〈 ... 〉


退院して2日後に 左之助はMiburoへ現れた。まだ、包帯や絆創膏は身体のあちらこちらに貼り付いていた。
「どうしたの?いったい・・・あんた東京へ帰ったんじゃなかったの?」
「この店を出てよ、高速までは行ったんだけど 途中で気が変わっちまって、六甲に行ったんだ。そこで事故っちまって・・・」
「呆れた・・・出歩いたりして大丈夫なの?」
「ああ、何処も異常はないらしいからな、傷もほとんど治ってきてるし大丈夫だ。だけど、バイクがドッグ入りで 直るまで東京にも帰れねえし、もう暫くこっちにいることにした。」
「そうなんだ・・・で、今何処に? 剣さんの所?」
「うん、病院に迎えに来てもらった。」
恵の問いに鼻の頭を掻きながら 照れくさそうに左之助が答える。
いつもは威勢のいい彼もこんな時ばかりは 少し頬を赤らめはにかむ 。そんな表情は恵の母性本能を擽るのか この青年の姉にでもなったような気になり微笑んでしまう。
「じゃあ、仲直りできたんだ。良かったじゃない? 当に怪我の功名ね。」
「まあ、そう言う事になるな・・・」
「それで今日は4輪なのね?」
ガラス越しに外のパジェロを見つめて言った。
「ああ、剣心にドゥカティ貸してくれって言ったら、傷が治るまではバイクに乗るなと言われてよ、んで、代わりにパジェロに乗ってくる羽目になった。4輪は 渋滞に巻き込まれるからやんなっちまうぜ。」
半ば嬉しそうに言う左之助に 自分にも責任があると言われ気にしていたのだろう、恵は剣心のヤキモチも収まったのかと尋ねた。
「疑いも晴れたんだ?」
「いや・・・晴れるも何も爪の垢ほども何にも言わねぇやな。こっちもわざわざぶり返して藪蛇にはなりたくねぇから何にも言わねぇけど・・・・どうも、な。」
「どうも、何なのよ?」
「んー、今思うとヤキモチだったのかどうかも怪しいもんだと思ってよ。」
「と、言うと?」
「お前のメールに乗じて 放り出された気がしねえでもねぇんだが・・・」
「何で? 嫌われたの?」
半分は真剣に後の半分はからかい気味にクスクス笑いながら恵は聞いた。
「ちげーよ、馬鹿。」
心外だとばかりに鼻の穴を膨らませながら 反論するところが子供っぽいと何時も思う。それで、ついついからかいたくなってしまうのだ。
「じゃあ、嫌いでもないのにどうして放り出すのよ?」
「そこん所がいまいちよく解んねぇんだよ。」


退院してからこの腕に抱いた剣心は いつも以上の優しさと激しさで左之助の愛撫に応えていた。
白い背はしなやかに撓(たわ)み、唇は切なげな吐息を漏らす。
身体の芯まで溶けそうなほどの甘美な時を与え、その全身で左之助に愛を囁いているようにさえ思える。
それでいて、何処か儚い 力を入れれば二人の間がもろく崩れ去ってしまうような印象が拭えない。
優しく口づける唇が あの日の冷たい言葉を吐いたとは思われない。
嫉妬に身を焦がし、激昂したとも思えない。
愛されてるのかいないのか、寄り添っているのかいないのか、確かにこの腕に抱きながら 確固たる自信のなさに焦りと苛立ちを覚えた。


