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白樺湖で昼食を取った。
レジで料金を支払うときに店のオーナーに
「あんた達、バイクでツーリングか?」
と 尋ねられた。
そうだと答えると、
「台風が近づいているから気をつけた方がいい。」
親切に教えてくれた。
今日の夜半には、中部に上陸するそうだとの情報に、二人の顔も曇ってしまった。
「まずいぜ。剣心。早く何処かに飛びこまねぇと 又ずぶ濡れだ。」
外を見やって左之助があわてだした。
随分と薄雲が広がっている。
変わらず雲の流れが速い。
今は、まだ高い位置にある あの雲が降りてくるのも 時間の問題かと思われる。
「ここからだと、蓼科に向かおうか?」
「ああ。別荘地で一晩過ごすのも悪くないかもしんねぇ。」
せっかく蓼科に泊まるのだったら、別荘気分を味わおうという左之助の提案で、コテージタイプのホテルに宿泊した。
同じ形のヴィラが幾つか建ち並び、リビングルームにキッチン、気持ちのいい寝室がついていた。
自炊が面倒くさければ、隣接のホテルで食事をする事も出来る。
ホテルまで雨の中を歩いていかなければならないのは鬱陶しいが、誰にも邪魔されないシチュエーションに 左之助はいたく満足したようだった。
「何とか降られる前に 宿にありつけたな。」
「ああ。中房温泉は、ちいっとばかし辛かったぜ。」
そう言っている間にも、窓の外は雲が立ちこめていった。
「やっぱり梅雨時は 雨にたたられるな。」
剣心がそう言いながら、冷蔵庫からビールを取り出し、栓を抜いていると後ろから左之助が抱きしめてきた。
「さ、の‥‥」
剣心のうなじに唇を寄せ、
「此処には、気の利かねぇバードウォチャーも居ねえぜ。」
耳元に囁く。
「だけど、ビールが・・・・」
「俺はお前ぇに酔いたいんだ。」
耳の中に吹き込まれる低い囁きが、剣心の最後の意識を奪っていった。


一足早くやってきた嵐は、ベッドの中で剣心を蹂躙し、翻弄する。
苦痛にも似た快楽が 足の先までも捕らえて放さない。
耐え難い快感に 声がこだまする。
「もっとだ。もっと‥‥」
嬲り続ける黒い瞳は 捕えた獲物を放そうとはせず、さらなる高みへと誘い続ける。
何も描けない思考と、片鱗さえも見いだせぬ理性が、頭の中で炸裂する。
「さの‥さの‥‥」
ただひとりの名前を呼び続け、白い光りは閃光となって、弾けて飛んだ。

シーツの波に漂う剣心に 頬に懸かる髪をかき上げ、左之助が優しく口づける。
額に、眉に、瞼に 確かめるように ひとつひとつ唇でなぞっていく。
睫をついばんだ唇が離れると、藍色の瞳が開かれ、穏やかな表情で微笑んでいる。
延ばした腕は、左之助の首を捕らえ、キスをせがむ。

満たされた心を確かめるかのような 優しい時間が過ぎていく。
剣心の額と自分の額を合わせながら 左之助が問う。
「なんで、俺に抱かれた?」
クスンと唇の端で笑い、剣心が答える。
「さあ・・・なんでだろ・・・きっと」
「きっと?」
「左之助だからだ。」
彫りの深い顔に刻まれた、漆黒の瞳が笑う・・・つられて、藍色の眼も微笑んだ。


前日の、自分の気持ちに応えるかのように あっさりと誘いを掛ける剣心に これだけのツラしてりゃあ、遊び慣れているだろうと思った。
だが、そんな考えはすぐに間違いだと、剣心の身体が教えた。
年上のくせに、左之助の愛撫に戸惑い、抗う。
「男は初めてか?」
「何でそんな物に興味を持たなきゃなんないんだ? 女はごまんと居るのに。」
「そりゃそうだ。」
「そう言う左之助は?」
「男なんて、見るのもさわるのも嫌だ。」
「それじゃ、お互い様だ。」
そう言いながら口づける。

どうして、そんな気になってしまうのか‥‥
お互いに 不可解な自分の気持ちを持て余す。

「こうしていると、あぶれた者同士 慰め合っているようだ。」
剣心が笑う。
「俺たち二人が慰めで抱き合わなきゃなんねえんじゃ、世の中の女はよっぽど見る目がないんだぜ。」
「俺は、あまり、見る目のある女に会った事はないな。」
そんな剣心の言葉に、心の傷の深さを推し量った。


