130Rの向こう側】〈前編 2.3
                            《後編



灰色の部屋にキーを叩く音がこだまする。
モニターに映し出される無機質な文字。
プログラム言語だろうか、アルファベットや数字が、不規則に並んでいる。
エンターキーを叩くと、しばらくモニターを見つめる。
「ちっ、また間違えた。」
軽く舌打ちすると、テーブルの上のラークへと手を伸ばし、細くしなやかな指が、タバコを1本つまみ出した。
形の良い唇にくわえ、火をつける。
紫の煙を吐き出すと、目を閉じて、椅子の背に身体を預けてしまった。

本当にどうかしている。
何度めかの言葉を口にする。
ツーリングから戻ってからの日々、剣心はいつもと違う自分に戸惑っていた。
こんな筈ではなかったと。

鳴るはずのない電話を見つめ、架ける当てのない番号を捜す。
何故、聞いておかなかったのだろうか。
何故、もう会えなくてもいいと思えたのだろうか。
何故、自分の気持ちを偽ったのだろうか。
何故・・

もっと大人の筈だった。

すぐにいい思い出になる。
何故、そんな事が思えたのだろう。

こんなに心が泣いている。
自分の思い通りにはならずに。

一人で眠る夜が怖い。
寂しさに心がくじけそうになる。
俺は、こんなにも弱い人間だったのか。
知らない自分に嫌悪が走る。

普段はしない同僚とのつきあいにも、何度か顔を出した。
一人ではいたくない、そんな思いから。
誰かと居れば、気が紛れるのではないかと。
しかし、心は埋まらない。
誰かと居ても、孤独を感じる。
誰かが居ない。
何かが足りない。

左之助。

答えはとうに知っていた。

月岡に電話番号を聞けば…
何度もそう思う。

あいつは、何も聞かなかった。
あいつは何も教えなかった。
何しに来たと問われれば、何と答えればいいのだろう。
いい大人のくせに 遊びの区別も付かないなんて。
未練だな・・・

そして、思う。
本当に、どうかしている、と。


「緋村さん。お昼ですよ。行かないんですか?」
同僚の一人が声を掛けてきた。
時計を見ると12時を過ぎている。
随分ぼぅっとしていたらしい。
「ああ。ありがとう。ちょっとミスってしまったので 修正してから出る事にするよ。」
「そうですか。じゃあ、お先に。」
笑顔を残すと、他のメンバーと共に部屋を出て行った。

食欲も湧かない自分が情けなくなる。
いったいどうしてしまったというのだろうか。
取り留めのない思いにとらわれながら、間違えた場所を探す。
再び、プログラムに向かった時、メールを受信したと コンピューターが知らせた。
誰からだろう?
この時間ならみんなお昼に出ているはずだ。
気むずかしいクライアントでなければいいが。
メーラーを起ち上げてみる。
映し出された文字は、
「お前に会いにゆく。」
配信先のアドレスを見ても、見知らぬ相手だ。
Suzuki07xx@‥‥‥
いったい誰だというのだろう。
もしかしたら・・・
甘い期待が胸をよぎる。
しかし、すぐに思い返した。
あいつは俺のアドレスを知らない。

誰かが、デートの相手に送るメールを 配信先を間違えて俺に送ってきたのだろう。
そそっかしい奴もいるもんだ。
馬鹿馬鹿しさにそのまま見捨てた。

外の空気でも、吸いに行こう。
食事中のメモをモニターに貼り付け、剣心は、オフィスを後にした。
今日も暑い。
毎年の事ながら、京都の夏にはうんざりする。
盆地になっているこの土地は 温度も湿度も高い。
焼かれたアスファルトの熱が、足下から立ち上ってくる。
あまりの暑さに 近くのコーヒーショップに飛び込んだ。
ホットドッグとアイスコーヒーを盆に乗せ、窓際の空いているテーブルへと腰掛ける。
ガラス越しに見つめる青空は、何処かどんよりとしている。
車の排気ガスとコンクリートが溜め込んだ熱で、空が悲鳴を上げているようだ。
あの青とは違う。
信州の空を思い出しながら、剣心は、ホットドッグにかぶりついた。


