は適当に相づちを打ちながら、素早く話題を転じた。
「んで、緋村さん。」
「剣心で構わぬよ。」
「じゃぁ、剣心。いつまで此処にいるんだい? 急ぐ旅じゃねぇんなら俺も退屈してるもんだからよ、ゆっくり酒でもどうでぇ?」
「これはかたじけない。だが、今日は宿に食事を頼んで居るので もし明日で良ければお相手いたそう。」
「おうっ、じゃぁ明日、俺の泊まってる所に来いよ。知り合いの別荘に世話になってんだけどよ、そこの爺さんがえらく旨い魚を食わせるんだ。それを肴に一杯やろうぜ。」
「それは楽しみなことでござるな。それでは遠慮無くお邪魔させて頂くとしよう。」
「ああ、遠慮なんかいらねぇぜ。俺しか居ねぇんだしな。」
いい遊び相手が見つかったと俺は悦に入って 帰り着くと早々と茂平に明日の料理を頼んだ。

「早速出会われましたか?」
「ははは・・・まぁ、綺麗な剣客には違いねぇが 若武者じゃねぇよ。それに色気なんかも無かったぜ。だいたいこのご時世に狐が出る方がどうかしてらぁ。」
「ははは・・・まったくその通りで・・・噂ほど当てにならない物はございやせんからねぇ・・・」
俺の言葉に相づちを打ちながら、茂平は右手の山を指さした。
「あそこに見えるあの山の頂に 城がありましてね。今はもう、石垣しか残っちゃいませんが、その昔、東谷様というお館様が住んでいらっしゃったんだそうですよ。
何でも仁政のお人だったそうで 領民からも大層慕われておいでだったってぇことで。東谷様がこの地を治めていらっしゃる間は 人々は平和で町も栄えたそうなんですがね。何時の時代もそうなんですが 時の移ろいには逆らえず、足利様の威勢が衰えて 北条様や今川様が権力争いをするようになると この地も戦渦に巻き込まれ、落城してしまったそうなんですよ。
その東谷様のお抱えの侍の中に 大層美しい剣の使い手が居たそうでね。
一説によると狐ではなく その侍が城を守れなかった無念に彷徨い歩くのではないかと、そう言う風に言う者もいましてね。まぁ、いずれにしても真意の程は定かではございませんので。」
「へぇ・・・戦国時代からと言うとざっと400年だな。 そんなにも長い間無念に思ってるなんざぁ、余程律儀な野郎だぜ。いずれにしろ、剣心には足もちゃんと生えてりゃ、尻尾もねぇからよ、狐狸幽霊の類じゃねぇよ。」
「ご尤もで。それでは、明日はとっておきの肴を用意しておきましょう。」
「ああ、頼むぜ、爺さん。」
久しぶりに楽しい酒が飲めると思うと俺は上機嫌になって 茂平の背中を励ますようにどんどんと叩いてやった。


翌日、約束通り剣心は湯に来ていた。二人でゆっくりと湯に浸かり、ほどよく温まった所で 大和屋の別荘へと引き上げた。
茂平が約束してくれたように 酒の肴は充分すぎるほど用意をしてくれ、また、酒は灘の下り物を出してくれた。
旨い肴と旨い酒にたらふく食べ、飲み、語り明かした。
夜も更けようとした頃、泊まっていけという俺の誘いを断って 無断であけると宿がうるさいからと 明日もまた逢う約束をして帰っていった。


次の日は剣心が昨日の礼だと言って 町の居酒屋で奢ってくれた。
話を聞けば、今泊まっている旅籠の待遇は余り良くないらしい。それなら、別荘へ来いよと誘ってみたが 
「旅から旅をしてると いつものことでござるよ。 慣れているのでいっこうに構わぬ。」
そう言って断られた。
だが、俺と話すのは剣心も楽しいらしく、しばらくはこの町にとどまっても良いと言ってくれた。
どことなく穏やかで優しげなこの剣客を 俺はすっかり気に入ってしまった。