「まぁ、何でもいいわ、仲良くやってんなら・・・こっちに居るんなら丁度いいじゃない・・・・・・・」
「うん? 何が?」
恵の言葉に回想から呼び戻され、顔を上げた。
「やだ、聞いてなかったの? どうせ私の話より剣さんとのイイ事でも思い出してたんでしょうよ。」
遠慮のない言葉で図星を指され、左之助は耳まで赤くなった。
「あら? 当たった・・・分かりやすい人ねぇ。」
「ば、馬鹿っ、そんなんじゃねぇよ。」
「はい、はい、ごちそうさま。そんな事が出来るくらいなら 走れるわね。来週にはまた鈴鹿へ行くから あんたも来なさいよ。東京じゃわざわざと思っていたけど・・・。」
「来週か・・・じゃ、それに合わせて東京へ帰るか・・・」
「さっさと怪我治しときなさいよ。」
「わあったよ。」
「あ、そうそう、今度は兄さんも行くからね。」
「何でアイツが来んだよ。」
「一応、向こうがメインですからね。藤堂君達も一緒よ。次のレースのための調整ですって。あんたもよっく教えてもらいなさい。」
「へぇ、へぇ。あんまり気乗りしねぇけどな。」
斎藤も一緒だと思うと 楽しい気持ちも萎えるようだった。どうせ、あの口からろくな言葉も出てきはすまい。だが、幾人もの名だたるレーサーを育ててきたのも間違いのない事で 一体どんなアドバイスが聞けるものやら、それを思うと少しばかりの期待が胸に湧いた。
1時間ばかりの雑談をして 左之助は店を出た。


左之助が東京へ帰るまでの日々、剣心の帰りは遅かったが、前のように左之助を避けているような素振りはなく 単に仕事が忙しいだけのようだった。そしてなるべく二人で過ごせるように 剣心も仕事のやりくりをしているようだった。
傷も治り バイクも修理から上がってきたその日、遅い夕餉を済ませ リビングのソファーに寝そべりながら穏やかな時間に酔いしれて左之助が言った。
「俺、大学辞めようかなぁ・・・」
「なんで?」
「だって、東京に帰んなきゃなんねぇし・・・お前とは離れたくねぇし・・・別に何かの目的があって大学に行ってるわけでもねぇしよ。」
決めたわけでもないが 剣心に甘えたいような気持ちから何気なく口にしただけだった。
「だめだ! そんなのは絶対に。」
驚くほどの強い口調で 剣心が反論した。
「それじゃお前ぇに逢えないじゃねぇかよ。」
「そんな軽はずみな気持ちで辞めたりしたら きっと生涯お前は後悔する。お前の人生にマイナスにはなってもプラスになる事はあり得ない。」
「別に後悔なんてしねぇぜ。受かったから行ってるだけだしな。」
「人の人生なんて何処で変わるか分からないものだ。だから、後で困らないように大学だけは出ておけ。もし、俺のために辞めるというのなら もう二度とお前とは会わない。」
左之助を見つめ返す瞳には 揺るぎのない信念が浮かんでいる。
「本気か?」
「ああ、今すぐ出て行ってもらっても差し支えはない。」
「分かったよ。大学は辞めねぇ。それじゃ辞める目的もねぇからな。」
「左之助・・・俺なんかの為に道を誤るな。」
「別に誤ってなんかいやしねぇぜ、剣心。ただ、俺にとってお前ぇが一番大事なだけだ。」
「左之、嘘でも嬉しいよ・・・だったら、お前はお前の道を真すっぐに歩いてくれ。」
「嘘じゃねぇぜ。お前ぇがそう望むならそれでいいぜ。でもよ、剣心。俺の道はお前の道と重なってるからな。忘れんなよ!」 
「ああ。」
にこやかに微笑みながら剣心は頷いた。が、左之助にはその笑顔がとても寂しげに見えた。


