〈 ... 〉


12月も近づいた小春日和の日に 一台のバイクが京都の北部の山の中腹へと向かっていた。
細い煙は今日も立ち上り、醒めた青の中へと吸い込まれていく。
その行方を目で追う小麦色の肌は陽に照らされ、シールドの奥で笑っている。
どう足掻いても逃れられないのならば この心が追い求める限り、追いかけよう、結果がどうあっても。それが左之助の出した答えだった。
行方を聞き出せるまでは帰らない、そんな気持ちで比古の元へと再びやって来た。
比古の家まで誘導するように続く細い道に乗り入れ、前庭にバイクを停めた。
母屋の横にある納屋のシャッターが 開けっ放しになっていて、藤色の4WDが我が物顔で収まっているのが見て取れる。その横にある赤いカウルが 左之助の視線に止まった。
走り寄り、納屋の中へと身体を滑り込ませると 見間違うはずのない赤いドゥカティがそこにいた。
「剣心・・・・・」
まるで本人がそこにいるように 懐かしい気持ちに胸が締め付けられる。はやる気持ちそのままに 息せき切って赤や黄色の山の彩りに溶け込む家へと足を踏み入れ訪う。玄関脇に並んだ棚には 比古の作品であろう焼き物が所狭しと並んでいた。その棚はそのまま奥の部屋へと続き、10畳ほどの土間一杯に並んでいて 大きな人影はそこにいた。
「剣心が、剣心が此処にいるんだろ?」
挨拶もせずに急に飛び込んできた青年を一瞥した比古は 一瞬頬を緩ませたがすぐに真顔になって見透かすようなからかうような色を その目に湛えた。
「なんだ? 諦めたんじゃなかったのか?」
「わりいが俺はめっぽう諦めの悪い方なんだよ。剣心が居るんだろ?逢わせてくれよ。」
「残念だったな、ぼうず。もう此処には居ねえよ。」
「嘘だ。ドゥカティが置いて有るじゃねぇか。」
「ああ、あれか・・・引っ越しの邪魔になるから預かっててくれと置いていったんだよ。」
「じゃあ、剣心は今何処にいるんだよ? 知ってるんだろ?」
「居所を知ってどうする?」
「1発殴ってやる。でなきゃ気が収まらねぇ。」
「余計なお前の気持ちを押しつけに行くのか?」
「ああ、そうだよ。あんな物わかりの悪いヤツには 1発お見舞いしなきゃ何時までも目が覚めねぇんだよ。頼む。教えてくれ。」
頭を下げる左之助を思案顔で見つめているが 目ばかりはニタニタ笑っている。
「それもいいかも知れねぇな・・・・・」
独り言のように呟くと、小さな紙片を投げて寄越した。
「アイツがお前に会うかどうかは知らねぇが 教えないで恨まれても適わねぇからな・・・・」
比古が寄越した名刺には 比古の東京の事務所の住所が記されていた。
「そのギャラリーが入っているマンションの6階の部屋にいる。今日は片づけ等をしているはずだから 多分部屋には居るだろう。」
「ありがてぇ・・・」
こんなにすぐに教えてもらえるとは予想もしていなかっただけに 拍子抜けする気がした。此処を尋ねてからの数週間前というもの、もがき、悩み、苦しんだ辛い日々が 一瞬のうちに氷解していく。その日々が決して無駄ではなかったと 比古の眼差しが物語っていた。
場合によってはさらに辛い状況になるかも知れない。それでも、乗り越えなければ前には進めないと 強い意志を湛えた左之助の瞳を真っ直ぐに見据えながら 比古は満足げな笑みを浮かべていた。
「まぁ、頑張りな。ぼうず。」
礼を言う左之助に そんな物は聞きたくもないといった風で
「用事が済んだらさっさと行きな。」
左之助へと大きな手の甲を追い払うように振る比古の好意に甘えて、深く頭を下げると飛ぶように表へと走り出ていった。

腕の時計は3時を指している。今から京都駅へと戻り新幹線に飛び乗ると 夜の8時頃には東京へと着くだろう。それからの行動を頭の中に描き、携帯電話を取り出すと番号をプッシュしはじめた。
「ああ、恵? 俺だ。剣心の居所が分かった。これから行ってそっちへ引っ張っていくから 鈴鹿にマシンを用意しておいてくれよ。」
「えっ?大丈夫だって。何があったって連れて行くさ。だから頼んだぜ。」
斎藤と約束をした日は明日に迫っていた。最初から明日には無理だろうと諦めていたものの 昨日電話をした恵から マシンを積み込む時間までは諦めないで待っててあげると言われ、お膳立てしてくれた恵のためにも 何があっても剣心の居所を聞き出そうと心に誓って 比古の元へと赴いていた。

