〈1.2〉 《後編


「左之助、日本海へ行こう。」
帰宅すると剣心が声を掛けてきた。
「海へ行きたいと言っていただろう?まだ行き先を決めていないんなら。」
「おう、どうしたい?」
「ちょっといいホテルがとれたのさ。」
「どの辺りなんだ?」
「鳥取砂丘の近くなくだが、会社の後輩がさ、彼女と行くつもりで取ってたらしいんだが 当の彼女が盲腸で入院したらしい。それで良かったらって譲ってくれたんだ。」
「へぇ。砂丘って言ったら日本で唯一の砂漠だろ? 見たことないから行ってもいいぜ。」
「砂漠と言うほどたいした物じゃないさ。だが、水は綺麗だ。泳ぐにはうってつけの場所だと思う。」
「よし、天橋立から鳥取まで走るか。」
「ホテルの宿泊は3日間だから 前日に何処かに1泊していってもいいな。」
「OK、気に入った場所で泊まろう。」
そう言うと左之助は地図を取り出して ルートを入念に調べていた。


朝早い夏の京都の町を二台のバイクが マフラーから軽快な音を響かせ駆け抜けていく。国道9号線に乗り北へ向かう。亀岡を超えるとトラックの排気ガスから解放された。
左右に広がるのどかな田園風景。太陽の恵みを受けた稲穂が 花を一杯につけて背筋を空へと伸ばす。その向こうで働く人々は トマトやスイカの世話に忙しそうだ。
途中の農家の軒先に剣心がバイクを停めた。農家のおばさんとなにやら交渉していると思うと 切ったスイカを抱えて出てきた。
「左之助、甘いぞ。」
水分のたっぷり含まれたスイカを差し出す。
二人で軒先に座り込み 左之助は顔中真っ赤にしながら頬張っている。
日差しに焼かれた喉に 爽やかな甘さが広がる。
「これで冷えていたら言うことなしだぜ。」
遠くへ種を飛ばしながら 左之助はぺろりと全部平らげてしまった。
左之助の食いっぷりに声を立てて笑っていたおばさんが タオルを絞って差し出してくれた。
「気をつけてな。」
温かい声に送り出され また北へと向かって走り出した。
綾部からは27号線に乗り、舞鶴から丹後半島へと向かう。
宮津にはいると前方に天橋立が見えた。山々の緑に囲まれた 入り組んだ静かな湾に 小さな漁船が幾艘も停泊している。沖合には大型の商船が一艘停泊していた。凪いだ海に浮かぶその鉄のかたまりの姿は この静かで穏やかな日本海の海には余りにもそぐわない様な気がした。
天橋立を舐める様に 湾内に沿って走る。初めて見る左之助のために 景色の良い場所を選んで停車した。
「これが有名な天橋立ってか? あまり感激するほどのもんでもねぇな。これなら横浜ベイブリッジかアクアラインの方がすげぇぜ。」
どうやら左之助は 橋を想像していたらしい。日本三景も形無しだ。
「昔にはそんな橋など造る技術もなかったろう? この湾の中を区切る様に自然に橋の様に出来た1本道に 古人は感激したんだろう。」
「まあ、今なら造んのもわけねぇだろうがな。百人一首にも謡われてるから もっとすげえ所かと思っていたぜ。」
左之助の目には 前方に広がる景色もただの松林らしい。そう考えれば内海は
大きな湖の様にも見える。深い海の緑が風に揺られて水面に小さな模様を描いていた。
丹後半島に沿って西に向かう。
伊根では昔ながらの船屋が目に付く。左之助の興味は 雄大な自然美よりもこちらに向けられた様だった。
「ここら当たりの家は変わってんな。みんな車に乗らねぇで船で通勤するのか?」
自動販売機の前で コーヒーを片手に剣心に問いかける。
二階建ての家々は 丁度一階が船のための車庫の様になって、海にせり出して建っている。何軒かの家には 船が収まっているのが見受けられる。
「まさか。あれはみんな漁師の家だよ。漁に出てそのまま家の中へと船で入れる様になっている。この辺りは リアス式海岸になっていて 昔からいい漁場となっているからな。それに山が迫っていて土地がないから みんな海に張り付く様に家を建てている。だからああいう形態なんだろう。」
「へぇ、おもしれぇな。」
「左之助は人間の作った物の方が好きらしいな。橋と言い、家と言い。」
剣心の笑い声に憤慨しながら
「俺だって自然には感激するぜ。ただ天橋立はちょいと想像とは違っていたからよ。」
「じゃあ、左之助の感激する物を探しに行こう。」
「おう。」
その声と共にスタンドを跳ね上げた。
鳴き砂で有名な琴引浜(ことびきはま)は キャンパーや家族連れで溢れかえっていた。海沿いに走り、久美浜(くみはま)に今夜の宿を求めた。
ホテルにチェックインすると すぐさま海岸へと飛び出した。
透明に澄んだ水が 白い波を立てながら二人の足に纏い付く。それを両手で掬い子供の様にはしゃぎながらお互いの身体に掛け合う。小さな闘いは やがてどちらも意地になり 取っ組み合いへと発展していった。
身体の大きさでは分の悪い剣心が 形勢不利と見て取るとすかさず潜って沖へと逃れる。離れたところで顔を出すと 左之助へと向かってあかんべーをした。
まったく大人のくせにと 子供の様な無邪気なその仕草に 左之助も笑顔が崩れた。
身体に籠もった熱を海に吸い取らせると 遅い昼食を取りに岸へと戻った。
砂浜へと張り出された白いデッキの上で 小さなパラソルに日陰を求めてテーブルに着く。海から吹く風が 冷えたグラスの水滴を揺らしていた。