修理から上がってきたZRXに荷物を括りつけ、キーを回した。
吹き上がるエンジン音に
「前よりいい吹き上がりのようだな。」
剣心がエンジンを覗き込むようにして言う。
「ああ、なんだか前より調子が良さそうだぜ。新品だったのにどういう理由でぇ。」
苦笑いしながら左之助が答えた。
「これなら大丈夫だろう。気を付けて帰れよ。」
「ああ、また来っからよ。」
「忘れ物等ないな?」
「あん? 忘れたところでどうせすぐに戻ってくるから 何かあったら預かっといてくんな。」
「ああ、わかった。」
剣心の言葉に頷くと クラッチを握りギヤをローに入れた。が、カシャンという音と共に ギヤを戻してしまった。
「おろ?」
不審気な顔の剣心に
「忘れもんだ。」
そう答えて、メットを脱ぎ、バイクから降りた。剣心の側に歩み寄ると 覆い被さるように抱きしめ口づけた。唇が離れると顔を見つめ また口づける。名残の尽きない長い口づけが終わった時、
「やべっ。」
左之助が股間を押さえながら 妙な顔をした。
「やっぱり、ベッドに戻ってから出発するか・・・」
半ば呆れながら苦笑を漏らし
「いい加減にしろ、左之助。」
剣心が一喝した。抗えない生理的欲求に情けないような顔をすると
「しゃーねぇ、今度逢った時のお楽しみとするか。」
自分に言い聞かせるように呟く。そしてもう一度剣心を抱き寄せると耳元へ囁いた。
「いいか、浮気すんなよ。」
「ふっ、お前じゃあるまいし・・・」
「だーぁー、まだ信じちゃくれないのかよ。あのメールは連れが悪戯で彼女の名前で打ったって言っただろ?」
「はい、はい。そう言う事にしておこう。」
「そう言う事もこういう事もねぇんだよ! いいか、俺から逃げんなよ!」
「・・・・・・」
「返事は? でなきゃ、俺は帰んねぇぜ。」
「俺は此処にいるよ、ずっと・・・」
「よし! じゃな、また来っからよ、お前も東京へ来いよな!」
「ああ、暇を見つけて行くよ。」
「無理矢理作ってでも来いよ! 待ってるぜ。」
そう言い残して 軽快な排気音と共に風に乗った。その音が聞こえなくなるまで 剣心は道路に立ちつくしていた。夏の名残の日差しの中に 秋の匂いを乗せて涼やかな風が吹いていた。



剣心の家を出てから「Miburo」で仮眠を取り、明け方にみんなで鈴鹿へと向かった。
ピットに荷物やマシンを運び込む。オイルの匂いや呻るエンジン音が 左之助の気持ちを高揚させる。
このコースを走るのは2度目だったが、今日は前回よりもさらに気持ちよく走れたと 満足げな気持ちでピットに戻った。それは、恵の示すタイムボードにも結果となって表れていた。
「へっへん、どうだい。」
とばかりに斎藤の方へと視線をやると
「フンッ、まるで亀だな。」
言葉は 厳しい表情と共に吐き出された。
「なんだとぉ!」
「言いたい事が有れば、一人前に走ってから言え。」
「何がいけねぇってんだよ?」
「第一コーナーに入るところから 減速のしすぎだ。第2コーナーへのラインを続けて考えろ。インに入るのが早かったり遅かったり、まるでなっちゃいない。立ち上がりはもっと早くする。ようく頭の中でラインを描きな! あんな走り方なら赤ん坊でも出来る。」
「くっ、俺はプロじゃねぇんだぜ!」
「だったら とっとと帰ることだな。」
「わぁったよ。やりゃあいいんだろ。」
くそっ、と舌打ちしてコースの方へと目をやった。自分の取るべきライン取りと その時のマシンの状態を思い浮かべてみる。そして他の者のコース取りを眺めてみると 悔しいがやはり斎藤の指摘は正しいようだった。

アイツはどんな風に走るんだろう・・・

吸い付くようなアスファルトの路面の向こうに 剣心を思い浮かべてみる。
赤い髪を靡かせて軽やかに走る剣心の姿が瞼に浮かんだ。
追いつきたい・・・・・
そのためには命を賭けてもいいとさえ思えた。

午後からの走行では一段とタイムが上がった。周回を重ねる事に マシンが身体に馴染むように感じられた。
斎藤の指摘は変わらず手厳しいものだったが、自分でも分かる明らかな違いに
ただ黙って聞いていた。
走行が終わって、別れ際に十日後は茂木(もてぎ)で会う約束をした。



