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連れてこられたのは 左之助が泊まっていたホテルだった。
先ほど引き払ったばかりの客が舞い戻ってきたことに ホテルの案内も怪訝な表情を見せたが、「乗り遅れちまって、予定変更だ。」と笑う左之助に 形ばかりの慰めの言葉を言って 愛想良く鍵を渡してくれた。勝手は知っているからと案内を断り、込み入った話があるから誰が訪ねてきても案内するなと指示をして さっさと部屋へと向かった。その左之助の背中を見ながら、今更ながらに左之助を引き留めてしまったことへの後悔と戸惑いが交錯する。出来ることならこのまま消え去りたいと情けない気持ちで足を運んだ。

突き動かされる気持ちのまま、銀座まで走っていた。赤銅色の煉瓦造りの家並みの向こうにりっぱな石造りの新橋駅が白く見える。道行く人々は忙しげに駅へと向かい、旅立つ人、見送る人の波が駅庁舎へと飲み込まれてゆく。その人々を眺めた途端、足は縫いつけられたように 駅へと一歩も進もうとはしなかった。
見送る大勢の人々の中で 自分はいったいどのような顔をすればいいのだろう。ただ笑顔を見たいと思った左之助に 何を伝えればいいのだろう。見送る人々に取り巻かれている左之助と それを見つめる自分との距離が果てしもなく遠いものの様に感じられ、虚しさを味わうばかりだ。作り物の笑顔で見送ることに何の意義も見いだせない。そう思うと足は自然と駅をやり過ごしていた。

海から吹く風の中に浜離宮が見える。海軍所だった広場も整備され、今は延遼館が建ち、賓客を迎えている。それらを包む森を遠くに眺めながら、線路まで続く一面の菜の花畑に足を踏み入れていた。そして、左之助の乗る汽車に 一人で別れを告げるつもりで居た。なのに警笛が聞こえた途端、何故走り出していたのだろう。押しとどめようもなく突き動かされる不可解な心の動きに 自分自身が一番戸惑っていた。


時々振り向き促すようにしながら のろのろと歩む剣心に 「ここだ。」と 左之助が声を掛け足を止めたのは 二階の一番奥の部屋だった。
部屋の中に入ると鞄を放り投げ振り返って 秘密を共有する者同士へと送る合図のようにニヤリと笑う。その左之助の笑みにどう応えて良いか分からず、剣心は曖昧な笑みを頬に浮かべた。つかつかと壁際に立つ剣心の元へと歩み寄って、上から見下ろすようにして瞳を覗き込む。頬に浮かんでいた悪戯っぽい笑みはもう消えていた。
「何で見送りに来たんだ?」
感情を押し込めた表情で静かに尋ねる。剣心を見つめる瞳は その真意の程を推し量ろうとするかの様に ぴたりと剣心の目に据えられている。
「すまぬ・・・」
「謝ってくれって言ってんじゃねぇよ。何で来たかって・・・・俺はお前の気持ちが知りたいんだよ。」
俯き加減になりながら返答をする剣心の言葉に 左之助の言葉が覆い被さる。
通りかかったのは全くの偶然だと子供じみた返答でごまかせる理由もなく、かと言って己の情けない未練を語れる理由もなく、返辞に窮して視線が宙を泳ぐ。黙る剣心に左之助が更に一歩前へと進み、どうあっても逃さぬという意思の顕れなのだろう、片腕を伸ばして壁に体重を預け、壁と自分の間に剣心を閉じこめてしまった。そして、一息大きく息を吐くと 改めて剣心の目を見つめた。
「なぁ、剣心・・・・俺はお前が来なけりゃ、一番お前に伝えたかったことを言わずに行っちまうところだった。そして、死ぬまで後悔してるだろうよ・・・お前が嬢ちゃんとのことを俺に嘘をついたとか、白々しく友達の振りをしてるとか、そんなもんにばかりこだわっちまって、何一つ自分の気持ちを伝えちゃいねぇ・・・・」
「左之、どうしてそれを・・・・・?」
隠し果せたと思っていた事実を左之助から抑揚のない声で告げられ、剣心の瞳が揺らぐ。
「弥彦から聞いたんだよ。でも弥彦を責めんなよ。アイツもなんだかんだと白を切り通そうとしていたのを 俺が責めたてて吐かせたんだからな。」
「そうか・・・・弥彦に悪いことをしたな・・・・」
「だけど・・大事なことはそんなことじゃねぇ。お前が走って来る姿を見て やっと気づいたんだよ。俺は大馬鹿だったって・・・・ちっとも俺らしくねぇってな。」
「左之?」
見つめる左之助の瞳は 驚くほど黒々と輝いている。その中に不安げに見上げている自分の顔が写っている。
