〈 ... 〉


茜色の空が鈴鹿山脈の色づく山々を照らし出し、秋の夕暮れを告げている。
そんな静かな光景とは無縁の限界まで呻り倒したマシンも今はなりを潜め、人々の話し声だけがこだまする。
「どうしたの? やけに機嫌がいいじゃないの?」
軽快な口笛でリズムを取って、自分の命を預けた相棒をトラックに運び入れている左之助に からかい半分で恵が声を掛けた。
普段ならすり減らした神経で帰り道はみんな一様に寡黙になるのに 今鈴鹿へ着いたばかりのように溌剌としている左之助に 理由は聞かなくても京都へ行くのだろうという予想は付いた。
「今日は帰り道は一緒だからな。」
「言わなくても分かってるわよ。その顔を見れば一目瞭然よ。」
「へへへ・・・何せすげぇ久しぶりだからな。」
「あら、どうしたの? 頻繁に行き来してるんじゃないの?」
「ん、剣心の仕事の都合で声も聞いてねぇんだよ。取引先のコンピュータールームに 2週間ほど籠もるからって。地下にでけぇのが有るらしくって、携帯も通じないだろうって言ってたから。」
「へぇ。色々大変なのね。」
「一昨日辺りに帰ってる筈なんだ。んで、急に行って驚かせてやろうと思ってさ。」
「いいわね。楽しそうで。」
「そう思うんなら お前も早く誰かを捕まえることだな。」
「余計なお世話よ。」
恵と話していると何時も気の置けない気楽さから会話も弾む。左之助にとって剣心のことを話せる唯一の人間だからかもしれない。軽口を叩きながら、荷物を次々と荷台に運び入れていると 斎藤が後ろから声を掛けてきた。
「3週間後にまた此処で走行会がある。そのころにはマシンも仕上がってくるだろうから アイツを連れてくることだな。」
「えっ?ホントかよ? マシンって今あるヤツじゃねぇのかよ?」
何時もMiburoのピットの中には 数台のマシンが出番を待ってきちんと整備されている。
その中の1台を剣心に貸してくれるとばかり思っていた左之助にすれば 少し意外に思えた。
「あ、やっと上がってくるのね? 早いわよ。今度のは。」
初めの言葉は斎藤に 後の言葉は左之助に向かって顔をほころばせながら恵が答えた。
斎藤は軽く頷いただけで また積み込みの指示にその場を離れていった。
「エンジンとフレームに改良を加えてあるのよ。ちょっと自信作なんだけど いいか悪いかはその性能を引き出してくれる乗り手にもよるでしょ? 
フフフ・・・兄さんったら剣さんに試さす積もりなんだわ。転んでも只で起きない人ね。何でもちゃっかり利用するんだから。」
「そんなに早いのか?」
「の筈よ。きっとコーナーの立ち上がりとかで その性能を存分に発揮してくれるんじゃないかな?」
恵は頭の中では もうそのマシンが走っている姿を想像しているらしく、夢見るような目つきをしている。根っからのバイク好きは 男でも女でも同じだと
左之助もまだ見ぬマシンに思いを馳せてみた。
「3週間後か・・・それまでに剣心を此処へ引っ張る段取りをしなくちゃなんねぇな。」
「頑張りなさいよ。」
励ますように軽く左之助の肩を叩くと 恵もピットへと荷物を取りに戻って行った。


帰りの西名阪道路は 左之助にすれば気持ちが高揚して何とも楽しいドライブだった。いつもは鬱陶しくて適わぬトラックさえも 喜んで道を譲りたくなるほどの上機嫌だ。と言っても、実際はさっさと追い抜いて遙か彼方を走っていたが・・・・
剣心に何と言って切り出すべきか、それとも突然に驚かすべきか、頭の中ではそんな想像が後を絶たなかった。

今やすっかり馴染んでしまった京都の街の中を北へと向かう。西陣の町は夜の中にひっそりと沈んでいた。
剣心の家の前に立つと明かりは灯いていない。
「何だ、まだ留守かよ。」
がっかりしながらも預かったままになっている鍵で扉を開き 上がり込んで待っていようと思った。
ツーリングバッグから鍵を取り出し、戸口へと向かう。扉になにやら張り紙がしてあるのが目に付いた。ふと目の中に飛び込んできた文字に意味が分からず何度も反芻し、そして、呆然とその場に立ちつくした。