「左之助は 何故?」
剣心の問いに昨夜の記憶から呼び戻される。
「やっぱ・・・剣心だからだ・・・・大津で見かけた時からきっと、惹かれていたんだろうな。」
「それじゃ、俺はやっぱり しっかりとナンパされたんだな?」
「楽じゃなかったけどよ。」
シーツを引き上げて喉の奥でクツクツ笑う。
そんな剣心に愛しさが込み上げてくる。
「だけど、けんしん・・・・お前ぇに惹かれる気持ちはほんもんだ。」
笑うのを止め、大きな瞳がモノ問いたげに見つめる。
「だから、もう一回抱かせろ。」
突然に覆い被さってきた左之助を受け止めながら、また笑い出した。
「お前の狙いは、最初からそれだろう?」
「悪いか?」
左之助も笑いながら、剣心の心の在処を捜すかのように 情熱の渦の中へと没入していった。


窓ガラスを時折激しく雨が叩く。
「そろそろ飯の時間だろ?」
「ああ。随分と日が暮れてきたからな。」
「じゃあ、飯食って、後は此処の露天風呂に入るか。」
「それじゃ、左之助ひとりで入って来いよ。」
「うん? なんでだ?」
「だって・・・見ろよ、これ。」
剣心が自分の胸の辺りを指さす。そこには、左之助がつけた赤い痣が幾つも広がっている。
「こんなんじゃ、カッコ悪くて入れやしない。」
自分のしでかした事ではあり、気の毒にもなるが、笑いは堪えられなかった。
「ばかさの!!」
枕が二つ飛んできた。
「それじゃ、夜が更けてから、二人で入ろう。なっ? それならいいだろ?」
僅かに頷く剣心に
「俺が身体の隅々まで洗ってやっからよ。」
上機嫌の左之助に 投げる物のなくなった剣心が 回し蹴りをお見舞いした。


テレビの天気予報が伝えるところでは、台風はなかなか上陸せず、足踏みしているらしい。
この分だと明日も雨だ。
「どうやら缶詰らしいぜ。」
「仕方がないな。此処で過ごすしか・・・」
「俺は構わねぇぜ。他に楽しみも見つけた事だしよ。」
そんな左之助を剣心が睨め付ける。
その目元がゾクゾクするほど艶っぽい。
だが、そんな事を言うと、また回し蹴りが飛んでくるので止めた。
「そろそろ時間的にもいいんじゃねぇか? 風呂に入りに行こうぜ。」
雨は 少し小降りになっているようだ。
行き合う人も居ないだろうと浴衣のままで出かけた。
室内の風呂とは別の場所に作られている露天風呂には 簡単な脱衣所があった。
夜で辺り一面真っ暗だが、雨の向こうに微かに山が霞んで見える。
岩で囲まれた風呂の中程に 仕切られるように大きな岩が幾つか立てかけてある。
その奥は少し影になっていた。
顔に雨がかかるが、濡れてしまえば同じ事だ。
面倒臭いなと思ったが、やはり入りに来て良かったと 温かい湯に包まれながら思う。
奥まった岩の影から左之助が呼んだ。
「ちょっとこっちへ来いよ。」
「どうした?」
「ほら、寝転びながら入れんだぜ。天気が良けりゃ言う事なしなんだがよ。」
一段高くなり、寝転びながらのんびりと浸かれるようになっていた。
剣心も左之助の隣に並んだ。
見つめあい、どちらからともなく口づける。
それが、また、左之助に火をつけたらしい。
襲いかかる左之助に
「だめだ。左之、こんな所で・・・」
無駄な抵抗をしてみせる。
「こんな雨の日のこんな時間に 誰も好きこのんで風呂に入りに来やしねぇって。」
「だけど・・・俺たちだって。」
「俺たちは物好きなの。」
左之助に触れられると 抵抗する力が萎えていく。
つい、まぁいいかと左之助を受け入れた。
甘い声が、唇から零れる・・・
左之助の膝に跨り 快感だけを追い始めたその時、二人のものではない水音が聞こえた。
お互いの顔を見合わせ、硬直する。
緊張がそれぞれの身体に伝わっていく。
今更ながらとは思いながらも、なるべく音を立てぬように離れた。
そうっと体を起こし、努めて平静を装って 何気ない風で脱衣所に駆け込んだ。
浴衣を羽織るのももどかしく、ほとんど濡れたまま引っかけると あわてて露天風呂を後にした。
駆けていく剣心を追って左之助も走り出した。
走りながら可笑しさが込み上げてくる。
剣心の手を左之助が捕まえた時、ふたりは大声で笑い出してしまった。
「誰だ? 誰も来ないなんて言ったのは?」
「だってよ。アハハハ・・・お前ぇのあの時の顔ときたら・・・」
「そう言う左之助だって・・・フフフ・・」
「聞こえたかな? 見えなかったとは思うけどよ。」
「でも、出てきたのが男ふたりなんだから、思い違いだと思うかも・・・」
「思わねえって。」
「じゃ、変態だ。」
「いいや。あの親父だってお前ぇの事を 色っぽい目つきで見てた。」
「そんな事有るもんか。やっぱりおかしい奴らだと思ってたんだ。」
「有るんだよ。お前には・・・現にこんなに俺はお前にメロメロだぜ。」
言葉の半分は剣心の唇の中に吹き込んだ。
「さの・・・・・部屋に戻って続きをしよう。」
温まった体はすっかりずぶ濡れになり冷えてしまったが、二人は気にする様子もなく 手を繋いで笑いながら部屋へと消えていった。