「ここの席に座ってもいいかしら?」
小麦色の肌をした髪の長い女性が声を掛けてきた。
カレーライスを頬張りながら 左之助がちらりと目を上げる。左の親指を立てると後ろの方を指さして答えた。
「空いてる席なら あっちにいくらでもあるぜ。」
予想もしなかった返答らしい。その答えに一瞬 頬を硬くしたがすぐにクスクスと笑いだし
「だって、あちらの席にはいい男が座っていないわ。」
その声の響きの中には 自分の容貌をしっかりと認識した自信が溢れているように感じられる。受けて立ってやろうじゃないかと左之助が答えるよりも早く、驚いた様に大きな目を見開いて そして、人懐こいふんわりとした笑みを見せると剣心が
「それならどうぞ。」
と手のひらを見せて 空いた席へと促す。
「じゃあ、友達を呼んでくるわ。みんなあなた達と話したがっているのよ。」
私の誘いに乗るのは当然とばかりの笑みを残し 言うが早いか踵を返し友人達の待つ場所へと行ってしまった。
「いいのか?」
「何故? 多い方が楽しいじゃないか。それに彼女の目当てはお前だし、嫌だと言えばモテない男のひがみのようじゃないか。」
そう言って剣心は笑っている。
「お前がモテないって? とんでもないぜ。みんなどんな目をしてお前を見ているのか 知らないわけじゃないだろ?」
「それは、男か女かみんな見極めようとしてるのさ。」
アハハ、と明るく笑う。
本当にコイツは分かっちゃいねえ様だと 左之助は心の中で溜息をついた。
「こんにちわ。」
「はじめまして。」
「ご一緒できて嬉しいわ。」
等と口々に 女性達が口を開いた。
「よぉう。」
左之助は片手をあげ 返事代わりにしている。
先ほどの女性が
「私は響子、隣が美香、そっちが由紀でその隣が綾加よ。よろしくね。」
とみんなを紹介した。
「俺は左之助、コイツは剣心。」
「左之助さんに剣心君ね。」
響子という女性が反芻した。それを聞いて左之助が目を丸くして 大声で笑い出す。
「おい、剣心君だってよ。ハハハハ・・・お前幾つに見られてんだ?」
「笑うな、左之助。」
いつものこととは言え、苦笑しながら剣心が睨め付ける。
「ごめんなさい。とても若く見えたものだから・・・」
「いや、慣れてるから構わないよ。」
「あのぉ、お幾つなんですか?」
横から美香が剣心に向かって尋ねてきた。にやりと笑った左之助が
「こいつ、これでも28だぜ。」
みんなが驚くだろうと その反応を楽しんでいる。
「えーーーー?ごめんなさーーい。剣心君なんて言って。」
「そうよ、響子失礼よ。」
めいめい女性陣は騒いでいる。
初対面の気まずさも 剣心の年の話ですっかり和んで打ち解けた。
アイスコーヒーもなくなった頃、由紀が砂浜でバレーボールをしようと持ちかけた。しばらく6人でボールを回していたが 途中で左之助が喉が渇いたと言って抜けた。
ビールを片手に日陰で休んでいると 響子が隣に腰掛けた。
「由紀が気になるの?」
そんな風に問いかけてくる。
「いや、べつに。」
「だって、熱心に見てたじゃない。」
「べつに見てなんか居ないぜ。その向こうの海を見てただけだぜ。」
「あら、良かった。私はてっきりあなたが由紀に気があるのかと思っちゃったわ。」
意味ありげに左之助へと微笑みかける。
本当は海など見てはいなかった。目で追いかけていたのは 剣心。由紀の隣で熱心にボールを追いかけている。その動作の身のこなしが軽やかで 引き締まった身体に光る汗が眩しい。緋色の髪が日差しに輝き 左之助の心を射る。
隣に座る響子のビキニから零れそうな胸の谷間よりも細いウェストよりも 剣心が気になるなんて。俺は心底いかれちまったようだ。苦い笑いを唇に掃いた。「今夜は何か予定がある?」
響子の誘いに片頬が緩む。
「いや、何も。」
「そう、じゃあ、食事が終わってから 夜の海を一緒に散歩しない?」
「あからさまな誘いだな。」
左之助の皮肉な言い方に動じることもなく、
「回りくどいのは嫌いよ。それに・・あなたと私は同じ匂いがするわ。」
「どう、同じだって? そんな誘いに乗って泣いた男はさぞかし多いんだろうな。」
「フフ・・・そんなに性悪じゃないわよ。そう言うあなたの方こそ 何人泣かせてきたのかしら?」
「俺は何時も泣いてばかりだぜ。」
「本当かどうか今夜確かめてあげるわ。ウフフッ・・」
響子は誘いに乗ってくれたものと決めつけているが、そんな言葉遊びには少しばかりうんざりしている左之助の胸の内は 分からないようだった。
剣心はと言うと 女3人を少々持て余している。バレーボールに飽きた彼女たちに ボートに乗せろとせがまれている様だった。少し休憩してからと なだめて日陰に引き上げてきた。
「いよぉ、色男。花が多すぎて持ちきれねぇようだな?」
「ハハ・・、妬くな、妬くな。お前こそ、しっぽりいい雰囲気じゃないか。」
人の気も知らないでと 左之助にすれば腹立たしいが、この場で口にするほど馬鹿でもない。
「こんな美人が側に居るんじゃ、口説かない方がどうかしてるぜ。」
心の中とは裏腹に にやけて見せる。
「ずるーい、響子ったら。ねぇ、剣さん、私も口説いて欲しいわ。」
「ダメよ、美香。抜け駆けは・・」
「そうよ、ずるいわよ。」
それぞれに女達は喧しい。女達の争奪戦を真に受けるでもなく、剣心一人が蚊帳の外で、ハハハと笑っている。そんな柳に風の風情では 女達の誰一人として剣心を落とすことは敵わないだろうと左之助は安堵の息をついた。
「剣心、泳がねぇか?」
五月蠅い女達から救ってやろうと助け船を出す。
「ん?そうだな。」
立ち上がりかけた途端に由紀に腕を引っ張られている。
「あら? ボートに乗せてくれるって言ったじゃない?」
「私も乗りたいわ。」
またもや同じ事が繰り返される。これでは埒があかないと困り顔で
「4人一緒は無理だよ。3人ずつになろう。」
剣心の提案に 俺も漕ぐのかよと左之助は不満顔だ。仕方がないと女達はじゃいけんを始めた。
2艘のゴムボートを借りて沖へと漕ぎ出す。左之助の船には 響子と負けた由紀が乗り込んでいた。
「悔しいわ。美香ったらあんなに嬉しそうに・・・」
響子へとしきりにぼやいている。
「俺で悪かったな。」
漕ぎたくもねぇのによ と左之助は心の中で続きをぶちまける。
「だって・・・左之さんは響子といい仲そうだし、私の入り込む余地なんて無さそうじゃない。」
「おっ、案外そうでもないかもな。」
その途端に響子に足をつねられた。
「由紀達3人は最初から剣さんがお目当てなのよ。私に声まで掛けさせておいて。今更鞍替えなんて許さないわ。」
「お前ぇは違うのかよ?」
「私はあんな中性的な人より 男っぽい人の方が好きなの。」
お前は剣心を知らないからだと言いたくはなったが この先付き合うつもりのないコイツに 言ってどうなるものでもないと聞き流した。
「あら、そんなことないわよ。引き締まった身体をしているし、身のこなしも軽いじゃない? ステキよ。それに何より綺麗な顔してる。」
好きだという由紀はよく観察しているようだ。
「あーん、綾加まで・・・」
剣心の船を見るたび気が気じゃないらしい。
「まったくうるせぇな。あそこの岸に着けるように言ってやるよ。」
見かねた左之助が 近くの小島へ船を着けるように剣心へと叫んだ。
船から岸へと上がる時に 美香がけつまずいて剣心に抱きついた。それも後の二人には気に入らない行為のようだった。
「私も転べば良かった。」
綾香の囁き声が聞こえる。
「何でこいつらこんなに張り合ってんだ?」
左之助が響子に小声で尋ねた。
「賭けよ。」
「賭け?」
「ええ、3人とも剣さんが好きなのは本当だけど みんな自分の容姿には自信があるから 相手に譲れないのよ。それで、誰が落とせるか賭けようって美香が言い出したのよ。」
「ふーん、女はこぇーぜ。」
「私は賭けてないわよ。」
自分のアピールは忘れないらしい。
「お前ぇだってライバルが居たら同じじゃねぇのか?」
「賭けたって無駄よ。絶対私が勝つもの。」
「えれぇ自信だの。」
「フフフ・・だから言ったでしょ? 同じ匂いがするって。」
響子は自分の立場は安泰だと安心しきっているらしい。これ以上付き合うのも馬鹿馬鹿しいと胸の内で吐き捨てて 浜辺へ戻ろうと促した。
女達は夕食の後 花火をしようと剣心に持ちかけている。曖昧に頷く剣心に
必ず来てねと約束させていた。
夕刻にはまだ早い時間だが、夕飯前に一眠りしたいと言って剣心と二人でホテルに引き上げた。

