【 Will 】
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陽が高いうちは縁の下や路地裏に 息を潜めてじっと体を休めていた野良猫どもが 夜の深まりと共にぞろぞろと這いだし、エサをあさる。工場地帯のゴミ箱に顔を突っ込み、その拍子にひっくり返ったスチール缶が 派手な音を立てて転がって行く。
そのスチール缶は 小石に躓き、捨てられた広告の上を通過して 塞がるコンクリートの壁に行く手を阻まれ ようやく落ち着き所を見つけた。
行く手を塞いだその壁の中には 黒くそびえ建つ7階建てのビルがあり、とっくに従業員の帰ったこのビルに まだ煌々と明かりの灯った部屋がある。
新津機工株式会社。
工業用重機器の製造、販売を手がけている。
二千坪ほどの敷地には製造工場と それに隣接して販売の本拠地であるビル及び駐車場、それらを取り巻くように僅かばかりの緑が配置されている。
昼の間は金属の触れ合う音や切断する音、社員の怒鳴り声などで喧しいが、夜もふけると深閑と静まりかえり、闇の中に寝そべる建物群は不気味なほどだ。
深い眠りにつこうとしているビルは 息を潜めて青白い非常灯だけが建物の概要を知らせている。
そのビルの薄暗い廊下に到着を知らせるエレベーターのランプが灯り、重い箱を運ぶ鈍い音がして やがて静かに扉が開いた。
人気のない暗い廊下に長身の男が降りたつ。目的地へ向かう靴音が壁に反響し、静かな廊下に不穏ささえ感じさせる。
一定のリズムを刻んだその靴音は 3つ目の扉「リビルドサービス」と書かれた部署の前で止まった。
そしてノブに手を掛け、静かに回した。

一方室内では冷たく瞬く蛍光灯の下で山のような書類を前にして 部署の責任者が険しい目で 手にした書類を覗き込んでいた。
緋村剣心。
リビルドサービスのマネージャーを務め、機械のメンテナンス、販売を行っている。
廊下に響く靴音は 連夜続きの残業にすっかり顔馴染みになった警備員が見回りに来たのだと思った。そして迎える為の笑顔を作って顔を上げた。
だが、その剣心の目に映ったのは 今一番見たくない顔だ。
途端に表情は渋いものへと変わった。
そいつはそこに剣心が居ることを意外そうにして、そして次には剣心の表情などお構いなしに 飄々とした笑顔で話しかけてきた。
「まだ残ってたの? こんなに遅くまでご苦労さん。」

オイ! 何だ、その口の利き方は!
仮にも俺はお前の上司だぞ。
そして、やりたくもないこの残業も 元はと言えばみんなお前がやらかしたミスの所為なんだぞ。

なかなか片づかない書類を目の前にして 胸の内の思いを眉間の皺にのせ、
「お前こそ何しに来た?」
と ムッとしながら問い返す。
「ん? ちょっと忘れ物。携帯、どこ置いたっけか・・・・」
そいつ、相楽左之助は 何故剣心が残業をしているのかなど気にも止めずに 手で弄んでいた缶コーヒーを置いて、自分のデスクのあちらこちらをあさり出す。放りっぱなしの書類を鷲掴みにし、その下をまさぐり、見つからないとなると2番目、3番目の引き出しをごそごそと荒らし回り、あげくに引き出しを引っ張り出して中身を放り出した。
「有ったー! なんだー、こんなとこに落ちてたのか、そりゃ分かるわけねぇな。」
素っ頓狂な声を張り上げて 手に取った携帯を見つめて満足げな笑顔を浮かべる。
「コイツがねぇお陰で沙也加には待ち合わせをすっぽかされるし、飯は食いっぱぐれるし、世の中不便なもんだ。」
探し出した携帯の埃を払いながら、ニコニコと笑って独りごとと言うには大きすぎる声を張り上げている。
それを黙って見ていた剣心の機嫌は更に悪くなった。