ジーンズのポケットから 皮のグローブを取り出すとぴっちりと腕に嵌め、
「ようし、待ってろよ。」
誰にともなく呟いて、スタンドを蹴り上げた。アクセルに吸い付く右の手は
スロットルを一杯に開き、シリンダーから吐き出される排気音を軽快に響かせた。



京都駅でバイクを乗り捨て、新幹線に飛び乗った。
駐輪場にバイクを乗り入れ、キーをロックする時には
「俺が戻るまで盗まれるなよ。」
と、声を掛けることを忘れない。
「お前の連れのドゥカティを必ず連れてきてやるからな。」
自分に言い聞かせるように 黒いシートをぽんぽんとはたき 分身に別れを告げた。
東京駅から自宅へと引き返し、車に乗り込み剣心のマンションへと向かった。
両親の置き土産のウィンダムは3000ccのエンジンを軽く回し、信号でスタートを切る度に 後方の車を引き離していた。今更慌てたって同じ事と思いはするのだが、1分でも惜しいと気持ちが急く。

夜の帳が降りかけた街は 師走も近づき、賑やかな色を放っている。綺麗に飾り付けられたブティックのショーウィンドゥを覗き込みながら歩く女性達。頬を寄せて囁き合うようなカップルで一杯のコーヒーショップ。そんな街の一画に 比古のギャラリーはあった。

歩道に乗り上げ車を停めて、マンションのエントランスへと歩みを進め、入り口に備えられているポストの名前で 部屋を確認する。
「603 緋村」
剣心の名前と共に7階の住人の名前を読み取る。
比古が言ったようにまともに尋ねても出てこないかも知れないという危惧が 左之助の頭の中にはあった。扉口で持久戦をしていられるほど 時間に余裕があるわけじゃない。新幹線の中で練った計画を実行しようと 頭の中で反芻してエレベーターに乗り込んだ。
似たような扉が幾つか並ぶ端から3つ目に左之助は立った。部屋の明かりは点いている。大きく息を吸い込むとインターホンを押し、鼻をつまんで7階の住人のひとりの名前を告げた。引っ越したばかりの剣心に 声の違いなど分かるはずもなく、同じマンションの住人で有れば のぞき窓から姿が見えなくても警戒感も無くすんなりと扉を開けるだろうと予想を立てていた。
壁に貼り付き姿を隠す。
少し間をおいて扉のロックが外される音が聞こえた。左手で扉のノブを掴み、力一杯に引き開け、すかさず右足を差し入れる。1歩踏み込んで剣心が左之助と認識する前に 左之助の右の拳は剣心の頬を強打していた。
軽い体はそのショックで後方へと飛び、床に転がった。土足で上がり込み馬乗りになってその剣心の胸ぐらを掴んで 阿修羅のごとくの形相で左之助が迫っていた。

「何で、何で俺に黙って姿を消した?」

痛みに顔をしかめながら 目の前の人物を信じられないという驚きの表情で剣心が見つめ返している。

「何故・・・何故此処に?」
「何故も糞もあるもんか。答えろよ、剣心。俺は・・・俺はそんなにお前にとってお荷物だったのかよ?」

左之助の胸ぐらを掴んだ腕に力が入り、息苦しさに剣心は目を閉じる。無意識のうちに苦しくて掴んだ左之助の腕の温かみが 頑なに閉じようとする心に染み渡り、安堵の思いが広がっていく。

「ちが・・・う・・・」

苦しい息の下から答える剣心に 左之助の腕は力を緩めることなく、さらにねじり上げた。

「何が、どう、違うって言うんだよ。」

ねじり上げられ揺さぶり続けられ、答えることも儘ならぬままに 何とか左之助の腕を振りほどこうとしていると 不意に剣心の頬に熱い水滴が当たった。
見開いた目に飛び込んできた左之助の顔を見つめて、こんなにも左之助を傷つけてしまったことが 今更ながらに大きな後悔となって剣心の胸にと迫ってきた。

「お荷物は俺だ・・・・お前の荷物になりたくなかったんだ・・・・」

その途端に剣心の左の頬に左之助の平手打ちが飛んできた。

「お前は何にも分かっちゃいねぇ。」

左之助の心の奥からの叫び声がこだまする。殴られた拍子に口の何処かが切れ、口中に広がる血は涙の味がする。
身体に感じる痛みよりも 胸に広がる痛みの方がはるかに剣心を打ちのめした。
「立てよ。」
剣心から身をどけて、胸ぐらを掴んでいる左手は 剣心のシャツを離すことなく自分が起きあがると共に 剣心を引っ張り上げた。糸の切れたマリオネットのように左之助に引き立てられて 体を起こす。