東京に戻ってからは 以前と変わらぬ日常が左之助を待っていた。
キャンパスでは気の合う仲間が集まり、左之助に熱を上げる女子学生達も左之助の周りを取り囲んでいた。
修達の興味は 今日一日をどうやって楽しく過ごすかということに集中していたし、女達は左之助にデートをせがんでいた。
講義をさぼっては喫茶店で時間をつぶしたり、暇を見つけてはバイクショップに出かけたり、夜はみんなで居酒屋で騒いだりと 夏の休暇前と何ら変わりのない日常の筈なのに 何処か退屈でやるせない想いが胸に込み上げてくるのを否めなかった。
剣心は相変わらず忙しいらしく、なかなか電話も通じなかったが、メールでメッセージを送っておけば 空いた時間に電話をくれた。
友人とのやりとりや、何処の店の何がおいしかったなど 会話の中身はごくありふれた一般的なものだったが、左之助の話に楽しそうに相づちを打ちながら聞いてくれていた。
電話の向こうの声に 今すぐ京都へと飛んで行きたくなる気持ちを抑えながら
会話を終えるのは 左之助にとって非常な苦痛を伴った。
逢えないと思えば思うほどに逢いたくなり、剣心への思いは募る。
誰かを恋うて切なさに胸が疼くなど 以前の自分には全く考えも付かない事だった。
そんな気持ちを持て余しながら、何とか日常の自分を保っているというのが 今の左之助だった。
翌週末には仕事の段取りも付くという剣心に 再会を約束していた。その間に左之助は茂木へと出かけ、恵達と落ち合った。


ツインリンクもてぎでは 2日間の充分な走行時間が取れた。チームMiburoのメンバーである藤堂や伊東達と混走することは 左之助にとってもおおいに得るものがあった。
斎藤の指摘は相変わらず辛辣だったが、走行ごとに縮まるタイムに左之助の機嫌は損なわれる事はなかった。
2日目の午後、随分と調子付いた左之助に 油断が生じたのだろう。第5コーナーでアクセルを開きすぎ 曲がりきれずにクラッシュした。アスファルトと草の上を滑り、右肩に焼けるような痛みが走った。
メディカルセンターに運ばれ、見てもらうと右肩の鎖骨を折ったようで 湿布と包帯で固定され、しばらくは安静が必要と診断された。
「調子に乗るからだ。阿呆が。」
斎藤の言葉は冷たかったが、恵に左之助を送り届けるように指示を出し、バイクの修理は請け負ってくれた。


「一人暮らしじゃ困るわね。」
雑然と散らかった左之助の家の中を見回し、恵が気遣わしげに眉を寄せた。
「あん? 電話で呼べば 連れも来てくれるから大丈夫だ。2,3日もすりゃ動けるだろうし。」
「そう? 食料とかあるの?」
「ああ、インスタントだけどな。いくらか買い置きがあるから・・・でも、これじゃあ京都に行けねぇな。」
「また、心配掛けるわね。」
「ん、言い訳も考えつかねぇしな。暫く大人しくしてるか・・・・」
「何か、怪我よりも剣さんに会えなくて項垂れてるようね?」
「ば、馬鹿。からかうねぃ。」
「フフ・・・何時も剣さんの事を言うと赤くなるのね。」
「用事がないならさっさと帰れよ。もういいから・・・」
「アハハハ・・・はいはい。10日後に動けるようなら鈴鹿にいらっしゃい。それまでにはバイクの修理も終わってるはずだから。」
「ああ、すまねぇな。お前の兄貴にも世話ぁ掛けたって言っといてくんな。」
「たまには殊勝なのね。フフフ・・・伝えとくわ。」
減らず口をたたきながら 左之助におかゆを炊くと恵は帰っていった。


慣れぬ左手で独りでかゆを啜っていると 無性に剣心に逢いたくなった。1ヶ月前の事故の時には剣心が居て 何くれとなく世話をしてくれた。
ふわりと包み込むような声や 少し怒ったような口調。
「お前は本当に世話が掛かる。」と呆れたような話しぶり・・・
どんな言葉でもいいから たった一言、その声が聞きたかった。