ああ、そうかい。俺に後始末を押しつけて お前は呑気に女とデートかい。気楽なもんだな。

口には出さないものの 左之助を睨む目が充分に言いたいことを物語っている。
コイツの顔を見ていると、片づきかけた仕事の量が一段と増える気がすると剣心は思う。

「捜し物が見つかったんならさっさと出て行ってくれ。」
「剣心。お前ってホント仕事の虫だな。そんなに仕事ばかりしてよく飽きねぇもんだな。」

誰が!! やりたくてやってるんじゃないんだぞ! 仕事の虫とは脳天気にも程がある。
いったい誰の所為だと思ってるんだ! 

不機嫌さのボルテージは益々上がる。
腹立たしさのあまり怒鳴り出しそうだとは露ほども思わず、不機嫌なのは残業の所為と勝手に決めつけて 口笛を吹きつつ左之助は剣心のデスクの前へと回り込んできた。そして険悪な表情などお構いなしで 剣心の手元の書類を覗き込む。
「なんだぁ? これ、この間俺が提出した書類じゃん? またどっか間違ってた?」

間違ってたなんてもんじゃない。
報告書の数字はバラバラだし、取引先の会社の名前なんて「山本商会」を「山本工業」って書いてあるし、いい加減にも程がある。

頬を引きつらせ、胃が軋むような気がするが、間近にある左之助の横顔へと努めて冷静に剣心は声を掛けた。
「もうちょっとちゃんと確認して書類を提出しろよな。お前の書類なんて危なっかしくて他のヤツに見せれたもんじゃないぞ。」
「アハハハ・・・俺って、そう言うの苦手なんだ。剣心、適当に直しといてくれ。」

はぁ!!???
何なんだよ、それは?
ちっとも反省しないのかよ? お前がきちんと仕事をすれば 俺だってこんなに毎日残業しなくっても済むんだぞ!

剣心の心の中の声はちっとも左之助には届かないようだ。白い歯を見せてアハハと笑い、
「じゃぁ、俺、腹減ってるから帰るわ。」
と曰った。
そして、
Chu!!

Chu??????????????????
チュッって何だ??
いったい今、コイツ何をした?
俺の前に回って書類を覗き込んで、それから、ええっと・・・
顔がすっごく近づいたなと思ったら、何かあったかいものが口唇に触れたんだ・・・・
コイツの顔が真ん前にあって・・・・
わっ、わっ、わっ、うわぁーーーーーーーー!!
お、お、俺は、俺は男だ!!!!
男の俺がお前にキスなんかされる謂われはない!
断じてない!
絶対にない!!

「あっ、あっ、あっ・・・・」

完全にパニクって思いっきり抗議の声を上げようとするが 剣心の舌は喉に張り付いて口をパクパクさせるばかりだ。
「あっ、缶コーヒーは俺からの差し入れってことで。それでも飲んで元気出して。じゃ、頑張ってな。お疲れさん。」

オイ! ちょっと待て! 今の行動は何なんだ!!??
いったい何のつもりだ!?
これもいつものお前の冗談か?
いつも言ってるが、俺はお前の先輩で上司で 出来損ないのお前を指導する立場にあるんだぞ!
その俺に向かって いったい何をした?
何の理由があってこんな事をされなきゃならないんだ!!
オイ! 相楽! ちょっと待てよ。
理由を言って行け!
オイ! ちょっとってば!