左之助はいったい何を言わんとしているのだろう。
左之助の瞳は何か強い意志を湛え、その中には迷いや翳りは塵程にも浮かんではいない。昨日桜の下で見た時とは明らかに違う輝きを 左之助の瞳は放っていた。

「なぁ、剣心・・・・・・俺と一緒に来てくれねぇか?」
「えっ?」

自分の耳を疑った。俄にはその言葉が信じられず、剣心の瞳は大きく見開かれた。水晶のように深い碧を湛え、零れ落ちそうなほど見開かれた瞳は ただ呆然と左之助を眺めている。今聞いた言葉が本当に音となって左之助の口から零れたもなのか、或いは別の意味合いがあるのだろうかと 様々な考えを思い巡らせてみる。
左之助と共に歩むということを一度たりとも考えたことがないと言えば嘘になる。しかし、それはいつも自分の胸の中の甘い想像にしか過ぎず、現実には起こりえないことであったはずだ。七年前のあの決別の時から二人の道が交わることはないと自分に言い聞かせ、またそれを信じて疑わなかった。
これは夢だろうか・・・・その疑惑を晴らすかのように 左之助の瞳が返答を促している。
驚きの時が過ぎると頭の中は急速に現実を剣心へと伝えだした。心の中の葛藤が逡巡の時間となる。迷う気持ちを振り切って 大きく頭を振る動作と共にやっと言葉を吐き出した。
「ダメだ・・・・行けない・・・・」
頭を振り続ける剣心に 左之助は壁を支えていた腕を剣心の肩へと落とし、手が余るほどの細い肩を掴み、その小さな頭ごしに囁きかけた。
「何故? もうお前を縛る物なんて何にもありゃしねぇじゃねぇか。」
「左之・・・・俺は・・俺は、お前の側には居られない。」
「なんで、なんでだよ? 俺はお前に側に居てて欲しいんだよ・・・剣心・・・・俺の気持ちは変わらねぇ、今でもあのころの儘だ・・・・嘘も飾りもねぇ。世界中を渡り歩いても欲しいと思うのはお前ただ一人だけだ。」
「左之・・・・」

どう応えればいいのだろう。
真摯な言葉を紡ぐ左之助に見つめられて 諦めた想いが再び心の中を占領する。この胸がどれほど恋しいと思ったことだろう。その度に自分の罪の深さを思い知らされ、心は明かりの差さぬ深い闇を彷徨う。偽り続け、騙し続けた人への詫びの言葉も見つからぬ儘に。
左之助が日本を離れて行ってから抜け殻のように過ごした日々。夢の中で腕を伸ばして左之助の手を取ろうと藻掻きながら、届かぬもどかしさに何度も悩まされ 眠れぬ夜を過ごした。惜しみなく注ぐその笑顔を その言葉を その優しさを想い出の中からひとつひとつ拾いながら・・・

この腕を拒めばまた眠れぬ夜が訪れる。
偽りの心を語れば魂が悲鳴を上げる。
この胸に寄り添えば 左之助の未来を奪い取っていく。

堅く目を閉じ、唇を噛む。
揺れる心を切り捨てるように一つ大きく頭を振ると しっかりと左之助の目を見据えた。
「ダメだ、左之。これから結婚をして幸せな未来が待っているお前の側に 俺は居られやしない。」
張りつめた剣心の言葉を裏切るように 何が可笑しいのかいたずらっ子のような笑みを頬に浮かべて左之助が笑っている。
「結婚なんかしやしねぇよ。嘘だよ、ありゃぁ・・・」
「えっ?・・・・」
「確かにこんな俺に 娘を遣ろうってぇもの好きはいるぜ。だけど俺はこの七年間、片時もお前のことを忘れることが出来なかった。いい加減、諦めの悪さに自分でも辟易するくらいにな・・・・潮時かもしれねぇと思ったんだ。日本へ帰ってお前の幸せな面でも見たら、今度こそ諦めもつくんじゃねぇかってな・・・・久しぶりに会ったお前は 嬢ちゃんとはうまくいっているようだった。お前の笑顔を見て、良かったと思ったよ。だけど、それと同時にその笑顔を見てるのが辛い自分も居てな・・・お前に結婚するって言っちまえば、自分の道も決めれるんじゃねぇかって、そう思ったんだよ。」
「うそ・・・・?」
「ああ、だから・・・」
躊躇う言葉を促すように 左之助が静かに囁く。
「聞かせろよ、本当の気持ちを・・・」
「左之・・・お前を裏切った俺をまだ想っていてくれると・・・・?」
「裏切り? お前はずっとそう思っていたのか・・・?」
左之助の眉があがり、意外な言葉を聞くと表情が物語っている。
「裏切ったのはお前だけじゃない。お前を想いながら薫と一緒になった俺は お前も薫もそして俺自身でさえも裏切ったんだ。そんな俺がどうして今更、お前の胸に縋れる?」