秋の訪れは車の通りの激しい街路樹にも公平にやって来て 黄色や赤に染めていく。時折吹く風に嬲られ、1枚、2枚と葉を落としていく。
午後のこんな時間には客足が遠のき、ホッとひと息をいれ、ぼうっと外を眺めていた恵の前に 左之助が血相を変えて飛び込んできた。
「剣心が居なくなった。」
思い詰めた表情で端的に言葉を吐き出す。
「居なくなったって・・・どういう事? 仕事じゃないの?」
「いや・・・会社も辞めて家も売り払っちまってる。」
「何故?」
「そんなことは俺の方が知りてぇや!」
「出張とかって言ってたんじゃなかったの?」
「ああ、そうだよ。一昨日辺りに帰ってなきゃなんねぇのに 連絡もないと思ったら居ねぇんだよ。」
「急な転勤とかじゃなくて?」
「家に行ったら不動産屋の張り紙がしてあんだよ。 それで、会社にも電話して聞いたら、10日ほど前に家の事情とかで辞めたって・・・」
「あんた、何かしたの?」
「ば、馬鹿! 何で俺が何かしなきゃなんねえんだよ! さっぱり理由がわかんねぇよ。」
「そう・・・・・」
頷いた恵の記憶の中に 8年前の剣心のマンションへ尋ねた日のことが甦る。
いくら押しても出ない呼び鈴に 隣の住人が引っ越したと伝えてくれた。あの日と同じ 心の中にぽっかりと空いた空洞に白いもやが立ちこめる。
友人としてしか接することの出来なかった自分に それ以上の壁を越えることもなく黙って置き去りにされた空しさは 今また違う形で目の前の青年を取り巻いている。望んでも追いかけても手に入らぬ高嶺の花は また黙って姿を消してしまった。


「それで不動産屋で尋ねてみたんだが 売り主の住所は此処になってんだよ。お前、覚えはねぇか?」
写し取ったメモを取り出し、恵に手渡した。京都の北部を指すその住所に 朧気ながらの記憶を呼び起こし、事務机の引き出しから住所録を取り出した。
「えぇっと・・・あ、有ったわ、剣さんのおじさんの住所よ。」
「やっぱりそうか・・・アイツの身内といやぁ、そのおじさんだけだって聞いてたからな。そいつに聞けば剣心の居所も分かるかもしんねぇ。」
「訪ねるつもりなの?」
「ああ、これから行ってみる。」
「教えてくれるかしら?」
「何故?」
「何か一筋縄ではいかない人だって聞いてるけど・・・」
「行こうが行くまいが 心当たりはコイツだけなんだから行って聞いてみるしかねぇだろう?」
「そうね・・・・」
昔、斎藤が訪ねていって体よく断られたことを思い出した。
あの気の強い兄でさえ黙って引き下がらせるほどの人物だ。が、今此処でそれを切り出したところで 何の解決にも成らないと思い返し、黙って左之助を見つめた。
「とりあえず行ってくっからよ。」
「ええ、何か分かったら連絡してちょうだい。」
「ああ、それからこの事、斎藤には黙っててくんな。せっかくマシンも用意してくれてるみてぇだし、臍を曲げられても適わねぇからよ。」
「分かったわ。ぎりぎりまで黙っててあげるわ。」
「すまねぇ。恩に着る。」
メモに書かれた住所の場所を地図で確認し、頭の中に叩き込むと左之助はすぐさま外のバイクに跨った。


思い出すまいとしても昨夜の記憶が左之助の心を支配する。
鍵穴の上に貼られた大きな張り紙には『売り家』と書かれていた。
一瞬、家を間違えたかと思った。きょろきょろと辺りを見回したところで 何か変化があるわけもなく、確かに2ヶ月前には此処で自分は寝起きをしていた筈だ。
まるで狐につままれたように呆然と目を瞠り、空白の時間が訪れる。
悪い冗談だ。
にわかには信じがたく、手にした鍵を差し込んだ。
扉を開けて中に入ると 見慣れた風景がそこにある。京の町屋を思わせる幅2m程の細い庭が 玄関口まで続いている。両脇に立っている細い笹も 小振りな紅葉も変わることなく左之助を迎えていた。庭を抜け、家の戸口を開けてみたが、ブレーカーは落とされ、電気も点かない。暗闇に目が慣れると ぼんやりと部屋の中が見て取れた。
二人で腰掛けじゃれ合ったソファーも グラスを傾けたテーブルも何もかも取り払われ、広い空間だけが寒々とそこに広がっている。
全てが夢の後のように 綺麗に消え去り、自分一人が取り残され、タイムトリップでもしたみたいだ。
「こんなのって有りかよぉ!」
全身の力が抜け、その場に崩れるように座り込む。
跪いた左之助の手に一枚の紙が触れた。
何か手掛かりかと 明かりを点けるために胸ポケットからライターを取り出した。
拾い上げライターの火に翳してみる。
淡い火影に彩られ浮き出た写真には見覚えがあった。
8月と書かれたカレンダーが指の先からこぼれ落ちた。