オフィスに戻ってからは、ミスの修正に夕刻まで追われた。
相当に呆けていたのだろう。
かなりな数の間違いを発見した。

俺も焼きが回ったな。
一人で呟きながら、キーを叩き続ける。
と、また メールの着信の知らせが入った。
配信先は、先ほどの知らない相手だ。
自分の間違いに全然気が付いていないようだ。
やれやれ…そんな思いで、いったい何が書かれている事やらと ダブルクリックして驚いた。
「着いた。五条警察署前。Kawasaki 」
Kawasaki・・・? 左之助・・・?
しかし、何故?
この部屋からだと、西側が望めない。
あわてて、隣の部署へと飛び込み、窓際へ駆け寄った。
警察署の前の歩道に乗り上げている、一台のバイクが目に止まった。
その隣に座り込んでいる人物は、紛れもなかった。
「どうかしたのか?」
上司の問う声にももどかしく、
「すみません。急いでますので。」
と、答えにもならない返事をして 急いで部屋を飛び出した。
エレベーターは 2階で止まっている。
7階のこのフロアーに呼び戻すのも苛立ち 隣の階段を駆け下りた。
こんなに長い階段だったのだろうか。
何度も蹴躓きそうになりながら、やっと1階に辿り着いた。
体当たりするように エントランスのガラスのドアを押し開けて 外へと飛び出した。
大通りの流れる車の向こうに左之助が見える。
植え込みに座っていた左之助も、剣心の姿に気づいたようだった。
ほとんど同時にお互いに手を挙げて、合図を送る。
左之助の満面の笑顔を はっきり見たように思った。
やっと車の流れがとぎれた所で 剣心が向かい側へと駆けていった。
「左之!!」
「いよぅ。」
「どうしたんだ?どうして此処へ?」
「あれ? メール 届かなかったか?」
「やっぱりお前だったんだな? 名前もないから誰か分からなかった。アドレスも、左之助と関係するような物じゃないし。それに、どうして俺のアドレスを知っている?」
立て続けに尋ねる剣心に
「あっ、そうか・・前のバイクがスズキだったもんだからよ。俺メールなんて打った事ねぇからな。普段は、受け専門で。」
そう言いながら、ジーンズの尻ポケットから 剣心の名刺を取り出して、顔の前でひらひらさせた。
「地図の間に挟んでいたろぅ?ちょっと失敬しちまった。」
そう言って、浅黒い肌に白い歯を見せて笑う。
「そうか・・。だったら、電話してくれれば良かったのに・・もし、俺がコンピューターを立ち上げていなかったら 連絡が取れない所だった。どうするつもりだったんだ?」
「えっ? いつも、着信するんじゃねぇのかよ? 俺の携帯は いつでも受けるぜ。」
「それは、携帯電話のメールだろ? その名刺のアドレスは 社でのコンピューター用だ。」
自由な時間まで 会社に縛られたくないと思い、剣心は自分の携帯にメールを転送させていない。
だから、本当に良かったと 心の中で安堵した。
「そうなのか・・まっ、どっちでもいいじゃねぇか。こうして会えたんだしよ。」
「のんきだな…」
なかば呆れながら、
「左之助、腹は空いてないか?」
「うん?ああ。なんかお前の顔見たら、急に腹ぁ減ってきたぜ。」
「じゃあ、あそこのレストランにでも 入っててくれないか? すぐに片づけてくるから。」
100m程先に見えるイタリアレストランを指さした。
「ああ。ゆっくりでかまわねぇぜ。待ってるからよ。」
「じゃあ、あとで。」
踵を返してオフィスへと戻る、その足下がふわふわ浮いて、踊り出したいような気分になった。

時計は5時半を指していた。
もう今は、仕事をする気にもならない。
特に急ぐ仕事も今日はなく、退社しても構わないだろう。
手早く取り散らかしていた私物や資料を片づけ コンピューターの電源を切った。
「今日はもう退けるよ。」
同僚に声を掛ける。
「今日は早いんですね。お疲れ様。」
「ああ。また明日。」
さっさとオフィスを後にした。
1分でも早く左之助の元へ飛んでいきたい、そんな気持ちだった。
レストランでは、早くも一皿目のスパゲティを 左之助は平らげていた。
「お待たせ。」
息せき切って駆けつけた剣心に
「おう。早かったな。大丈夫なのか?仕事は…」
「ああ。特に急ぐものも今日はないから、もう退けてきた。」
「そうか。旨いな、此処のスパゲティはよ。」
そう言って笑う笑顔はあの日のままだった。
「よく来てくれた。此処にはいつまで居られるんだ?」
「うん?ああ。お前の都合のいい限りな。どうせ夏休みでする事もないからよ。」
「じゃあ、夏の間は居られるんだな?」
「構わないのかよ?そんなに長く居ても。」
「ダメだと言っても お前の事だ。居座っているだろう?」
「へへ。まあな。よろしく頼むぜ。」
「ああ。ゆっくりしていけ。」

