〈第9章〉                 〈1.2.3.4.5.6.7.8.10.11
                              9-2.9-3

その日、左之助が走る列車から飛び降りて 駆け落ちよろしく剣心と手に手を取って走り去ったと言うことが 町ではちょっとした噂になった。
妙や燕達と赤べこへ戻ると 見送りに来ていた面々も後からぞろぞろとやって来た。俺は調理場に一番近い、他の席からは見えにくい場所を選び、衝立の陰に隠れるようにして座った。俺がここにいると分かれば、いったいどんな質問攻めにあうか分かったものじゃない。見送りに来ていた人々はそれぞれ親しい者達と輪を作り、鍋をつつきながら案の定、話題は左之助のことでもちきりだった。
「左之さん、いったいどうしちまったのかなぁ?」
「きっとコレのことを思い出したんじゃねぇのか?」
答えた男は小指を立ててニヤリと笑っている。途端に周りからどっと笑い声が上がり、口々に囃し立てる声が飛び交った。
「でもよぉ、俺見たんだけど一緒に走って行ったのは どうやら緋村の旦那らしかったぜ?」
訳知り顔で左之助の舎弟の一人が 声を上げた。
「じゃぁ、なにかよぉ?おめぇ、左之さんは緋村の旦那と駆け落ちか?」
ひときわ野太い声で話を混ぜっ返したのは 左之助の賭場友達だった大工の太助だ。
「白昼堂々と男同士でみんなの前で駆け落ちなんて話は 古今東西聞いたことがありやせんぜ。」
すかさず、舎弟の銀次が反論する。
「じゃ、深川辺りの綺麗どころの使いで 緋村の旦那が駆け落ちの手引きってぇ寸法だ。」
「左之さんも罪だねぇ。」
どうしても駆け落ちにしたいらしい。そこでまたみんなからわっと笑い声が上がった。
「しかし、緋村の旦那と言やぁ、そんじょそこらの姉さん達よりよっぽど綺麗でやんすよ? ちょいとお武家にしておくのも勿体ないような。」
「そうそう。色が抜けるように白くってよぉ。俺ぁ、一度でいいからあの頬に触れてみたいねぇ。」
シナを作り夢見るような表情で 左之助の長屋に今も住んでいる左官屋の作蔵が言った。
「よせ、よせ。いくら緋村の旦那が俺たちとも親しくしてくれるからと言っても相手はお武家だ。おめぇなんか腰の物で一刀両断に斬られちまうよ。」
「おお、そうよ。それにお前、そんな話をお美世さんに聞かれてもいいのかい? やっと頼み込んで去年、(カカァ)に貰ったばっかりなんじゃねぇのか?」
「お美世さんの方で縁切り状を持って待ってるわって 俺ぁ、朝聞いたばっかりだぜ。」
「このヤロー! そんなデマを言うとぶっ飛ばすぞ。俺とお美世は差しつ差されつ 人も羨むいい仲なんだよ。」
「そう思っているのはテメェだけだろうが。」
「ナニおー!このヤロー!黙って聞いてりゃホラばかり吹きやがって。一度懲らしめてやらぁ。表へ出ろい!」
とうとう作蔵と向かいに住む桶屋の鎌吉が掴みあいの喧嘩を始めた。それを止める者、やんやと囃し立てる者で店の中はてんやわんやの大騒ぎだ。

徳川の時代から江戸の名物と言えば火事に喧嘩が挙げられるほど 江戸っ子は三度の飯より喧嘩が好きだときている。機会が有れば一戦交えようという者達ばかりだから 妙も店の奥でオロオロと雲行きを危ぶんでいた。
集まった者の中で 体もひときわ大きい年長の藤助が仲裁に入り、やっと騒ぎは収まった。騒ぎが収まればまたぞろ左之助と剣心の話で場が賑わった。

