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しばらくして這うようにベッドから起きあがると 頭がぼぅーっとして身体が怠い。関節の節々も痛むようだ。どうやら昨夜の惨状の所為で すっかり風邪を引き込んでしまったらしい。 休むかとも思ったが、今日の講義に出ないと出席日数が危うくなりそうなので 無理に身体を引き起こした。
キャンパスに行くといつものように誰彼となく左之助の周りに人が集い、なにやら話しかけてくる。ろくな返事もせずに半分夢うつつに聞いた。それでも友人たちと過ごしていると 幾分身体も動きそうだったので そのままバイトにも出かけていった。だが、寒空の下のガソリンスタンドのバイトは思いの外堪えた。寒風にさらされて身体はぶるぶる震えるし、給油をしていてもノズルは取り落としそうになるしで 頬を真っ赤にしている左之助を見て 店長がもう帰れと言ってくれたが せっかく来たのだからと引ける時間まで働いた。家路につく頃には鉛を流したように身体は重かった。
部屋の中は電気も消えていて、剣心はまだ帰っていないようだった。腹が減ったなとは思ったが、カップ麺を作ることさえ煩わしくてそのままベッドの中に潜り込んだ。


10時頃剣心は戻ってきた。もっと早く帰るつもりが、明日からの出張の準備で資料を整えるのに予定外に手間取ってしまった。部屋の中は真っ暗で暖房もついていない。左之助は連絡もしないで飲みに行ってしまったなと思ったら ベッドの中で真っ赤な顔をしてウンウンと呻っていた。額に手を当ててみるとかなりの熱があるようだ。体温計を探そうとその辺りを物色してみたが、こんな頑丈そうなヤツがそんなモノを持っている理由もないかとすぐに諦めた。
食事もしないで帰るとそのままぶっ倒れたらしい。着替えもしないでダウンジャケットを着たまま布団にくるまっている。寝汗をびっしょりと掻いている左之助のために タオルを水で浸し額を拭いてやったらぼんやりと目を開けた。
「帰ってたのか?」
問いかける左之助の声が掠れている。
「ああ・・バカだなぁ。ガキみたいに熱を出して。」
剣心は少しだけ笑って困ったような顔をしていた。
うるせぇ、誰の所為でこうなったと思っていやがんでぇ・・・・・言い返してやりたかったが 声を出すことも億劫だ。せめてもの意思表示に黙って顔を背けて目を閉じた。別に気を悪くしたわけでもなかったのか 剣心は気軽に話しかけてきた。
「何か食うか?」
「要らねぇ。」
「じゃぁ着替えろ。汗でびっしょり濡れてるじゃないか。」
「めんどくせぇ。」
「ンとに、小さいガキみたいだ。」
そう言って声を上げて笑っている。何かごそごそしているなと思ったら 着替えのパジャマと温めたタオルを用意して 左之助の背中を拭いてくれた。着替えて寝かしつけられると 何だか剣心にそのまま甘えたくなって 左之助の顔を覗き込む剣心の背中へと手を回して抱き込んだ。
「何だ? お母さんのおっぱいが恋しいのか? ンとにお前は大きなガキだなぁ。」
布団越しにくすくす笑う剣心の振動が伝わってくる。
「違ぇよ!」
子供扱いされたことが腹立たしくって 腕を放すと剣心へと背を向けた。
「本当のことを言われて怒ったのか? だからお前はガキだと言うんだよ。」
あっけらかんと笑い飛ばして剣心はバスルームへと消えて行く。はぐらかされた左之助の腕の中には 剣心の細い肩の感触だけが残っていた。



