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木の温もりのするダイニングには、馥郁(ふくいく)たるコーヒーの香りが立ちこめていた。
朝食を終え、マルボロの煙の向こうに左之助の笑顔が揺れる。
コーヒーのお代わりをしながら 剣心と左之助は今日のルートを相談する。
二人で地図の上に顔を並べて 何処がいいかと話し合うのは、とても楽しく愉快な気分だった。
ビーナスラインを走りたいと言った。
浅間山も見ようと言った。
二人の意見は、バイクで最高に楽しめるコースで一致した。
長野から中野を通って、白根山へと抜ける、万座ハイウェイから浅間山へ。
ざっと200Kmのルートを決めた。


空は快晴。
山の空気は、不愉快に思う物など何一つ含まれず、小鳥のさえずりと共に何処までも広がる。
穏やかな空気の中に突然に響く二つの重低音。
マフラーから吐き出される重々しい金属音は いやがうえにも心を掻き立てる。
革手袋を 手首まできっちりはめ込むと アクセルを開いた。

今日は天気もいいせいか、ライダーの姿が目に付く。
それは、中野を越えて志賀草津高原ルートにはいると ますます増えていった。
始めは丁寧にライダーと行き会うたび、左手を軽く挙げ サインを返していたが、それも数が増えるに連れ、疲れてしまった。
曲がりくねったコースは マシンを操る楽しさで夢中にさせる。
剣心は、前を行く左之助の背中からも 充分感じとっていた。

万座ハイウェイに入ってしばらくすると、左之助は後ろで短く鳴らす剣心のホーンの音を聞いた。
減速すると剣心が横に並んできた。
ヘルメットのシールドを開け、
「走りたい。先にゆく。」
そう叫ぶのが聞こえた。
了解の合図を送る暇も待たず、シフトダウンをすると 次のコーナーへと突っ込んでいった。
もちろん、左之助も後れを取るつもりなど毛頭無かった。
自分もシフトダウンをする。
アウトからインへ、インからアウトへとラインを繋げていく。
コーナーを抜けたとき、剣心はもう既に次のコーナーへと差し掛かっていた。
右に左に傾くフォルムは マシンを操っているというようなものではなく、剣心自身がドゥカティそのものへと化してしまったかのような錯覚にも陥る。

「アイツ…なんてぇ走りだ。」

追いつこうとしても追いつかず、足掻いても焦っても距離は縮まらなかった。
いや、それどころか大きく引き離され、姿もまったく見えなくなってしまった。
今までに こんな屈辱的な事はなかった。
誰と走っても、待つ事はあっても置いてけぼりにされるなど・・・・
仲間内では飛ばし屋だと知られていた。
命と引き替えにするような気迫で コーナーを攻めていた。
しかし、今、前を行く赤い背中は まったく自然な姿でマシンと一体と化している。
そこには微塵の気迫も、緊張も感じられず、マシン自身が持つ本来の性能を最大限に発揮させ 美しいフォルムを描いていく。

緑に包まれたワインディングロード浅間・白根火山ルートの中に踊る剣心の赤いバイクと緋色の髪が やけに左之助の心を掻き立てる。

マシンを操る圧倒的な実力の差・・・・
男として、ライダーとして、悔しさと羨望が渦巻いた。

万座ハイウェイを抜けるところで、赤いバイクは待っていた。
路肩に停め、その傍らに座り込み、涼しげな顔で煙草を吹かしている。
左之助を認めると 片手を上げて合図をよこしてきた。
待ちこがれた友人を迎えるような笑顔は 穏やかな優しさに溢れている。
その笑顔を見ながら、先ほどのコーナーを攻めているときには、いったいどんな表情をしていたものやら・・・・ 
目の前の人物からは想像も出来なかった。
「早ぇな。」
聞こえるか否かの声で一言ボソリと呟くと 打ち消すかのように
「腹減った。飯だ、飯だ。」
大声で剣心へと喚いた。
「それじゃあ、鬼押し出しでなんか食うか?」
「おう。考えんのも面倒だ。そこでいいぜ。」
答えるとすぐに、左之助は待ちきれないと言った様子で飛び出した。
万座ハイウェイと違って、鬼押しハイウェイは直線コースが多く景色も大きく開ける。
右手に浅間山の雄姿を見ながら 心の底から気持ちいいと叫ぶ。
この景色の前では、自分の小さな嫉妬など軽く吹き飛んでしまう。
胸の内のモヤモヤも風と共に置き去りにした。

