〈 第8章 〉                  〈1.2.3.4.5.6.7.9.10.11
                                 〈次ページ〉


夜の明けぬうちに起き出した。
眠ろうと努めても左之助が旅立つ、ただそのことだけが気に掛かり 何度も何度も寝返りを打つ。
別れは昨日済ませた。何度顔を見ても同じ事。もう交わす言葉など何も見つかりはしない。
いくら考えても詮無いことと自分に言い聞かせ、また目を閉じる。

瞼の裏には昼間見た上野の桜が甦る。
風に吹かれて舞う桜の花びらの中に 鮮やかに左之助の姿が浮かび、消えていく。
自分を見つめた左之助の瞳が揺れていた。
何かを語り、何かを問いかける。
深い漆黒に引き寄せられ、胸の内を見透かされそうで笑顔で武装した。
桜の木の下で左之助が言いかけた言葉は 何だったのだろう。
開きかけた唇のその先を心は追い求め、逡巡を繰り返す。
言葉にならなかったその声を耳にする機会は 二度と訪れはしないだろう。
今にも叫びそうになる心を押しとどめ、これで良かったのだと強く唇を噛む。
そんな努力を幾度となく繰り返しても夜は明けず、儘にならぬ自分の気持ちを持てあまして とうとう眠ることを諦めた。

井戸端へ行き、肩から寝間着を滑り落とし、下帯ひとつとなる。
ずいぶんと温んできた気温も 夜明け前であればしんと冷え込み、冷気が吐く息を白く見せる。頭の中に浮かぶ雑念を払うように何度も水を被ってみた。肌を刺す冷たさが胸の痛みのように全身を覆いつくす。焼けるような痛みが体中の毛穴から吹き出し、やがて感覚が消えていく。
業火に焼かれこの許されざる想いが すべて焼き尽くされるのならば、肉体も滅んでしまえと思う。
何かに取り憑かれたように一心不乱に頭から水を被り続ける。しかし、そんな行為を繰り返してみても 胸の中にぽっかりと空いた穴は埋まらなかった。


夜が明けると普段通りの日常が始まった。朝餉の用意をし、弥彦達に食べさせ、出稽古へと送り出す。手早く家の中を片づけ、汚れ物を胸に抱かえて井戸へと向かう。
いつものように井戸端へと屈み、桶いっぱいに水を汲んで盥へと満たす。
陽春の光が煌めき、小さなさざ波が盥の中で揺れて 映し出された透き通った空も一緒に揺れた。
洗濯物を放り込み 水の中へと手を浸す。
光に輝く小さな縞は 剣心の手の動きに合わせて揺らめき、さんざめく。
両の手に布を掴み 忙しげに上下に揉みしだく。その手の間から
ポチャン。
小さな水しぶきが上がり、光の輪が弾け、かすかな虹が宙を舞った。
その瞬間に
コトリ。
眺めていた剣心の意識が落ちた。


気がつけば、ふらふらと町の中を歩いていた。
どこへ行く宛もない。
やりかけた洗濯は放り出したまま。
煌めく光を見て 左之助のようだと思ったら意識は消えていた。


隅田川の畔は誰もが忙しげに歩いていた。荷を背負って売り声を上げる者、反物を胸に抱かえた御店者、買い物へと出かける女中衆など多くの者が行き交っている。その人混みの中を歩きながら、居場所を見つけられぬ自分は孤独だと思った。
孤独など今に始まったことではない。流浪の旅の途上はいつも一人だった。何処にも定まらず、誰とも関わらず、その人生のほとんどを一人で歩いてきた。逆巻く寂寥感に苛まれ、埋まらない心の穴に風が吹き抜ける。


「見送りに行かねぇのか?」
昨夜、寝る前に弥彦が問いかけた。
「明日は人に会う約束があってどうしてもはずせぬ。」
苦し紛れの言い訳に 弥彦はしばらく黙って見つめ、その後静かに頷いた。
今朝の出掛けにも
「出稽古先からそのまま見送りに行くから央太と俺の昼はいらねぇや。」
そう言葉を区切って間を置く。もの問いたげな表情で何かを言いかけて形作った唇は 声にならないまま 一度閉じると「行ってきます。」の言葉だけを残した。
何故そんなにかたくなに見送りに行くことを拒むのかと 見つめる弥彦の目が問いかけていた。
上野から戻って後、みんなで夕餉を共にした。やっと来た待ち人に 弥彦も央太もはしゃいでいた。笑顔で酒を酌み交わし、笑顔で別れた。
隠し通した自身の顔はそれが限界だった。もう一言、言葉を添えれば 均等を無くしかけた心では かろうじて守り通した笑顔を崩すだろう。何より左之助へとそんな無様な自分を見せたくはない。
最後の意地が 左之助を見送りに行くことを拒ませた。