「来いよ。剣心。お前が荷物かどうか見せてやる。」

剣心の腕を掴み、玄関口へと引きずり出そうとする。

「何処へ行くんだ?」
「うるさい! 黙って一緒に来い。」

掴んで引き回されたシャツはくしゃくしゃになり ジーンズからはみ出てはだけている。こんな姿のまま住人の誰かに会ったら何と思われるだろう等と 妙に醒めた意識が頭の隅を掠める自分が可笑しかった。左之助の怒りのすさまじさに逆らう事もせず、そのまま腕を引かれて為すがままに任せた。
エレベーターに乗り込んだ時 ようやく左之助は剣心の腕を放してくれた。その隙に身繕いを整え、左之助の顔を伺い見る。まだ怒りは薄らがないのか、単にばつが悪いのかそっぽを向き、減っていく階の数字を所在なさげに見つめている。階下に付くと停めてあった車に乗れと言う。一体何処まで行くつもりなのか 想像も付かぬままに、助手席におとなしく身を沈めた。

此処の住所を左之助に教えてやれる人物が居るとすれば 叔父の比古以外は思い当たらない。比古の想像通りに左之助はもう一度比古を尋ね、聞き出したのだろう。余計なことをすると思わないでもないが、自分を心配しての叔父の行動で 今こうして左之助にもう一度逢えた安堵感が己の気持ちを支配していることを認めないわけにはいかない。と同時に 今度こそ終わりだという絶望感が襲ってくる。
卑怯にも左之助に黙って姿を消したのは 心の何処かで自分を忘れて欲しくないと願っていたからだ。自分の胸の内を全て吐露して左之助に軽蔑されるくらいならば 卑怯だと恨まれた方がいいとの選択をした自分を 今度こそは逃さず、最後まで追いつめるだろう。だが、それも仕方なく、こんなに左之助を傷つけた自分への罪の報いだろう。きっちりとけりを付け、終止符を打つ事が今の自分に出来る左之助への せめてもの誠意かもしれない。そんな思いに囚われているうちに 車は東名高速道路を走っていた。

車に乗り込んだ時から黙り続けている左之助も また考え込んでいた。
比古には1発殴ってやるとは言ったものの、はじめからそんな積もりでいたわけではなかった。直情的な自分の性格が 剣心の顔を見た途端に手を出していた。ちょうど不安や怒りが一度に爆発したというような格好だ。
怒りにまかせて剣心を引っ張ってきたが、自分のしている行動が本当に剣心の為の物なのか 単に自分の気持ちを満足させる物なのか、自分から逃れようとする剣心を見ていると心が揺らぐ。
離れて感じた他の誰にもないその重さは 自分だけの思いなのかと心が粟立ち、アクセルを踏む足にも力が入る。

交わす言葉もなく重い空気が流れる車内で伊豆を過ぎる頃 左之助が
「めしは?」と一言だけ聞いてきた。
首を横に振り、「いや。」と答える。
「何か食うか?」
「だって、俺は一文無しじゃないか。」
突然に引きずり出し、財布を持つ時間さえ与えなかったくせにと言外に匂わす拗ねたような口振りに 思わず左之助の頬が緩んでしまう。
「飯ぐらい食わせてやるよ。と言ってもこの時間だ。うどんぐらいしか食えないだろうけどな。」
こんな気持ちの時にさえ腹が減るなんて可笑しすぎて悲しい。
それぞれの思いを胸に秘めて、それぞれの胸で呟いた。


向かい合って蕎麦を食べている左之助の顔を見ていると あの夏の日が思い出される。上手そうに風呂上がりに啜っていたあの日から そんなに遠くはないはずなのにずいぶん前の出来事のようで 考えてみればあの日から俺の心はコイツに囚われたままだと気が付く。幾分痩せたようだと思うと また心が痛んだ。
「何処まで行くつもりなんだ?」
「着けば分かるだろう。」
「まだ遠いのか?」
「ああ、まだまだだ。」
「じゃぁ、運転を代わってやるよ。疲れた顔をしている。」
「ん?」
「何だ、その疑いの眼差しは。」
「何処かでトンズラしようなんて思ってねぇだろうな?」
「信用がないな・・・・それも仕方ないか・・・・此処まで来たんだ。何処へ行くのかは分からないが、お前の気の済むところまで一緒に行くよ。」
「それじゃ、名古屋まで替わって貰うか。そこから後は俺が運転する。」