一度は断られたものの その翌日には非常に言いにくそうにしながら 別荘へ泊めてくれぬかと聞いてきた。俺はもちろん喜んで承諾したが その理由というのを聞いて腹を抱えて笑っちまった。
待遇は悪いなりにも 一部屋を与えられ気楽に過ごしていたそうだ。が、客が立て込み余儀なく相部屋を頼まれた。そういう事もままあることで 剣心は快く承諾した。一緒になったのは夫婦者で 二人でこの箱根の温泉に浸かりに来たと言うことだった。
「ところがでござる。この二人は子宝を授かる為に 箱根の湯がいいと聞いてやって来たそうで、昼間はゆっくり湯に浸かり、その効能を試す為に夜になると衝立一枚で区切った部屋の向こうで 事を始めるのでござるよ。始めは拙者に気を遣って なるべく音を立てぬようにしているのでござるが そのうちに二人の世界に没頭するのでござろうなぁ。アラレもない声が響いてきて。それが一晩中でござるから どうにもやりきれぬよ。」
顔を赤らめながら 俺に向かって溜息を吐いて見せた。
「じゃあ、剣心は 一晩中聞きたくもねぇその声を聞いていたってぇわけだ。そりゃ、災難だったなぁ。」
笑いが止まらぬまま 俺が慰めてやると、
「一晩だけなら拙者もまだ我慢が出来るが どうも宿の方が空く様子もなくてなぁ・・・今夜もとなるとどうにも・・・」
「ははは・・・・かまわねぇって。最初から誘ったのは俺のほうだしよ。二人でゆっくり酒でも酌み交わそうや。俺も退屈しねぇでいいしな。」
「済まぬ。それでは造作になるが。」
「いいって事よ。」
こうして、剣心は俺の泊まる大和屋の別荘にやってきた。
部屋も数多く空いているので 好きな所を使うように勧めると、
「それでは余計に気づまりだ。良ければお主の部屋に泊めてくれぬか?」
「なんだ? お前も広い所は苦手か? 俺と一緒で貧乏性が身に付いてやがるぜ。」
俺の言葉にははは、と笑いよろしく頼むと頭を下げた。
それからは二人で湯に出かけたり、将棋をしたりと何とも穏やかな日々を過ごした。



ある日のこと、暇を持て余した俺たち二人は 山へと紅葉狩りに出かけた。
色づく紅葉は美しく 四季のありがたさを実感させる。こそっ、こそっ、っと落ち葉を踏んで雑木の中に分け入ると 栗や松茸が目に付く。
「こいつを摘んで帰ってやりゃぁ、茂平が喜ぶぜ。」
「茂平よりも肴にするお主が喜ぶのであろう?」
「ははは・・・ちげぇねぇ。」
そんな軽口を叩いていると 突然剣心が前方を見つめながら
「左之!雉は好きか?」
と聞いてきた。
笹の藪の向こうに 茶色の羽が蠢くのが微かに見えた。
「ああ、旨いな、アレは・・・」
そう答えたものの、逃げ出す雉を捕まえるなんて到底不可能だ。鉄砲でもありゃ別だが・・・俺たちの気配に気づいた雉は さっさと藪の奥へと姿を消した。その途端に ひゅっと言う音がして前方の藪の中で 鳥の最後の嘶く声を聞いた。
声のした方へ分け入っていくと 急所を見事に貫かれた雉が藪の中で横たわっている。首を掴んで持ち上げた雉から 静かに小柄を抜き取りながら
「左之、今日はごちそうだな。」
にっこりと剣心が微笑んだ。


何てぇ奴だ・・・小柄を投げた時には もうすっかり雉の姿は見えなくなっていたし、随分な距離がある。それを気配だけで それも急所をしとめるなんざぁ、並の奴らに出来る技じゃねぇ。
ごちそうよりもすっかり剣心の腕前に面食らってしまい、僅かに頷くだけで精一杯だった。