何度も道を間違え、尋ね尋ねてやっと山の中腹まで上がってきた。
それでも、窯から上がる細い煙に気づかなければ またやり過ごすところだった。府道を逸れ、そこに住まう人々のために付けられた細い道を登っていく。
狭い斜面に設えられた小さな畑へと続く道が 左右斜めへと延び、幾つも枝分かれをしている。煙だけを目印に 勘を頼りにその方向へと進んでいくと 少し開けた場所に1軒の家が建っていた。
農家を改築したその家の裏から さらに煙の元であろう場所までの道が延びている。
前庭にバイクを停め、家の中へと声を掛けたが 誰も出てくる気配はなく、戸惑いながらそのまま裏の小道を登っていった。
雑草や雑木が生い茂り、その中を人が通って踏み固められた白い小道が ぐねりながら続いている。5分ばかり歩くと猫の額ほどの土地に窯が設えられていた。
細い煙を吐き出すその窯の前に材木が積み上げられ ベンチ代わりに一人の男が背を見せて腰掛けていた。
上背があり、堅い筋肉がその背を覆っているのが見て取れる。長い髪は首筋で一纏めに束ねられていた。剣心の叔父である比古に間違いないだろうと背後から近づくと、声を掛けようとした丁度その時、振り向きもせずに
「何の用事だ?」
堅い尖った声で尋ねられた。
前へと回り、悪戯を見つかった子供のように どぎまぎしながら自分の名を告げる。剣心を訪ねると 家はもぬけの殻で会社も辞めて行方が分からないと 簡単に説明した。
左之助が話している間も不躾な視線を寄越し、まるで自分の心の中はお見通しだとでも言いたげな皮肉な笑いを口元に刷いている。
「教えて欲しいんだ。おじのあんたなら何処へ引っ越したかは知っているだろう?」
左之助が話し終わると 組んでいた腕をほどき、顎を撫でながらニヤニヤと笑う。
「わざわざこんな所まで訪ねてくるんだ。何かい?ぼうず。剣心がお前に借金でもして夜逃げでもしたか?」
「そんなんじゃねぇよ。俺を騙すように嘘を付いて 黙って行方をくらましちまったその理由が知りてぇんだよ。」
「只の友達、というわけでも無さそうだな・・・」
顎を撫でていた手が止まり、さらに笑いが大きくなった。その笑顔に罰の悪さを覚え、赤面して俯いてしまった。
「生憎だが、俺は甥っ子でも男の尻を追いかけ回す趣味はねぇんでな。成人した大の男が何処へ行こうが 知ったこっちゃねぇよ。」
「だけど、不動産屋に記された住所は此処になってんだぜ。」
「俺はアイツが家を売ったことさえ知らねぇよ。なんだな。親孝行のつもりで俺に家の一軒もプレゼントしてくれる気にでもなったってぇのなら 喜んで貰っておくがな。アイツのことだ。そんな殊勝な気になりゃしねぇだろ。そのうち連絡でもしてくるつもりかも知れねぇがな。」
「本当に知らないのかよ?」
「あん?疑うのか? だったら気の済むまで家捜しでも何でもするがいいさ。だが、剣心がお前のことを本当に大事に思ってんのなら、イの一番に知らせるんじゃねぇのか? そうしねぇってことは お前から逃れたかったからじゃねぇのか?」
最後の言葉は酷く左之助を傷つけた。
そう思わなかった訳ではない。昨夜は安宿の天井を見つめながら、剣心が居なくなった理由を考えた。
嫌われたとか疎まれたとかは思わないが 何か自分の気づかぬ所で傷つけてしまったのだろうかと気に病んだ。だが、いくら思い返してみたところで、最後に逢った自分の家での剣心は 普段と変わるところは見受けられなかったし、それ以上に左之助の身を案じてくれてもいた。今思えば帰り際、酷く寂しげな横顔を見せたように思う。また離ればなれになる寂しさに 自分も同じ思いだったから、さして気にも止めはしなかったが。
やはり、剣心を何もかも放り出して逃げ出させるほど追いつめたのは 自分に原因があったのだと、お前は剣心にとって重荷だったのだと 比古の言葉がその現実を突きつけた。
認めたくないが為に 眉を寄せ、奥歯を噛みしめて反論すべき言葉を探していた。
その左之助に比古の追い打ちとでも言うべき言葉が 覆い被さった。
「ぼうず、人間、時には諦めも肝心だぜ。」
きっと睨み返したが 言うべき言葉が見つからない。開かない唇が 怒りと絶望でブルブル震えた。
「解ったらとっとと帰んな。」
「くそぅ。」
ようやく吐き出した短い言葉をそこに残し、踵を返した。誰に向かって吐いたのか 何に対して吐いたのか、受け止めてくれる相手も見いだせぬ儘、なにもかもに腹が立ち、悔しい思いだけが胸を突く。
腹立ち紛れにスタンドを蹴り上げ、爆音を残して立ち去った。