「剣心、俺は裏切られたとは思っちゃ居なかったぜ。むしろ逃げ出した俺を お前が恨んでいるんじゃねぇかと思っていたぐらいだ・・・」
「恨む? 何故?」
今度は剣心の目がしばたいた。
「あの頃、俺はお前を守ってやりたかった。際限なく自分を傷つけるお前を、お前を苦しめる総ての物から守ってやりてぇと思った。でも実際は守られていたのは俺の方じゃねぇか。どんなに足掻いたってお前の腕には遠く及びもしねぇ。腕だけじゃねぇ。子供じみた俺の我が儘を お前はいつも黙って受け入れていた。その腕も精神力も子供(ガキ)の俺じゃ到底太刀打ちは出来ねぇ。俺はその度に自分が情けなくって やりきれない劣等感に苛まれちまった。お前を想えば想うほど俺の劣等感は大きくなっちまう。そんな俺の焦りや苛立ちさえもお前は黙って受け入れ、俺を癒し続けるじゃねぇか。敵わねぇと思ったよ。所詮俺では お前を幸せにすることなんか出来やしねぇってな・・・嬢ちゃんがお前のことを想っているってぇのは 周知の事実だ。諦めちまって及び腰の俺よりも お前が嬢ちゃんを選ぶのも当然と言えば当然なこった。何より嬢ちゃんなら お前に家庭の安息ってぇもんを与えてやれる。これで肩の荷が下りたと思ったぜ。つまんない劣等感から解放されるってな。そう思いながら、お前の幸せを側で見続ける勇気もなくって 俺は日本を逃げ出しちまった。だのに、一日たりともお前のことを忘れることなんか出来やしなかった。あんまりにも未練たらしくって 自分で自分が情けなくって涙が出らぁな。」
「左之、それは違う・・・・俺はお前に甘えていたよ。お前の前に居る時には いつもそのままの自分で居られた。俺が人斬りであろうと何であろうと そのままの俺を見つめて受け入れてくれた。どんなにそれが心安まったことか・・・その気になればどんな女でも選り取りだろうに お前が何故俺になど興味を示すのか分からなかったが、俺はその居心地の良さに甘んじていた。初めて心を許せる相手だと思った。それなのに俺はお前の気持ちを知りながら 自分がかわいいばっかりにお前と自分の罪の償いとを天秤に掛けたんだ。これが裏切りでなくて何だと・・・・」
「天秤に掛けたってどういうこった? お前は嬢ちゃんが好きで一緒になったんじゃねぇのか?」
「お前への気持ちを惚れたというのなら 薫には惚れてなどいない・・・・」
「じゃぁ、何で嬢ちゃんと・・・・・?」
薄暗い長屋で突然に剣心が薫とのことを切り出したあの日の言葉が胸に浮かぶ。いつかはそんな日が訪れるような気がしていながら いざ剣心の口から言われると嵐のような衝撃に感情が凍り付いた。事実だけを告げる剣心に薫への気持ちを勝手に推察したのは確かに左之助自身だった。割り切れない剣心の返答に 昔の事件が心に浮かんだ。
「罪の償いって・・縁なのか? 嬢ちゃんが縁に拉致されたからなのか?」
「ああ・・・」
「聞かせてくれ、剣心。あの時いったい何があったのかを。」
肩を掴んでいた手に力が入り、視線を外した剣心のその目を追って揺さぶりながら問いかける。
変わらないと思った。昔もこうして左之助は 自分の真っ直ぐな思いをぶつけて 閉ざした心を開いていく。まるで夏の太陽のように隠された部分の隅々まで照らし出し、明と暗をはっきりと分ける。その陽の元ではどんな隠し事も許されなかった。
左之助の気持ちに応えるにはすべてを話すしかないだろう。思いを見極めて黙って頷いた。そして、肩を掴んでいる左之助の手をそっと外して、寝台の端へと促した。
「座ろう、少し長くなる。」
「ああ。」
二つ並んだ寝台の入り口に近い方の足下に腰を降ろす。窓から差し込む光は明るいのに 高い天井と漆喰で白く固められた壁がやけに寒々しく感じられるのは 今から告げる話の所為か。向かいに置いてある椅子に腰掛けると思った左之助が 剣心の側へ寄り添って腰を落としたのは 自分を気遣ってのことらしいと頬に感じる視線で気がついた。静寂の時間が二人を支配し始めた頃、ようやく剣心がためらいがちに切りだした。
「金輪際語るつもりはなかった。でも、薫が縁の元へと行った今なら話してもいいだろう・・・」
俯いたまま膝の上で組んだ手を見つめて 重い吐息を一つ吐く。そして次に真っ直ぐに顔を上げ、壁を見つめて剣心が言った。