ふたりの食事が終わると剣心の家へと 左之助を案内した。
「俺は、電車で来ているんだ。だから、タクシーに乗って道案内するから後ろに付いて来い。」
剣心の言葉に腑に落ちないような顔で
「バイクじゃないのかよ?」
と左之助が尋ねた。
「通勤には乗らないさ。第一、会社の奴らは俺がバイクに乗る事さえ知らない。」
「そうなのか・・・」
何か思案するような顔で答えた。


剣心に案内された家は、マンションなどが幾つか建ち並ぶものの 京都らしい静かなたたずまいを今に残している町にあった。
昔ながらの格子戸を残している家も何軒か建っていた。
その町屋のひとつへと案内された。
木の格子の引き戸のある家で 横にはガレージが付いていた。
シャッターの鍵を開け、中にバイクを入れるように促される。
縦に2台分のスペースのある大きなガレージだった。
中には白のパジェロと あの赤いドゥカッティが収まっていた。
ドゥカッティの横にバイクを並べながら、
「このパジェロは お前のなのか?」
左之助は不信気な顔をした。
「ああ。そうだが・・・どうして?」
「なんだか、俺のイメージだと ポルシェかなんかだと勝手に決めちまっていたからよ。」
「そうそう外車にばかり乗るものか。それに、車では飛ばさないからな、ちょうどいいんだよ。」
そう言って、剣心は苦笑した。
よほどの飛ばし屋だと思われていたらしい。
ガレージをそのまま奥へと進むと部屋へと続くドアがあった。
ドアの向こうは、玄関から続く廊下になっていて その奥にはリビングルームとキッチンになっていた。昔の家の良さをそのままに 梁などは見せて吹き抜けのような空間を持たせている。フローリングの床も家具も濃い茶色で統一され、落ち着いた気持ちのいい空間だった。
「へぇ。外から見るのと随分印象が違うんだな。和風は和風だけどよ。なかなかいい部屋じゃねぇか。」
「気に入ってもらえて嬉しいよ。」
「いいセンスだぜ。」
「それを言うなら近所の建築屋に言ってやってくれ。俺は、ガレージがあるから此処に決めたんだが、古い家なんで 適当にリフォームを頼んだのさ。そうしたら、こういう風に出来上がった。」
「俺、お前の事本当に何も知らないんだな。家も車も俺のイメージとは全然違うぜ。」
「どんなイメージだったんだ? もっと汚かったか?」
剣心は、そう言ってクスクス笑っている。
「いいや。その反対さ。高級マンションかなんかに住んで、カマロかフェラーリにでも乗っているのかと思ったぜ。」
「まさか・・・フフフ・・・済まなかったな。貧乏で。」
「いや、安心したぜ。その方が俺も居座りやすい。」
「じゃあ、金持ちだったら しっぽを巻いて逃げ帰ったのか?」
「んなつもりは毛頭ねぇけどよ。ちょっと、コンプレックスというモンを感じるじゃねぇか・・・」
そう言って頭を掻いて笑っている。
「見ての通りの貧乏所帯だが、気の済むまで ゆっくりして行ってくれ。」
「おうよ。心ゆくまで楽しませてもらわぁ。」
いつもは 寂しいくらい静かなこの家も、左之助が居ると温かく感じる。
剣心は住み慣れた家に初めて憩いを感じた。
「最初のメールは東京からか?」
「ああ。家を出るまえに打った。」
「だとすると、相当に飛ばしてきたな? 150Km以上出てただろう?」
「へへ。給油以外はノンストップだぜ。お前が退社しちまわねぇかと気が気じゃなかったからな。」
高速道路だけで500Km程の道のりを 実質4時間ほどでやって来た事になる。
「公道で無茶をする奴だ。埃もかぶっただろうから、先にシャワーを浴びたらどうだ?」
「そうだな。お前も一緒にどうだ?」
「バカな事を言っていないでさっさと入れ。ビールと何かつまみでも用意していてやるから。」
「ハハハ・・・はいはい。んじゃ、風呂借りらぁ。」
冗談だと分かってはいても 頬が熱い。
夢の続きの中にいるような気になる。
風呂上がりの左之助のために、チーズやサラミを切った。