引き返していく左之助を 比古は目を細めてじっと見つめ続けていた。
「なかなか骨がありそうだが・・・・」
「ええ、真っ直ぐです。眩しいくらいに・・・・・すみませんでした。余計なことをお願いして・・・・」
いつのまにか腕に薪を抱えた剣心が比古の後ろに立ち、同じように左之助を見送っていた。
「急に会社も辞めて親孝行のまねごとに 俺の東京の事務所を手伝うなんて言い出しやがるから 何かあるなとは思っていたが・・・・・今日は追い返したが、今度来た時は知らねぇぜ。」
「もう、来ることはないでしょう・・・・」
何処か諦め顔で自分に言い聞かせているような剣心の口振りに 一瞬ちらりと視線を走らせたが、気づかぬ素振りで薄い笑いを唇に刷いた。
「さぁてね・・・・まぁ、お前もいい加減昔のことは忘れねぇと 本当に大事なもんまで無くしちまって 二度と手に出来ねぇぜ。」
「・・・・・・・・」
「どう生きようとお前の自由だがな・・・・」
これ以上は面倒見切れんとばかりに比古はそこで言葉を打ち切り、剣心から薪を受け取り窯にくべはじめた。
叔父の心配が分からぬ理由ではないが、不器用な生き方を今更変えられるわけもなく、燃えさかる赤い炎を唯じっと見つめていた。



あの日からどれぐらいの時間が過ぎたのだろう。
左之助の酒に溺れた頭に意識は沈み、思考は止まったまま同じ所を回転している。
床に転がった酒瓶と溜まった新聞が過ぎた日にちを顕している。
何もせずとも朝は訪れ、陽は沈んでいく。
これは夢だ。何度自分に言い聞かせても 醒めた意識が否定をする。こんな形で裏切られるなどと思いもしなかった。
東京に戻る時、
「俺は此処にいる。」
そう言った剣心の言葉は 自分を待つという意味ではなかったのか?
何度問い返しても返事は返らない。

「人間、時には諦めも肝心だぜ。」

比古の言葉が頭を駆け回る。
こんなにも欲して手に入れたい物がこの世にあったとは 今更ながらに気づく自分の気持ちに やりきれなさが込み上げる。
堪らずに繰り出す拳で傷ついた壁は 所々に無惨な凹みを作っている。
胸の底に溜まったどす黒い固まりは 容赦なく左之助を締め付け苦しめる。
のたうち回る左之助に 一度恵から連絡があった。
「どうして昨日は茂木に来なかったのよ?」
もう何もかもが面倒になり、約束をしていた練習走行をすっぽかした。
「剣心が居ねぇんじゃ 行ったって仕方ねぇじゃねぇかよ。」
ろれつの回らぬ口で 言い訳を口にする。
「もう尻尾を巻いて諦めるわけ? あんたの思いって たったそれっぽっちの物だったの?」
がっかりしたとでも言いたげな恵の口調に腹が立ち、当たり散らした。
「お前に何が分かるってんだよ。」
「ええ、分からないわよ。何もしないで飲んだくれて くだを巻いてる人の気持ちなんか分かりたくもないわ。」
冷たく突き放され、電話はそこで切られた。
「誰にも分かるかよ。俺の気持ちなんて・・・・」
口にした言葉が さらに自分を傷つける。
少しでもその苦しさから解放されたくて また酒を煽る。痛みも悲しみも思考回路も何もかも止めて 泥のように酔いつぶれベッドに潜り込んだ。