翌日、目が覚めた時には太陽はもうすでに高く昇っていた。まだ熱はあるようで、吐く息が熱い。身体は他人の物のように動きが鈍く、頭の芯がズキズキ痛む。首を回すと冷たいタオルが頬に触れた。剣心が額に当ててくれていたらしい。そう言えば夜中に何度か心地よいと思った気がする。霞の掛かった頭で思い出そうとしたが、意識がボヤーとして何も思い出せなかった。トイレに立ったついでにキッチンを覗くと、剣心が朝から炊いてくれたのか鍋に入れた粥が テーブルの上に置かれていた。その下には「3日間出張」と書かれたメモが挟まれていた。
そう言えば昨夜から何も食ってなかったなと思い出し、幾分空腹を感じる。冷えた粥を鍋のままスプーンで掬って食べ、終わるとまたベッドに潜り込んだ。
身体がフワフワ浮いているようで 起きているような寝ているような妙な感覚に惑わされつつ微睡んでいると 玄関のチャイムが鳴った。窓から差す光は日が落ちかけていた。
重い体を起こし、ふらつきながら玄関に出るとまた梓だった。
「相楽ぁ、今日休んだじゃん? 昨日も赤い顔していたから熱でもあるんじゃないかと思って。男所帯だと何かと不便でしょ?」
首に巻いたマフラーを外しながら 梓は上がり込んできた。椅子に座って相手をするのも辛い。
「俺、寝るわ。」
梓に構わずにそのままベッドへと直行した。
「相楽ぁ、なんか食べたぁ?」
「剣心が粥を炊いてくれてたからそれを食った。」
うるさいなぁと思いつつ、口の中でぼそぼそ言った。
「薬は? 熱は測ったの?」
「何もしてねぇ。」
いい加減放っといてくれよとむくれ気味に口を利いたら、
「これだから男の人って・・・・」
勝手なことを言ってくすくす笑っている。
「あ〜あ。洗い物もそのままじゃん。しょうがないなぁ。」
独り言を言って水を流す音と食器をカチャカチャ鳴らす音がキッチンから聞こえてきた。
「勝手に好きにしてろ。」
半ばやけくそ気味に左之助は呟いて、また目を閉じた。
しばらくして扉の閉まる音が聞こえて、帰ったのかと思ったら 白い袋をいくつか抱えて戻ってきた。
「体温計買ってきたから 熱を測ってみて。それからお薬も。」
左之助の側に立って 体温計を差し出している。言われるままに熱を測ってみたら、38度3分有った。こんな熱は子供の頃から出したことがなかったなと思うと、数字を見ただけでまた熱が上がりそうな気がした。
「ほら、風邪薬も飲んで。」
水の入ったコップと一緒に手渡され、素直に従った。気遣っているのか梓は普段のおしゃべりも止め、左之助をそっとしておいてくれた。その間、洗濯をしたり、まな板をコトコト言わせて何か作ったりしているようだ。幼い頃、今のように熱を出している自分の側で母が家事をしていたことが思い出される。懐かしい気分になって誰か居るっていいもんだなと 心地よくその音を聞いていた。
「相楽ぁ、雑炊が出来たよ。食べるぅ?」
梓が手を拭きながら 寝室へと顔を見せた。薬が効いてきたのか少し食欲も湧き、梓の用意した冷や奴と雑炊を頬張った。
「どぅ?おいしい?」
黙々と食べる左之助を 梓は嬉しそうな顔をして見ている。コイツ、こんなに可愛かったっけ? エサを与えられて喜ぶ犬のようだと流石に自分の現金さを笑った。後片づけを終えると「お大事に。」と言い残して梓は帰っていった。
携帯を見ると剣心から「具合はどうだ?」と書かれたメールが届いていた。いつもと変わらず簡潔なメールに「少しマシ」とだけ打って送り返した。少しは気に掛けてくれているのかと思うと何だか嬉しかった。