ホテルの部屋は ほどよく温度管理がされており心地よい。そして、何より静かだ。女達の五月蠅い喧噪から逃れられて 左之助はほぅと溜息をつく。
「夕飯の後、出かけるつもりなのか?」
「さぁ、どうしようか?」
「花火なんて口実だぜ。3人ともお前に抱かれたくてウズウズしてるんだぜ。」
「ハハハ・・・そうなのか? 3人揃って出てくると言っていたぞ。」
「決着が付かなかったからだろう? お前が誰を気に入ってるのか判んねえからだよ。」
「お前こそ今夜の約束をしているのじゃないのか?」
「するかよ! 尤も向こうはした気でいたみたいだがな。」
「すっぽかすのか? 悪いヤツだなぁ。」
「知らねえよ。そんなことは。お前は行くのかよ? アイツら、誰がお前と寝られるか賭けてんだぜ。」
「フフフ・・・かわいいじゃないか。」
「かわいい? お前は3人のうちの誰かを抱きたいのかよ?」
「フフ・・・さて、ね。」
剣心のその言葉に 左之助は一気に頭に血が逆流するのが分かった。
「そんなことはさせねぇ。」
乱暴に剣心の腕を引っ張るとベッドに押し倒し 両腕を押さえ込む。驚いた剣心がこれ以上開けないと言うほどの大きな目をしているのを 視界の中に捕らえた。上からのしかかり唇を合わせる。唇を貪ると深く自分の舌を入れ 剣心の舌を絡め取る。そして、息の間から囁く。
「俺が、絶対にさせねぇ。」
焼ける様な胸の痛みを言葉と行為に表して 剣心の白い項を這う。
やがて、剣心の両腕が自由になった頃、左之助の背中にその腕が回された。
ブラインドの隙間から漏れる西日が 白いシーツに濃い縞模様を描いていた。