雉を見せると茂平は喜び、その日は豪華な鍋に仕立ててくれた。
熱々の鍋に舌鼓を打ちながら 俺が剣心の腕前を褒めちぎると
「まぐれでござるよ。次はそうそう上手くいくとは限らんよ。」
頭に手をやり、しきりと照れている。
しかし、それがまぐれでないことに それから数日後、二人で出かけた山の中でイノシシに遭遇し、突然に俺の方へと向かって走り出してきたイノシシを 見事一撃で剣心がしとめてしまった。
その居合いの技は 目にも止まらぬ早さという形容だけでは言い難いほど 早く切れ味の鋭いものだった。
「すげぇな。お前・・・」
言葉を失った俺に 
「少し抜刀術をかじったものなら 誰でもこれ位のことは出来るでござるよ。」
日常のごく何でもないことのように 剣心は平然と言ってのける。
その優しげな姿に似合わぬ非凡な手練・・・と、相反するものを併せ持つ剣心に俺は次第に強く惹かれていった。



その日はどういう訳か剣心は元結いを上手く結わえることが出来ずに四苦八苦していた。
湯上がりの髪を手ぬぐいで拭い、櫛で梳いていたが 一纏めにすると髪を結わえ始めた。俺は酒を飲みながらその様子を眺めていた。だが、何時も手慣れた様子でさっと纏めてしまうのに その日に限って何度やってもばらけてしまい 剣心もいい加減うんざりした表情を見せていた。俺は笑いながら暫くその様子を眺めていたが、あまりに難儀しているようなので声を掛けてやった。
「こっち来ねぇ。俺が結わえてやっからよ。」
「左之が? そんなことが出来るのか?」
「これでも案外手先は器用なんだぜ。いいから任せてみねぇ。」
俺の言葉に素直に頷くと すっくと立ち上がり俺の前にすとんと腰を下ろした。
剣心から櫛を受けとり、その髪を少しずつ梳かし始めた。櫛をひとつ入れる事にほのかに金木犀の香りが漂う。
「いい匂いだな。なんか髪に付けてんのか?」
「いや、何も付けてはおらぬよ。きっと、庭に咲き誇る花が此処まで香りを運ぶのでござろう。」

開け放した障子の外には 月明かりの中に黄金色の花が小さく輝いている。

だが、確かに剣心の髪を梳くたびに 甘い香りが鼻先に漂ってくる。その香りに酔いしれ、陶然とした思いに溶け込みそうになりながら、俺は髪を梳いていた。
髪を一纏めに手に持つと 剣心の白い項が露わになった。
その途端、金木犀の香りがさらに強く漂った。
目眩にも似た錯覚に引き込まれそうになりなりがら、俺は理性と必死に戦っていた。


随分長い間そうしていたように思う・・・・・

握った指から髪が零れ、零れた髪は線を引き、白い項で俺を誘うように揺れている。
気が付けば俺は剣心の項に唇を寄せていた。
「綺麗だ。」
俺の言葉に一瞬剣心は身を固くしたが、振り払うようなことはしなかった。俺は項を味わい、その耳元に囁いた。
「好きだ、剣心。」
剣心の反応が気になったが、何も言わず、ただ俺のやりたいようにさせている。俺の指は剣心の髪の中に潜り 小さな頭を撫でている。そして、少し力を入れて剣心の顔を振り向かせた。振り向いた剣心の瞳は閉じられ、蕾のような唇は ほんの少しだけ開かれている。俺は静かに剣心の唇に俺の唇を合わせた。小さく柔らかい唇は俺の中に吸い込まれ、黙って俺の愛撫を受けている。やがて少し開かれた唇の奥まで探って、俺は剣心の舌を絡め取った。


金木犀の香りが 辺り一面に漂っている・・・・・

俺は剣心に口づけながら俺自身が酔いしれていた。
「俺の物になりねぇ、剣心。お前ぇが欲しい。」
俺の囁きに僅かに頷いたように思えた。いや、思い違いかも知れねぇ。だが、剣心は抗うことなく静かに俺に抱かれている。
俺はそれを了承と受け取ることにした。


体の向きを変えて静かに剣心を褥に横たえた。もう一度剣心に口づけながら俺の手は 首筋から剣心の浴衣をくつろげた。淡い行灯の灯りの中に白い肩が露わになり、胸には赤い蕾が息づいている。俺の唇は剣心の額を探り、頬に耳朶にと口づけの雨を降らす。その間にも手は剣心の肩を滑り、薄い皮膚に覆われた無駄のない筋肉のひとつひとつをなぞっていく。
そっと背中に手を回し、首筋からつーっと少しばかり爪を立てた。
「ヒッ。」
剣心の唇から 小さな声が漏れた。声と聞いたのは俺の錯覚かもしれねぇ。剣心の唇は固く結ばれ、瞳も苦痛に耐えるかのように閉じられている。だが、影を落とす長い睫が 薄い瞼の上で時折ひくひくと蠢いている。