また、夜が明ける。
いつものように何気ない朝を連れて。


秋にしては肌寒い鈍色の風の中を 背の高い青年が通い慣れた足取りで住宅街の中を歩いていく。
何処にも顔を出さない左之助を心配して 明が家に訪ねてきた。
中学から付き合いのある明は 左之助に対して遠慮がない。
「一体何やってんだ? こんなに飲んだくれて・・・修達もみんなお前が顔を見せないから心配しているぞ。」
足下に転がる酒瓶を 眉をひそめて見つめている。
「放っておいてくれよ。」
「どうした? 失恋でもしたか?」
その途端に鋭い目つきになった左之助を見て 何気なく尋ねた予想が的中したことに戸惑いを見せた。
「へぇ。こりゃ驚いた・・・お前が振ることはあっても 振られる事が有るなんてねぇ。そんな女もこの世の中にはいるんだな・・・・」
「・・な・・・じゃねぇ・・・・」
「えっ?」
くぐもる左之助の声が読みとれず聞き返す明に 我に返り首を振った。
「何でもねぇよ。それより何か用事があったんじゃねぇのか?」
「ああ、ついうっかりしていた・・・達也が約束していた今日のコンパに お前が来るのかどうか心配してたぜ。相手には男前を連れて来てやるって言ってあるらしくて、お前が来ねぇと顔が潰れるって俺に泣きつくからよ。誘いに来てやったんだ。」
「そういやそんなことを言ってたような気もするが・・・・」
「やっぱり忘れてたな? 行ってやれよ。失恋したんなら丁度いいじゃねぇかよ。適当にいいのを見繕えよ。」
「それも悪くないな。」
夕飯のおかずでも見繕うような明の言い方は ふと左之助をその気にさせた。向こうがその気なら こっちだって綺麗さっぱり今日を限りに忘れてやるぜ。心の中の剣心に毒づいて 明と共に家を出た。


達也は5人の女性を連れてきていた。
向かい同士に席を取り、それぞれ自己紹介をしていたが 左之助にすれば誰が誰でもどうでも良かった。心を引かれるような相手も居ず、達也の顔さえ立てればさっさと帰るつもりだ。何となく明の言い方に誘われて出てきてしまったが、賑やかにはしゃぐみんなの声が 何処か遠くの出来事のように思える。少しも楽しめないまま、終始皮肉な笑いを口に浮かべ、一人で酒を煽っていた。
何時もと様子の違う左之助に 達也が戸惑っているうちに散会となった。
家を出る時には何時泣きだしてもおかしくないような空模様だったが やはり外へと出ると小雨がぱらついている。
二次会へ行く為のタクシーを止めているメンバーに別れを告げて、傘も差さずに一人駅へと歩き出した。角を曲がったところで 後ろから近づく足音を聞いた。
「ちょっと待ってよ。」
声に振り向くと、斜め前に座っていた女性だった。
「雨に打たれて帰るつもり? 冷えるわよ。どう? 一緒に飲み直さない?」
どうやら左之助を目当てに追いかけてきたようだった。
このまま家に帰り、また酔いつぶれる朝を思うと 誰かと過ごすのも悪くは無さそうだ。
「何処で?」
「何処でも。」
「帰れなくなるかもしれねぇぜ。」
「構わないわよ。」
試すような意地の悪い左之助の言い方にも 少しもひるむことなく目で笑って答える。
「だったら問題はねぇな。」
顎で指し示し、近くのホテルのバーへと入っていった。


こじんまりとした店の中は、ブルーの間接照明に淡いキャンドルの灯りが揺れている。
薄暗いカウンターに腰を掛け、バーボンを煽る左之助に 赤い指でグラスを持ち上げ、カクテルを舐めながら女性が語りかける。
今日、初めて逢った時から気に入っていた、寡黙な様子も好ましいと 的はずれな事を口にする。
解って欲しいとも解りたいとも思わぬ相手では いっそその方が気楽だと 誤解もそのままにほとんど口も利かずに飲み続けた。一方的に話す女性のたいして面白くもない話に 
「ああ。」とか、「うん。」だけの相槌で会話は事足りた。それでも静かに流れるジャズのピアノが 自然と女性を部屋に誘っていた。