けだるい身体をベッドに投げ出し、剣心が左之助の身体のラインを指でなぞっている。額から頬へ、項を伝って肩へと滑る。指先は広い胸で遊び、瞳は左之助へと微笑みかける。漆黒の瞳はしっかりとその笑顔を捕らえ、温かく包み込む。左の腕で背中を抱いて 優しく口づけた。
「何故あんな強がりを言ったんだ?」
「強がりなんかじゃないさ。」
「もう一度、この身体に聞いてみてもいいんだぜ?」
その問いかけに 頬は朱に染まり、身体の芯が疼く。
辺りはすっかり夕闇に包まれていた。

時を忘れた二人の枕元で 突然電話のベルが鳴り響いた。
「ちぇっ、気がきかねぇ。」
舌打ちしながら 左之助が受話器を取り上げた。受話器から漏れてくる声で相手は響子だと分かる。
「ああ? 約束の時間? 丁度良かった。今連絡をしようと思ってたところだったんだ。 ちょっとまずいことになってよ。」
電話の向こうで どういう事?と責める声が聞こえる。
「剣心が熱出しちまってよ。 ああ、いや、大したことじゃないと思うんだけどよ。」
ベッドで剣心が目を剥いた。左之助は横目でちらりと見ているが悪びれた様子もなく話し続けている。
「ほら、なまっちろい顔してただろ? 病後なんだよ。えっ? ああ、病気の方はもういいんだけどな。少しぐらい日に当たった方がいいって 医者も言ってたんだけどよ。何せ、美人がわんさか押し寄せるから アイツも無理しちまったようでな。」
「左之!」
剣心が抗議の声を上げようとした途端、左之助が手で口を塞いだ。
「看病? いや いいって。 美人に押しかけられちゃ、下がった熱もまた上がろうってもんだ。 ああ、剣心の様子が良くなるようだったら迎えに行かぁ。 浮気しないで待ってな。 後のみんなにもよろしくな。」
そう言って受話器を置いた。
「誰が病気だって?」
「へへっ、いいアイデアだろ? もうちょっと待ってな。」
また受話器を取り上げ フロントへと掛けている。
「503号室の相楽だけど、連れが熱出しちまって・・・それでゆっくり寝かせたいんで 誰か尋ねてきたり電話があっても 取り次がないで欲しいんだ。 えっ?食事? まだだけど・・・部屋へ運んでくれるのかい? そりゃ助かるぜ。 それじゃあ、生ビールも2本頼まぁ・・・ えっ? 俺が飲むんだぜ。じゃあ、よろしくな。」
ガチャンと受話器を置く左之助に 剣心がすかさず文句を言った。
「左之、フロントにまでそんな嘘を・・・」
「いいって事よ。あながち嘘でもねぇんだからな。」
「嘘でもないって、どういう・・・」
「へへっ。」
唇の端を持ち上げ にやりと笑うと剣心を見つめてこう言った。
「すぐに足腰も立たなくなるぜ。これで誰にも邪魔されずに お前を朝まで抱ける。」
黒光りのする目に見つめられ、射すくめられた様に剣心は ただ言葉もなく呆然と左之助の顔を見つめているだけだった。


翌日、お加減はもうよろしいんですか?と尋ねるフロントマンに 頬を染めながらしどろもどろに答える剣心の姿があった。横で左之助が忍び笑いを漏らす。その脇腹を剣心は 左の肘で思い切りこづいていた。