俺は剣心の声が聞きたくなった。
耳の中に息を吹き込み、熱い吐息と共に呟く。
「ここは?・・・・感じてるんだろ?」
剣心の身体が僅かばかり跳ねた。
背中に回した手に力を入れて剣心の身体を俯かせると 俺は執拗にその白い背中を責め立てた。
閉じた唇から息が漏れる。
舌と指で背中を舐め挙げ、時折爪を立てて線を引く。快感と僅かの痛みが より大きな快楽をもたらすようだ。
また剣心の唇から小さな声が漏れた。
腰に纏い付いている浴衣の紐が邪魔だ。
剣心の細い腕を上げさせて 脇から腹へと時には強く時には優しく俺は口づけていく。
俺の指先は剣心の胸の蕾を捕らえた。そっと触れると反応を返し、すぐに固く立ち上がった。触れるような触れないようなそんな愛撫を繰り返す。剣心がじれる頃、俺は唇で吸い上げた。
「あっ。」
今度ははっきりと声が漏れた。
その反応に気をよくした俺は さらに剣心を高みへと引き上げるべく愛撫を繰り返す。やがて俺は剣心の足の指から頭の先まで全てに口づけていた。


剣心の温もりをもっと肌で感じたくなり 俺は体を起こし着ていた半纏を脱ぎ捨てた。その拍子に剣心が身を起こし、俺の胸に腕を絡ませるとするりと俺を組み敷いた。
先ほどまでは初な生娘のように 黙って俺のすることに耐えていたような素振りなのに 俺を上から見つめ返す瞳は艶然と輝いている。

「俺の番だ、左之助・・・・」
その言葉と共に剣心の唇が降ってきた。
重ねた肌にさらりとした剣心の肌の感触が伝わる。
揺れる緋色の髪が俺の身体を擽る。
唇から零れ出たちろちろと蠢く赤い舌が 俺の項から鎖骨の辺りを這う。
すっかり裸に剥いてしまい、露わになった剣心自身が 剣心が動くたびに俺の腹に当たり突っぱねる。女にはない感触に俺は剣心の男を意識した。
なのに俺の心は 剣心を求めて止まない。


剣心の唇が触れるたびに そこから官能の渦が巻き起こり俺の頭の芯を焼く。
肌を合わせた女の中には俺の身体に触れるヤツもいたが くすぐったいばかりで
(少しは気持ち良かったんだが)こんな感覚は味わったことがねぇ。
体中の感覚を集める媚薬があるとすれば 使えばこんな感じだろうか。
男の俺でさえ 声が漏れそうになる。
剣心の唇が俺の腹をなぞる時、細い指先はようやく俺を 下帯から解放してくれた。
猛り狂わんばかりの俺をあやすように 蜜を溢れさす先の括れに舌を這わす。形をなぞるかのような唇の動きは 俺に狂えと囁いている。
剣心の小さな頭が 俺の腹の上で上下するたびに、金木犀の香りが鼻を突く。
悦楽の先を求めて俺自身は緊張した。
「やめろ・・・けん・・し・ん」
俺の願いはまったく無視して さらに唇の動きが早くなる。俺は剣心の口の中に俺の人差し指を差し入れた。剣心が俺の指に興味を引かれた拍子に 俺を引き抜き体を起こすと共に 剣心の腰を抱かえ込んだ。