「けんしん・・・」

口の中で呟くと涙がこぼれそうに思えた。
「らちもねぇ・・・」
左手のさじを投げ出し、瞼を押さえるとゴロリとそのまま横になった。


骨折の所為で熱も出ているのだろう。淀む意識の中でトロトロと微睡んだ。どれほど寝ていたのか 電話の声で目が覚めた。
悪寒と痛みに耐えながら受話器を取ると 相手は剣心だった。
「左之助? どうしたんだ? なんだか元気がないようだが・・・」
「あん? ああ、うたた寝してたからよ。まだ寝惚けてんだ。」
「何処か具合でも悪いのか?」
「いや、いたって元気だぜ。風邪引くようなタマじゃ有るまいし・・・」
「そうか。ならよかった。遅くに済まなかった。」
「構わねぇぜ。お前なら何時だって。丁度声も聞きたかったところだしな。」
「明後日の休みなんだが、旨そうな店を見つけたんだ。きっとお前が気に入ると思ってな。」
「そのことなんだけどよ、実は急に用事が出来ちまって・・・すまねぇ。来週には行けると思うんだが。」
「そうか・・・それじゃぁ仕方がないな。また、行ける時にしよう・・・」
何となくがっかりした声の剣心に 本当の事を言って甘えたい気持ちをかろうじて堪え、出来る限りの明るい声を出してはみたが、受話器に響く自分の声が他人の声のように聞こえた。隠しごとは心の鬱屈を写し出すのか その日の会話も弾まないまま受話器を置いた。
「一体何やってんだろう、俺・・・・」
逢いたい気持ちと逢えない状況の現実に右肩の痛みも加わって 気持ちはさらに暗く落ち込み、出口の見えない迷路を彷徨っているような気がした。
そんな左之助に 秋はなかなか明けぬ夜を連れて来ていた。 



翌日の午後には修が彼女のさちを連れてやって来た。病院へ歩いていくのも大儀になり 友人の明に送り迎えを頼んだ。その明から連絡をもらったと言って自分じゃ飯は作れないからと 彼女を引っ張って来てくれたようだ。
バイク仲間でもある修は 何故サーキットを走り始めたのかしつこく尋ね、曖昧に答える左之助に 左之助が新しい遊びを始めたようだと勝手に悟ると、今度行く時は自分も連れて行けとせがんでいた。
あり合わせの材料で彼女が作ってくれた夕飯を3人で食べ終えてくつろいでいると、玄関のチャイムが鳴った。
修の彼女が玄関に立ち応答してくれた。その受け答えの中に聞き覚えのあるような声が聞こえる。
まさか・・・左之助の疑問に答えるように彼女が居間に取って返し 訪問者の名前を告げた。
「左之さん、緋村さんとおっしゃる方なんですけど・・・」
「剣心が?」
右肩の怪我も忘れて両手をついて慌てて立ち上がった途端に身体に痛みが走ったが 気が動転している左之助には呻っている余裕はなかった。
玄関には確かに剣心の姿があった。
「剣心、どうしたぃ?」
「ああ、左之、やっぱり・・・昨日のお前の様子がおかしかったから 気になって・・・」
パジャマ代わりのTシャツの間から見える左之助の身体に巻かれた包帯を 食い入るように見つめて 自分の予感が正しかったと表情を曇らせる。そんな剣心に今更隠せるわけもなく、左之助は殊更何でもないように振る舞うのが精一杯だった。
「良く来てくれたなぁ。そんなとこに突っ立ってねぇで上がってくれよ。」
「ああ、だけど用事が有るようなら俺はすぐに帰るから。お前の様子さえ分かればいいんだから・・・」
「へへ・・・すまねぇ。用事なんてねぇんだよ。お前に心配掛けさせちゃ悪いと思ってよ、嘘付いたんだ。こんな姿で何処にも行けやしねぇだろ? せっかく来てくれたんだ、泊まっていけよ、な。」
言い訳を考える煩わしさよりも 剣心が来てくれたことの喜びの方が大きく、鬱ぎがちだった気分も一度に晴れた。