火口に近づくに連れ、黒っぽいゴツゴツとした岩が目に付く。
遠くから眺める山の姿とは違い、草木も少なく茶色の世界へと変貌した。
鬼押出し園で遅い昼食を取り、流れ出た溶岩流を眺めながら、遊歩道を散策する。
左之助が足下の石ころを蹴りながら、
「剣心、今日は何処に泊まるつもりだ? やっぱ、軽井沢か?」
と尋ねてきた。
「軽井沢は、俺たち二人には あまり似合いそうではないな。」
「もっともだ。んじゃどうするよ?」
「ちょっと待てよ。」
そう言うと、ツーリングバッグから携帯電話を取り出し、ボタンをプッシュしている。
しばらく画面に見入った後、
「今夜は晴れ。星空を見ながら自然の中で寝るって言うのはどうだ?」
「おう。そいつはいい考えだ。」
「じゃあ、何処かで汗を流して寝床を探そう。」
二人の意見が纏まると、鬼押しハイウェイから白糸ハイランドウェイへと道を取った。

広葉樹の間を抜け、白糸の滝へと辿り着く。
70m程の幅の岩肌に 糸を引くように水が滴り落ちている。
見る角度によって様々に表情を変え、滝を取り巻く新緑が、色濃く影を落としている。
落ちていく水しぶきに木漏れ日が跳ね、踊る。
こんな美しい風景も、先ほどの荒涼たる浅間山の地下水のなせる技だと思うと、不思議な気がする。
「やっぱ、人間て小せえよな?」
剣心の隣で左之助が微笑んだ。


軽井沢方面へとしばらく進むと、小瀬温泉という小さな温泉があった。
そこで風呂を借り、汗を流す。
近くの店で、夜食とビールを買い込んだ。
そして、その近くにある野営場にテントを張る事にした。
設営が終わると 小腹が空いたという左之助のために、出がけにバッグに詰め込んだシングルバーナーを取り出し カップ麺のための湯を沸かした。
「まったく、よく食うな。さっきも風呂を出てから 蕎麦を食べてただろう?」
「成長期の俺は 腹が減るんだよ。」
わりいか、コラ と呟きながらカップ麺を頬張っている。
これ以上成長してどうするんだと、剣心は心の中で反論した。

左之助の食欲に付き合いながらビールを飲んでいると 山の尾根に真っ赤に燃える太陽が沈んでいった。
先ほどまで、五月蠅いぐらいにさえずっていた小鳥たちも それぞれの家路に着いたらしい。
代わりに目覚めた蛙が 何処かで鳴き出していた。

日が沈むと辺りは急速に暗闇へと変わっていった。
草の上に身体を投げ出し、空を見上げる。
都会ではほとんど見る事のない天の川が横たわっていた。
その川を挟んで ことさら輝くのは、ベガとアルタイルか。
そう言えば、もうすぐ七夕だと左之助に言えば、
「えれえロマンチックだの。」
と 茶化した言葉が返ってきた。
そう言いながら夏の大三角を探している。
「その言葉はそっくりそのまま返すさ。月岡のところで『星が見たい。』って言ってただろ?」
「ああ。都会じゃ滅多と見れねぇやな。」
「降るような星だ。」
「テントを張った甲斐があったな。」
満足そうに呟くと ビールを一本投げてよこした。
「飲み過ぎだぞ。」
「何言ってんでぇ。夜はまだまだこれからだぜ。他に泊まり客もいねぇんだから、あそこの自販機のビールは 全部俺たちのモンだぜ。」
「お前はウワバミか?」
いったいどれほど呑むつもりかと 左之助の言葉に呆れた。