双丘の奥に潜む小さな生き物を捕らえて 舌を這わせた。充分に濡らして指を差し入れる。身体を強ばらせた剣心の喉から小さな悲鳴が漏れた。
苦痛から解放してやりたくて左の手を剣心へ滑らす。強く弱く引き上げ、追い落とす。苦痛と快楽がない交ぜになって 褥を掴む指が小さく戦慄いている。
もうこれ以上は我慢出来ねぇ。俺の中に潜む野生は剣心を強く求めている。
「入れていいか?」
囁いた俺の問いに答えるかのように ゆるゆると開かれた目が 俺をじっと見つめる。
くるりと体の向きを変えると 華奢な剣心の腕が動き、俺の両頬を挟んだ。俺と視線がぶつかると小さな口が開かれ言葉を零した。
「左之助・・・・・・ずっとこの時を待っていた・・・・・」
俺はそれは剣心が俺と同じような気持ちを持ち、待ち望んでいたのだと受け止めた。


剣心の中に身を沈めてしまうと その小さな身体を痛めつけているようで、俺の良心は酷く咎めた。よほど辛いのか俺の肩に置かれていた手が 爪をむき出しにする。美しい眉根は寄り、瞳は固く閉じられている。じっと息を堪えて、苦痛をやり過ごす様は 淡い火影に彩られていっそ凄艶に見える。
閉じられた唇は 時折快楽と苦痛の合間に開かれ カチッ、カチッと奥歯を噛む音がする。
「堪えてねぇで啼けよ。」
俺の言葉も聞こえねぇ振りで 固く口を結んでいる。
剣心の唇は閉ざされたまま・・・
さらに奥へと穿つ俺の動きに 剣心の甘い啼き声が俺の胸の中に響いた。
どういうのだ?
剣心は唇を結んだまま一言も発していない。なのに今俺が聞いた啼き声は 紛れもなく剣心の声・・・
俺の動きに合わせて 甘く狂おしく剣心の啼き声が 俺の胸に響く・・・
なのに、眼下の剣心は ただ唇を結んで時折噛みしめた歯の隙間から息を零すだけだ。
甘い香りに酔いしれて聞こえる幻聴なのか・・・


褥に散った細い髪が 絹の糸のように柔らかな光沢を描き、揺れる。
ふと気づくと 小さな黄金色の花が舞、揺れて、落ちていく・・・
剣心の啼き声と共に数を増し、桃源の香りをまき散らす。
夢か幻か・・・
繋がった身体の熱さだけが 俺に真実を伝えるようだ。
「左之・・・・左之・・・・」
俺の胸の中に響く剣心の声・・・・
切なく懐かしい響きが胸一杯に広がって 忘れていた何かを思い出させようとする。
愛しさと切なさがない交ぜて 剣心に口づけて抱きしめる。俺の背中へと手を回しあらん限りの力でしがみついてくる。
花の乱舞が二人を包み、咽せるような香りに意識も薄れかけ、剣心の爪が深く肌に食い込んだ時、底のない快楽の海へと落ちていった。



それからの俺は離れに引きこもり、狂気と正気の狭間で剣心を抱いた。
二人で過ごす時間は 甘くこの身を溶かす。
剣心の唇は何時も俺を 夢の世界へと誘う。
ある時、俺はあまりの心地よさに剣心に尋ねた。
「そんな愛し方を誰に教わったんだ?」
俺の身体に這わせていた舌を止め、何を今更といった表情で 俺を見つめた。
「お前が俺に教えたんじゃないか。他の者には興味はないよ。」
「俺が?」
そんな筈はねぇ。初めて共に過ごした時から 剣心はもう既に俺を夢心地にさせていた。理由がわからねぇとは思ったが、他の者の名前など聞きたくもない俺には その答えで充分だった。
朝と言わず夜と言わず 俺は剣心をこの腕に抱きしめた。
俺は剣心の身体に幾つもの紫の花を咲かせた。
二人の身がひとつに重なる時、その花は薄赤く色づき、褥に舞う黄金色の小さな花に彩られ、艶美な色を刷いた。



そうして過ごすうちに秋は次第に深まっていった。
どういう理由か俺は一日の大半を寝て過ごすことが多くなり、そのころから剣心は朝目覚めるともう何処かに出かけていて 日が暮れてから戻るようになった。戻ってきた時には何時も 黄金色の花が幾つか髪に付いていた。
「何処に行っていたんだ?」
「尋ね人の消息を聞きに・・・」
剣心の答えに嘘の匂いを嗅いだが、そんなことを問い返させないほど剣心の俺に対する真摯な気持ちが伝わってくる。
剣心の居ない間、俺は眠り、剣心が戻ると語らい、愛し合い、微睡む。そんな繰り返しだった。