数多くの悪態と疑問の言葉が頭の中でグルグルと渦巻くが、あまりの驚きで目は点になり、喉はカラカラに乾いて半開きの口唇からは何の音も出てこない。 左之助が一度振り向いてニコッと笑い、そのままオフィスの扉を閉めて出て行ってしまうのを 剣心はバカのように見送っていた。

愕然としながら椅子に座り込む。ロダンの「考える人」よりも悩みは深刻で、ムンクの「叫び」より発狂して叫び出しそうになりながら 朦朧とした意識で自分という人格を取り戻そうと必死に今の出来事を否定する。

悪い夢だ。
きっとそうだ。
毎日の残業で疲れが溜まってるんだ。
だから有りもしない幻覚を見てしまうんだ。
でなきゃ、こんな事が起こるわけがない。
よりにもよって一番の俺の悩みのタネが 俺にキスをしていくなんて・・・

静かな部屋に一人取り残され、暴れ回っていた心臓の動悸が治まるに連れ、何とか論理的に整理しようと努めてみる。警鐘を鳴らした剣心の頭脳は 精神の保護回路を起動させ始めた。

俺は男だ。
男のアイツにキスされる謂われなんか どこを探したって見つかるわけがない。
それに仮に俺が女だとしても アイツとなんか死んでもゴメンだ。
仕事はいい加減、定時になったらさっさと帰り支度をして、毎日毎日、とっかえひっかえ女の名前を口にのせて会社を後にする。
人事もいったいアイツのどこが良くって採用なんかしたんだ?
確かにうちの社は 学歴よりもやる気と根気をモットーにして人柄優先で採用するが アイツのどこを探せばやる気があるって言うんだ?
どうせ、面接の時にでも「相楽左之助、根性でやり抜きます。」なんて調子のいいことを並べ立てたんだろう。「人は石垣、人は城」って武田節の好きな社長がいかにも好みそうな言葉だからな。
パッと見には硬派に見えるし、根性も座ってそうだし、浅黒い肌に笑った時の白い歯なんか いかにも営業向きで人好きがしそうだけれど、さすがにアイツの天の邪鬼さ迄は見抜けなかったんだろうな。
お陰で俺はいい迷惑だ。
だいたい営業なんか俺には向いてないんだ。機械整備のメンテナンスで入ったはずなのに、昨今の不景気で経営立て直しかなんだか知らないけれど、お客様のニーズをより深く掘り下げるって社長のスローガンで 営業2課とサービスがくっついて リビルドサービスなんてわけの分かんない部署が出来たと思ったら、「緋村君って穏やかだし、落ち着いて物事には対処出来るし、社内での仲間内での評判も上々。」なんて部長の要らない進言のお陰でマネージャーなんて立場にされて、課長待遇で大抜擢だそうだけれど、残業代はつかなくなるし、気分屋の部長と平社員の突き上げの間で苦労ばっかりが増えていいこと無しだ。
おまけにうちの部署と来たら名前は格好良くても 営業1課のヤツらが口先三寸で売り飛ばした製品の苦情処理と点検整備が主な内容だ。もともと営業2課なんて無用の長物で、その昔は営業部だけだったらしいのに やる気のない社長の次男が入社した時に その活躍の場にと新たに設立されたって聞いたな。だけど、その息子はさっさと会社を辞めてしまい、社長の大反対を押し切って今は芸術家として身を立てているとかって噂じゃないか。それ以来社内では日向ぼっこの席なんて言われていたから、会社としては何とか片づけたかったんだろう。だから整理統合するに当たってどうせサービスのヤツらは得意先に顔を出すんだから、ついでに製品も売り込んでこいと言うことでリビルドサービスの部署が出来たって。そんなわけだから営業と言っても得意先回りだけで、受けてくる注文と言えば どこの部品が壊れただの、これのパーツが欲しいだのと細々とした注文ばかりで伝票ばかりがかさばるし、売り上げだって大して上がらない。だのに営業と名が付くお陰で数字はきっちり追い求められるんだ。
それにもっと悪いことには そこにアイツが去年入社してきたことだ。
後で噂で聞けば、新入社員の研修でいち早くアイツの性格が分かった人事が 誰の所に押しつけようかと額を寄せ合って、あそこはダメだ、こっちは部長がうるさいぞと相談したあげく、「緋村君なら穏やかそうだから上手く対処をして指導をしてくれるだろう。」ってことになったらしい。
要するに管理職の中では一番下っ端で文句の少なそうな所に 要らないヤツを押しつけてしまえって事だろう。
冗談じゃないぞ。まったく!
あげくにアイツとコンビを組ませようと思ってたヤツは 他社に引き抜かれてさっさと退社をしてしまうし、他のヤツらはみんな手一杯で 結局俺がコンビを組んで面倒を見ることになったんだ。
あーー、何が悲しくってこんな不幸な目に遭わなきゃならないんだ。
くそー。
止めた、止めた。
アイツの所為の残業なんてバカらしい。
今夜はもう帰って寝てやろう。
そうしたらこんな悪い夢とはおさらばだ。