翌日、熱は下がったようだったがまだ気怠さが残っていて 動くのも億劫だったから学校とバイトは休んだ。食事は買い置きの冷凍食品で済ませ、その後テレビを見てベッドの上で過ごした。夕刻になるとまた梓がやって来た。すっかり彼女気取りだと思ったが、昨日の恩もあるので黙って部屋に上げた。
「今日は顔色もいいようじゃん。きっと薬が効いたんだぁ。」
梓は嬉しそうに言いながら上背のある左之助を見上げて 額に自分の手を当てようとした。その手を何気ないように避けて、ダイニングの椅子へと腰掛けた。その座り方がストンと腰を下ろすと言った感じだったので よろけているとでも思ったのだろう。
「ほら、まだふらついてるじゃん。椅子に座ってないで寝なくちゃダメだよ。」
もう大丈夫だからと言うのに 左之助を病人扱いしてベッドへと追い立てた。言われてみればその方が左之助にとっては気楽なわけで、元気そうに座ってたりしたらずっと梓のお喋りに付き合わされかねない。昨日と同じように病人を決め込んだ。
梓は左之助の世話を焼くのが嬉しくて仕方がないようだ。ニコニコしながらパタパタと動き回る。こんなに頻繁にやって来るコイツを何とかしなくちゃなぁと思うのだが、昨日世話を掛けたことを思うと何も言い出せなかった。夕食を作るのも面倒くさいし、まぁいいか、今日ぐらい・・・・気楽に考えてそのままテレビを見ていた。
「相楽ぁ、今日は何でも食べれるぅ?」
「ああ、ちょっと食欲も湧いてきたみたいだし、何でも食えるけど?」
「じゃぁ丁度良かったぁ。」
テーブルに着くと焼き魚や煮物などが載っていた。
「へぇ〜〜、お前結構なんでも作れんだなぁ。」
「へへ、料理は得意なんだぁ、私。」
「昨日の雑炊も旨かったもんな。」
ちょっとリップサービスも附けておく。
「本当?嬉しい!!」
単純に梓は喜んでいる。二人で食べた夕飯は ちょっと味付けが薄いような気がした。剣心の方が旨いよなぁ・・・・無意識のうちに比べている。それでも 旨かったよと礼の気持ちを込めて言ったら 得意げな顔をしていた。
「私、いい嫁さんになれるかなぁ?」
「ああ、なれるって。俺が保証してやるよ。」
「わぁ、嬉しいなぁ。ホントになれるぅ?相楽ぁ、貰ってくれるぅ?」
ゲッ!! 何で話がそこへ飛ぶんだよ!!飯を食わせて貰ったら嫁にしなきゃなんねぇんだったら その辺のレストランのコックをみんな貰わなきゃなんねぇじゃん!! 第一俺が好きなのは剣心なわけで・・・・そこまで考えてはたと止まった。好き???惚れてるってコト?? アイツ、男だぜ・・・? でも・・・・俺、アイツを見てるとなんか変な気持ちになってくるんだよなぁ・・・・・やたらと妙に可愛いし、無邪気に笑ってる顔なんか見てるとこっちまで嬉しくなってくるし・・・あの長い髪も白い肌もいつも触れたくって堪まんねぇし・・・・抱きたいって思うのはアイツが妙にそそるヤツだからだと思ってたけど、違ったんだ・・・・・俺、剣心にイカれちまってたんだ・・・・・
「でさぁー、藤田が言うわけ。相楽ぁ、絶対新しい彼女が出来たんだって・・・」
「えっ?何?」
左之助が一人物思いにふけっている間も梓のお喋りは続いていた。
「やだぁ、聞いてなかったのぉ? 相楽ぁが綺麗な女の人とスーパーで楽しそうに買い物をしているのを 藤田が見たんだって。私焦っちゃったよぉ。」
「女と買い物? それ、剣心じゃねぇのか?」
「えっ? ルームメイトって男じゃなかったの?」
梓が食後にお茶を煎れようとして席を立ちながら聞き返した。
「男だぜ。名前からして判るだろ? 俺、長い間女となんか買い物に行ってねぇし・・・」
「でも、女の人って藤田が・・・」
「赤毛のロン毛で俺より一回り小さい色の白いヤツだって言ってなかったか?」
「ウン、そう言ってた・・・女の人に見えるぐらい綺麗な人なの?」
「うん、まぁ、ちょっと見はな・・・」
梓が急に部屋を訪ねてきたのはこういう理由かと 友人の一人である藤田の顔を思い浮かべた。あのヤロー、俺には何にも言わねぇで、あっちこっちで吹聴してやがる・・・明日行ったら覚えてろよー・・・そのお陰で夕食にありつけたことなど 左之助は綺麗さっぱり忘れていた。
「へぇ、そうなんだぁ。でも、良かったぁ。藤田の見間違いで・・・だって、本当にそんな彼女が居るんなら 相楽ぁが熱出してるのに放っておく理由ないもんね。」
左之助の後ろで返事をしていた梓が急に首に腕を回してかじり付いてきた。
「うわっ! どうしたんだよ?急に?」
驚いて振り向こうとした左之助の顔に自分の頬を寄せて甘えた声を出す。
「これでも私、ずいぶん心配したんだよぉ。」
その心配は当たっていたな・・・・・・とは言える状況ではなさそうだ。
「相楽ぁ・・・・」
くすんと鼻にくぐもる声を出して 左之助の唇を求めてくる。
「ちょ、ちょっと待て!」
後ろから羽交い締めにされたような格好で 左之助は椅子に縫いつけられ自由が利かない。梓の腕をふりほどこうと腕に手を掛けている間に 梓の唇が重なった。吸い付くように唇を吸われ、左之助の舌を求めてくる。オイオイ、俺は今、そんな気はねぇんだってば・・・そう思っても男としては女から求められて悪い気はしない。梓の熟れるような甘い匂いを 鼻孔一杯に嗅いでいた。