月明かりと星の瞬きに包まれた温かな夜が 更けていく。
星を見つめる剣心に向かって 左之助が言葉を紡いだ。

「なぁ。剣心、おまえレーサーか?」
昼からずっと気になっていた質問を口にした。
一瞬剣心の肩が強ばるのが 月明かりの中で見て取れた。

「・・・・だったと言うべきだろう・・・・」
「何で、辞めちまったんだ?」
振り向いた剣心の笑顔は 泣いているようにも見えた。

「悪ぃこと聞いちまったか?」
顔を伏せ、わずかに首を振る。
そして、再び顔を持ち上げるとゆっくりと答えた。

「構わない・・・・左之助なら・・・・」
そう答える表情は苦しげだった。
触れてはいけない過去を詮索しているようで 左之助の心は痛んだ。
取り繕う言葉を探している内に
「お前になら・・・・・聞いてもらおうか・・・・」
静かに剣心が語り出した。

「俺が初めてバイクにまたがったのは15の時だった。世話になってる養い親の叔父貴の所に ある日、若い奴が レーサーレプリカに乗ってやって来たんだ。山道のコーナーを 滑るように抜けていく。たまらなくカッコよく見えて、そこからバイクに夢中になった。
まとわりつく俺に、そいつは運転を教えてくれた。それで16になるとすぐに免許を取ってバイクを手に入れた。そこから後は、唯もうひたすらに 走ることばかりに明け暮れたさ。」

二輪に夢中になる奴なんて、多かれ少なかれみんなこんなものだろう。
左之助にもその気持ちは良く理解できる。
「そのうちにサーキットで走るようになって、レーシングチームにも所属した。
大学に行く頃には、小さなレースでは優勝できるようになっていた・・・・
そんな頃に彼女と知り合ったんだ・・・・
弟の走行に付き合って来ていた彼女自身も走ることが好きで ライセンスを取って走行会には常に来ていたんだ。
パドックで何度か顔を合わせるうちに 付き合うようになった。
弟に付き合ってきていた彼女が 俺に付き合ってサーキットへ来るようになった。
その辺りから、俺のレース活動も本格的になってきた。日本国内はもとより、海外まで遠征するようになって・・・・・
ただ調子が良かっただけなのに・・・・・
出るレース、出るレース、すべてに入賞出来て、俺は有頂天になっていた。
世界はすべて自分のためにあるような気がしたさ・・・・・
舐めきっていたんだ。バイクも、スピードも。」

すこし言葉がとぎれた・・・
「大学は、あんまり行ってなかったけど、叔父貴が辞めることは許さなかったので、そのまま続けてた。
二十歳の頃にはレースで賞金も結構稼げるようになってたから、彼女と結婚するつもりでいたんだ。海外が多かったからね。
あんまり会えなくなっていたけど、ある時、鈴鹿8時間耐久レースが終わったら 二人でツーリングに行こうって話が決まって・・・・
ロード用のバイクを持っていなかった彼女のために 優勝できたらバイクを買ってやるって約束をしたんだ。それなら赤のドゥカティがいいって言って・・・・

優勝してもしなくても買ってやるつもりでいたから、注文だけは先にしていた。
8耐に合わせて、国内での練習走行も多くなってきたある日、久しぶりに鈴鹿で走行会があったんだ。
その日は彼女も来ていて、一緒に走ることになっていた。
二人で走るのも随分久しぶりだったから、つい調子に乗ってしまったんだ。
先の事など考えずに・・・・・

何周か回った頃、前方に周回遅れの彼女を見つけた。
130Rに突っ込む手前で追いついたんだ。
そして、そのまま横を抜けようとした時、俺の横を走っていた奴が曲がりきれずに転倒した・・・
そいつのバイクが俺のマシンに当たったんだ。
その反動で、彼女にぶつかった・・・・・
アスファルトの上を滑りながら 彼女の身体が鞠のように弾んでいくのが見えた・・・
そして、その上をマシンが飛んでいくのも・・・・・
スローモーションのように・・・・・ゆっくりと・・・・

何とか起きあがって彼女の元に駆け寄ったときには もう意識はなかった。
そし・・・。病院へ行く途中の救急車の中で息を引き取った。

俺が・・・彼女を殺したんだ。
あのとき、もし横に走って行かなかったら、無理に130Rに突っ込まなかったら・・・・
どんなに後悔したって彼女は戻ってはこないんだ。
俺が、死なせた・・・・」
「だけど、それって・・・・どうしょうもねぇ事故だろ?決してお前の所為ばかりじゃ・・・」

「みんなそう言って慰めてくれたよ・・・だけど・・・許せないんだよ。俺自身が・・・・
いい気になっていた俺の油断から 彼女を事故に巻き込んだんだ。
もっと周りに目を配っていたら・・・・