切れ込む様な陰影を落としたアスファルトの上を 2台のバイクは西へと向かう。右手に広がるエメラルドグリーンの海は 静かに朝の光を空へと跳ね返している。遠くに広がる大小の山々の尾根から 数羽の鳶が大きく輪を描いて飛び立った。広げた羽一杯に風をはらんで滑空する鳥の影と交差して 二人の影もはためく風に揺らいでいた。
香住(かすみ)漁港の隣の浜では 引きあけられた烏賊が ちぎれた無数のハンカチの様に吊され 潮風を受けている。隣で網を繕う漁師の背中は 何代も続いてきた海の歴史を匂わす。
余部(あまるべ)を抜け、国道が再び海に近づくと 眼前に様々な奇岩が立ち並ぶ。長い年月海にえぐられ風雨にさらされた岩肌は 自然が作り出す造形美だ。沖を行く遊覧船が描く航行の跡も 枯山水に描かれた砂紋の様に彩りを添えている。360度広がるパノラマに 左之助はヘルメットの中で口笛を吹いた。
浜坂を過ぎれば今夜の宿は目の前だ。チェックインするには早すぎる時刻に鳥取砂丘まで突っ走った。

目の前に広がる一面の砂の丘に 左之助が
「うわぉ、ちょっとした砂漠だ。」
そう言ってはしゃいでいる。
足を一歩踏み出す事に 砂に足を取られ、踝まで沈む。小高い丘があったり、すり鉢状になったりしていて 地形は変化に富んでいる。風が作る風紋が 幾筋もの線を引き、黄色い世界に模様を織りなしている。丘を目指して歩いていた左之助が 手を前に突き出し、空を切る素振りをする。
「み、み・・ず・・・」
芝居の一コマを真似て そのままばたりと倒れ込む。その途端に
「あちーーーーー!!あちっ、あち。」
慌てて起きあがると踊り出した。
「アハハハ・・・馬鹿だなぁ。熱いに決まっているじゃないか。こんなに日差しが強いのに。頭悪すぎ。」
側を通り過ぎるらくだに乗った観光客にも笑われている。
すっかり拗ねて口を尖らせながら
「へん。お前を楽しませてやろうと思ったんだよ。俺の親切心がわからねぇのかよ。」
そう言いながら、ズホンの中にまで砂が入ったと飛び跳ねている。
「ク、ク、クッ、賑やかなヤツだなぁ。ホント、お前と居ると退屈しないよ。」
「悪かったな。賑やかで。そんなら、黙って歩いてやるよ。」
ちぇっ、と口の中で呟いて剣心の視線から逃れる。その様子がおかしくて またも剣心が笑い出した。
丘の頂上まで登ると 随分先に青い日本海が見えた。ぎらつく太陽の光を 白い砂がはね返し 空により一層の青みを添えている。クリーム状の泡のような入道雲が 銀色に眩しく輝いていた。
「うわぉーーー。」
声を上げながら左之助が 頂上から一気に海岸を目指して駈けだした。急な斜面に足を滑らせそうになりながら 剣心もその跡を追う。波打ち際に辿り着くと 透明な水が押し寄せるさまに 少しばかり暑さも和らいでほっとした。
「砂漠の先に海があるなんざぁ なんだかおかしな気分だぜ。」
「此処の砂丘は 海が砂を運んできたのだから当然だろう。」
「ああ、そうなのか。自然のエネルギーってヤツぁ すげえもんだな。」
砂を手に取り、もう片方の手に零している。
さらさら、さらさら流れる砂が 二人の幸せな時を刻んでいた。


砂丘の辺りで昼食を取ると 浦富海岸(うらどめかいがん)へと引き返した。
後輩に教えられたホテルは すぐに見つかった。会員制のリゾートホテルは
快適そのもので 洒落た造りになっていた。
「さすが恋人と来るつもりだっただけに 洒落てるな。」
「俺たち、すげぇラッキーだったみたいだな。」
「ちょっとしたリゾート感覚が味わえるぞ。」
部屋の中を見回して ひとつひとつに驚きの声を上げている。
クリーム色のタイルに 柔らかい絨毯が敷かれ 座り心地の良さそうなソファが置かれている。コンパクトに纏まったキッチンに寝室が2つ。リビングの壁際にはミニバーまで用意されていた。
広く張り出したバルコニーには テーブルと椅子がセットされている。
「食事は下のレストランで取る様になっているが 頼めば食材も用意してくれるらしい。テラスでバーベキューも悪くないかもな。」
「夕日を見ながらのビールは旨そうだぜ。」
この部屋で過ごす時間を思うと 二人は自然と顔がほころんだ。