「剣路は俺の子じゃないんだ・・・・」
「ああぁ!? 何だってぇ? 嬢ちゃんがうわ・・・・・」
驚いて早急に出した答えに 剣心が眉一つ動かさないのを見てすぐに誤りだと気づく。
「いや、違うな、嬢ちゃんはそんな女じゃねぇ・・・と言うことは・・・・・・」
「ああ・・・お前のことだ、もう解っただろう? 」
「でも、あの時、当然そんなことも考えられたから 俺は何度も恵に念を押したんだぜ? 嬢ちゃんは大丈夫なのかよ?って。そうしたら、下衆(げす)の勘ぐりで物を言うなって えれぇ剣幕で俺に食ってかかったんだぜ。あんたよりもよっぽど縁の方がそういう点では紳士的だわよって。」
「俺が恵殿に頼んだんだ・・・誰にも言わないでくれって・・・・俺への復讐だけを考える縁にとって 拉致した薫に乱暴を働くのは 何より俺への痛手となると思ったんだろう。神谷の家でやっかいになっているのは 薫が俺の女だと誤解していたようだから・・・東京へ帰ってからすぐに俺を診察する恵殿に尋ねたんだ・・・薫は大丈夫なのか?って・・・・黙って何も答えない恵殿の目が 全てを物語っていたよ。俺が神谷へ居候をしたばっかりに 薫を巻き添えにしてしまった・・・・女にとってどんなに辛い思いをしたことか・・・だから、死ぬまで俺と秘密を共有してくれと恵殿に頼んだ。俺の所為で酷い目にあった薫を 好奇の目に晒したくはなかった・・・あの笑顔を少しでも取り戻してやりたいと思ったんだ・・・・」
「だから嬢ちゃんに手を出したってか・・・・」
苦々しい物を飲み込んだような顔で左之助が聞き返した。
「ああ・・・・乱暴を受ければ当然、子供が出来ることも予想が出来た。これ以上、薫を辛い目に遭わせたくはなかったんだ。幸い薫はこんな俺のことを想っていてくれるようだった。今度こそ守ってやりたいと、世間からも過去からも守ってやりたいと そう思ったんだ。だから薫を・・・・そうすれば、もし、子供が出来ても月足らずと言い訳がつくと・・・・」
「それで嬢ちゃんは素直にうんと言ったのか?」
「いや・・・・左之助、俺は酷い男だよ・・・・俺が薫を誘った夜、薫は縁のことを俺に伝えようとしたんだ。だけど、俺は聞きたくはなかった。薫の口から俺の罪を暴かれるような気がして・・・・それに、俺が同情で一緒になるとは 薫には思って欲しくなかったんだ・・・・だから、薫の重荷を永遠に封じ込めてしまった・・・・薫を守ってやりたいと思いながら 一緒に秘密を背負うことを拒んだんだ・・・・
薫は俺にとってはかわいい妹のような存在だった。いつも明るくて元気すぎるところも すねて我が儘を言うところも俺には好ましく、何でもしてやりたいと思ったよ。俺の愛情がたとえ偽りであっても 生涯を掛けて俺は自分を騙し続け、薫を騙し続けるつもりで居た。それが俺が出来る薫への罪滅ぼしだと思ったんだ・・・・」
そこで剣心は小さな溜息を漏らした。その横顔を見つめる左之助の脳裏に 自分と薫の間で揺れる思いなどこれっぽっちも見せなかったあの日の剣心が浮かぶ。から元気で祝いを言う左之助の言葉に沈んだ表情で頷いていたのは 左之助への配慮ばかりではなかったのだと 今やっと気がついた。 
「だけど・・・・偽りはいつかは綻ぶものだと俺は気づかなかった・・・・
一緒になって、しばらくすると薫が体の不調を訴え始めた。俺は来るべき物が来たと思った。薫のお腹の子はどちらの子か解らなかったが、それは俺が望んでそうしたことだ。悔いはなかったよ・・・・それどころか、俺は新しい命が嬉しかったんだ。薫が生むこの子の父親は俺だって・・・やっと俺にも家族が持てたような気がして・・・・
左之助、赤ん坊って本当にかわいいものだな・・・・」
剣心の静かな声が急に笑みを含んだ。
「んなもん、持ったことのねぇ俺に分かるかよ。」
剣心の問いかけに即座にすねたような返答をする左之助へと 「そうだな。」と短く答え、それが何を意味するのか自嘲気味の笑みを頬に刷いて また剣心は語り出した。
「生まれてきた子は薫によく似たかわいい男の子だった。無垢な心で無心に親へと保護をねだるんだ。こんなにも愛しい存在がこの世にあるのかと 俺は初めて知ったよ。剣路はよく笑い、よく泣いた。家の中は剣路が中心となって 俺達は振り回された。弥彦でさえ練習も忘れ、剣路をあやしていたぐらいだ・・・よく世間では目の中に入れても痛くないなどと言うが、俺にとって剣路は当にそれだったよ。この小さな命のためならこの命を投げ出しても惜しくないと思った。病気らしい病気もせずに剣路はすくすくと大きくなっていった・・・・でも・・・・・」