マネージャーに就任以来、溜まりに溜まっていた憤懣が一気に胸の内で爆発した。
性格は決して穏やかでは無いと自分では思っているが、時には女と見紛われる優しげな見た目が気性の激しさを包み隠し、周りのウケは上々だ。人付き合いもあまりいい方でもなく、周りが騒いでいてもいつも外から眺めているタイプだ。それが他の社員達には落ち着いて冷静に立ち振る舞うと受け取られ、どういう理由か上司にも部下にも信頼が厚い。剣心にすれば勝手に周りが誤解をしているだけだと思うのだが、受けた信頼を無下にするわけにも行かず、それなりに自分の責任を果たそうと努力はしている。だがそれも今夜は棚上げだ。こんな気分で仕事を続ける気など更々なれない。
積み残した書類に多少の引け目は感じたが、明日に回そうと思い直して寂しいオフィスの電気を切った。


終電には間があったが、食事をしようと思う店はとっくの昔にシャッターを下ろしている。ファミレスなら深夜までやってるだろうが、いちいち家へ帰ってから車に乗り換えて出かけるのも面倒くさい。
「仕方ない。今夜もコンビニの弁当で我慢するか・・・・」
待つ人の居ないわびしい部屋で 冷たいコンビニの弁当をかき込むことを思って 剣心の背はブルッと震えた。



翌日は律儀にもいつもより1時間も早く出社をしていた。
あれから家に帰って冷えた弁当をつつきながらつまらない深夜番組を見てると やはり残してきた書類が気に掛かる。
快適な独身生活をエンジョイするはずのマンションは ただ寝るためだけに帰る場所となって久しい。この前、日付の変わる前に帰宅したのは何時だったかも思い出せないほどなのに ゆっくりと身体を休める気にもなれないと言うのは すっかり仕事に毒されてしまったのだろうか。
別に出世をしたいとか仕事が面白くて仕方がないと言うのでもない。何をどう間違ったのか管理職という立場に置かれ、自分よりも年長者を部下に持つ身としては チームを引っ張って行くには陰で努力をするしかない。しつけの厳しい養父に育てられたせいか責任感は人一倍強い。右も左も分からない新しい課をがむしゃらに支えているうちに 気づけば仕事だけが生活のすべてになっていた。
これじゃ左之助の言う通り仕事の虫じゃないか・・・
ふとそんなことを思った瞬間に 頭に血が上った。
左之助という単語に激しく脳が揺さぶられる。極力思い出さないように努めていたのに ぼうっとした瞬間に先ほどの出来事がまざまざと蘇ってくる。
何であんな事をされなきゃ成らないんだという疑問と それへの推測が堂々巡りで駆け回る。そのうちに払いのけても襲ってくる光景にいい加減疲れ切って 忘れてしまうことにした。


始業時間も30分も前になると みんなちらほらと顔を見せ始める。
書類に目を通しながら ドアが開くたびに左之助の顔が見えないことにホッとする。
忘れることで片を付けたはずの疑問は 結局剣心を睡眠不足にした。だから左之助が現れるとそれを見透かされそうで、そしてそんなことを気遣う自分がひどく腹立たしい。
何だ? 今日は無断欠勤か?と思ったら 9時きっかりに左之助がオフィスに飛び込んできた。
「何とか滑り込みセーフ。」
派手にスライディングをやらかして 朝からみんなを笑わせる。

オイ! ここは教室じゃないんだぞ!
あ〜〜あ、ネクタイはよれよれ、髪の毛は立ったまま。
どうせまた目覚ましが鳴らなかったとでも言い訳するんだろ? 