朝から激しく雨は降り続いている。
台風は今日の昼過ぎに中部から関東へと抜けるだろうと テレビのアナウンサーが伝えている。
「この分じゃ、今日は動けないだろうな。」
「構わないぜ俺は・・・・こうしてお前と過ごしてられる。」
抱きしめながら 左之助が囁く。
「まだ飽きないのか?」
「お前はもう飽きちまったのか?」
「いいや。だから困ってる。」
「じゃあ、困る必要なんかねぇだろう?」
「だけど・・・・足腰が立たなくなってしまう・・・」
頬を紅らめ、情け無さそうな剣心に 嬉しそうに左之助が言葉をかぶせる。
「立たなくなったら、俺が負ぶって世話してやるぜ。」
「どうやってドゥカティを京都まで運ぶんだよ?」
「俺が預かっててやるよ。お前ぇが逃げないように担保だ。」
未来も描けない恋に、左之助が嬉しい言葉を聞かせる。

明日、この雨が上がったら、ふたりは別々の道を行く。
多分、もう会えない・・・・・・
28という年が、剣心に夢を抱かせない。
多少は世間の波にさらされ、分別をわきまえさせている。
それぞれの生活に それぞれの世界がある。
今は目の前の自分に夢中のこの青年も、家に帰ればかわいい女の子を抱き、会いたかったと囁くのだろう。
この気持ちのいい青年を 誰も放って置きはしない。
そして自分は また無機質な毎日を過ごす。
今までそうしてきたように、これからも・・・・
だったら、今だけはこの恋に溺れてしまおう。
何も考えず、何も捕らわれず。

「それじゃあ、さの、もっと・・・・・抱いてくれ。」
「ああ。覚悟しな。」

甘い嬌声が 響き渡る。
窓を叩く雨と相まって・・・・

草木をなぎ倒す嵐は、己が身の上にも落ちたかのように。
足りない魂を埋め合わそうと、隙間なく寄り添い、相手を貪り尽くす。
それぞれの身体に喜びを与えようと 出来うる限りの努力を払い、痴態を繰り広げる。
ベッドの上で、リビングで、バスルームでと。
片時も離れず、放さず。
昼食にキッチンで作ったスパゲティを食べる時でさえ、左之助は剣心を膝に抱き、ひとつの皿から分け合って食べた。

「剣心、足りねぇ。まだだ。もっとお前が欲しい。どんなに抱いても足りねぇ。いっそお前と俺がひとつに解け合えてしまえたら・・・・」
左之助の渇望は そのまま剣心の心・・・
「この身がひとつになってしまったら、左之、お前と走れない。」
「それでも。 お前が欲しい。すべてだ。髪の先から その唇から零れる言葉も全部何もかも。」
「さの・・・何もかもくれてやる・・・・俺の心のすべてを・・・・」

どんなに言葉を尽くしてみても 溢れる思いは留まる事を知らず、埋め尽くせない。
こんな情熱がいったい自分の何処に潜んでいたのか、今、此処にいる自分が本当に自分自身なのかも分からないまま 潮流に呑まれ、流されていく。
抱き合っては微睡み、微睡んでは抱き合う。
そんな風に時間は過ぎていった。



夜のとばりが降りる頃、いつの間にか嵐は過ぎ去り、空には星が瞬いていた。
「剣心、もう一回露天風呂に行ってみねぇか?」
「ごめん被るよ。もう昨日のような事は こりごりだ。」
「今日は何にもしねぇって。」
「あてになるものか。」
「本当だぜ。昨日のあの場所で 寝転びながら流れ星でも捜そうぜ。」
一杯やりながらな、と人差し指と親指を傾ける。
「本当に何にもしないんだな? だったら行ってもいいが。」
「ようし。話は決まった。」
言うが早いか 冷蔵庫の中から冷酒を取りだした。
冷酒とお猪口を浴衣の袂に入れ、ガチャガチャと音をさせて歩いている。
鼻歌交じりのその姿には 何の屈託もない。