言いかけた言葉が途切れる。小さな肩がかすかに震え、静かすぎる室内で剣心がまとっていた空気がわずかに揺れていた。
太陽が雲の間に隠れたのか 窓から差し込む日差しが翳り、一層の重い空気が漂う。
顔を上げた剣心が 翳った窓へと顔を背け、遠くを見つめて口を開いた。
「あの日は雨が降っていたんだ・・・・
薫と弥彦はいつものように門弟達に稽古をつけていて 剣路の守は俺がしていた。歩けるようになった剣路は 外へ出たいらしく、ぐずぐずと駄々をこねだしたから、宥めるために 俺は剣路の口へと金平糖を入れてやったんだ・・・幸せそうな顔をして舐めていたよ。そして無くなるとまた呉れとねだった。二,三粒舐めさせたところで 俺は金平糖を取り上げたんだ。剣路は泣いて呉れとせがむ。でも、俺は与えなかった。小さな子は際限なく欲しがるものだから・・・・剣路はずっと泣き続けていた。そして、そのうちに顔を上げて俺を見たんだ。恨めしそうな顔をして・・・・その目が・・・あの雪の日の縁の目だった・・・・凍えるぐらい冷たい、暗い目だった・・・・」
「そんなのはお前の思い過ごしだろ? いくら何でもそんな小せぇ子に・・・」
「ああ・・・俺もそうだと思った。何を馬鹿なことをって・・・・たとえ今更、剣路が縁の子だと分かったとしても 剣路がかわいいことには変わりはなかった。剣路が誰の血を引いていようが 関係ないと思えた・・・・だけど・・・・・剣路が大きくなるに連れ、時折見せる剣路のその目が いつも俺に縁を思い出させた・・・・
一面の真っ白な雪の中で 止めどなく溢れる鮮血と白梅の香り・・俺の罪を責めるあの冷たい目をした縁が・・・・・
剣路の目が俺に 忘れるな、人斬りの罪は生涯消えやしないと訴えかけているようで・・・・・」
比古の元を旅立った日からわずかに狂い始めた歯車の軋みが次第に大きくなり、運命のいたずらに翻弄され続ける剣心がそこには居た。それは頬に残る傷跡と同じように 何時までも剣心の心から消え去ることもなく、今もなお血を流し続けていると左之助には感じられた。
言葉もなくただ黙って剣心の横顔を見つめ続けていた。
静かな部屋に剣心の絞り出すような低い声が響く。
「堪らなかったよ・・・・・
何よりも大切だと思える我が子の目が見られないんだから・・・
剣路をかわいいと思いながら 次第に俺は剣路を畏れていった。そして、その目から逃れる為に 浦村さんが持ってくる警視庁の頼まれ事を引き受けて 家を空けることも多くなった。そのうちにしばらく呼び出しが掛からなければ まるでご用聞きのように俺から出かけて行ってまで 浦村さんに何か事件はないかと尋ねる始末だったよ。そんな俺の態度にいつしか薫も不安がり、悲しそうな顔をしていた・・・・薫にすれば俺が縁のことを知っているのじゃないかと 心配で堪らなかったのだろう・・・・最初に俺が封じ込めてしまった秘密を 今更引き出すことも出来ず、ただ心配そうに俺を見ていた。そんな家庭が何時までもうまく行くはずはなく、小さな亀裂は次第に大きくなっていった・・・・・
縁がそう願ってし向けた理由じゃないだろうが、復讐と言えばこれほど的確に俺を苦しめる物はなかっただろう・・・・」
因果は巡るってぇやつか・・・・・・左之助もまた胸の内で苦い呟きを漏らした。
お互いの胸の内での自問自答が 再び室内に静寂をもたらした。
薄暗かった部屋に再び日差しが零れ、膝の上で組んだ左之助の手に窓枠の桟が映し出されている。視線を移した窓に映る木々は 雲間から顔を出した太陽に照らされて明るい表情を見せている。その明るさがやけに眩しく感じられ、重苦しさから逃れるように左之助が沈黙を破った。
「だけど何で嬢ちゃんは縁の所に行っちまったんだ? お前への当てつけか?」
即座に剣心が首を振る。
「いや・・・・男と女というのは不思議なものだな、それとも人と言うべきか・・・・島で縁と過ごした日々が 必ずしも薫にとっては辛いことだけじゃなかったって事だ・・・・始めは縁に恐怖を感じ、逃げることばかり考えたそうだ。・・・・だが一緒に過ごすうちに何の飾りもない縁の裸の心を見たそうだ・・・・それは幼い子供が道に迷って泣いているような、そんな頼りなげな儚げな物だったらしい・・・・・