バタン!
突然に玄関の扉が開く音がして瞬間的に左之助はそちらの方へと顔を向けた。そして、そのまま固まった。
ウソだろーーー!!!???出張から帰るのは明日じゃねぇのかーー!!??
入り口には剣心が立っていた。
玄関とキッチンが続いているこの部屋ではすべて見通せただろう。
「俺が心配して帰ることもなかったようだな。邪魔をして悪かったよ。」
くるりと剣心は踵を返すとドアのノブに手を掛けた。
「オイ!!剣心、待てよ!!待てったら!!」
慌てて左之助は叫んだが、冷たく響く音だけを残して再び扉は閉じられた。廊下には剣心の遠ざかる靴音だけが響いていた。
「あっ、あの人がルームメイトなんだぁ? ホントに藤田の言った通りだぁ。」
何事もなかったかのようにのんびりとした声で梓が訊ねる。しかし、最早梓の声など耳に入らなかった。まだ腕を回したままの梓の手を振り切って 左之助は立ち上がり梓へと向き直った。
「帰れよ!帰ってくれよ!」
「どうしちゃったの?急に・・・ルームメイトにキスしてるところを見られたぐらいで慌てることもないじゃん?」
血相を変えて叫ぶ左之助に対して梓は至って冷静だ。
「いいから、今日はもう帰ってくれよ! そして2度とここへは来るな!」
「何よ? 急に・・・何でそんなに怒るわけ?」
左之助の言い方に不服一杯だと目で訴えて梓は睨む。
「何でもいいからさっさと帰ってくれ!!」
口を尖らす梓の肩を玄関まで押して 脱いだコートやマフラーを押しつけて 扉を開いて追い出した。もう一刻も早く一人になってこの状況の打開策を考えたかった。
「じゃぁ、またな。」
内側から左之助が冷たく閉じた扉に向かって
「相楽ぁのバカァーーー!!」
梓の怒鳴る大きな声がした。

頭の中は真っ白だった。いったい何をどうすればいいのか気が急くばかりで考えは纏まらず、苛立たしげに部屋の中をぐるぐる回り、ベランダへ出て外を見渡してみたが、剣心の姿はもう何処にも見あたらない。それから携帯を手にとって剣心へと電話を架けようとした。だが、架けたところで何と言えばいいのか判らず、「くそぅ!」と呟き、ベッドへと叩き付けた。
不可抗力とはいえ、あんな所を剣心に見られてしまった。どう言い訳すればいいのだろう・・・・
何でもないと笑い飛ばせばいいのだろうか・・・・・だけど・・・もし、剣心が帰ってきていなかったら、自分はあのまま梓を帰しただろうかとも思う。浮かれていい気になっていた自分への罰かもしれないと 壁に凭れてぼんやりと考えた。

その夜、剣心は戻ってこなかった。
廊下に靴音が響くたびにドキッとして玄関の方を振り向いたが、靴音はすべて他の部屋へと吸い込まれた。
自分の迂闊さを呪い、剣心のことを想った。
剣心を思い出す度に胸が痛んだ。
本当に俺、こんなにも惚れれちまってたんだ・・・・・
一人の部屋が急に広く感じられ、寒々しく思えた。
夜はなかなか明けなかった。



キャンパスを歩いていると小西に呼び止められた。
「このさらさらヘアーが女にはウケんだぜ。」と いつも自慢している茶髪を風に乱して、走り寄ってきた。
「相楽、お前確か週末はバイト入ってなかったよなぁ?」
「ああ、そうだけど?」
「だったらちょっと引き受けてくれよ。」
小西はジャンパーのポケットをまさぐりながら 「あれ?何処に入れたっけ?」と呟きつつ探し物をしている。「ああ、あった、あった。」と言いながら 取り出したよれよれの名刺を左之助へと押しつけた。
「何だよ?」
その名刺を不審そうな目で見ながら左之助が聞き返した。
「俺がホテルでバイトしてるのは知ってるだろ?」
前に何処かでかいホテルの名前をを言ってたな・・・名刺には急には思い出せなかったそのホテルと宴会係の伊藤と名前が書かれていた。
「急にバイトが今月に入ってから2人も辞めちゃってさぁ、困ってんだって。俺、伊藤さんに頼まれちゃってさぁ、今月だけでもいいから早急にボーイの経験有るヤツ探してくれって。」
あれから1週間経つが 剣心は帰ってきていない。1度思い切って携帯も架けてみたが、電話は繋がらなかった。部屋には剣心の荷物が置かれたままになっている。家に戻る時にはその荷物が無くなっていないかと確かめるのが 左之助の無意識の習慣になっていた。
週末に剣心を待って一人部屋で過ごすのはやりきれない。テレビもビデオも何処か空々しく、空虚な心の上を素通りするだけだった。
「今月だけなら構わねぇぜ。」
「助かったよ。他に誰も思いつかなくってよ。じゃぁ、俺からも言っとくけど、そこに書いてある電話番号に架けて、シフトを聞いておいてくれよ。宴会係の伊藤って言やぁ、すぐに分かるから。」
「ああ、解った。」
「じゃぁ、頼んだぜ。」
「俺これからデートなんだ。」と言って、自慢の髪をかき上げながら小西は走り去って行く。遠くの木陰に立っていた女の子に追いつくと肩を抱いて歩いていった。落ちた枯れ葉が左之助の足下でかさこそと音を立て 風に吹かれて舞っていた。