駅で会った友人と遊びたそうにしていた央太に銭をやり、「蕎麦でも食ってこい。」と先に帰して良かったと胸を撫で下ろしながら、俺はその話を独り衝立の向こうで 赤くなったり青くなったりしながら聞いていた。
それぞれの憶測が飛び交い、仲町の朝吉姉さんと左之助がいい仲だったとか いやいや深川の音弥だろうと知る限りの情報と推測が その場の肴となって座は盛り上がっていた。結局の所、剣心が来たのならこれはまた何か事件に違いないと 喧嘩好き達が自分の活躍の場を求めるように左之助の一件を纏めてしまった。そうなればなったで じゃぁ、自分も今から行って手助けをと言う者が出てきて 
「よせ、よせ。お前が行っても足手まといになるだけだ。それにそんなことをしてみろ、後で左之さんからこっぴどく叱られちまうぜ。」
と言う藤助の一言で 翌日にでも事件の真相を訊ねようと大方の意見は纏まり、烏が寝床へ帰る頃にようやく三々五々腰を上げた。
後に残された俺は 深い疲労感を覚え、脇の下にぐっしょりと汗を掻いていた。
物見高い奴等とは別の意味で 純粋に二人のことを心配する妙や燕には適当に言い繕って 剣心が帰っているかもしれないからと夕暮れの街の中、赤べこを後にした。


家に辿り着くまでの間、俺の頭の中には様々な思いが飛び交っていた。
あいつら、人の気も知らねぇで・・・ いったい二人して何をしているのか知らねぇが 人騒がせにも程があると腹の中は煮えくり返る。
下手な嘘まで付いてあんなに頑なに見送りに行くことを拒んでいたくせに 突如として汽車の前に現れた剣心に やはりと思う気持ちと剣心らしくもないと思う気持ちが交互に浮かんでくる。いつも冷静で一度決めたことには頑固な剣心が 俺や央太の目があるにもかかわらずやって来るとは・・・剣心という人物を その心の中を改めて俺は考えさせられた。

剣心を知る人の中で誰よりも側で見つめ、共に過ごしてきた筈だ。剣心はいつも俺の指針だった。子供の頃は剣心と肩を並べる左之助が羨ましくて 強くなりたい、大きくなりたい 早く二人に追いついて自分も仲間に加わりたいと願った。こうして背丈も大きくなり、独り立ちする歳になっても 剣心は俺をまるで子供と同じ扱いだ。いつまで経っても本当の思いは心の中に隠したままで 俺には笑顔を見せる。だからどんなに俺が足掻いたって力にもなれず、追いつくことも出来ない。そんな焦燥感が俺の心を締め付け苛立たせていた。
それは、言い換えれば大事な人を左之助に取られるというような 子供じみた嫉妬だったのかもしれない。
もしかして剣心はこのまま帰って来ないんじゃないだろうか、左之助が何処か遠くへ剣心を連れ去ってしまうんじゃないだろうかと、昨夜の二人のぎこちない会話を思い出しながら その考えを否定することにかなりの時間を費やした。