左之・・・・女という生き物はみんな菩薩のような心を持っているのかも知れない・・・・広い大きな心で全てを包んでしまう、丁度母親のような温もりを・・・・・
薫はきっと俺にもそんな手を 差し伸べていたのだろう。だが、お前しか見えない俺は 気付くこともなかった・・・薫の幸せを守ってやりたいと思いながら、俺は薫の女としての幸せを考えることもなく、ただ側にいて 偽善の優しさをちらつかせるしか出来なかったんだ。薫の心細さを知っていながら、抱いてやることも出来ず、ずるい俺は薫が訴えかける不安をも 笑顔で闇に葬った。そんな頃に縁と街で偶然再会したそうだ・・・・縁は武器の密売をしていた頃のつてで 今は上海で各国の製品を売りさばいているらしい。それで日本にも度々やって来るそうだが、縁自身も知らずと薫に惹かれるものが有ったのだろう。薫が剣路のことを言うと最初はずいぶん驚いたらしいが、しかし剣路をとても可愛がったそうだ・・・・」
「あの縁が?」
「ああ。縁があれだけ復讐に執着したのも元はと言えば家族への強い愛情から出たものだ。本当の縁は姉思いの優しい子だ・・・・」
「それで嬢ちゃんは縁に靡いたってか・・・・?」
「平たく言えばそういうことになる・・・・冷たい俺の元に居るよりも縁の方が剣路のためになると言われた時には何も言えなかった・・・・剣路は縁の子だし、親子三人の間で余所者は俺だと言うことだ・・・薫自身も幼い少女の憧れを恋と勘違いしていたということに 大人になって気づいたんだろう。何より心の通わぬ夫では 砂を噛むように味気ない生活で さぞ寂しい思いをしたことだろう・・・・」
ほぅっと息を吐き、自分の人生の後悔を滲ませる。透けた肌に震える長い睫毛が影を落とし、博多人形のように整った顔立ちを翳りの中に包み込む。
淡々と語る剣心の言葉の中に 脆く壊れてしまいそうな心を隠し、消せない過去の重圧に今も苦しみ続けている姿を見て 左之助はその心を守ってやりたいと切に願った。
ふっと顔を伏せて俯いた剣心の唇から ぽつりと自嘲の言葉が漏れた。
「左之助・・・俺は何一つ救ってやることも出来ないで、かえって災いばかりをもたらせている・・・・いつも俺は疫病神だよ・・・」
途端に左之助の表情が変わった。
「あん!? 何て言った!!今よぉ??」
剣心の胸ぐらを掴み、阿修羅のごとくの形相で顔一杯に怒りを顕している。噛みつかんばかりの勢いで寄せた顔は眉はつり上がり、額には青筋が浮かんでいる。
「何て言ったかって聞いてんだよぉ!! 疫病神だとぉ!! お前、それ、本気で言ってんのか?」
「さの・・・??」
腹の底から響く大声で剣心へと叫びながら、襟元を掴みあげキリキリと剣心の首をねじ上げる。急な左之助の剣幕に怒りの意味が理解出来ない剣心の瞳は ぼうっと見開かれている。
「お前の周りにいる奴等はこれっぽっちもそんなことは思っちゃいねぇ! あの縁の島へ渡る時だって、誰一人、一緒に行かねぇとは言わなかったはずだ! みんなお前が何をしてきて、何のために闘っているか それを知っているからお前に力を貸したんだろうが!! あの小さい弥彦でさえ、満身創痍の体でお前の信念を良しと思うから 力一杯闘ったんだろうが! それをお前がそんな風に言ったら、あの弥彦の気持ちはどうなる!? 弥彦だけじゃねぇ!! 俺だって、蒼紫だって浮かばれやしねぇぜ!」
「すまぬ、左之・・・」
左之助の言葉が刺のように突き刺さる。何時のまにか弱い心が甘えの言葉になって表れていた。詫びる剣心に ふっと小さな息を吐き、左之助は掴んでいた腕の力を緩めたが、手はまだ襟首を握ったままだった。
「お前は嬢ちゃんのことを気にして言ってんだろうが、考え方を変えりゃ、嬢ちゃんはお前のお陰で本当の幸せを掴んだとも言えるじゃねぇか? 確かにお前と嬢ちゃんの夫婦生活は幸せじゃなかったかもしんねぇ。でも、あの時、もし縁が嬢ちゃんを連れて行くと言ったらどうだ? 嬢ちゃんは喜んだかい? 答えはいいえ、だ! 少なくともあの時、お前の気持ちに 嬢ちゃんは救われたんじゃねぇのか? お前との生活があって、嬢ちゃんも大人になって、それで今度こそ自分の本当の気持ちで 出て行ったんだろ?