雑踏の中を歩き、いつのまにか左之助が暮らしていた長屋の前に来ていた。左之助が日本を離れた頃は 何度か我知らず足が向くこともあったが、月日と共に次第に記憶の中から薄れ、今ではそんなこともすっかり無くなっていた。
左之助が暮らしていた部屋には 今はもう知らない家族が住み、自分とは関わりのない日常が営まれている。
かつてこの部屋で左之助に寄り添い、肌を合わせ、心の安息を得た。

左之助・・・・

不意に心の中で誰かが叫んだ。

会いたい。

魂の奥底から絞り出すように声が響く。
その声は次第に大きくなり、剣心の心の中でこだまする。
目眩にも似た衝撃におそわれ、踏みしめていた大地は揺れ、周りの景色が大きく傾ぐ。

左之助、左之助・・・・・

叫び続ける悲痛な声に責め立てられる。

丁度その時、昼を告げる大砲の音が街の中にこだました。
左之助を連れ去る汽車は四半刻もすれば新橋駅を出発するだろう。今から行けば一目会えるかもしれない。不意に脳裏をよぎった思いに(かぶり)を振る。
馬鹿な。会ってどうするというのだ。
心の声が反論する。
会ってどうするつもりもない。ただ、会いたい。その笑顔を、その声を聞きたい。もう二度と生涯逢えぬと思えば 今一度会いたいと悲鳴にも似た声が叫び出す。
「左之助、左之助・・・・・・・」
その声はそこに留まることを許さず、地に着かぬ足が一歩を踏み出す。
心の声が命ずるままに込み上げる衝動に突き動かされ、張りつめていた意地も見栄もかなぐり捨てて 剣心は走り出していた。
人混みの中をかいくぐり、田畑の畦道を飛ぶようにまっすぐに線路を目指して駈けていく。道行く人々は何事かと剣心を振り返り、好奇の目を向けてゆく。だが、そんな物もいっさい気にはならなかった。ただ、左之助に会えることだけを願い、もう一度あの笑顔を瞼に焼き付けることだけを祈る。
永大橋を渡り、新橋駅へと続く赤煉瓦の建ち並ぶ銀座通りへと走って行く。真っ直ぐに駅を目指し、緋色の髪を風に靡かせ、何も思わず、ただ左之助の笑顔だけを追い求めて走り続けた。