左之助に促され、居間へと通った剣心を見て修の口はあんぐりと大きく開いたが、剣心の後ろで睨みを利かす左之助の表情を見て取ると 曖昧な愛想笑いを浮かべた。
修に余計なことを言われる前に左之助が 慌てて剣心を紹介した。緋村剣心と聞いて間違いないと悟ると 余計に修は興味を示したようだったが、眉間に皺を寄せている左之助を見ると言いたいことも言えないといった素振りだった。
それでも、
「お噂はかねがね・・」
などと、いわでもがなのことを言った。
何度もバイクショップで話を聞かされ、畏敬の念を持つ修にとって憧れのライダーの1人が突如自分の目の前に現れ にこやかに話しかけられるという事態にすっかり舞い上がってしまったといった風だった。放っておけば 何でも嬉しがる修の事だから サインまで求めかねないだろう。それがどんなに剣心を傷つけることになるかと思うと 左之助は気が気ではなかった。

「どうしてそんな怪我を・・・?」
「左之さん、茂木でハデに転んだそうですよ。」
剣心の問いに左之助が答えるよりもいち早く 修が答えてしまった。
「茂木で? 何故?」
明らかな不信感を顔に表して また剣心の表情が曇った。
この馬鹿やろう と修を睨み付けてみてもどうにか成るわけもなく、これ以上話がややこしくならないようにと とっさに嘘を付いた。
「何時も行くバイクショップで走行会をやるってんで せがんで連れて行ってもらったんだよ。慣れねぇからハデに転んじまったってぇ理由だ。」
お前は黙っていろよと目で修に合図を送った。左之助の明らかな嘘に なにやら言ってはいけない事だったようだとやっと事態を汲み取ると 修は俯いてしまった。
「おい、修、彼女を送らななくてもいいのか?家まで遠いんじゃねぇのか?」
さっさと修を追い返してしまおうと 彼女の方へ顎をしゃくった。
修は剣心にまだ未練はあるようだったが、決まりの悪さに腰を上げると
「ああ、左之さん、こんな時間だ。彼女のオヤジが五月蠅いんでそろそろ送っていきますよ。用事があればまた明日も来ますけど・・・」
とんでもない、二度と来るなと胸の中で呟きながら、
「ああ、すまねぇな。でも、剣心が居るからよ、心配はいらねぇよ。」
「もうお帰りですか? せっかく逢えたのに残念だ。」
剣心の言葉にもう一度居間へと取って返そうとする修の肩を押し出しながら、
「ありがとよ、今日は助かったぜ。さっちゃんもすまねぇな。」
二人を玄関へと放り出した。

「剣心がレーサーだったって事 絶対に口にすんなよ。誰にもな。」
帰る修に小声で釘を刺しておいた。修は黙って頷くとことさら大きな声で
「それじゃ、左之さんまた。」
取り繕うように玄関を後にした。

余計なお喋りは居なくなったとほぅっと溜息を吐き、居間へと戻ると剣心が左之助を睨んでいる。
一難去ってまた一難かとあれこれ言い訳を頭の中で巡らす。にやっと笑ってごまかすように剣心の横に腰を落とした。
「仕事は? 大丈夫なのかよ?」
「ああ、何とか片づけてきた。終わってすぐに新幹線に飛び乗ってきた。」
「すまねぇな。でも嬉しいぜ。」
「左之助・・・レースでも始めるのか?」
「いや、そんなつもりは毛頭無いぜ。でも一度ぐらいはサーキットも走ってみてぇじゃねぇか、男ならよ。」
憂い顔の剣心に ただの気まぐれだと笑って見せた。
「俺が止める権利はないのかも知れないが、お前に何かあったらと思うと・・・・・」
「そんな心配は無用だぜ。こんな無様なことをやっちまったんだから もう二度と行かねぇよ。」
「そうか・・・」
不安は拭えないといった表情を素早く隠すと 剣心は怪我の様子を尋ねた。
「昨日は随分痛んだんだが、今日はかなり楽になったぜ。鎖骨だから日にち薬だとよ。腕も動くし、2,3日もすりゃ自由も利くみたいだぜ。」
「腕の怪我は? 随分派手に滑ったようだが・・・」
居間の片隅に放り出してあったツナギの破れ具合を 横目で確認しながら問いかける。
「ああ、皮が一枚むけただけだぜ。ヒリヒリするけどよ。」
実際はかなり痛むが、本音を漏らせば剣心の表情がまた曇るだろうと思うと やせ我慢をせざるを得なかった。
これ以上色々問いつめられても適わないと さりげなく友人の事へと話題を転じた。
楽しげに語る左之助の表情に 剣心もいくらか安心した様子を見せた。