屋敷へ帰っても剣心はまだ帰ってきてはいなかった。
気を利かせて飯を炊いていた央太と残り物で夕飯を済ませ、手持ちぶさたな時間を苛立ちながら過ごした。だが、日が落ちきってしまっても剣心からは何の連絡もなかった。
夜はとっぷりと暮れ、風呂を済ませて いよいよ俺の心配も的を得ていたのかと思いながら廊下を歩いていると 玄関の方で物音が聞こえた。
慌てて走り寄ると 済まなさそうな顔をした剣心と その後ろには照れ笑いを隠すような表情の左之助が立っている。
「遅くなってしまってすまない、弥彦。」
「よぉ!」
剣心の謝る声と脳天気な調子の左之助の声とが重なる。
帰ってきた。その安心感が胸を覆うと 今日一日の不安や心配が急に怒りとなって俺の胸の内に沸々と沸き上がる。
「いったいテメェら今までどこに・・・・」
言いかけて俺はふと違和感に気がついた。俺の小言を待つように二人はまだ履き物も脱がず、玄関の土間に立ちつくしている。左之助の傍らに立つ剣心は俺の怒りを予想して 神妙な顔つきで口を一文字に結んでいるが その表情があまりにも穏やかなのだ。いや、表情と言えば語弊がある。決して剣心は微笑んだり笑ったりしていたんじゃねぇんだから。剣心が醸し出す気とでも言うのだろうか、口では説明しがたい剣心を包んでいる空気全体が 優しく和やかなのだ。
俺は剣心を見る時には 影が薄いような錯覚に陥るのが常だった。強靱な意志を持ち、俺にとっては絶対的な存在でありながら いつも俺の目の前からふっと消えていなくなってしまうんじゃないかと不安にさせるそんな空気を身に纏っていた。それは 長い間の流浪で身に付いたものなのか、或いは剣心の誰に明かすことのない苦悩が滲み出ているのか 俺にはいかんとも判別はつかなかったが 目には見えないそんな恐怖に心の片隅で怯えていた。
その剣心が 今夜はくっきりと俺の目に映る。蝋燭だけの薄暗い玄関で そこだけ花が咲いたように俺の目を引き留め、魅入らせた。
「ちょいと用事を付き合わせちまったついでに そこいらで蕎麦でも食っていたんだが、どうも杯を重ねちまったようですまねぇな。」
たいして済まなくもなさそうに左之助が後を引き取った。その目が笑っている。左之助もまた昨日までの糸が切れる瞬間のような緊張感はどこにも持ち合わせては居ない。
そんな二人の持つ空気が俺に後の言葉を飲み込ませた。これはどういうことだろう・・・ただ呆然としながらその意味を俺は頭の中で考えていた。
「あ、ああ・・・弥彦・・・左之は明日の汽車で帰るそうだ。だから今晩は泊めてくれと。」
黙っている俺をかなり怒っているのだろうと誤解をした剣心が 取り繕うように俺の顔色を伺って言う。
「なんだ。やっぱり帰るのかよ?」
「ああ、船を待たせてあるからな。一度戻って秋にはまたこっちに帰ってくるぜ。」
「左之は今日と同じ時間の汽車に乗るそうだが、弥彦の明日の予定はどうだ?」
「んなもん、行かねぇよ。また飛び降りられたんじゃかなわねぇからな。どうせすぐに戻ってくるんだろ。剣心だけ見送りに行けよ。俺も央太も稽古があらぁ。」
半分拗ねたような口ぶりで冗談めかして受け答えをしていると あんなに苛立ちを覚えた胸の内が不思議と落ち着きを取り戻している。それは剣心の帰る場所がここだという安心感に依るものだったのだろう。
「すまねぇな、弥彦。」
どうとでも取れるような言葉を吐きながら 左之助がニヤリと唇を持ち上げた。
(けっ、人の気もしらねぇで。)
俺は心の中で俺を苛立たせた張本人に毒付いてみたが、やはり左之助には敵わねぇやと諦めにも似た思いが湧いてくる。やはりコイツはいつも俺の一歩前を行っている。そんな思いだった。
「じゃぁ、俺は寝るからな。風呂はまだ温かいはずだから焚きつけなんかしなくってもいいぜ。後は二人で勝手にやっててくれ。」
手にしていた燭台を剣心に押しつけて 俺は自室へと引き上げることにした。
「ああ、すまなかったな。」
背中で剣心の声を聞きながら 後ろ手に手を挙げて了解の合図代わりとした。
暗い廊下を歩きながら なぜか瞼に剣心の幸せそうな笑顔が浮かんできて 俺の頬もいつしか緩んでいた。それは俺をも幸せな心地にするものだった。



翌日、左之助は剣心ただ一人に見送られて東京を離れていった。
左之助が旅立って行ってから後も 剣心に変わった様子は見られず、常と同じように朝餉の用意に始まって洗濯をし、買い物に行き、夕食の支度を整えるこの数年間と何ら変わることのない日常を送っていた。ただ一つ違っていたのは 俺の目には剣心が背負っていた影の部分が薄らいだように見えたことだろうか。手を伸ばせばその姿がふっと掻き消えてしまいそうな 陽炎みたいな儚さが消えていた。