旅立つ人や見送る人々でごった返す新橋駅では 錆色の汽車が蒸気を吹き上げ、重い関節をギシギシ軋ませて出発の時を今や遅しと待っていた。
その停車場の一群の中でひときわ大きな人の群れが 左之助を取り囲んでいる。左之助を慕う舎弟達や昔なじみの長屋の面々、果ては深川の芸妓や常磐津の師匠まで 左之助と交流のある者達が口々に別れを惜しみ、再会を約していた。その中には弥彦や央太も混じり、別れの時を一分、一秒を争って惜しんでいた。
「今度はもっと早く帰って来いよ。」
「おう、またちょこちょこっと帰ってくらぁ。」
弥彦の声に威勢よく左之助が応える。
「兄さん、元気で・・・」
「親父ももう歳だからな、俺の分まで顔を見せてやってくれよ。」
消え入るような声の央太にも 満面の笑みをたたえ、兄らしい言葉を投げかけている。
一人一人の言葉に応え愛想笑いを浮かべながら、目は知らずと一人の面影を探していた。
来るはずはないと分かっている。昨夜、別れ際に「明日は見送りに行けぬ。」と告げられた。左之助にしてみてもこんなに大勢の中で 上辺だけの言葉を飾り立てて別れるよりは 「達者で。」と 思いの総てを一言の中に託し、宿へと戻る自分を 暗闇の門扉越しにいつまでも見送っていてくれたその心の方が嬉しかった。それで居ながら今もこうして探してしまう自分に 自嘲の溜息が漏れる。
そんな左之助の未練を断ち切るかのように 汽車は警笛を鳴らし、出発の時を告げた。
方々で汽車に乗り込む人々へとひときわ大きな声の見送りの言葉が飛び交って 駅は怒濤の渦に包まれた。
乗り込む左之助にも追いすがらんばかりに 銀次や辰三達舎弟の別れを惜しむ声が響く。最後尾のデッキに立ち、見送る人々に向かって手を上げる。
鼻息荒く蒸気を吹き上げ、重い車輪を引きずるように 汽車はゆっくりと停車場を離れていく。その汽車の動きに合わせ、人々の波も停車場を移動する。つかず離れずだった距離が次第に広がり、やがて人々の顔も小さくなり、汽車の唸り声と線路の軋む音で見送る人達の声もかき消された。
まだ日本のうちに居ながら東京を離れると言うだけで もう郷愁の念が込み上げ、切ない思いに駆られる。遠くでまだ手を振り続ける人々の姿と これが見納めになるだろう東京の町を しっかりと目に焼き付けるように左之助は滲む視界の中で眺めていた。
西に広がる町並みの向こうに江戸城の森が見える。その横には昨日訪れた上野の山が。それらを眺めていてふと何気なく首を回し、反対側に広がる菜の花畑を見た。瞬間、信じられない光景に左之助の目は凍り付けのように固まった。線路際の土手まで 淡黄色に輝く菜の花が一面に咲いている。その中を 日差しに彩られた黄金色の髪が 花の陰に見え隠れしながらひらりひらりと舞っている。それは日本を離れる左之助に 春の悪戯が最後に見せる幻かと思えた。
唖然と口を開け、しばし目をしばたたかせる。
幻は消えず、遠くに見える黄金色の髪は 一直線にこの汽車を目指して進んでいた。
「剣心・・・・」
呆然とその名を呼び、見つめ続ける。
前方に見えていたその姿は やがて列車の位置と同じになり、後ろへと置き去りにしようとした。
このままでは剣心の姿が見えなくなる、その思いが左之助を突き動かし、呻らせた。
「くそぅ!!」
瞬間、一声大きく叫んだかと思うと次には手にしていた鞄を放り投げ、デッキの柵を乗り越えて自分の身体を空高く投げ出した。それはまるでそのまま剣心の元へと飛んでゆくかのように。
空が大地になり、大地が空になる。
空中で逆さまになりながら目の端でとらえた空は 春にしては鮮やかな青色が広がっていた。
菜の花がクッション代わりになり、着地の衝撃を和らげた。それでもしたたかに肩をぶつけ、痛みに顔をしかめる左之助の耳に 名を呼ぶ剣心の声が聞こえる。草の中で息を整えながら、その声を心地よく聞いていた。
声は次第に大きくなり、見覚えのある緋色の髪と瑠璃色の瞳が やがて左之助の顔を覗き込んだ。
「大丈夫か?」
汗で濡れた額に髪を張り付かせながら肩で息をし、途中で拾ったのだろう左之助の投げた鞄をしっかり握っている。剣心が息を切らせるなどと ずいぶん遠くから走ってきたのだろうと思いながら 笑顔を見せるつもりが泣き笑いのように表情が崩れる。込み上げる感情そのままに剣心が差し出す手を引き寄せ、身を起こして抱きしめた。
ずっとこうしたかった、その思いが胸一杯に溢れ、小さな頭を抱きしめる腕にも思わず力がこもる。今自分が抱き締めているのは間違いなく剣心なのだと 重なる胸の温もりを 腕の中の緋色の髪を全身で感じ、見つめ続ける。
締め付けられた剣心が「痛い。」と小さな悲鳴を上げた。
「すまねぇ。」
押し寄せる感情の波を押さえて腕を緩め、顔を上げる。その左之助の目に 停車場からこちらへと向かって走ってくる数人の人影が見えた。見送っていた人々が列車のデッキから飛び降りた左之助を認めて、どうしたのかと訝しみ、慌てて駈けてくるようだ。はるか遠くに口々に左之助の名を呼ぶ声が聞こえる。
「やべぇ、アイツらに捕まったら何のかのと詮索されるぜ。剣心、走れ!」
どうしたのかと戸惑う剣心をそのままに 剣心の手を取ると一直線に菜の花畑を突っ走り始めた。
「左之、何処へ?」
「何でもいいから黙って付いて来い。」
ザワザワとそよぐ菜の花の中を走りながら 左手に伝わる温もりを感じて 探していた物をやっと見つけたような気がして 左之助の頬から笑みが零れる。
胸の中に溜め込んでいた迷いや憂鬱は 汽車の中に置き去りにしてきた。

優しい春風に吹かれて 小さな花が囁き合う。
降り注ぐ日差しを受けて二つの影は 揺らめき走る。
その影は幾重にも織りなす優しい黄色の中に包まれて、やがてはるか遠くへと見えなくなった。


〈 NEXT 〉