黙って助手席に座っているより 何かをしていた方が気が紛れる。そんな気持ちで運転を引き受けた。カーステレオから流れる甘いバラードがやけに心に沁みた。
名古屋で左之助と運転を替わった。
「まだ掛かるからお前も一眠りしておけ。」と言う。
そんな気にもならないがシートを倒して横になっていると いつの間にか微睡んだらしい。着いたと起こされた時には まだ空は暗く、何処かの駐車場のようだった。暗闇の中に山の稜線が遠くに見える。
「少し歩こう。」
左之助に促され、外に出ると次第に回りの景色が夜目にも見えてきた。
観覧車が見え、見覚えのある正面ゲートが口を開いている。
「左之助、此処は・・・・」
「ああ・・・・・行こう。」
「何故、此処に・・・・・」
「此処がお前の立ち止まった原点だろ? 全ては此処からだろ?」

左之助の思惑も理由も分からぬまま、黙って後ろに付いていく。15分ほど歩くと カシオトライアングルの向こうに130Rが広がっている。暗闇に沈む緩いコーナーが暗黒への道にも見えて、剣心はブルッと身震いする。そんな剣心を左之助は気づかわしげに見つめていたが、前方を見つめる剣心には左之助の表情は見えず、地獄の使者が今にも鎌を振り下ろすのではないかと心細ささえも覚える。
「ここら辺りでいいだろう。」
左之助に促され、柔らかい草の上に腰を落とし並んで座った。
二人とも闇に浮かぶ130Rを眺め、押し黙ったまま時は過ぎていく。

先に口火を切ったのは左之助だった。
「聞かせて貰おうか・・・・何で黙って消えたのかを・・・」
考えても考えても一人で空回りするその答えを求めて荒くれた日々を噛みつぶすように 苦い顔をした。 
「俺は・・・・俺がどんな人間かお前には知られたくなかった・・・」
絞り出す剣心の声は低くかすれている。
「どういう意味だ?」
「俺は冷たい人間だ。お前には相応しくない・・・・。」
「何が言いたいんだ? 飯塚の事か?」
剣心の抽象的な言い方に 先を促す逸る気持ちで今まで何度も口に仕掛けては飲み込んできた名前を吐き出した。
「何でそれを・・・?」
びくっと肩を震わせ 闇の中でもそれと分かるぐらいの大きな目を見開いて左之助を見つめ返してくる。
「知っている・・・・・Miburoの恵から聞いた・・・・」
「Miburo・・・・」
記憶の底に封印した名前を聞かされ、懐かしさと共に自分の過去についてもう隠しごとは何一つ出来ないと悟った。
「夏の終わりにMiburoを訪ねた。お前は有名人だからな・・・・ちょっと昔のレースに詳しい奴に聞けば、何処に所属していたかはすぐに分かったぜ。だけど裏切られたのはお前だろ?それがどうしてお前が冷たいなんて言うんだ?」
「俺は気づいていたんだ・・・・飯塚が玲奈を好きだって事を・・・知ってて知らない振りをした・・・・」
「だからって、好きな女を連れに譲れるわけねぇじゃねぇかよ。」
尤もだろうと問い返す左之助に 悲しげに微笑んで俯いた。
「あの頃・・・・俺はレースが面白くて仕方なかったんだ。出れば何時も入賞した。俺が忙しくなるに連れ、玲奈を構う時間もなくなっていき、何時も寂しげだった。でも、俺は見向きもしなかった。そんな事は玲奈の我が儘だと思っていたんだ。国内、海外と何時もレースレースで、たまに休みの日があっても俺は何時も何処かで走っていた。他のカップルのように映画を見たりショッピングをしたりなんて事は 考えもつかなかった。そんな俺に飯塚は玲奈をもっと大事にしろと。でなきゃ、俺が貰うぞと冗談めかして言って・・・・・俺は驕っていたんだ。そんな事は出来やしないと・・・・
俺がどんな風に振る舞ったって、玲奈が俺から離れるとは思わなかった。そんな俺を飯塚はどんな思いで見ていたのか考えもせず・・・・自分の惚れた女を泣かせてる男を側で見ているのは堪らなかっただろう・・・・」

取り戻せない日々をポツリポツリと苦しげに語る口調には 悔恨の色が滲む。
左之助の知らない剣心の青春時代がそこに有り、手の届かない苛立ちに左之助自身の心もささくれだった。

「他のみんなはアイツが俺を売ったと言うけれど本当のところは分からない。アイツにすれば俺が少しでも玲奈の側に居れればいいと、少し怪我をしてレースの事を忘れればいいと思ったのかも知れない。だけど、ほんの少し怪我をさせるつもりが玲奈を巻き込んだ・・・・予想外の出来事は 飯塚を窮地に陥れた。アイツの不自然な転倒は誰もが見ていたから・・・・憶測が噂を呼びアイツに疑惑が集まった。責め立てるみんなの声に我慢できなかったんだろう。誰かの所為にしなければ自分を保てなかったのかも知れない・・・・・直接の原因は飯塚でもアイツにそうさせたのは俺だ。アイツの怒りは全て俺に向けられたよ。そして俺に玲奈を寝取ったと誇らしげに告げた・・・・」