翌日には 修から左之助の所に綺麗な客が居ると聞いた友人達が 左之助の見舞いをかねて物珍しさに集まってきた。
あのお喋りが・・・たしかに元レーサーだとは言わなかったようだが、左之助が内緒にしていた美麗な友人に皆、一様に興味津々だった。
参ったことには 左之助の取り巻きの女性陣までやって来たことだった。
口々に剣心にどういう知り合いか尋ね、騒ぐ。唯一救われたのは 女性達は剣心に幾らか心を奪われ、普段よりはおとなしくしていてくれたことだ。
「俺は怪我人なんだからな、お前ぇら静かにして用事が済んだらさっさと帰れよ。」
促してみたところで効き目はなく、お喋りに花を咲かせて飽きるまで居座られた。せっかく剣心が来てくれたというのに、と当てがはずれてがっかりしたが
左之助の友人達と楽しそうに過ごす剣心を眺めていると まんざら悪い気はしない。
未来にもこんな時間が流れたらと 左之助の胸にそんな思いが湧き起こった。



夜という時刻が始まって少し経った頃、剣心は東京駅のホームに佇んでいた。
今からなら日付が変わる迄に 家に辿り着けるだろう。同じような目論みの人々で駅は溢れていた。
遠距離恋愛のカップルが尽きせぬ名残に 手を繋いだままお互いを見つめあっている。
東京駅まで送ると言って聞かなかった左之助を家に押しとどめ、一人で列車を待つ。
冬の訪れにはまだ早いというのに 冷たい風がシャツの襟を嬲っていく。
アナウンスが流れ、白い巨体がその姿を現した。
自分でチケットを買い求めながら、この巨大な鉄の塊が自分と左之助を永遠に引き裂く無情の刃に見える。
座席の窓から滲むネオンを見つめ、その向こうに左之助の笑顔の面影を見た。


友人達が引き上げた後、食器を片づける剣心の腰に手を回し、髪を甘噛みしながら左之助が言った。
「此処で一緒に暮らさねぇか?」
「えっ?」
「お前と俺とそして気の合う仲間が集まって ワイワイ騒げばきっと楽しいんじゃないかと思ってな。」
戸惑いの色を写す剣心の瞳を見て取って、諦めたように言い繕った。
「アハハ・・・やっぱ、無理だな。お前には仕事もあるしな。あ〜〜あ、俺が卒業するまでこのまま離ればなれか・・・・」


抗えない・・・・
左之助の優しい腕を拒むことはもう限界に来ているようだ。
潮時だと思う・・・・
もう幾度考えたことだろう・・・
逢わないでおこうと・・・
そう思いながら、何時も左之助を待っている。
繋いだ手を離そうとしながら 離せないで居る。
夏が終わるまで・・・
そんな心のたがもとっくに外れた。
今度こそ、今度こそと思う・・・

何度尋ねても笑ってごまかす左之助の怪我も 自分が原因ではないかという気がする。
初めて走ったコースで理由も分からず闇雲に飛ばして怪我をするようなヤツじゃない。
何が目的でコースを走るのかは分からない。自分がレーサーだったということに刺激をされて走るのか、レースの魅力に取り憑かれたのか・・・・
だけど、自分の存在が左之助を危険に追い込んでいると思う。

明るい友人達に囲まれている左之助こそが本当で 自分では与えてやれない焦燥感に胸が締め付けられる。自分では幸せには出来ない。自分だからこそ幸せにはなれないだろう。
今ある幸せの欠片でさえも奪い取っていく事は出来ないと 自分の胸に言い聞かす。 
今度こそ終わりにしよう・・・・・
離れていく東京の灯りを見つめて さよならを告げた。


   〈 Next 〉