目前に広がる景色は 様々の奇岩や岩礁が入り乱れ 洞窟や断崖絶壁が至る所に位置する。その合間に小さな岩場があり、水の色に変化をもたらしている。
砂浜の白と山の緑が 点在する島々の美しい背景となって 見る者の感嘆の声を誘う。底まで見通せる水中には 小さな魚が群れをなして泳いでいた。
二人はその景色を満喫し、心ゆくまで水と戯れた。
風が出てきた頃、潮水を落とそうとホテルのプールへと場所を変えた。
デッキでくつろぎ グラスの中のアイスコーヒーも飲み干した時 女性二人に声を掛けられた。
「あのー。此処に座ってもよろしいでしょうか?」
振り向いた剣心が すかさず、
「ああ、どうぞ。俺たちもう飲み終わりましたから。」
そう言って左之助を促すと 席を立った。何か言いかける女性達に
「どうぞ、ごゆっくり。」
にっこりと笑顔を残し さっさとロビーへと向かった。
エレベーターの前で左之助が
「あれは席を譲って欲しかったんじゃないぜ。」
上階へのボタンを押しながら 理由知り顔で剣心に言った。降りてきたエレベーターに乗り込みながら
「知っているよ、そんなことは。」
何を今更とばかりに答える。
「じゃあ、何故勘違いした様に装ったんだ?」
「女に声を掛けられるたびに 昨日の様にお前に責められたんじゃ適わないからな。」
「あれ? そうなのか? 結構喜んでたと思ったんだけどなぁ。」
「ほう、そうか。なら、今夜は替わってやってもいいんだぞ。」
横目で睨みながら 楽しそうな口振りだ。その目が獲物を追いつめた豹の様に光って見えた。背中に走る悪寒に ごくりと唾を飲み下し
「遠慮しとくぜ。」
虚勢を張ってそれだけを答えた。
エレベーターが開き、一歩先に出た剣心の笑い声が 狭い空間に残されていた。

静かな夜は二人でゲームをして過ごした。部屋に流れるジャズの音色が穏やかな時を刻む。琥珀色のグラスの横に バックギャモンのサイコロが転がる。窓の外には無数の星と その星が天空から落ちたようなイカ釣り船の明かりが 夜空の中で瞬いていた。


爽やかな青の中を ボートを浮かべて沖合へと出る。海の中に岩礁を見つけて水の中へと身を沈めた。水は澄んで何処までも見渡せる。岩場に生えた藻や海藻が 波の伴奏に合わせてハミングするように揺れている。その合間から 時折顔を覗かせるベラやカワハギが 独唱を担当するように躍り出る。ぷっくりふくれた箱ふぐが 口を尖らせて口笛を吹いていた。
左之助の足下に剣心が身を沈め 海底から貝を拾った。2,3個集めると 石を持ち岩場で叩きつぶす。それを左之助の周りに撒く。しばらくすると 左之助の周りに 小さな魚が集まってきた。細かな餌に精一杯の口を開け 啄む姿は二人の笑顔を誘う。突然大きな影が掠めたかと思うと 一回り大きな固まりを 鯛がくわえて逃げて行った。水面に顔を出し左之助が
「今のは旨そうだったなぁ。」
涎を零しそうだ。
「左之助には何でも食べ物に見えるんだな。」
「だってよ・・・あれは刺身にすると 絶対に旨いぜ。何とか捕まえられないもんかねぇ。」
「無理だろな。魚屋に行った方が早い。」
今にも大口を開けて 海ごと飲み込むんじゃないかと剣心には思えて、クスクス笑っている。
「お前ぇ。またなんか要らねえ想像してるだろ・・・」
「お前の想像通りさ。」
アハハハとひときわ大きな声で笑うと また水中へと潜っていった。

綿菓子のような雲がちぎれてゆく。何かに似ている。ああ、そうか、さっき見た箱ふぐに似ているんだ。何とはなしに雲を見つめて そんな想像をしている。
左之助に凭せ掛けた背が心地よい。波に揺られるボートは揺りかごのようだ。
いつしかそのまま微睡んでいた。
左之助の指が睫に触れて
「なげぇな。」
呟く声で目覚めた。
退屈したのか 指先は剣心の髪を弄ぶ。
頭上の太陽は 姿を隠す雲もなく 醒めるような青空の中で真っ白な光を放っている。眩しさに手をかざしながら 左之助の方へと僅かばかり顎を持ち上げて顔を見る。その途端に左之助の唇が降ってきた。
「左之、こんな所で。」
「誰も気にしちゃいねぇ・・・ずっとお前を見ていた・・長い睫も 形のいい唇も。」
そして、また口づける。剣心の肩を抱いていた手が滑り落ち、胸の辺りで彷徨う。白い背中が僅かに跳ねて、延ばされた腕が左之助の首を捕らえ、耳元へ唇を滑らせて囁きかけた。
「さの、ホテルへ戻ろう・・・」
「ああ、望むところだ。」
唇の端でにやりと笑った。


開け放たれた窓に海からの風がそよぎ レースのカーテンを揺らしている。
窓辺に置かれた棕櫚の葉が 日差しを受けて輝いている。

剣心の爪が俺の肩を噛む。
シーツの上で踊る肢体が扇情的だ。
緋色の髪を乱し、赤く染まる唇を噛みしめる。
時折開いては、俺の名前を呼び続ける。
愛おしい。殺したいぐらいに・・・
切ない吐息が俺を嬲る。
緋に染まる肌が俺を焦がす。
もっとお前が欲しい。
心が叫ぶ。
夢とも現世とも分からぬままに、赤い潮流に飲み込まれていく。
紅に焼かれた時が棕櫚の影となって 二人の身体を優しく撫でた。