忘れようとして忘れられない夜が甦る。思い出す度、昨日の出来事のように剣心を苛み苦しめる。冷たく響く飯塚の声が耳の奥から離れない。言葉にすれば心がざらつき、無数のとげが突き刺さる。左之助に告げる今 奥歯を噛みしめ、胸の痛みに耐えた。
そんな剣心の絞り出すような言葉を 明け初めようとする空を見つめて左之助も自身の痛みとして捉えていた。

「アイツの狙い通りだったのかどうかは分からないが 俺はサーキットに立てなくなった・・・・俺は許せなかったんだ。アイツを・・・・俺から玲奈を奪い、レースを奪い、無二の親友だと思っていた俺を裏切った・・・・・
もう全くバイクとは関係のないところで生きていこうと俺は大学に戻り1年ほど経った時、飯塚が事故で二度と歩けなくなったと聞いた。俺は、俺を陥れた罰だと思った。いい気味だと・・・・
暫くして、アイツから俺に電話があったんだ。話を聞いてくれと・・・・俺はもう何も聞きたくはなかった。だから・・・黙って電話を切った。そして、数日してまた掛かってきた。許してくれ。お前が許してくれなければ生きては居られないと泣いていた。だけどもう、俺にはアイツが生きていようが死のうが関係ないと思ったんだ・・・・
そして俺は勝手にしろと言って受話器を置いた。アイツがもしかしたら本当に死ぬんじゃないかと思いながら・・・・
許すと一言、言ってやればアイツは死ななくて済んだんだろう。だけど・・・許せなかったんだ。アイツがどんな気持ちで電話を架けてきたかなんて思いやれなかった・・・・・
アイツはその二日後にビルから飛び降りて死んだよ・・・・・
動かない体をひきずって・・・・
俺が殺したんだ。許すと言えなかったばっかりに・・・・」

彼女が死んだことよりも 友人に裏切られたことよりも何より剣心を今日まで苦しめ、罪を背負わせたのは飯塚の死だったと左之助は初めて気づいた。
自分を裏切った友人に何故そこまで心を寄せるのか理解できず、自分と剣心を今も引き裂く飯塚に無性に腹が立った。

「お前の話を聞いていたって俺にはお前が悪いようにはいっこうに思えねぇ。俺はお前に最後の最後までそんな思いをさせた飯塚って野郎が許せねぇよ。」

素直に自分の気持ちを語る左之助に 悲しげな笑顔を見せて剣心がその先を語る。
「数日後、アイツからの手紙が届いた・・・・
何でも手に入る俺が羨ましかった、あの時はどうしてあんな風に俺を裏切ってしまったのか、誤って許される事ではないけれどずっと後悔していると・・・玲奈の事は全くのでまかせで申しわけなかった、今更自分がこんな事を言える立場ではないけれど レースに戻ってくれと・・・・
今もお前は俺の自慢だからと綴られていた・・・・
羨ましかったのは俺の方で アイツは何時も暖かい家族に囲まれ笑い声を上げていた。俺が望んでも手に出来ない物を持っていたのに・・・・
それで、俺はやっと分かったんだ。もう、とっくに心の中ではアイツを許していたことに・・・
俺が望んで待ちこがれていたのは アイツの謝罪の言葉でも何でもなく、二人で昔のように笑い合うことだったんだ・・・・
なのに、少しも分かっていなかった。俺は何も見ず、何も気づかず、何も分かってなかったんだ・・・・・
俺は失ってみて初めて分かった・・・ 掛け替えのない友達を永遠になくした事を。」

薄赤く染まる空に彩られ、剣心の流す涙が頬に光る。凛と張った空気の中で徐々に上りはじめる太陽が 大気の色を赤や黄色に染め上げ、透明な滴がその中に色を閉じこめる。左之助はその涙がとても綺麗だと思った。じっと見つめる左之助から目を逸らし、剣心は茜の空を見上げ・・・・そして目を閉じ、胸の奥に秘めていた言葉を口にした。