或日、俺は剣心に相談があるからと離れへ呼ばれた。
「何だよ? 改まって相談って。」
勢いよく障子を開け放ち、何事かと思いながら剣心の前へと胡座を掻いて座った。
「ああ、弥彦。他でもござらぬが、そろそろ弥彦の祝言の段取りも決めずばなるまいと思ってな。」
とたんに俺は真っ赤になりながら座り直していた。
「しゅ、祝言なんて、適当でかまわねぇよ・・・」
どうも俺はこの手の話は苦手だ。年頃の友人たちの話は喜んで聞けるくせに こと自分の話となると どうにも尻の穴がこそばゆい気がする。そんな俺に剣心は優しい眼差しを向けながら語りかけた。
「弥彦はそれでかまわぬかもしれぬが 燕殿と燕殿のご両親の気持ちもあるだろうて・・・」
「お、俺と燕の間柄でぇ。小せぇ頃からのつき合いなんだから い、今更そんなに改まらなくったって・・・」
恥ずかしさばかりが先に立って早くこの話を打ち切りたい俺は 腰が浮き上がり今にも席を立とうとする。
そんな俺を見て剣心がくすくす笑いながら
「まぁ、落ち着け、弥彦。」
と、制止する。頭をポリポリと掻きながら俺は俯いて 畳ばかりを見つめていた。
「本来なら仲人を立てて燕殿を嫁にと頼みに行くところだが、それは向こうのご両親ももう承知をしていることだし割愛するとして、結納やら式の運びなどを仲人に頼まねばならぬ。それで、前川道場の前川先生に頼もうと思うのだが 弥彦はどう思う?」
「どう思うと聞かれたって・・・・剣心がいいと思うんならそれでいいだろう? 別に俺には異存はねぇぜ?」
「そうか。それと、燕殿が嫁入る前にこの屋敷の普請をしようと思う。かなりあちらこちらが痛んでおるのでな。」
「何もそんなに大げさにしなくったって・・・どうせ、燕なんだし・・・」
俺のその言葉を聞くと 剣心はふぅーっと一つ大きな溜息をつき、改めて俺の方へと向き直った。
「なぁ、弥彦。燕殿は女子でござるよ?」
「んなこたぁ、今更言われなくったって先刻承知だぜ?」
「そういう意味ではござらん。これからこの屋敷で一番長い時間を過ごすのは燕殿だと言って居るのだよ。弥彦が細かいところにまで注意をして気遣ってやれるとは思えぬのでな・・・」
「悪かったな。気が利かなくてよ。」
「ハハ・・・まぁ、そう拗ねるな。所帯を持てば何かと物いりでござるし、こういうことは何かの機会がなければ出来ぬものでござるよ。それで、来週には大工が打ち合わせに来ることになって居るので 弥彦も気づいた箇所があれば言うといいでござるよ。」
「えれぇ、準備がいいんだな・・・」
呟いて俺は何かがおかしいと急に思い始めた。
今まで家具の一つですら変えることのなかった剣心が 急に改装まですると言い出すなんて。いくら俺が嫁をもらうと言っても そこまでするのはどうにも合点がいかねぇ。まるでこの先、さも自分は面倒を見ないと言ってるようだ。
「まさか・・剣心、ここを出て行くつもりなのか?」
「おろ? 弥彦、どうして判った?」
俺の不安などまるで聞いちゃ居ないといった顔で ニコニコと笑いながら剣心が訊ねる。
「何でだよ! 別に俺と燕が結婚したからって言っても ここは剣心の家じゃねぇかよ!気を遣うってんなら俺が出て行くから。」
「そうではござらぬよ。弥彦・・・弥彦の気持ちは嬉しいが、もともと薫がここを出ていった時から弥彦が独り立ちをしたらここを出ようと決めていたのでござるよ。ずいぶん昔にそんな話をしたことがござろう?」
忘れちゃ居なかったんだ・・・薫が出て行った翌日に俺にそう告げたあの言葉を実行するべく 剣心はずっと待っていたんだ。
あれから俺と剣心の穏やかな日常が続いて それが当たり前でこの先も変わらないだろうといつの間にか俺は思っていた。今、こうして改めて告げられても俺はあのときと同じ、迷子になってしまうようなやりきれない不安に襲われる。
「ここを出て いったい何処に行くつもりなんだよ?」
心細さを見せるまいと剣心から表情を隠すように 俺は俯きながら目だけを持ち上げて訊ねた。
「ああ、当てはなかったのでござるが、左之助が一緒に来ぬかと言ってくれた。それで、この際、少し世界を見てこようかと思うんだが。」
「左之助と!?」
「ああ。弥彦は反対でござるか?」
剣心の雰囲気がどことなく変わったと常々思っていたが、そう言うことかとやっと合点がいった。
驚きと俺だけを置いてきぼりにする左之助に対する嫉妬にも似た悔しさと剣心と離れる寂しさが一度に押し寄せてきたが、目の前でにこにこと微笑む剣心の顔を眺めれば 反対する言葉などを口にすればそれはまるで子供が拗ねている様だ。
俺は素直に左之助という人物を考え、存在を認め、改めて畏敬の念を持った。
「どうせ反対したって行くんだろ?」
「そうでござるな・・・」
そう答える剣心は何処やら恥ずかしそうだ。俺もついニマッと笑ってしまった。
「弥彦・・・もう剣で人を守る時代は終わりなのかもしれぬ。拙者も飛天御剣流の技はほとんど使えなくなってしまった・・・維新を終え、世の中も次第に落ち着きを見せ、警察機構も整いだした。だが、未だに弱いものは苦しみ、生活も良くならぬ。これからは剣でなく、もっと他の方法で人々を守れる道があるのではないかと思ってな。世界には拙者の知らないことが山のようにあるだろう。その中から何かを探し出せるような気がして居るのだよ。」
「そこまで聞けば、俺に反対する道理はねぇやな。行ってこいよ、剣心。でも、帰って来るんだろ? 左之助と行っちまったままなんてことはねぇんだろ?」
「ああ。いつになるか判らぬが帰ってくるよ。」
「この離れはそのまま残して置くからな。ここはいつまでも剣心の部屋だからな!」
「ありがとう、弥彦。約束する。必ず帰るよ。」
はにかむように微笑んだ剣心の笑顔が綺麗だと思った。見慣れた剣心の顔を 俺は時間も忘れじっと見つめ続けた。白く透けるような肌に伏し目がちの瞼を彩る長い睫。うっすらと微笑む唇。頬に朱が刺したその笑顔は 俺の心の中に強烈に焼き付いた。それは、その後、剣心を思い出す時には いつも俺の心の中に真っ先に浮かんできた特上の笑顔だった。