終電が終わる頃、二人はホテルの一室にいた。
しどけない女性の腰に手を回し、抱き寄せる。こうなることを期待していた身体は左之助に絡みつき、自分から唇を求めてくる。つんと上を向き、半ば開いた赤い唇から見える舌が 毒蛇のそれを連想させる。己の暗闇に終止符を打つことが出来るのならば いっそ毒まで喰らってしまえと軽く口づけ、項へと舌を這わす。性急に胸へと割り込んだ手が 乳房を掴んだ。のけぞる女性の胸元から 振りまき過ぎたきつい香水の香りがする。
飲み続け、酔いのまわった左之助に その臭いは胸の悪さを覚えさせた。喉の奥にせり上がる嘔吐感をしばらくは堪えていたが、そのうちに我慢しきれず女性を突き飛ばすと 慌ててトイレへと駆け込んだ。

便器の前に背を丸めて吐き続ける。鼻の奥には香水がこびりついているような気がする。知らない女に吐き気を覚える。
いや、吐き気を覚えるのは 女ではなく情けない自分にだ。やけになり飲んだくれて 心の行き場の無さに行きずりの女を抱こうとした自分の弱さにだ。
こうして吐き続ける自分が惨めであり、それを笑う自分が居る。
女の身体なんていくらも知っている。言い寄ってくる女も両の手に余る。
なのに欲しい物は ついぞこの手から逃げ、届かない。悲しみと悔しさと怒りがない交ぜになって 自分への嫌悪となって押し寄せる。
抱きかかえた便器の縁に手をついて肩で息をする自分に 笑い声が喉の奥からこだまする。
何がおかしいのか、何故笑うのか自分の気持ちも儘成らぬままに 笑っていなければ 今にも泣いてしまいそうになる心を持て余す。
「何やってんだ。俺は。」
収縮する胃の苦しさに涙を滲ませながら、こんな惨めな状況は今の自分に似合いすぎると 醒めた心が嘲笑う。

食物をほとんど抱かえていない胃は ようやくその水分も出し切って、静かになった。
唾液を手の甲で拭い、扉を開けて隣に設えられた洗面所に立つ。
壁一杯に白く輝く鏡に青白い顔が浮かび上がる。頬が削げ、目ばかりがぎょろぎょろと知らない自分を見つめ返してくる。唇の片方が上がった皮肉な笑いは今の自分へと向けられた嘲りのようだ。
「ざまぁねえや。」
苦い一言を吐き出して、蛇口を一杯に開いた。勢いよく流れ出す水にそのまま頭を突っ込み、流れるままに任せる。
悲しみも悔しさも全てを洗い流すように・・・
サニタリーからバスタオルを取り出し、水で冷やされ幾らか意識もはっきりした頭の滴を拭う。
「ねぇ、大丈夫?」
何かを拭い取るようにガシガシと頭を拭き続ける左之助に ベッドルームから女性が声を掛けてきた。
もう抱く気も失せた。こんな息苦しい場所は 一刻も早く抜け出たい。
「ああ。」
短い返事を送って、ベッドルームへ引き返す。女性はベッドに腰掛け、タバコをくゆらせていた。左之助の顔を見ると、さも呆れたような笑いを頬に浮かべ紫の煙を吐き出した。ちらりと視線を送った後、椅子に掛けたジャケットを手にして背を見せると 女性は左之助の行動が理解できず慌てて立ち上がった。
「どうしたのよ?」
「帰る。」
振り向きもせずにドアのノブへと手を掛けようとする左之助に つかつかと歩み寄り、声を荒げた。
「どういう事なの? 恥を掻かせるつもり?」
眉がきりりと吊り上がり、青く縁取られた瞳の中に怒りの色が浮かび上がっている。が、そんな表情を見ても何の感慨も湧かず、手はノブを回していた。
「悪いがそんな気は失せた。」
冷たく言い放った途端、頬に平手が飛んできた。
殴られても顔色を変えず、左之助の目は何の感情も写しては居なかった。
「気が済んだか? じゃあな。」
手を出したショックに女性が呆然としている間に 左之助の身体はドアの外へと消えていた。

エントランスを出ると 雨はまだ降り続いていた。
黒く立ちこめた雲が低い。
行き交う車のヘッドライトが雨の中で滲み、街のネオンも精彩を欠いている。
重い雨粒が 左之助の頬を打ち、苦いタバコの火を消した。
立ち上る紫の煙は揺らめき 雨に打たれて灰色の闇の中に飲み込まれた。


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