左之助との旅も もう終わる‥‥
自分ひとりが求めて止まないのかと不安な気持ちを 無理に押し込めた。

昨夜とはうって変わって、零れ落ちそうな星空だった。
冷えた酒が喉元に心地よい。
「なっ? こうして呑むのも旨ぇだろ?」
「ああ。左之はよくするのか?」
「たまに、機会が有ればだけどな。」
「何処のお嬢さんと?」
「さて、星の数ほど居てわかんねぇな。ってのは嘘だけどよ。」
「まんざら嘘でも無かろう。お前ほどの男ならさぞかしモテるだろう。」
「へっへ。そうかな?」
嬉しそうに鼻を掻く。
「だけど、俺の場合は女しか寄って来ねぇけどよ。お前ぇの場合は男でも女でも わんさか来そうで心配だな。」
「男も女も 誰も来るものか。女と間違えた奴は、男だと分かるとしっぽを巻いて逃げ出すさ。」
「そうかな? 俺みたいな奴もいるから充分気をつけな。」
「そうだな。これからはそうしよう。」
俺だけは別だぜ と大きな声で笑い出す。
夜空に懸かる天の川を掠めるように、尾を引いて流れ星がひとつ流れていった。

「来年の七夕もこうして一緒に過ごせるといいな。」
未来を約束するかのように左之助が言う。
「ああ。そうだな。」
期待は済まいと心に秘めて、小さな声で頷いた。
  


昨夜の星空が約束した通り、抜けるような青空が空一面に広がっていた。
「絶好のツーリング日和だぜ。」
「帰らなきゃならないのが悔しいなぁ。」
「休暇は今日までか?」
「ああ。明日からは又、コンピューターのお守りさ。」
「辞めちまえ、辞めちまえ。夏はこれからだぜ。」
「バカ言うな。飯が食えなくなる。コイツのガス代も。」
「そうだな。しゃーねぇか。」
「おまえはどうする?」
「そうだな。これだけの天気だ。なぁ、剣心、ビーナスラインをもう一度走って帰んねぇか?」
「そうだな。俺は帰り道だから構わんが、お前は遠回りになるぞ。」
「遠回りならもう一週間もしてるって。今更変わらねぇよ。」
「そうか。じゃあ、霧ヶ峰まで回って 諏訪のインターに出よう。」
「おうよ。なあ、剣心、もう一度お前の走り見せてくれよ。」
「べつにいいけど。何故?」
「ああ。ちょっとな。じゃあ、ビーナスラインに入ったら先に行って適当な所で待ってるからよ。少し時間をおいて来てくれ。」
その姿にぞっこん惚れ込んだ、この目に焼き付けておく為だとは心の中で呟いた。

白樺の林の中を二台のバイクが駆け抜けていく。
煌めく陽光をカウリングに受けて、キラッキラッと光りを跳ね返す。
水を得た魚のように、山から空へと続く道を 限りなく風に近づきながら。

女神のように優しく広がるビーナスラインを 美しいカーブを描きながら二つの影が通り過ぎる。
車山を過ぎる頃、一台のバイクが駆けだした。
しばらくしてもう一台。

緩やかに続くワイディングを 緋色の髪をなびかせながら、風になる。
雄大に広がるパノラマの中を 赤いバイクが完全なる一枚の絵となって、光りの中に溶け込んだ。

まさにそれは、「俺の天使」
左之助の心の声が、青空高くこだました。



眼下に広がる青い湖に 白鳥をかたどった船が ゆったりと散策している。
時折上がる間欠泉を 間近で見物する為に観光客が乗り込んでいる。
その周りを 赤や青の帆をはためかせ、ウィンドサーフィンが波を蹴っていく。
穏やかで平和な風景を眺めながら、剣心と左之助は昼食を済ませた。
「残念だったな。乗鞍に行けなくて。」
「いいさ。残しておいた方が、次の楽しみになるさ。」
「そうだな‥‥」

離れがたい気持ちに 言葉が続かない。
何か言葉を探すが、見つからない。

もどかしさに、左之助が剣心を抱きしめた。
思いの丈を籠めて、口づける。
乱暴に唇を放すと素早くヘルメットをかぶった。

「じゃあな。剣心、また会おうぜ。」

スタンドを蹴り上げて、片手を上げ、東京に続く道へと滑り出した。
その後ろ姿を見つめながら、また会おうなんて・・・
結局、俺の住所も聞かなけりゃ、自分の連絡先も伝えなかったくせに・・・
剣心が 地図の間に 栞替わりに挟んでおいた自分の名刺が無くなっている事に気づかないまま、小さな声で呟いた。

左之助の走って行った道に その姿はもう見えなくなっていた。
代わりに、真っ直ぐにのびるアスファルトとぬけるような青い空、
その境目に入道雲が広がっていた。

季節はすっかり夏に変わっていた。


                            了   2002.7


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