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翌日は曇り。
仕事に出かけるという月岡は、
「いつものように、な。」
と、言い残すと左之助に鍵を渡した。
出かける時に 鍵をポストに返せばいいらしい。
昼近くまでゆっくり過ごし、昨日の二人の元へと出かけた。

「これだからよ、この辺の奴は。んとに。」
苦虫をかみつぶしたように左之助が言う。
すぐ近くだと言った二人の言葉とはかけ離れ、行けども行けども いっこうに目的地にたどり着く気配はない。
小一時間ほど走って ようやく二人の家に着いた。
待ちわびていたらしく、剣心と左之助の顔を見ると、迷ったのかとすぐに訊ねられた。
「迷いはしなかったがよ、昨日の話とえれえ違うじゃねえかよ。」
本当にすぐ近くだから、と何度も念を押していた二人に対して 左之助が文句を言った。
「すぐ近くって言うから、10分か15分ぐらいだと思うじゃねえかよ。」
来る途中のコンビニで買い求めた差し入れを出しながら まだ文句を言っていた。
それでも、二人の歓迎ぶりに気をよくした左之助はすぐに笑顔を見せる。
灼熱色の整った顔立ちに 白い歯を見せて笑う姿は、誰の心をも明るくするようだった。

二人が製作したという作品を 説明を受けながら見学する。
どの家具も着色は施されておらず、木肌の温もりが伝わってきそうな物だった。
凝ったデザインではなかったけれども、使い込むほどに愛着が湧いてきて手放せなくなりそうな そんな家具の数々だった。
彼らが用意してくれていた昼食は、豊かな物ではなかったが、その生活振りから考えて 普段はこんなにも整えることはないだろうと思われるほどの品数が テーブルの上に載っていた。
それに差し入れで持ってきた唐揚げやらチーズやらおでんなどを並べると 食べきれないほどの量になった。
昨日知り合ったばかりの人々の その心の温かさに涙が出るほど感激しながら食べた料理は どんな高級な料理よりも勝っているだろうと思われた。

食事の間中、木下と迫田はここで暮らしてからの失敗談などを おもしろおかしく語ってくれた。
山の中腹にあるこの家は、冬はなかなか除雪をしてくれないらしい。
客に頼まれた商品を届けようとしても 車も出せず、家からは一歩も出られない状況になる。
そんな山奥で、自由の利かなくなった彼らは 家具の残った木で簡単なソリを作り 山を滑り降りることにした。
半分は命がけで、木々を避けながら何とか麓まで滑り降りた。
そこからは徒歩で重い家具を担ぎながら 宅配便の配達所まで届ける。
そこまでは良かったが、いざ帰ろうとすると 降りることは出来ても雪が深く、登ることは出来ない。
家に辿り着くのに除雪を待って、一週間もかかってしまったと笑いながら話してくれた。
そんな苦労をしても ここでの生活は掛け替えのないものだと語る彼らの顔は とてもまぶしく輝いて見えた。
昼食が終わる頃、空の様子も怪しくなってきた。
「どうするよ?」
尋ねる左之助に、何の予定もつもりもないと答えると 温泉に行こうと言い出した。
昨日の内に月岡に教えてもらったいい温泉があるという。
いくらライダーだと言っても やはり雨の中は走りたくはない。
降り出す前に辿り着けそうだという左之助の言葉に賛成して、木下と迫田に別れを告げた。



国道147号から県道25号を通って進むと 徐々に山の中へと入っていった。
月岡の話では30分程だろうと言うことだったが、先ほどの木下達の一件があるので 何となく嫌な予感がした。
15分程走るといよいよ空は怪しくなってきた。
上り坂になる狭い道にガスが懸かりだし、視界も利かなくなる。
前を行く左之助の赤いテールランプだけを頼りに ひた走る。
峠を越え、アップダウンの繰り返し。
とうとう空が泣き出した。
木々の間から吹き込む風が 霧に動きを与え、まるで生きているかのようだ。
その狭間から落ちる大粒の雨粒は、情け容赦なく叩き付けてくる。
ツーリングジャケットは肌に張り付き、足下のブーツには ジーンズから流れ落ちる雨の滴が溜まっていく。
山の雨は冷たく、悪寒が背中に走る。
シールドの前面を時折手で拭いながら、前だけを見つめる。
真っ白な世界に閉じこめられ ここが地上なのか極楽なのか・・・・
飛びそうになる意識は 足下から聞こえる重低音にわずかに支えられていた。
もう一寸たりとも走りたくはない。
手指の感覚もなくなる頃、ようやく山の中の一軒宿に辿り着いた。