「俺の驕慢が二人を死に追いやった。そんな人間がどうしてお前を幸せに出来る? どうして自分の幸せを望める? 俺はいつかお前を傷つけるだろう。だから・・・・」
「それがどうしたって言うんだよ? そんなもんに負けるくらい俺は柔じゃないぜ。たとえお前が人殺しでも 俺の気持ちは変わらねぇ。
俺が出会った時にはもう色んなもんをその背にしょっていたじゃねぇか。お前が血を吐くような思いで流した涙があるから今のお前が居るんだろ? 辛いことも悲しいことも経験したから今のお前があるんだろう? 俺はそんな物も全部ひっくるめて丸ごとお前が欲しい。それがお前だろ?」
「ああ、だけど左之助・・・」
「死んじまったお前の彼女も飯塚もお前が苦しむことを望んだわけじゃないだろう? 生きて幸せであることがそいつらの願いじゃないのか?」

大きく見開く瑠璃色の瞳に茜の空が映って菖蒲の色を織りなす。悲しみの色は驚きに変わり、剣心の顔がくしゃりと崩れた。

「乗り越えろよ、130R。俺とお前、二人ならきっと上手くやっていけるぜ。」
笑顔で手を差し伸べる左之助のその手にそっと触れると 大きな手は力強く握り返し、剣心の腕を引く。反動でその厚い胸板に倒れ込み大きく広げた腕に抱き留められ、優しげな温もりが身体の隅々まで温めて、凍った時間を溶かしだす。
白く棚引く雲の間からすっかり太陽が顔を見せるまで 口づけ、見つめ合い、二人は互いの温もりを確かめていた。



「恵と斎藤はずっとお前が帰ってくるのを待っていたんだぜ。お前が8年間も逃げ隠れしている間にも アイツらはお前を思う気持ちを持ち続けてくれていた。何処の馬の骨ともわからねぇ俺の話を信じてお前の為ならと サーキットにも連れて行き、走り方を教えてくれたんだ。」
背に回した手を剣心の髪に滑らせ つややかな髪に指を遊ばせながら頭上で左之助が優しく語る。剣心が腕の隙間から顔を上げ、少し眉を持ち上げて不審気な表情を見せる。
「どうして俺のためにサーキットを?」
「お前と一緒に130Rを越える為に、な。一人じゃ走れなくっても二人なら越えられるだろ? お前の側にずっと居るその為にも・・・・」
朝日に照り映える左之助の笑顔から白い歯が零れた。
「左之助・・・・」
「裏切るヤツばかりじゃねぇ。何時までも思いの変わらねぇヤツだってちゃんとこうして居るんだぜ。行こう、向こうでアイツらが待っている。」
「俺は・・・・・」
「もう逃げるなよ。俺が側にいる。」
「ああ。そうだな。」
左之助の深い思いが 剣心の心を覆っていた霧を晴らし、隅々の細部に至るまで温かな風を吹き込んでいく。その心をしっかりと受け止め、踏み出す一歩を晴れやかな笑顔で答えた。
「行こう、左之助。」
ひんやりとした空気の中で凛と張った笑顔は 左之助が今までに見たどんな笑顔よりも確かなものだと思えた。




漆黒のアスファルトの上に ピットから飛び出してきた色とりどりのマシンの中に赤いフォルムが燦然と輝く。スタートを待ちわびて呻るマシンを抑えながら左之助が振り向きメットの中で完爾と笑う。
4ストローク、990ccのエンジンが腰の下で吠える。メインストレートをアクセルを開け、左之助の後を追う。シフトを落とし第1、第2とコーナーを抜けていく。斎藤の自慢の一品は気持ちのいいほどにライダーの心を汲み取り、応えてくれる。前を行く左之助はダンロップコーナーの出口でアクセルを全開に開いていく。その確かなライン取りを眺め、恵や斎藤の熱い心を知る。右、右と続くデグナーを抜けシフトアップ、続くヘアピンカーブで一気に減速をする。コースの形状が似ていることからスプーンと呼ばれるカーブを越える。インからスロットルを開き、バックストレッチへと立ち上がる。鈴鹿サーキットで最高速の記録される西ストレートをアクセル全開で駆け抜けようとした時、視界の先に130Rが待ち受けているのが目に入った。前を行くライダー達の姿にあの日の二人の姿が重なる。
長い髪を靡かせ、コーナーに飲み込まれていく玲奈と側を走る飯塚。ひとコマひとコマ スローモーションのように鮮やかに記憶の底に甦る。アクセルを握った右手から力が抜け、体中を悪寒が駆け抜ける。呻るマシンの数々が130Rの手前で剣心の横をすり抜け、高速で追い越していく。前を見つめる目は何を見ているのかも分からず、身体だけがコーナーに沿って倒れていく。駆け抜ける数秒が何時間にも感じられ、胸の中に重くのし掛かる。空白の時間を過ごし、気が付けばシケインに差し掛かっていた。ブレーキング、シフトダウン。スロットルを開けシフトアップと繋げ、最終コーナーの長い下り坂を立ち上がりながら加速を加えていく。メインストレートを抜ける時、ちらりと恵の気遣わしげな顔が目に映った。 