時間は慌ただしく駆け抜けて行き、屋敷の普請も後少しを残すばかりとなった頃、まるで昨日旅立ったかのような気安さで 左之助がこの屋敷へと戻ってきた。
「おーー、見違えるように綺麗になったじゃねぇか。でも、こう、大工の出入りが多いと落ち着きゃしねぇな。」
邪魔になっちゃいけねぇからとの言い訳を盾に 左之助はさっさと剣心の離れに腰を落ち着けてしまった。
もう俺にすれば 勝手にしろという気持ちだ。
俺の祝言を見届ける以外には何の予定もないようで 暇を持て余した左之助は 邪魔をしているのか手伝っているのか出入りをする大工に混じって金槌を持ち、あちらこちらと走り回っている。その合間に俺をからかい、愉快そうな笑い声を立てていた。昔のようにじゃれあう様な喧嘩に発展することもあったが、その空気が懐かしく、俺にすれば久しぶりに訪れた心安まる穏やかな時間だった。★★

その平和さの中で足早に秋が過ぎ、冬が訪れ、春を迎えた。
梅の蕾がふくらみ、気の早い木々が小さな花を咲かせる頃に 燕は俺の元へと嫁いできた。
近隣のごく親しい者だけで行われた祝言だったが、ささやかながらも心温まる俺達の門出に相応しいものだった。
「今日からお主が名実ともにここの主でござるよ。」
そう告げる剣心の言葉は、やっと一人前になったという悦びと共に 自分で切り開く人生への責任ものしかかり、俺を心細さと面映ゆさの入り交じった複雑な心境にさせた。