よく冷えたビールは 金色の細かい粒を吐いてグラスの中で煌めいている。
合わせたグラスが、カチンと涼しげな音をたてた。
「プハーッ。たまんねぇなぁ。走ってきた甲斐があるってモンだぜ。」
「お前は、ビールを飲むためにわざわざ500Kmを走ってきたのか?」
「もちろん、お前に会うためだぜ。だが、こんなおまけぐれぇはなくっちゃな。」
濡れた髪の滴を吹き飛ばしながら、切れ長な目が笑う。
突然に延ばされた腕が、剣心の右腕を捕らえた。
真っ黒な瞳が 強い光を放ちながら藍色の眼の中をのぞき込む。
心の内を見透かされるような気がして 逃れるように剣心は顔を背けた。
「俺も・・・シャワーを浴びてくる・・・」
「・・・ああ。」
拒絶と受け取ったのか、左之助はすぐに手を放した。
剣心にはバスルームにと駆け込む間 自分の心臓が家中にその鼓動がこだましているように感じられた。
体が熱い。
触れられた右腕が燃えるようだ。
火照った体を冷まそうと水を浴びる。が、熱の籠もった身体は いくらシャワーを浴びても冷めず、胸の高鳴りはいっこうに鳴りやまなかった。
聞こえやしなかっただろうか・・・
自分の心の動きに頬が染まる。
思いに目を閉じるように、バスタオルで水しぶきを強く拭った。

リビングの左之助は 2本目のビールを空にしていた。
その背に後ろから声を掛ける。
「京都の夏は暑いだろう?」
「・・・あっちも結構熱かったからな・・・」
戸惑うような左之助の声に 胸が震える。
喉が引きつり、言葉が思うように出せないでいる。
ふたりの間に流れる静寂を破るように 左之助が問いかけた。
「なぁ、剣心・・・俺、此処に来ても良かったのか?」
「何故?」
「諏訪で別れたときには、お前の名刺も持っていたからよ、すぐに連絡を入れるつもりだった。2,3日して電話番号を押しながら ふと思ったんだよ。お前は、もう会うつもりはないんじゃなかったのか、と。」
「・・・・・。」
「考えてみたら、お前は連絡先を俺に教えなかったし、聞きもしなかった。旅先だけの遊びと考えていたんじゃないか、と。」
「お前こそ・・・俺に連絡先を教えなかったじゃないか?」
「それは・・・突然に電話をして吃驚させてやろうと企んでいたから・・・・
でもよ、電話をして、何の用だとお前に聞かれたらと思うと・・・・気持ちがくじけちまった・・・今まで付き合った女にだって、そんな事は一度も思った事はなかったぜ。
諦めた方がいいのかとも思った。だが、よ、どうしてもお前の顔がもう一度見たかったんだ。行って、お前に知らん顔されたら それですっぱり諦めよう、ぐだぐだ考えてんのは俺らしくねぇ。当たって砕けろだ、そう思ってな。」
「さ、の・・・」
「だけど・・・・決心するまで二十日もかかっちまった。それでも、怖くて電話は出来なかった・・もし、来るなって言われたらと思うとよ。それで、連れからメールの打ち方教えてもらって、メールを送ったんだよ。断りの返信が来ても、見ませんでしたって事にしようと思ってな。」
そう言って翳りのある寂しげな笑顔を見せた。
「同じ思いだったんだな・・・俺もお前も・・・」
「けんしん・・・・?」
「俺は、旅の間中、お前が連絡先を聞いてくるかどうかに賭けていたんだ。俺とお前じゃ先の見えない恋だとは分かっていた。だけど・・・何処かで甘い期待も抱いていた・・・お前がツーリングが終わっても、また逢いたいと言ってくれたら・・・もう少し、夢が見られるんじゃないかと・・・だが、お前は聞かなかった。自分の連絡先も教えはしなかった。当たり前の事だと思った。お前の人生はこれからだ。こんな所で、俺なんかにつまずいていいはずがない。だから、自分からは怖くて言い出せなかったんだ。」
「剣心・・・逢いたかった。どうしても。こんな思いは初めてなんだぜ。」
「俺もさ・・・信州まで行って月岡にお前の連絡先を聞こうかと何度も思ったさ。
その度に、お前の拒絶が怖くて、動けなかった。どれだけ後悔したか分からなかった。どうして、また逢いたいと言えなかったのかと・・・」
「俺は・・・本気なんだぜ。」
「左之・・・嬉しいよ。やっと逢えた。」
剣心の延ばした腕が左之助の胸に絡みつく。
頬をすり寄せ、安堵の吐息をつく。
その厚い胸は剣心をすっぽりと包み込んで 夜の始まりへと誘(いざな)った。