時折茂平が障子の外から声を掛け、食事を取るように促していく。寝惚けながら生半可な返事で過ごす俺に ある時茂平がとうとう声を荒げて俺に説教した。
「いったいどうしたと言うんです? この頃はいつも部屋に引きこもり、食事もろくに取らないで・・・」
「眠いんだよ・・・」
「左之助さん・・・山の湯に出かけてから なんだかあんたは様子が変ですよ。元気に一人で山へ出かけていったかと思ったら、雉やイノシシを持ち帰り、二人分の食事の用意をさせたり、そうかと思うと今度は部屋から出てこない。こんな事を言っちゃ失礼かと思って黙ってましたがね。」

一人で? 茂平は何を言ってるんだ? 剣心と一緒にいたじゃねぇか・・・
お前だって剣心と話してたじゃねぇか・・・

「変? 俺の何処が変だと言うんだい? お前の方こそ 呆けてるんじゃねぇのか? ああ、もう放っておいてくんな、なんだかとても眠いんだ。もう一眠りするからよ。」
「食事はちゃんと取って下さいよ。あんたに何かあったら 旦那様になんと言われることやら・・・」
話を打ち切る俺に 茂平は渋々引き上げていった。

剣心の心を揺さぶるようなあの時の声が 茂平にも聞こえないはずはあるめぇ。
あのじじい、知ってて知らない振りを決め込んでやがる。それで俺を変人扱いしやがって・・・
俺はそう決めつけ、頭から布団をかぶると また夢の続きを貪った。



俺は夜、剣心が戻ると昼間の茂平とのやり取りを 話して聞かせた。
「茂平の奴ぁ寝惚けてやがるんだぜ。お前がここに来てもう長いというのに まるでお前のことなんか知らないような素振りなんだぜ。これだから、年寄りってぇのはよ・・・」
「そうか・・・・」
何故か暗い表情で剣心は 頷いただけだった。俺と一緒に笑い飛ばすと ついぞ決めつけていたのに 意外な剣心の受け答えに当てが外れる思いだったが、なおも俺は言いつのった。
「あげくに俺を変人扱いしやがった。完全にいかれちまってるぜ、あの爺さん。」
「いや・・・・茂平は正気だろうよ・・・・」
「何言ってんでぇ、おかしいぜ、剣心。」
改めて剣心の顔を覗き込む・・・
苦渋の色を刷いた横顔を見せ、逡巡の後、何かを思いきるような深い溜息を吐いた。
「左之・・・・・お別れだ・・・・」
俺は頭から冷や水を浴びせられたように青ざめ、剣心の言葉に戸惑った。
「何だよ!いきなり、冗談にも程があるぜ。」
「冗談なんかじゃない・・・・本当のことだ・・・・」
「どうしたんだよ、一体・・・お前が尋ねていた主が見つかったのかよ? それで俺を置いていくのか?」
「違う・・・・違うんだ・・・」
「じゃあ、どう言う事なんだよ? 俺が邪魔になったんじゃないって言うのなら・・」
「俺はもう行かなきゃならないんだ・・・」
「何処へ?」
「・・・・・・」
「何処へ行くって言うんだよ。何でお前は一人で行っちまうんだよ? もう俺に愛想が尽きたのか? 言ってくれよ、剣心。」