だったら、それを後押ししてやったぐらいのことを思ってもいいんじゃねぇのか?」
興奮した気分を幾分落ち着かせようと努力をしながら 諭すように左之助は剣心へと語りかけた。だが、剣心の目はそれをはっきりと否定していた。
「それは暴論だ。少なくとも俺は薫を守ってやろうと思っていたくせに、蓋を開ければ自分の犯した罪と自分の心に振り回されて、何一つ、満足に薫の幸せを守ってやれなかった。目に映る人々の幸せを願いながら 目の前の一人の人間でさえも幸せに出来なかったんだ。」
上げた視線が左之助と絡みつく。捕まれた襟を離そうと 左之助の手に自分の手を重ねながら 剣心はキッパリと言葉を吐き出した。絡み合った視線はどちらも譲らず、膠着状態が続く。その均等を破り、先に視線を外したのは剣心だった。
「いつもそうだ・・・・・俺が守ってやりたいと思ったものは 俺自らの手で壊してしまう・・・・・・・・・・」
独り言のように呟いたかと思うと 逸らした目を左之助へと向け、今度はしっかりと見つめて言った。
「だから、左之。お前と一緒には俺は行けない。」
「うるせぇ!!! 誰が守ってくれって言ったよぉ!誰がお前に幸せにしてくれって言ったんだよ!! 自分の思いこみによれるのも大概にしやがれ!! お前に守って貰わなきゃならなかった七年前の俺程 もう弱くはねぇつもりだ! 今度は俺がお前を守ってやる!! お前のその苦悩も罪も全部、俺に預けろって言ってんだよ!」
「さ・・・の・・・・」
「いいか、良く聞けよ! 俺がお前を守る。この左之助様の人生すべてを掛けて 守り通してやるって言ってんだよ! だから!!・・・ お前のその苦しみを俺に預けろよ・・・・一緒に背負ってやるから。」
怒っているのか泣いているのか 苦しげに歪む左之助の表情を見つめる剣心の見開かれた瞳が 驚きと困惑が綯い交ぜになって揺れ、瞬く。今まで歩んできた人生の中で 誰かに自分の罪を一緒に背負わせたことはない。誰かに預けたこともない。守ることは考えても守られるなど思いもしなかった。七年前のあの時でさえも 自分の罪は自分だけの物だった。後生大事に抱きかかえたその重荷を すべて引き受け、盾になってやると冴え冴えとした光を放って黒い瞳は語る。こんなにも強い想いで包もうとする左之助の心に 剣心の心は震え戦慄いた。
滲んだ目の端から大粒の涙が湧き上がり、窓から差す光に彩られて剣心の頬を揺らめきながら零れ落ちた。
その涙を指で拭い、小さな頭を抱きかかえ、愛おしそうに包み込みながら左之助が耳元で囁きかける。
「なっ、俺を信じろよ。二度とお前の側を離れやしないから。」
欲しかったのはこの腕だ。長い間焦がれていたのはこの胸だ。息も出来ない程に抱きしめられ、心の中の城壁が崩れ落ちていく。むせる程の左之助の匂いに包まれて、次第に心が軽くなっていくように感じられる。昔も今も、自分の過ちを飲み込み、包み込む温かい胸に抱かれて、剣心は肩を震わせ続けていた。
昔よりもみっしりとついた左之助の胸を覆っている筋肉を通して 規則正しい鼓動が聞こえる。しっかりと力強く脈打つそれは 何よりも頼もしく、例えようのない安心感を剣心へともたらす。

髪の毛に口づけ吐く息が 頭の芯を伝わり耳朶へと流れる。髪に潜る指が 愛おしげに剣心の髪を揉みしだく。凪いだ海にゆらゆらと漂う小舟のような心地よさに しばし剣心は心を預けていた。
「剣心。」
不意に名を呼ばれ、閉じた瞼を開く。漆黒に輝く左之助の瞳が柔和な色を浮かべ、真摯な気持ちを伝える。髪を伝っていた指が剣心の頬に回り、微笑を浮かべた唇が静かに剣心の上へと舞い降りた。
優しい温かさと情熱が 重ねられた唇から伝わり、左之助の色を満たしてゆく。優しく啄み、舌を絡め、深く潜り、離れていた時間を取り戻すかのように貪りあう深い口づけは 剣心の意識を溶かし、何度も夢見た昔へと誘う。