それから俺は 走るのを止めた。いや、走れなくなったんだ。
サーキットに立つと 彼女の身体が鞠のように跳ねている姿が目に浮かんで・・・
それでレース活動も何もかも辞めてしまった。」

剣心の話を聞きながら、左之助はいつも行くショップのオーナーに聞いた話を思い出していた。
そこのオーナーはレース活動を昔にしていたらしく、行くと いつもその頃の話をしてくれる。
あれは確か、8耐で誰が優勝するかって話で盛り上がった時だった。
ちょっと昔にすごいレーサーが居たと教えてくれた事があった。
赤い髪で 見た目は女かと思うような優しげな顔をしているくせに 誰も寄せ付けない、刃物のような走り方をする奴だったと。
レースでは優勝を総なめにして、その年の8時間耐久も優勝間違いなしと目されていた。
そんな彼が、レースを目前にして引退してしまった。
レース前の事故が原因だとかで。
その事故で顔に怪我を負ったとかって聞いたから、きっと綺麗な顔が二目と見られないようになって辞めたのかもな、という推測を言っていた。
出ていたら今頃は 日本が世界に誇るレーサーになっていたに違いないと残念そうだった。
そのレーサーが、今は左之助の目の前で 心の痛みに肩を振るわせている。

「二輪にも二度と乗るものかと思っていたんだ。部屋に閉じこもりボーッとして過ごしてた・・・
そんな或日、イタリアから注文していたドゥカティが届いた・・・
乗り手の居ないバイクが寂しそうに佇んでいた。
しばらくは見るのも嫌で、ずうっとガレージに入れっぱなしさ。売ってしまおうと思ったんだ。
それで、ショップに持っていくつもりでガレージから引き出した時、売らないでくれって言ってるように聞こえたんだ。
おかしいだろ? バイクが物を言うなんてさ。
でも、ずーっとそばに置いてくれって言ってるみたいで・・・・
それで、そーっと跨りエンジンを掛けてみた。アクセルもクラッチもまるで誂えたように手に馴染むんだ。だから・・・こいつだけはそばに置いておこうって。
なんか、死んだ彼女のような気がしてな・・・
きっと、二輪を捨てたくないっていう俺の心の願望の声だったんだろうけど。
勝手だよな。人を死に追いやっておいて・・・・」

もう何年も前の話だろうに、その出来事はつい昨日の事のようにこいつの心を縛っている。
解き放す事もなく、ずっと自分を責め苛んで・・・
頬に残る傷と同じぐらい、心の中に傷を残したまま―――

左之助は隣に座る剣心の肩をそっと抱き寄せた。
そうしなければいけないような気がして、そうする事がごく自然に思えて。
「泣けよ・・・お前今までずっと泣かずに心の中に抱き込んできてんだろ? 誰にもぶちまけずに・・・吐いちまえよ。全部。何もかもぶちまけちまえよ。」
左之助の言葉に驚いたように剣心は目を見開いた。
そして、一瞬困ったような顔をすると そのまま左之助の胸の中へと顔を埋めた。
その剣心の背中を何も言わず、左之助は優しくいつまでも摩ってやった。
数多の星の煌めきと 時折そよぐ優しい風が 唯二人を静かに包んでいた。

そして、どれほどの時間が過ぎた頃だろう。左之助が摩っていた手を止めて そのまま優しく剣心の頭を包み込んだ時、
「不思議だな。いままで誰にも昔語りなんかした事はなかったのに・・・お前にだと何でも言える気がする。」
胸の中で囁く声が聞こえた。
「俺も・・・お前の事なら何だって知りてぇよ。」
抱きしめた腕にわずかに力が籠もる。
剣心の柔らかな髪が 左之助の鼻先を擽る。
左之助の胸の中には 剣心が男だという意識は消えていた。
有るのは ただ、守りたいもの・・・
抱き締めたい衝動だけ・・・
背に回していた手を 剣心の頤へと回し手を掛けた。
わずかに上を向いた剣心の唇へと自分の唇を重ねる。
怯えるような唇は、徐々にお互いの存在を確かめ――やがて熱を帯び、嵐の中へと引き込んでゆく。