理由の分からない俺は取り乱し 剣心を抱きしめ問いつめる。
苦しいほどの俺の腕の中で息を継ぎ やっと言葉を絞り出した。

「何で、何でお前に愛想が尽きようものか・・・・待って、待って、こんなに待ってやっと巡り会えたというのに・・・・」
「どういう事だよ? 俺をずっと待っていたというのか?」
「ああ・・・・・これを言えばお前は俺を疎むだろう・・・・俺と過ごした日々でさえ お前には忌まわしいものになるだろう・・・」
あらぬ方向をじっと見つめ、静かに呟くように語る。剣心の透けるような肌は 青みがかって今にも消えそうに儚く見える。
この腕をほどけば 剣心が霞みと化して本当に消えてしまいそうで さらに強く抱きしめた。
「何言ってるんだよ、剣心。何で俺がお前を疎む? 何があったとしても変わりゃしねえよ、俺の気持ちは。」
俺の言葉に意を決したのか 何かを諦めるような口調で語り出した。
「左之・・・・・茂平の言うとおりなんだよ。俺はこの世にいない・・・・」
「な・・に・馬鹿なこと言ってんだ? こうして今俺の目の前にいるじゃねぇかよ?気がおかしくなっちまったのか?」
「いや・・・本当の事だ・・・・・俺は400年前に死んだ・・・」
「死んだ?・・・・馬鹿も休み休み言えよ。」
とても信じられない話に 俺は剣心が本当に気がふれたのかと心配になった。


「今から400年ほど前のことだ。この国の至る所で戦渦が巻き起こり 戦のない日はなく、戦火に焼かれない地はなかった。そんな中でこの地は平和で人々の安息の場所とも言えた。この国を治める東谷様から剣の腕を請われた時も そのお人柄に惹かれ、俺は随身した。そして、侍大将の相楽殿の息子として足軽大将を務めるお前と出会った。俺たちはすぐに打ち解け、そのうちにお互いが無くてはならない存在になった。だが、幸せな時も長くは続かず、やがて、北条氏と今川氏の軋轢が激しくなるにつれ、この国も戦渦に巻き込まれていった。戦局は悪くなる一方で、頼みの武田からの援軍もやっては来なかった。そして、いよいよ明日は落城と決まった時、俺はお館様に呼びだされた。」

剣心の話は俺の知らない俺の過去を語っていた。
「お館様はお前の出生の秘密を俺に打ち明けた。
『緋村よ、お主に頼みがある。』
『はっ、何でござりましょうや?』
『明日はいよいよ落城と決まった。だがお主には もう一働きしてもらわねばならぬ。』
『御意。して、どのような事を?』
『相楽の倅、左之助を連れて逃げてくれい。』
『これはまた異な事を。』
『お主が不思議に思うのも仕方のないこと。左之助はわしが側妾に生ませた子じゃよ。北の政所の悋気が強うて、生まれてすぐ相楽に養子に出した。わしの願いを聞いて、強く立派な若者に育ててくれた。これまで親らしいことは何一つしてやれなんだ。じゃが、相楽の倅としてなら、この城から逃げ出しても何の不都合もあるまい。死なすのは余りにも忍びないのじゃ。察してくれい。』
『しかしお館様、あの義侠心の強い左之助・・若君様がお館様や部下を放って逃げるとは思えませぬ。』
『いかにも。そこでお主に一計を案じて欲しいのじゃよ。』
『わかり申した。お館様、この一命に代えてもお守りいたしましょう。』
『明日の朝、夜明けと共に敵勢は攻めて来るであろう。そして、城門が破られるのも時間の問題であろう。敵勢を充分に城へと入り込ませた所で 弾薬庫に火を放つ。その機に乗じて城を脱出せよ。難しいであろうが千載一遇の機会を逃すでないぞ。』
『御意。』
そして俺はお館様の元を下がると お館様に背格好のよく似た一人の足軽に声を掛けた。銭を握らせて 明日逃がしてやるから頬被りをして お館様の影武者を務めるようにと命じた。そしてお前にはお館様を極秘で脱出させるから 手伝えと言った。
翌日、夜明けと共に鬨の声が上がった。俺たち3人は城門の陰に潜み、時を待った。そして門は破られ、数え切れぬほどの敵勢が雪崩れ込んだ。俺とお前で切り伏せ、門へと進んだ。そして、城門も目の前という時、敵に囲まれた影武者が恐怖の余り声を張り上げたんだ。それでお前は偽物だと気づいてしまった。
『お館様はまだ城の中にいる。俺が行って助けてくるぜ。』
お前はそう言って俺が止めるのも聞かず、城へと戻っていった。並み居る敵を切り伏せながら、城の前にいるお前に追いついた時、轟音と共に城壁が崩れたんだ。
俺はとっさにお前を突き飛ばした。崩れる城壁に身体を叩かれながら、お前が俺の名を呼ぶのが聞こえた。