永遠という時間の流れがあるのなら 今、この時のまま止まってしまえばいい。巡り来るあの目覚めの辛さを 二度と味あわなくても済むように。

そう心から願い、細い腕を左之助の背へと回した。
お互いの唾液が唇を伝い、離れがたさに糸を引く。うす紅色の艶やかな剣心の唇に残るそれを 親指で拭き取りながら、細められた黒い瞳は優しい笑みを浮かべていた。
「一人で背負うなよ。一緒に歩こう。」
「左之。こんな俺をお前はまだ・・・」
「ああ、さっきも言ったぜ。世界中何処へ行ったって 欲しいもんはお前しかないってな。」
「俺はいつか、またお前を傷つけてしまうかもしれない・・・きっと後悔することになる・・・・」
「んなもん、恐かねぇ。俺はそれほど柔じゃねぇし、後悔するかどうかは一生を終えてみなくちゃわかんねぇ。」
「左・・・」
言いかけた言葉は左之助の唇の中、音も反論も飲み込んでゆく。絡めた舌を少し解いて、重ねた唇の隙間から 左之助の言葉が漏れる。
「何も言うな。ただ黙ってうんと言えよ。」
「本当にこんな俺で・・・」
「剣心・・・」
心の底から溢れだしたかのように名を呼んだ口唇が 剣心の口唇へと再び落ちてくる。壊れ物を扱うかの様な優しい仕草で抱きしめられて そっと寝台へと横たえられる。
額に頬にと降りかかる口唇は絶え間なく剣心の名を呼び続けている。
左之助が俺を求めている。こんな俺でも求め続けてくれている・・・
その声の響きの中に含まれた左之助の想いの総てを受け止めながら、左之助が(いざな)って行く情欲の火が点され始めることを感じる。
左之助の口唇が頬を伝い耳朶を嬲り忘れていた感覚を呼び起こし、耳の中へと熱い吐息を吹き込んで剣心の背をぴくりと撥ねさせた。
「・・・ん・・・」
「・・・・・・・・」
漏れ出た吐息に沈黙が重なる。閉じた瞼に左之助の視線を感じて目を開ければ、嬉しそうに笑う左之助の笑顔が飛び込んだ。
「うんと言えよ。」
敵わない・・・・
くつろげられた胸元に左之助の唇が落ち、肌の上を彷徨う。うす紅色の密やかに息づく胸の尖りを左之助の舌が捕らえ、唇で啄み、巧みに刺激する。自由に彷徨っていたもう片側の手が 下腹部を滑り、剣心の内股(うちもも)を撫で上げた。
「・っ・・・んっ・・・・」
剣心の背がしなやかに撓み、左之助に欲情を伝える。
溺れそうになる快感にもう抗う術はない。どんなに口で強がって見せたところで自分が思うより 心は左之助に向かって開いている。左之助の手が触れるたびに肌は熱を持ち、快楽への予感に疼き出す。
「・・・俺の・・・負けだ・・・・」
切ない吐息の間に混じるその言葉を聞いて満面の笑みをたたえて左之助が見つめる。赤銅色の肌の奥では喜びに溢れた瞳が深い愛情を秘めている。その眼差しの光に当てられて 剣心は最後の砦を手放した。


伸ばした指がシーツを掴む。
重なる背中に左之助の体温を感じながら 持ち上げられた腰がみだらに揺れる。
身体の奥は左之助の熱に満たされ、動く度に背中に稲妻が駆け抜ける。
魂が溶け合うとはこういうことを言うのだろうか。
穿たれる体の痛みよりも快楽( けらく ) が勝り、押し寄せる快楽よりも左之助への愛しさが勝る。
背後から抱きすくめられ、片手で二人の体の重みを支えながら 腰を揺らす左之助の額から汗がしたたり落ちて頬にかかる。快楽に溺れる汗と混ざり合い、ひとつとなって褥の上へと落ちていく。そんな些細なことまでが喜びとなって 熱に浮かされた唇から愛しい人の名が漏れる。
甘い嬌声とむせる程の熱に満たされて 濃密な時間が時を刻んでいた。
窓の中に雲が流れ、ねぐらを探す鳥たちが数羽の群れとなって横切ってゆく。何時しか外はうす紅の色に染まっていた。


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