フロントへと横付けした左之助が振り返ってメットの中から剣心へと大声で叫んだ。
「本当にここの奴らときたら・・・何処が近いってんだよ。あいつら距離感ってぇものが無いんだぜ。」
その意見にはおおいに賛成だ。
「ちっ、まったく、パンツの中迄びしょびしょだぜ。」
今日の左之助の出で立ちと言えば、Tシャツにジーンズ。
頭のてっぺんから足の先まで まさに水も滴るいい男の出来上がりだった。
ツーリングジャケットを脱げば 左之助よりはまだましな姿の剣心が、部屋を頼みに建物の中へと入っていった。
そのままの姿で部屋へ入るのも憚られて、先に風呂へと案内してくれるように頼み、左之助の元へと戻ると 脱いだTシャツを絞っているところだった。
「先に風呂へ案内してもらうようにした。荷物は部屋へ運んでおいてくれるらしい。」
「そりゃぁ助かったぜ。」
絞ったTシャツで体を拭きながら、バイクから荷物を引きはがすと 上半身裸のままでフロントへと入っていく。
本当に何事にもこだわらない奴だとおかしくなる。
濡れ鼠の二人を見て、少し引きつったような顔をしていた仲居が、
「雨に降られて大変でしたね。」
と、声だけは愛想を言いながら案内してくれた。


標高1500mm程の北アルプス燕岳(つばくろだけ)の中腹、中房川の渓谷にあるこの温泉は、風呂が内、外含めて13もあるらしい。
先ほどまで さんざんに扱き下ろしていた事などはけろりと忘れ、
「克はいいところを教えてくれたよな。こりゃ感謝しなきゃな。」
露天風呂に身を沈める頃には 左之助は上機嫌になっていた。
雨はまだひどく降り続いているが、新緑の木々が かすかに霧がかかって艶めかしい。
所々に覗く薄いピンクや紫の花が、静かな山あいに より一層の彩りを添えていた。
「本当に好い所だな。町の中のホテルにしなくて良かった。」
「ここにはまだまだ風呂があんだろ? 片っ端から入ろうぜ。」
「全部で13だと言ってたぞ。そんなに入ると湯当たりするぞ。」
「でー丈夫だって。明日まで時間はあるんだ。ゆっくりと少しずつ入っていきゃぁ大丈夫だって。」
「とにかく、後のお楽しみは、いったん部屋に戻ってからだな。洗濯もしなきゃならないし。」
冷え切った身体を温かなお湯が融かしてゆく。
身も心も幸せな気分に満たされてゆく。
一人で来たのなら、こんなに楽しい気分にはならなかっただろうと 心の何処かが囁いた。


浴衣に着替え、さっぱりしてしまうと 完全に湯治客の気分になってしまった。
いすに腰掛け、窓の外を眺めていると 雨もなかなか乙なものだと思えてくるから、勝手なものだ。
夕食までにはまだ間があるからと、暇をもてあました左之助に風呂巡りをしようと誘われた。
この温泉で最も古くからあるらしい湯に浸かり、背中を流し合った。
「お前、なんか武術でもしてんのか? 細っこいくせに えれえ引き締まった身体してやがる。」
「ああ。以前は剣道を少し。」
「少しって言うようなモンじゃないだろう? 何段ぐれーなんだ?」
「学生の時に。最後に取ったのが7段だったかな?」
「7段? そりゃすげーじゃないか。」
「あんな物は、金を払って試験さえ受ければ誰だって通るのさ。試合に出るには要るって言うから受けたんだ。」
「学生って、高校生か?」
「いや。大学だが。」
「大学? お前、確か働いてるって言ってたよな? いったい幾つなんだ?」
「28だけど。」
「にじゅうはちぃ? うそだろ? 俺は又、同い年ぐらいかと・・・剣心なんて呼び捨てにしちゃぁいけねぇな。」
「おお。それじゃあ、様でもつけて敬ってくれるか?」
「無理だな。」
そんなつもりは 更々無いらしい。
「だけどよ。以前って言う事は今はやってないのかよ?」
「もともと好きで始めた理由じゃぁないんだ。俺の養い親が剣の達人で やらなきゃ飯を食わせてくれないからやっただけだ。」
「じゃあ、そのおっさんは、剣術の先生か何かしてんのかよ?」
「いいや。今は陶芸家だ。」
「えれえ変わってんじゃねぇか。」
「ああ。すっごい変人で、口は悪いし、人間嫌いだし。一度見せてやりたいよ。」
「うへぇ。遠慮しとくぜ。んで、お前は何の仕事してんだよ?」
「コンピューターのプログラミング。毎日、理由のわからんアルファベットを ひたすらに打ち込んでるのさ。」
「げー。俺の一番嫌いなモンだぜ。」
「左之助はコンピューターが嫌いか?」
「アナログ人間の俺にはむかねえな。」
「じゃあ、大学のレポートとかはどうするんだ? 必要だろ?」
「んなもんは ツレに打たせてハイ終わりってな。」
「少しはやらなきゃ就職の時に困るぞ。」
「いいって。いいって。そんなモンのないとこ行くからよ。」
「どこまでも明るい奴だな。」
「おうよ。俺は前向き思考なんだ。」
左之助と話していると 悩み事など抱きかかえる気も起こらないだろう。
可笑しくなってクスクス笑った。
それから2カ所ほど風呂巡りをして部屋に戻ると 食事の用意が出来ていた。
左之助の食欲は旺盛で気持ちのいいものだ。
うっかりしていると自分の分迄無くなりそうで 少々あわてた。
左之助が話して聞かせる話は どれも楽しく、こんなに笑ったのは何年ぶりだろう。終いには顎が怠くなってしまった。
「明日はどうするよ?」
「そうだな。俺はここが気に入ったし、雨ならもう一泊してもいい。」
「じゃあ、明後日も雨だったら?」
「その時は、また温泉に向かって走るさ。」
「決まりだな。」
左之助は、何処までも付き合う気で居るらしい。
昨日知り合ったばかりだというのに、何故か十年来の友人のような気がして居心地がいい。
この男となら何時までも走っていたい、そう思わせる人物だった。