微睡むベッドの中で左之助が不意に頭をもたげて 剣心に言った。
「今日の夜、隣町で花火があるそうだぜ。」
「花火か・・・」
「ああ、ひとっ走り出かけようぜ。」
「そうだな。京都だと人も多いし、滅多に見る機会もないな。」
「よし、そうと決まったら 夕飯を早く用意をしてもらわなきゃなんねぇぜ。」
「まったく、お前は食べる心配ばかりだな。」
「いや、お前のこともだぜ。だから、食っちまった、いや、食われたのかな?」
「ばか!!」
剣心に鼻を抓りあげられながらも アハハと声を上げて笑っていた。

小さなこの町にこんなにも人間が居たのかと思われるほど 浜辺は混み合っていた。バイクすら停める場所も見つからず そのまま県道から山の方へと道を取った。少し小高い場所に畑があり、砂止めのコンクリートが丁度良いベンチのようだった。此処にも人々が集まってはいたが 二人が潜り込むには何の障りもない。
コンクリートに腰を下ろし 眼下を望むと展望が開けていて 海一面が見渡せた。砂浜に押し寄せる沢山の人々や それを目当てに商売に励む露天商などが見える。
岸の一部にステージが設けられ 様々なイベントが行われていたようだ。設営されたスピーカーから 放送が流れているようだったが そこまでは聞き取ることが出来なかった。
海の上に 何艘もの小舟が見える。やがてその一艘がスピードを上げて走り出すと 天へと伸びる火の玉が弾けて 大きな花を夜空に描いた。それを合図に次々と大輪の花が開いていく。赤や黄色の花びらが 海の鏡に映って幻想的だ。
空が小さな花びらだけになると 海の上でも青い光が輝いた。その合間を縫うように小舟が走る。その跡には必ず 色とりどりの花が咲き乱れた。

花火は一時間ほどで終わった。帰り道の県道は 来たとき以上に混み合っていた。車の間をすり抜けながら 脇道へとそれる。しばらく走ると何台かのバイクが近づいてきた。ヘルメットもかぶらず、改造したバイクでやたらと大きい音を出し 嬌声をあげている。お世辞にも柄がいいとは言えない類の若者達だった。祭りの余韻に酔いしれ、収まらぬ血気の捌け口を求めている。眉をひそめた左之助の予感通り、彼らは暴走の捌け口のターゲットとして 剣心に目をつけたようだった。小さな田舎のこの町では 赤のドゥカッティと剣心自身は目立ち過ぎた。外車に乗る女性ライダーは 格好の獲物と見えたようだ。執拗に追いかけ、前に後ろに回り込んではヤジを飛ばす。10台ほどのバイクに囲まれ、2台揃ってでは逃げられそうにもない。前方に二股の道が見えたところで剣心が左之助の横に並び 大声で叫んだ。
「分かれよう。ホテルで。」
左之助が頷くと 剣心はすぐに間をすり抜け山への道を取った。左之助はそのままトンネルの中へと走り込んだ。バックミラーで後ろの気配を確認すると
彼らはみんな剣心を追って 山への道を取ったようだった。左之助の胸に不安がよぎるが 剣心の腕を知っているだけに 今からUターンしたところで追いつけないことは分かっていた。仕方なく一人でホテルへと戻った。

部屋に入り明かりをつける。目映いばかりの光りが 何故か薄暗く感じる。不安を紛らすようにテレビのスイッチを入れた。ニュースでは また何処かで事故があったと伝えている。不安を煽るような放送に腹が立ち、電源を切った。マルボロに火をつけ 苦い煙を吐き出した。耳を澄ましても バイクの排気音は聞こえない。半分ほどで灰皿に押しつけた。単車のキーを持ち 部屋の鍵を掛ける。バイクに跨ったところで 何処に探しに行けばいいものか見当も付かない。それでも部屋にいるよりはと駐車場へ出てみる。思案に暮れていると
遠くの方からドゥカッティの排気音が聞こえた。エンジンの延びる音に2サイクルのリズム音の響き。待ちこがれた音に 安堵の息を吐く。待つ間もなく赤いフォルムが姿を現した。滑るように駐車場に入ると大きくエンジンを吹き上げ ジーンズのポケットに手を突っ込み所在なさげに立っている左之助の横でキーを切った。
「おろ? どうした?」
不審気な表情で尋ねる剣心に すぐには答えられず顔が歪む。奥歯を噛みしめ
「心配した。」
それだけをやっと伝えた。
「そうか・・・」
穏やかな声でポツリと言うと バイクを降り左之助の手をそっと握った。
「左之助・・・部屋へ戻ろう。」
触れ合った手から温もりが 体の中へと流れ込むような気がした。