新しい生活が始まり、世話になった仲人や世話役へとの挨拶廻りを済ませた翌々日に 剣心と左之助もまた 新たな旅立ちの時を迎えた。
「もっと暖かくなってからにしろよ。」 と引き留める俺に
「海が静かな間に船を走らせたいし、新婚夫婦の邪魔をするほど野暮じゃねぇからな。」と俺を黙らせ、左之助は早々に出発の時を決めてしまった。
その二人が旅立つ前日の夜に 俺は十五の歳に剣心から譲り受けた逆刃刀を手に 左之助が風呂へ行ったのを見済ませて 剣心の離れを訪ねた。
「剣心、ちょっとかまわねぇか?」
障子に小さな頭が振り向く影が映った。
「ああ、弥彦か? どうした?」
「ちょっと話があって・・・」
答えながら開いた障子の向こうは もうすっかり荷物が片づけられていて 隅々まできちんと整えられた部屋は生活の臭いを感じず、ガランとしたもの寂しさを感じさせる。
部屋の中へと進む俺の手にした刀に気づいて 剣心が怪訝な表情を見せた。
「何だ? 逆刃刀など持ち出して・・・・」
「う、うん、ちょっと・・・・」
剣心の前へと座り、用意していた言葉を切り出そうとしたが、面と向かうと急に気恥ずかしさで頭が逆上せ、クラクラと目眩がしそうだ。物言いたげに口唇をごにょごにょと動かし続ける俺に 剣心は益々訝しげな顔をする。
改まった話はどうも俺の不得手とするところで なかなか切り出せない。だが、今言わなければ。渾身の勇気を振り絞ってがばっと剣心の前へと手をつき頭を下げた。
「け、剣心・・・い、今までのこと感謝してる。」
もうそれが精一杯だった。全身の血が体中で沸騰しそうだ。耳まで真っ赤になった俺を見て、急な言葉に剣心がぽかんと口を開けた。
「何を言い出すのかと思ったら・・・・」
驚きの言葉の後にくすくすと忍び笑いを漏らしだした。照れた俺もえへへと一緒に笑う。
やがて大きな声で二人して笑い出してしまった。
「弥彦・・・感謝だなどと・・・むしろ感謝をするのは拙者の方でござるよ。」
「何でだよ? 身よりのない俺を面倒見てくれて、いっぱしな剣士にまでしてくれたじゃねぇか。あの時、あのまま掏摸を働いていたらと思うと自分が薄ら寒くなっちまう。俺の両親や俺の誇りを守り通すことが出来たのは やっぱり剣心のお陰だと思ってる。」
「ありがとう、弥彦。だが、弥彦が思ってくれる様に拙者もまた弥彦には感謝しているよ。弥彦が居てくれたお陰でどんな時も僅かばかりでも前を向いていられた。弥彦が居たからこそ、今日の拙者が居ると思えるよ。」
「こんな俺でもちょっとは剣心の役に立ってたのか? 俺はずっと剣心には子供扱いをされていると思ってたぜ。」
「とんでもござらんよ。弥彦のその前向きな強さが拙者には頼もしく思えたものだ。これからもその強さを失わずに 燕殿と幸せにな。」
「ああ、剣心も元気で。それに絶対に手紙をくれよな。」
「分かった。必ず書くよ。」
「それと・・・これなんだけど・・・」
脇に置いていた逆刃刀を手に取り 剣心の前へと差し出した。
「おろ? 何でござるかな?」
「これから知らねぇ土地へ行くんだから 何があるかわかんねぇじゃねぇか。だから・・・これは剣心が持ってろよ。」
「いや、それは拙者が弥彦へと譲ったものでござる。今更受け取るわけにはいかぬよ。」
「だからぁ! 返すとは言ってねぇぜ。貸してやるんだよ。何にも持たねぇでいたら心もとねぇだろ? コイツにもその剣心の剣を使わねぇで人を守る道ってぇのを見せてやってくれよ。尤も、剣に剣を使わねぇってのもおかしな話かもしんねぇけどよ。」
俺の照れ隠しの言葉を理解したのだろう。剣心はゆるりと微笑んだ。
「弥彦、ありがとう。お主の気持ち、ありがたく使わせて頂くことにする。」
「ああ。だから、絶対に返しに帰って来いよ!これはもう、俺んのだからな!」
「わかった。約束は守るよ。」
「よし。話はそれだけだ。んじゃ、俺はもう寝るからな。」
本当のことを言えば、剣心とこのまま夜を徹してでも語り合いたかったが、顔を見ていると様々なことが思い出され、別れの寂しさに涙ぐんでしまいそうで俺は慌てて席を立った。後ろ手に障子を閉めようとした俺に向かって剣心がもう一度礼を言った。
「ありがとう、弥彦。」
その優しい声が胸に詰まって返事が出来ず、俺は前を向いたままコクンと首だけ下げて障子を閉めた。

翌日、庭に咲く白梅の香りにも似た 穏やかで優しい笑顔を俺の元へと残して 剣心と左之助はこの屋敷から旅立っていった。


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