夕べ宿で見た天気予報は、午前中はまだ雨が残ると言っていた。
急ぐわけでもなし、又、朝から風呂三昧としゃれ込んだ。
「やはり、全部入りきるのは無理だったな。」
剣心の言葉に悔しさを隠し切れぬ左之助は、十分に未練を残しながら宿を跡にした。

湿気を含んだ大気は快適とまでは言えぬまでも、雨の上がった空気は清々しく、生ある物すべての喜びに包まれているように甘やかだ。
昨日は霧でまったく様子の分からなかった中房温泉へと続くこの道も 今は滴を零しながら顔を見せる木々が、新緑のトンネルを形作っている。
そのトンネルを抜けながら、北へ向かおうと決めた。

国道147号を真っ直ぐに北上する。
青木湖に浮かぶ、乗り手のないボートが 寂しそうに揺れていた。
白馬まで辿り着くと道を左手に取った。
ようやく、空は笑顔を取り戻したようだった。
この分だと大雪渓も望めるだろう。
猿倉まで行き、バイクを降りる。
遊歩道を歩いていくと、目の前に広がる大自然に圧倒される。
一年中溶けない雪。
それぞれの山が頂に載せて 陽の光の中、目映いばかりに輝いている。
「きれいだ。」
思わず呟いた言葉にお互い顔を見合わせ微笑んだ。
左之助の黒く輝く瞳の中に、青く煌めく空が映し出されていた。
白い山と緑の森、そして褐色の肌の青年が、剣心の心のフィルムに焼き付いた。
目を細めて見つめていると 不意に左之助が剣心へと振り返り、
「お前がそこに立っているのは絵になるな。」
今、自分の心の中で左之助に対して思った通りの事を言った。
突然の言葉に驚き、わずかに頬が上気した。
「ば、ばかな。この美しさに俺なんかが似合うもんか。」
「そうかな? 俺にはお前の方が綺麗に見えるがな。」
「男に綺麗だなどと褒め言葉にもならんぞ。」
一瞬、左之助の片方の眉が上がったが、
「気を悪くしたのならすまねえな。」
そう言うと顔を背けてしまった。

雲の切れ間から漏れ出す光りに 緋色の髪が黄金色に輝いていた。
「こんな綺麗な奴は見た事がない。」
今まで付き合ったそれぞれの女の顔を思い浮かべても 誰一人として剣心に勝てるとは思わなかった。
二人はそれぞれに 胸の内にお互いの姿を大自然の中に認めながら 飽きることなく眺めていた。
「やっぱり冷えるな。」
「ああ。冷蔵庫みたいだぜ。」
その言葉を合図に今夜の宿探しとなった。


みそら野辺りを彷徨いていると左之助が素っ頓狂な声を上げた。
「なんじゃ、此処は? やたらとメルヘンチックな建物ばかりじゃねえか? 野郎二人で来る様なところじゃねえな。」
左之助の言う通り、ピンクやブルーの屋根が立ち並び、童話の中の世界のようだ。
それぞれの入り口は花々で飾られ、張り出した窓にはレースのカーテンがはためいている。
「もうちょっとまともそうな所を探そうぜ。」
頼んだところで、バイク乗りの小汚い男二人を泊めてくれるかどうかは、甚だ疑問だ。似合いやしない。
少しはずれると山小屋風の建物が目に入り 此処にしようと決めた。