前を行くライダーに追い縋り 食らいつく左之助は 周回を重ねる事に苛立ちを覚えていった。何故自分を越えていかない? 随分長い間レースから離れていたとしても、剣心の走りはこんな物じゃないはずだ、やはり130Rがと気に掛かる。長い間剣心を捕らえていたトラウマは 剣心の心を鷲掴みにし、越えれぬ壁となって立ち塞がるのかと暗澹たる思いに捕らわれていく。恵の差し出すタイムボードには 自分とほぼ同じタイムを剣心も刻んでいた。

灰色のアスファルトの先に 信州でのあの日の青い空と赤いフォルムが瞼に浮かぶ。ひらりひらりと蝶のように舞、青い風を掴み、やがて疾風となって空へと続くワイディングを駆け抜けていく。ただ一心に追いつきたいと思ったその姿は 自分の前には現れない。自分の前を行くどのライダーにも 心をときめかせる物はない。前を睨みながら神経は後ろへと集中していく。
メインストレートを横切る時に 恵が残り10分とボードに書いて知らせて寄越した。
残すところ3周余りで走行は終わる。

このまま風を掴まず、壁を越えずに終わってしまうのか・・・・

逆バンクを越えながら六甲の夜景が、茂木での斎藤の怒鳴り声が、比古のニヒルな笑いが 浮かぶ度に消えていく。
200Rを過ぎ、スプーンへ。

ならば、俺が越えてやる。
掴みきれぬ風を追い求めて、この一瞬に命を賭けて前へと進もうとスプーンコーナーの立ち上がりからアクセルを全開に開いていく。西ストレートで最高速に達してそのままの勢いで130Rを目指す。

と、その時、遙か後方より背中に風を感じた。
それは、しなやかで 強靱で 鋭い 獣にも似た一陣の風。バックミラーがあるわけでもなく 後ろを見たわけでもなく、だが、確かに感じるあの憧れて止まない気配が。アクセルを緩めると 左之助の耳朶を強烈な旋風となって風が掠めていった。前方に見える緋色の髪。鋭く倒れ込む車体の一部となって風に揺れる。的確なカーブを描き 流れるフォルムでコーナーを抜けていく。リーンした身体は コーナーの外へと向かうに連れて しなやかに伸び上がる。やがて風は 遙か前方へと新たな獲物を求めて走りすぎた。その背中を見送って ゆっくりと130Rを廻る。前方を見据えた左之助の目にはこの上もない笑みが刷かれていた。


残りのコースを適度に流し、ピットに戻ってきた左之助に 目を見合わせて恵がニッと笑う。斎藤は難しい顔をしてストップウォッチを眺めている。
マシンから降り、メットを取ってすっかり押さえつけられてしまった髪を逆立てるように頭を掻きながら 言葉にならない思いを笑顔で見せる。
「やったわね。」
左之助の背中をぽんと手ではたき、明るい声で恵が笑いかけた。
「ああ。」
満足げな笑みを浮かべ、今見た自分の興奮を思い出すが、まだその先を見据えたいと最終コーナーを見つめる。赤や黄色の幾つものマシンがすさまじい爆音を残してピットの前を通り過ぎていく。
やがて、空気を切り裂く張りつめた音と共に赤いマシンは現れ、風に乗り、風と共に過ぎ去っていった。
その姿を見送って両腕を広げ、胸一杯に空気を吸い込む。見上げた空には朝の光が目映いばかりに輝いていた。


この周で戻ってくるだろう剣心の姿を最終コーナーに捜して 前を見つめたまま横に並んだ恵に左之助は恥ずかしげにぼそっと呟いた。
「その・・・色々とありがとよ。」
「何よ、急に・・・・あんたに礼なんか言われると雪が降るんじゃないかと心配になるわ。」
「アハハハ・・・そうかもしんねぇ。」
「この後も走行はあるんですからね。雪なんか降られちゃ堪んないわよ。」
鼻の辺りに小さな皺を寄せて恵が睨む。
「それもまた乙なもんだぜ。ハハハ・・・」
笑い声を残し、戻る剣心を出迎えにピットの外へと飛び出していく。
赤い小さな影は次第に大きくなり、真っ直ぐに左之助の元へと滑り込んできた。
エンジンを大きく呻らせてピットの前で急制動を掛け、左之助の横にピタリと止まった。
「よう、やけに気持ちよさそうじゃねぇか?」
「左之助・・・・」
顔中口いっぱいにして笑いかける左之助に メットを取るとニヤリと笑い左之助の差し出す手のひらをパチンと大きく音を鳴らして叩いた。
「当然だ。」
「こいつぅ・・・・」
途端に左之助の腕が伸び、剣心の首を羽交い締めにする。
「苦しい、左之助。助けてくれ。」
「ダメだ、許さねぇ。さんざん人をやきもき差せやがって・・・・」
笑いながらなじる声の中に心地よい温かさを感じる。8年前に凍り付いた時間は綺麗に溶け去り、再び明るく回り出し、剣心の胸の中に確かな時を刻みはじめた。