お前が助かったのか、共に倒れたのか、そのまま身を焼かれた俺には分からなかった。
気が付けば、俺の身体は消え、想いだけが金木犀の側に立っていた。
そして、黄泉の国へと渡る行列を眺めながら、お前が来るのを待っていた。


秋が過ぎ、冬が来て、春が巡ってもお前は来なかった。俺はずっと待ち続けた。そして、何時しか100年の時が過ぎた。金木犀は枯れ、その根からまた新しい芽が息吹、花を咲かせた。そしてある日、金木犀が俺に語りかけたんだ。秋の花の季節にだけ、お前と出会うために力を貸してやると。この香りの届く所では 俺は仮初めの姿で居られる。
そして俺は山を降りた。麓に湧く湯に旅人が浸かりに来ることを俺は知った。いつかお前も尋ねて来るのではないかと思い、俺はそこで待つことにした。来る日も来る日も待ち続け、300年の時を経て、そしてようやくお前に巡り会えた。
俺は旅の侍になりすまし、お前を騙した。茂平には実際見えない俺を さも見えているように花の力を借りて幻を見せた。花の季節が終わりに近づくに連れ、幻も薄れていく。もう、花の季節は終わりだ。
俺は山へと帰らなければならない。だから・・・・
左之、楽しかったよ・・・・・」
「待てよ! 勝手に一人で行っちまうなよ。 お前が居なくなったら、俺はどうすりゃいいんだよ? 此処で一人で待つのか? そんなことは御免だぜ。」
「だけど、左之・・・お前を連れては行けない・・・」
「お前が幽霊だろうが妖怪だろうが そんなことはどっちだってかまやしない。俺にとって必要なのはお前なんだからよ。お前が連れて行かなくても 俺はお前から離れやしねぇぜ。」
「左之・・・・・・」
今にも泣きそうな顔をして、濡れた瞳で俺を見つめる。
こんなにも愛しい存在が 俺の目の前から消えるなんて。
どう足掻いたって逆らえない運命ならば、俺は剣心と共にこの世から消えることを望む。

床の間に目をやると 剣心が携えていた刀が 重々しく立てかけられている。行灯の光を浴びて、黒塗りの鞘が鈍い光をはね返す。
俺はつと立ち上がり その横に置かれた脇差しを取り上げた。
剣心の向かいに改めて座り直し、しっかりと眼を見据えて脇差しを手渡した。
「その刃で俺の此処を突けよ。」
親指でとんと左胸を指し示す。
「ほら、そんな顔すんなよ。お前と一緒に居れることの方が俺は嬉しいんだぜ。」
相手を元気づけるように笑顔を見せる俺に 剣心は俯いて頭(かぶり)を振るばかりだ。
「400年前の俺が お前と離れた後どうしたかは俺は知らない。だけど今の俺はお前とは離れられねぇよ。なっ、剣心、連れて行ってくんな。」
「左之・・・」
剣心の唇は小さく震え、後の言葉も紡ぎ出せない。だけど俺には剣心の言いたいことが 手に取るように理解できた。
「今度こそ、もう離れねぇぜ。」
剣心の手を取り脇差しの柄を握らせる。そして、俺はそのまま鞘に手を掛け、刃に沿って滑らせた。抜き身の刃が妖しい光を煌めかせる。
刃の先が俺の胸に当たるように身体の位置を合わせ、剣心の背中と頭に手を回した。
「お前のことだ、仕損じることはあるめぇ? 何も考えずそのまま力を入れてくんな。」
「左之、左之・・・」
「もう何も言うなよ、これからはずっと一緒だぜ。」
剣心の唇に口づけて、俺は抱きしめる腕に力を入れた。
冷たい刃が肌に当たり、焼けるような痛みが俺を襲った。体の中をえぐる冷たく熱い感触を 剣心と同じ場所で生きて行けるという思いに支えられ耐えた。そして、次第に意識も薄れていった。
失う意識の中で、燃え上がる城郭と 崩れ落ちる城壁が剣心を襲う情景が見えた。
声を限りに叫ぶ俺。
・・・・・・ああ、そうだ、確かに俺は400年前にも剣心を愛していた。
昔もそして今も。
そう思ったのが俺の最後の記憶だった。




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