夕食の後、デッキに出て 二人でグラスを傾けた。
昼間の火照った空気もひんやりとして心地よい。
「不思議な気がするな。全然知らなかったお前と こうして旅をしているなんて。」
「ああ、縁って奴じゃねえのか?」
「左之助はいつも縁を作っているんじゃないのか?」
「いくら俺でも、そんな事はしやしねえよ。」
「そうかな? 月岡も言っていたぞ。お前も拾われたのかって。」
「克は拾われたって言うけどよ、拾われたのは俺の方なんだぜ。」
「おろ?」
「確かに先に声を掛けたのは俺の方だけどよ。近くに旨いそば屋はないかって・・・・・」
グラスに口を付けると ひとつ大きな溜息を漏らした。
そして、再び口を開いた。
「2年前の春に急に両親が死んじまいやがった。
朝は元気だったのによ、交通事故であっけなく逝っちまった。
それまで、そんなに親に甘えてたって訳でもねえんだけど、なんか、呆然としちまって・・・・
せっかく受かった大学も行く気もしねえし、なんか・・・・人間って死ぬんだって思うとよ、なーんにもする気が起きなくなっちまったんだ。それで、バイクを引っ張り出して 気の向くまま走り回ってたんだ。気がつきゃ信州でさ、じゃあ蕎麦でも食おうと思って、丁度 信号待ちで隣に止まっていたバイクの奴に聞いたんだよ。蕎麦屋はないかってな。それが克だったってぇわけだ。
それなら俺も食うから案内してやるって 一緒に蕎麦食って、一人か?って聞くから、そうだって言うと 俺んとこ来いよって言ってくれた。べつに当てなんかねぇから そのまま転がり込んじまった。そうしたら、気の済むまで居ろって言いやがんの。だから拾われたのは俺なんだよ。」
「放っておけなかったのかもしれないな。」
「そんなに危なくは ないつもりだったんだがな・・・・
それから何をするでもなく1ヶ月ほど世話になった。そんな頃さ。あいつが一人であの丸太小屋をおっ建ててたのは・・・・手伝えとも言わず、一人で黙々と組み立ててやがんだ。誰も頼まねえのかって聞いたら、最初はみんな手伝ってくれたらしい。それが3ヶ月も経つと一人、二人と欠けていって とうとう誰も来なくなったんだとよ。これは自分が決めた事だから、誰にも強制は出来ないって言ってな、ずーっと一人でやってんだよ。そんな姿見てたら、俺何やってんだろうと思ってよ、それで東京に帰った。今は、元気に大学生よ。」
「そうか・・・・」
他に言葉が見つからなかった。
底抜けに明るそうな左之助は、挫折する事もなく、何不自由なく育ったのだろうと思っていたのだ。
月岡の姿を見て、自分なりの道を見いだそうとしている左之助・・・・
それに比べてこの俺ときたら・・・・

唯、無為に生きてきた。
そんな寂寞とした思いが剣心の胸の中に渦巻いた。
二人の間に漂う静寂を破るように 左之助が話しかけた。
「だけど剣心、恵那峡で会ったのがお前じゃなかったら、俺は一緒に来なかったぜ。」
「女だったらもっと良かったのにな?」
「女だったら、一緒にツーリングしましょう。ハイ、そうですねってな訳にはいかねぇだろう? 確かに大津で見かけたときはよ、ナンパする気満々だったぜ。赤の大排で おっ、いけてんじゃねえかって。だけどよ、その後のお前の走りときたら いけてるどころじゃねえ。これは必死になって捕まえなきゃ、そう思わせられちまったんだよ。そうして走ってるうちに段々と楽しくなってきて 何処までも一緒に走ってみてえ、そんな気になっちまった。」
「俺もバックミラーでお前と一緒に走っているのは楽しかった。」
「だったら、もう少しゆっくり走ってくれても良かったんじゃねえのか?」
「おろ? 随分と余裕に見えたんだがなぁ。」
「けっ。スーパースポーツとツーリングバイクじゃな。200km近くになると市販車はブレが来るんだぜ。」
「だったら、ビモーターなんかどうだ?」
「とんでも8分 歩いて15分だ。学生の俺に買えるかよ。高級車一台だぜ。」
「違いない。気楽にツーリングって訳にはいかんだろうな。」
「気楽にツーリングにはカワサキはうってつけだぜ? でも、剣心の900SSは魅力があんな。」
「そうか?・・俺は何でも良かったんだがな・・」
「お前が選んだんじゃねぇのか?」
「まぁ、な・・・」
「ふーん。なんか曰くありげだな・・」
黙ってしまった剣心に 左之助はあえてそれ以上は何も聞かなかった。
静かな夜の中でそれぞれに黙ってグラスを傾けていた。
適当に酔いが廻ったところでベッドに入った。


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