「けんしん、俺、なんだか変な気持ちになってきたぜ。」
僅かな唇の隙間から囁く。
閉じていた瞼が開かれ、緩やかに微笑んだ。
「俺もさ・・・・左之、夜は長い・・・・・一緒にテントの中で楽しもう。」
二人のシルエットは やがてひとつに重なり、夜の帳に包まれた。
その囁きを聞いていたのは、夜空に瞬く星々だけだった。



気の早いヒグラシがわんわんと鳴いている。
やがて、その鳴き声が収まると鶯達が一斉に囀りだした。
「うるさいなぁ。寝てられやしない。」
寝返りをうつ頬に 左之助の肩が触れた。
少しはにかみながらそっと肩先に口づける。
肩の線をなぞって唇を這わせていると 不意に太い腕が巻き付いた。
「もう、お目覚めか?」
「悪い。起こしてしまったか?」
「いや。あんなに五月蠅く囀られちゃあ、オチオチ寝てられもしねぇぜ。」
「起きて、コーヒーでも飲むか?」
「コーヒーよか、俺はこっちの方がいいね。」
両手で剣心の頬を挟むと口づけた。
「朝だ。さの。誰か来たらどうする?」
「誰も来ねえって。こんな朝っぱらから。」
「ばか。さの。離せ。」
「嫌だね。離すもんか。」
「やめろってば。」
ふざけながら組み伏せられると、抵抗している声まで甘やかになってくる。
左之助の情熱に 意識も溶け込みそうになった時、遠くで人の話す声が聞こえた。
僅かばかりの理性を取り戻し、あわててテントの外へと飛び出した。
「ちっ。邪魔が入っちまった。もう少しだったってぇのによ。」
開いたテントの隙間から、剣心を見つめて恨めしげだ。
上気した頬を冷ますかのように、急いで顔を洗いに行った。
バードウォッチングに来ているらしい、熟年の夫婦に出会い、軽く会釈を返す。
水を汲んで戻り、バーナーで湯を沸かしていると、テントの中でゴロゴロしている左之助が、
「なんで逃げんだよう。」
まだ、恨み言を言っている。
「ばか。」
「何でバカなんだ? 昨夜誘ったのはお前の方からじゃねぇかよ?」
その言葉に、ますます顔を上げられなくなってしまう。
頬に朱を射した剣心の横顔を見つめながら、満足そうに左之助が笑った。

本当にどうかしている。
昨夜の言動は、いつもの自分では考えられない事だ。
泣けよと言ってくれた左之助。涙は出なかったけれど 心は泣いていたのかもしれない。
あの広い胸にもたれて縋っていると 心の澱が少しずつ溶け出していくような気がした。
もっと深くこの胸を知りたい、そう思った。
そして、その思いは今も続いている―――さらに深く、もっと深くと。

「どうした? ボケッとして? 湯、湧いてるぜ。」
その声で我に返った。
「昨夜の事でも思い出してたか?」
「バカさの!!」
「アハハハハ…」
朗らかに大声で笑い続けている。
本当にコイツときたら・・・・
剣心も可笑しくなってとうとう笑い出してしまった。


目覚め始めた高原は、夜露をしっとりと含み、息づく生命へ命の活力を注ぎ出す。
上空に流れる雲は、足早に駈けていく。
「雲の流れが速い。」
タバコを銜えている左之助に ライターの火を差し出しながら告げた。
「ああん? でも晴れてんぜ。大丈夫だろ?」
「そうだな。今日はビーナスラインを廻ろうか?」
「おお、無料になった事だしな。全線突破だぜ。」
コーヒーを飲みながら、相談は纏まった。

山を降り、軽く朝食を取ると軽井沢を抜けて小諸へと向かった。
立科町を通り、美ヶ原を目指す。
広がる大地では、のんびりと牛が草をはむ。
絶景を誇るこの場所も 今日は少しガスが懸かり見通せない。
しかし、白樺湖へと続くワイディングは 二人の気持ちを高ぶらせる。
前になり、後ろになり、思う様満喫している。
まるで雲から延びるようなロードに 赤とグレーのマシンが蝶が舞うようにハーモニーを奏でていく。
湿原を通り、霧ヶ峰へ。
彩りを添えるレンゲツツジやニッコウキスゲが、風に吹かれてそよいでいた。


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