白い背中を這う唇は、逢えなかった日々を確かめるかのようになぞっていく。
透けるようなうなじが左之助を誘う。
零れる吐息が思いを綴る。
答えるかのように 繊細に動く指先。
ひとつに繋がった身体は、二人の意識と絡み合い
優しさの中で、夢の続きが織りなされた。


「おはよう。」
声と共に額に落とされた柔らかなキスに左之助は目が覚めた。
朝の光の中で 藍色の瞳が微笑んでいる。
「もう。起きてたのか?」
「ああ、俺は仕事がある。朝食の用意は出来ているぞ。」
「んじゃ、起きるとするか・・・」
言っている事とは裏腹に たくましい腕が剣心を抱き込んでしまう。
「やめ・・・さ、の・・時間がない・・・」
「キスするぐらいの時間はあるだろうが。」
そう言って、剣心の頬を両手で挟み込むと 自分の唇へと導いた。
深い優しいキスが終わると
「ふわぁー。やっと目が覚めたぜ。」
両腕を伸ばして伸びをする。
すっかりキスに目元が潤んだ剣心に
「お前ぇは眠たくなったようだな?」
いたずらっぽく微笑む。
「ばか! 早く降りてこい。」
真っ赤に染まりながら頬を膨らませて 剣心が踵を返し、2階の寝室から階下へと降りていく。後ろの方で左之助の笑い声がこだました。

「ほらっ。」
二人で朝食を摂っている時に 剣心がキーを差し出した。
「この家の鍵だ。それから、こちらは車のキー。此処にある物は何でも自由に使ってくれ。俺は昨日ぐらいの時刻には 帰れると思う。夕飯はどうする?
何処かに食べに出かけるか?」
「うーん、そうだな。昨日はぶっ飛ばしてきて、ちょっと疲れたから今日はぶらぶらするか・・・夏中居るんじゃ慌てる事もねぇしな。夕飯は何か作っといてやるぜ。」
「お前が? 出来るのか?」
「これでも、一人暮らしだからな、適当に作れるぜ。味は保証しねぇけどよ。」
「じゃあ、楽しみにしていよう。」
「おう。まかせな。」
左之助が此処にいる。
それだけで、この家に帰ってくる時刻が待ち遠しい。
剣心は明るい気持ちで職場へと出かけた。

剣心が出かけてから、左之助は改めてこの家を見回した。
きちんと片づいたリビングルーム、ダイニングボードに綺麗にしまわれている食器の数々。
「結構 几帳面なんだな。」
一人でぼそっと呟いた。
しかし、生活感が少し足りないような気がする。
あいつはいつもこの部屋で一人で何をしているんだろう・・
何をし、何を考えているのか・・
剣心の心を知りたいと思った。

「世話んなってんだから、洗濯ぐらいしてやっか。」
ひとりごちて 自分のTシャツなども洗濯機に放り込む。
鼻歌交じりに機械のボタンを押しながら、昨日までのイライラが何処かに吹き飛んでいるのを感じた。