「考えて見りゃあ、アイツらも気の毒だよなぁ。」
朝食の後の2杯目のコーヒーにクリームを入れながら 左之助が剣心に言った。
昨夜 あの後のことを尋ねる左之助に
「山の中に捨ててきた。」
ゴミでも捨てたように簡単に言う。
「町の中にすぐに戻られちゃ みんなが迷惑するから中腹までゆっくり走って引きつけておいた。頃合いを見てスピードを上げて後ろを引き離したんだ。コーナーを3つほど越えた所で ライトを消して脇へそれた。アイツらは気づかずに走っていったよ。後はUターンをしてトンネルを抜けて帰ってきたさ。」
音ばかりうるさい改造車では さほど性能も良くはあるまい。まして二人乗りで 昨日や今日運転を覚えたような奴らでは、剣心に追いつくことなど到底不可能だろう。案じることもなかったとなんだか拍子抜けした左之助に
「嬉しかった。」
と素直に剣心は自分の気持ちを伝えた。

「何故気の毒なんだ?」
「だってよ、女だと思って必死に追いかけたのは実は男で 嬲るつもりが反対に嬲られてよ。」
「間違えたのは向こうの勝手。嬲ったつもりはないが 結果的にそうなるのかな?」
淡々と言う剣心は なんだか憎らしいくらいだ。昨日の奴らが聞けば 地団駄踏んで悔しがることだろう。やっぱりコイツには適わないと苦い笑いが頬に浮かんだ。


残る日にちも思うさま水と戯れ、風と遊び、二人の夏を楽しんだ。来る時とは逆のルートを辿りながら 帰途につく。夕日が真っ赤に燃える頃、海の見納めだと 丹後の浜辺に腰を下ろした。
「楽しかったな、剣心。」
「ああ、あんなに泳いだのは 何年ぶりだろう。」
「お前ぇは生っちろいから 少しぐらい日に当たった方がいいぜ。」
少し鼻の頭と頬が色づく剣心を 眩しそうに眺めながら満足げな笑顔を見せる。
どんなときにも真っ直ぐで 純粋な心がその笑顔に顕れていると剣心には思えた。
「左之助もよく日に焼けたじゃないか。夜になったら見分けがつかなくなる。」
「だったら飛ばしても お巡りに掴まんねぇな。」
白バイとのバトルでも思い描いてそうな笑顔を見せながら 小石をひとつ拾うと沖へとむかって思い切り投げた。沖に浮かぶ流木の手前で 小石は放物線を描きポチャンと落ちた。
「惜しい!」
悔しげに眺めながら また小石を拾う。そんな動作を続けながら何でもないことのように左之助が言った。
「俺、お前とならずーっとツーリングを続けていたい。」
「ハハ・・そんなには休みは取れないよ。」
「そう言う意味じゃねぇぜ。来年も、再来年もその先も死ぬまでずーっとって事だぜ。」
そう告げる左之助は小石を持ち 投げるポーズを取りながら とびきりの笑顔を見せる。だが、その笑顔も剣心が言った一言で凍り付いてしまった。 
「ああ、そうだな・・・でもそんなことは無理だ。」
「なぜ?」
「お前はまだ若い。これからも色んな人と出会い、色んな経験を積んでゆく。そんな中で考えも思いも変わる。移りゆく時間の中で 人の気持ちも変わるものさ。」
「どうしてそんなことが言えんだよ? 変わんないものだって居るじゃねぇかよ。 俺の気持ちが中途半端だとでも言うのかよ?」
「そんなことは言ってないよ。でも、これから先、かわいい人とも出会うだろう。やがては家庭を持ち 子供も生まれる。そんな中にお前の幸せもあるだろう・・・」
握った拳に小石が食い込んだ。感情の波が押し寄せ 拳が震えた。 
「なんなんだよそれ。何でそんな勝手なことが言えんだよ? じゃあ、お前はどうなんだよ? 女房と子供を持つことが夢なのかよ?」
「いや・・・俺は結婚なんかしない。多分、ずーっと。」
「何でお前は結婚しなくて 俺はするんだ? おかしいじゃねぇかよ。わかんねぇよ。お前の言ってることは。何でそう未来を否定するんだよ? お前の幸せって何なんだよ?」
「俺の幸せ?・・・」
「答えろよ! 剣心。」
「・・・・分からない・・・考えたこともないよ・・・」
「なんでだよ。自分の幸せもわからねぇくせに 何で俺の幸せを勝手に決めんだよ。」
「そうだな・・・お前の言う通りかも知れない・・・」
「俺の幸せは俺が決める。お前じゃねぇ!・・・だから・・・勝手な事言うねぃ。」
剣心から背けた横顔は 苦しげに歪んでいた。夕日の中の剣心は何も言わず ただ静かに座り続けていた。
やがて真っ赤に燃える太陽は その名残を残すように空を赤く染め 海の彼方にちぎれながら沈んでいった。
「帰ろう、左之。」
立ち上がった剣心が 静かに左之助の腕を取った。何か言いかけたが、思い返すと黙って頷き 剣心の後に従った。
紅に染まる夕暮れの中を 2台のバイクはそれぞれの思いを秘めて シルエットを描き出す。その影は何故か、切なげな思いに揺れていた。


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