「お前ら、いつまでじゃれ合ってんだ。」
気が付けば二人の側に斎藤が立っていた。
「斎藤さん・・・色々お世話になったようで・・・・」
頭を下げる剣心に 斎藤は相変わらず憎まれ口には余念がない。
「フン、少し退屈していたからな・・・たまには毛色の変わったのを相手に暇を潰してみただけだ。」
「俺は暇つぶしかよ?」
「なんだ。お前、本気でレーサーになりたかったのか? あの亀の様な走りで・・・・」
「何だとぉ! もう、許せねぇ。」
今にも斎藤に掴みかからんばかりの左之助と斎藤の間に恵が割って入った。
「まぁ、まぁ・・・・兄さんも馬鹿をからかわないで・・・・」
「恵! お前まで・・・」
鼻息の荒い左之助を剣心が押しとどめ、苦笑いをする。左之助の居るところには何時も笑い声が絶えないと 夏の日差しのような男を目を細めて見つめる。

その表情を横目で観察しながら斎藤がぶっきらぼうに剣心に尋ねた。
「それで・・・どうするつもりだ?」
コースレコードをたたき出した剣心に斎藤の期待は高い。
「あの日、突然にレースから切り離され、俺は忘れようとしました。そして忘れたつもりでいて 今日まで心の中ではずっとこだわっていました。
でも・・・・今日やっと、終止符が打てました。刹那を求める時間との戦いよりも 俺はコイツとツーリングに出て、この大地の中で色んな物を感じたい。やっと・・・そう思えます・・・・最後まで我が儘ばかりで・・・・」
レースよりも左之助と歩くことを選んだ剣心に 半ば予測は付いていた斎藤は
表情も変えず
「そうか・・・だったらとっとと行きな。」
ピットの外へと顎をしゃくる。
「え? だって兄さん、走行はまだ・・・」
言いかけて恵ははたと口を噤み、何かを悟ると
「フフフ・・・そうね、他のライダーに迷惑よね。二人してさっさと帰りなさいよ。」
左之助に向かってからかうように笑いかける。
「そうだな・・・・・こっちは徹夜で走ってきたんだから帰ってゆっくり寝るか。」
のんびりと左之助は答え、剣心は深く頭を下げた。
二人が背を見せてピットを出て行く。
恵はその背を見送り斎藤へと視線を戻すと ストップウォッチを見つめたまま煙草の煙をふかし ただじっと立っている。不審を覚え斎藤の手元のストップウォッチを覗こうとすると、慌てててクリアーボタンを押してしまった。
「何で消しちゃうのよ。」
恵の抗議の声に
「見れば未練が残る。」
斎藤の無機質な声がこだまする。
兄は兄なりに昔への未練を断ち切った瞬間だと思った。
「フフフ・・・兄さんも案外に人が好いのね。」
「俺は唯、他の奴らに邪魔にならないように追い払っただけだ。お前こそまた嫁き遅れたな。」
「ばっ、何言ってんのよ。私は年下なんか全然興味はないんですからね。」
「そうか、俺はまたてっきり趣味を変えたのかと思ってたぜ。」
「もう、おかしな事言うと承知しないわよ。」
それ以上は恵の話は取り合わず、斎藤は剣心の乗ったマシンからデーターを取り出すために メカニック達とコンピューターの配線を繋ぎはじめた。

「この調子で行けば俺とお前で来年の8耐の優勝もまんざら夢でもないんじゃないか? 惜しい事したよな、断って・・・」
「アハハハ・・・左之助、優勝は無理だよ、お前が足を引っ張る。」
「何おぉ! この野郎・・・・」

「データーを見ると兄さんまた荒れるわね。藤堂君達がかわいそう・・・」
一人呟く恵の心配などまるで知らぬげに 左之助と剣心の笑い声がピットの外から響いてきた。

1分1秒を争ってしのぎを削り、150kg足らずのマシンに命を賭ける。男達の人生と熱い思いを乗せた5.821kmのアスファルトは 黒く長く丘の向こうへと続いている。
今日もまた、吹き抜ける風になるために・・・・。


                                      了