昼前には夕食の食材探しに 歩いてぶらぶら出かけた。
まったく土地勘のない左之助には 此処が何処なのか見当が付きかねたが、三条からそう遠くない事は分かる。昨日、来る時に御所の前を通った。
静かな裏通りには いかにも京都に似つかわしいような店が並んでいる。
その中に、古いお茶屋を見つけた。
大半がアルミサッシの扉に変わっている店々の中で 昔のままの木の扉に大きなガラスがはまっている引き戸の店があった。軒先には涼を呼ぶ風鈴が かわいらしく吊されている。時折吹く風にチリリンと涼やかな声を響かせる。
何となく物珍しくなり、お茶になど興味もないのに店先へ顔を覗かせた。
「お越しやす。」
品のいい店主が声を掛ける。
時折テレビのドラマなどで耳にする 京都弁がこれかと頭の中にちらっと思い浮かべる。女性だけのイメージしかなかったが、男性も同じ言葉遣いにおかしくなった。
「何差し上げまひょ?」
「俺は、お茶なんて全然わかんないんだけどよ、何かいい匂いがするなぁと思ってよ。」
「ほほほ・・うちは、昔のままの商売のやり方どすからなぁ。包装しませんよって お茶の香りが漂いますのんやろ。お客さんは東京からお越しにならはったんどすか?」
「ああ。昨日着いて、友達んとこに世話んなってる。」
「そうどすか。暑いとこようお越しやす。冷たいお茶差し上げますよって、上がっておくれやす。」
差し出された冷たい茶は お茶になど何の興味も持った事の無かった左之助にさえ 旨いと思わず呻らせた。
「すんげえ旨いな、これ。」
「おおきに。それは、この玉露を氷で出してますのや。暑い時は、これが一番どす。」
「氷で? どうやって作るんでぃ?」
「急須にお茶の葉を入れますやろ。後は氷をたっぷり入れて冷蔵庫で溶けるのを待ちますのや。それだけどす。」
「なんだ。すっげぇ簡単だな。じゃあ、これくれよ。」
剣心に入れてやったら喜びそうな気がして 柄にもなく買い求めた。
礼を言いながら店主は 後ろに積まれた大きな箱のひとつを取り出し 手際よく袋に詰め、秤に掛けた。計り終わると細い紙の紐で袋を回しながら口を縛る。
その様子がおもしろくて 子供のようにじっと眺める。客の注文に応じて ひとつひとつ丁寧にその場で包装するその姿が、いかにも京都らしいと左之助には思われた。
手元に並んだ塗りの皿に入った茶のひとつに目を留めた。
「これもお茶なのか?他のと違うけど」
「それは、お番茶どす。この辺りだけしかおへんのどす。ふつうは揉んでお茶にしますんやけど、ここら当たりでは そのままお茶にするのが好まれますのや。せやから、葉っぱの形のままですやろ?」
言われた通り、茶色の葉っぱがちぎれたような形のまま皿に乗っている。
「旨いのか?」
「おいしおすえ。それは、薬缶にお湯を湧かしてもろて、よう煮立たせなあきまへん。私ら京都の人間は、麦茶よりその方が好みどすなあ。」
「んじゃ、それももらうぜ。」
普段なら、こんな買い物はしないであろう自分が何故かおかしかった。
あいつのいる町で、あいつの為の買い物をする、そんな自分がこそばゆく、面映ゆい。
店主の愛想のいい声に送り出され、さらに北へと向かって歩き出した。
しばらく行くと 大徳寺門前へと出た。
その前に団子屋の看板が見える。
あぶり餅と書かれた看板の店は 向かい合わせに2軒建っていた。
片方は、本家と書かれてい、もう一方は元祖とある。どちらが古いのか見当もつかないが、団扇の骨だけにしたような串に小さな餅が幾つも付いているのは
どちらの店でも同じだった。
小腹も空いたコトだし、と試しに両方食べてみた。どちらも網であぶって焼いた餅は香ばしく、甘みもさっぱりしている。
甘いものを好むわけではないが、此処の餅ならいけるとお代わりを所望した。
床几に腰掛け、餅を頬張っていると店の親父が大徳寺について説明してくれる。
鎌倉末期に建てられたこの寺も応仁の乱で荒廃し、それを一休和尚が復興した事や 千利休が豊臣秀吉の断罪を受けたのは この寺に自分の像を安置したからだなどと左之助にとっては あまり興味のある事ではなかった。