何処かの政治家の決起集会や、医者の会合、パーティーなどで週末のホテルは忙しそうだ。支給された制服とも言えるタキシードを着て 左之助は目まぐるしく立ち働いていた。小西に頼まれてホテルに行ってみると伊藤にひどく気に入られ、最初は裏方を手伝っていたのだが、接客態度を見込まれて2週目からは会場の中に入るように指示された。ナプキンを腕に掛け、ワインやシャンパンを注いで回る。綺麗に盛りつけられた皿を次々にテーブルへと運び、汚れた皿を片づけていく。和やかに繰り広げられている会場とは裏腹に 扉の向こうでは壮絶な修羅場が展開されていた。厨房から上がってくる料理を冷めないうちに客へと運ばなければならないし、汚れ物は仕分けしてエレベーターへと運び出さなければならない。チーフの怒鳴り声と慌てたバイトたちの小さな悲鳴が飛び交っていた。その表と裏を行ったり来たりしながら、左之助は黙々と仕事をこなしていった。
パーティーが引けてドンデン(使い終わった会場を次の客のためにテーブルや椅子のセッティング、花の飾り付けなどをすることを指す。舞台のどんでん返しに由来する)が終わると少し時間が取れた。従業員の控え室で食事をし、トイレに行こうと席を立ったが、あいにく従業員用のトイレは清掃中だった。タバコが切れていたことを思いだし、売店のあるロビーへと階段を降りていった。
ロビーではチェックインする旅行客やパーティーの引けた人達、これから参加する人々が行ったり来たりしている。その客の間を縫いながら、エレベーターホールの横のトイレへと向かって歩いていた。真っ直ぐに顔を上げて歩く左之助の目が ふと見覚えのある赤毛を捉えた。
剣心・・・・・・
声を掛けようとして躊躇った。エレベーターに乗り込もうとしている剣心は 長身の男性に肩を抱かれ、何か話しながら中に吸い込まれてゆく。扉の閉まり際にその男性が少し屈んで剣心の耳元へと口を寄せているのが見て取れた。

背中から冷や水を被ったように全身の血が引いていくのが解った。心臓は周りに聞こえそうなぐらいに動悸を打ち、行き交う人も何も見えない。呆然と立ちつくす左之助に客の一人がぶつかった。何か口の中でモゴモゴと謝っていたようだが、それさえも聞こえず、時間が止まってしまったかのように感じられた。
それから後の時間をどのように過ごしたのか 自分でも覚えていなかった。ただ命じられるままに料理を運び、片づけをした。料理が上がってくる合間に左之助の顔色の悪さに伊藤が気がついて「どうした?」と尋ねたが、心配を掛けまいと「何でもありません。」と答えたものの気分の悪さはどうすることも出来なかった。


ホテルから出ると外には雪が舞っていた。イルミネーションに彩られた街を 恋人達は肩を寄せて歩いてゆく。濡れた歩道を肩を落として歩く胸の内には 剣心の面影ばかりが漂っていた。肩を抱かれ寄り添うようにエレベーターに乗り込んでいた。その横顔が見知らぬ他人のように遠く感じられ、胸の中で儚く揺れる。

辿り着いた部屋は暗く冷たい。壁に掛かった剣心のスーツやセーターが今は心に痛い。
せめてもっと早くにこの想いに気づいていたら・・・
壁に凭れて出会った日のことを思い出そうとした。この腕に剣心を抱いていたことを思い出せば 少しは幸せな気分になれるかもしれない。だが、何処を探してみても記憶はぼんやりと霧に包まれ、空白の時間は埋まらない。
白く曇る窓の外にはまだ雪が降り続いていた。
失ってみてこんなにも愛していたことに今頃気づく自分の莫迦さ加減を 舞い落ちる雪が埋めてくれたら 心はこんなにも痛まないだろうに・・・・
低く垂れこめた空から雪は後から後から降ってきた。そして、悲しみは何時までも心の中に漂っていた。

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