それでも、親切な親父にすげなくするのも悪く思われ、
「今日は急ぎの用もあるからまた今度来らぁ。ありがとよ。」
礼だけは述べ代金を支払った。
西へ進むと金閣寺だと案内が出ていた。
せっかく京都へ来たのならそれぐらいは見物していくかと足を延ばした。
物珍しさにあちらこちら覗き込むうちに 日差しは夕刻へと近づきつつある。
適当に買い物も済ませ、家へと辿り着いた。
夕食の支度も整う頃、剣心が帰ってきた。
「左之。すっごくいい匂いがする。」
玄関から声を掛けてくる。
まるで新婚だな等と思いながらも にやけた顔つきで出迎えているのが自分でも分かった。
左之助の用意した料理は、ひどく剣心を喜ばせ楽しい食事となった。
「お前にこんな才能があるなんて以外だなあ。」
「へへっ。ちったぁ驚いたか?」
「ああ。どれも旨いし、プロ並みなんじゃぁないか?」
「連れの親父が中華料理屋をやっててな、バイトさせてもらってる時に教えてもらったんだよ。作れんのは後 餃子ぐらいのモンだけどな。」
「たいしたもんだよ。この酢豚なんか最高にいい味出してる。」
「そう、褒めんなって。照れるじゃねぇか。」
「この家で誰かが料理をしてくれるなんて思わなかったな。」
「連れとか誰か来ねぇのかよ?」
例えば彼女とか・・と一番聞きたい事は胸の内で噛み殺した。
「誰も来ないさ。俺の叔父貴以外は左之が初めてだ。」
剣心の意外な答えに戸惑った。人当たりのいいコイツに連れがいないとも思われない、何故と疑問が湧くが 聞こうかどうしようか迷っているうちに話題が変わってしまい、聞きそびれた。
相変わらず剣心は料理にはしゃいでいる。
「そういや、今日、ちょっといいもん教えてもらったんだぜ。」
そう言いながら、お茶屋の主人に教えられた通りに氷で出した玉露を冷蔵庫から取り出した。
「飲んでみろよ。すげぇ旨いぜ。」
「玉露だな? へぇー左之にこういう趣味があるとは・・・」
「何だ。知ってたのか・・・」
「此処は京都だからな。料亭に行けば、夏には料理の前に出してくれるさ。」
「俺はお茶なんか興味ねえから 今日の今日まで知らなかったぜ。近くのお茶屋で初めて飲んで 生まれて初めてお茶って旨いもんだと思ったぜ。」
「俺もこれは好きさ。」
「だろうと思ったぜ。んじゃ毎日作ってやるよ。沢山葉っぱ買ったしな。」
「沢山って・・・いったいいくら買ったんだ?」
「500グラムほどだがな。足りなきゃまた買いに行けばいいしよ。」
剣心は目を白黒させている。宇治の玉露ならグラム当たり2,000円はくだらないだろう。
「さぞかし、お茶屋の主人は愛想が良かっただろうな?」
「おう。この辺りの人間はみんな親切だぜ。」
いっこうに気にする素振りのない左之助がおかしくなり、笑い出してしまった。
「昼間は相手をしてやれなくて済まない。」
今日有った出来事などを話す左之助に 剣心が謝った。
「いいってことよ。気にすんな。ゆっくり京都見物でもしてっからよ。結構退屈しねぇもんだしな。」
「そうか。今日のお礼に週末は俺がごちそうするよ。何処か行きたいところがあるか?」
「さあ、全然見当もつかねぇな。あんまり、難しくない所がいいけどよ。坊主の説教なんかは御免だぜ。」
「ハハハ・・じゃあ、比叡山とか鞍馬はどうだ? 涼しいだろうし景色もいいからな。」
「ああ。お前が連れてってくれるんなら何処でもかまやしねぇぜ。」
「じゃあ、それで決まりだ。」
相談が纏まると 後かたづけは剣心がした。
手慣れた様子の剣心に、
「結構まめなんだな。」
テーブルに片肘をつき、顎を凭せ掛けた姿で左之助が話しかける。
「叔父貴との二人暮らしだったからな。幼い頃から家事は俺の役目さ。」
その言葉に 両親の愛情を知らないで育った寂しさのようなものを感じ取った。
と、同時に 幼い剣心が小さな手で一生懸命に洗い物などをしている姿を想像して 微笑ましくなってくる。 
一人でにやける左之助に
「おかしな奴だな。」
剣心の呟く声が聞こえた。

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