顔を見た瞬間に先ほどまでの憂鬱などすっかり忘れ、上司としての小言がむくむくと頭を擡げる。左之助の常識はずれは並ではないのだ。何度か社会人としての心得なども話して聞かせたが 一向に改まる気配はない。そのうちに注意をするのもバカらしくなってとうとう辞めてしまった。でも、上司としては気に掛かる。もし得意先の前で失態をやらかしたらと思うと気が気ではない。だからどうしても剣心の監視の目は光ってしまう。
同僚達にからかわれ笑っていた左之助が突如剣心へと向き直った。
「あっ、マネージャー。おはようございます。どうも俺の目覚ましって調子がいまいちで・・・でも今朝は何とか間に合いました。」
予想通りの答えを頭を掻きながら笑顔で言う。口を開けば小言が出そうで 剣心は黙って頷き、また書類に目を戻した。だが左之助は剣心の前から立ち去らず、笑顔を向けたままだ。その気配に再び目を上げた剣心はぎょっとした。

何だ?
何だ、何だ、何だ???
そのニィーって。
何か言いたげなそのニィーって笑いは何なんだ?
俺はお前と秘密を共有することなんて一つもないぞ。
一つも・・・・
あっ、ダメだ。
思い出しただけで頭がガンガンする。
あぁ、朝から悪夢だ。
早くコイツを追っ払ってしまおう。

「相楽。髪の毛が立ってるぞ。洗面所へ行って身だしなみを整えてくるように。一応、ここも営業だからな。」
「へーい。」

ああ、またそんな返事を・・・・
せめて語尾は延ばすな。語尾は。
まったく何時になったら学生気分が抜けるんだ?

今日もまた一日、左之助の所為でイライラしそうだと思うと 朝から深い疲労感を覚える。呆れとも諦めとも付かない溜息を剣心は腹の底から漏らした。


動き始めたオフィスは戦場だ。
昨日の伝票を繰ってはPCに数字を打ち込むヤツ、得意先へと納品の遅れを謝るヤツ、資材課と倉庫を行ったり来たりしているヤツ。どの社員も自分の持ち分をこなそうと走り回っている。
剣心の悩みのタネもPCに向かって何やら打ち込んでいるようだ。

お前、頼むから数字を打ち間違えないで呉れよな。
この間もバイスの発注を間違って、倉庫へと行ったらあんな重い物を30個も渡されて おかしいと思ったら一桁違っていたからな。資材課には嫌みを言われるし、俺だって堪ったもんじゃない。

いつも何かをしでかす左之助の行動が 気になって仕方がない。見るとはなしについ見てしまい、祈るような気持ちになる。そしてその度に胃がキリキリと傷む気がするのだ。
今日は水曜日だ。
左之助を連れて得意先回りをする日だったなと思い出せば 更に頭痛まで加わるような気がしてくる。しかし、左之助が新人の頃は引き継ぎのために毎日一緒に出かけていたのだから それを思えば頭痛もまだましだ。
通常、小物のオプションパーツの受注や修理は一人で行うが、何と言っても取り扱う機械が鉄の塊で出来ているのだから 大物のメンテナンスや修理は一人では無理だ。だからそういうものの点検は水曜日に充て、左之助と二人で出かけることにしていた。
左之助が一人で回る担当はなるべく温厚そうな得意先を選んである。だから滅多なことではクレームもないはずだ。当たり障りなく営業をしてきてくれればそれでいいと思っている。
剣心はまったく左之助には期待していなかった。

時計は9時半を回った。
「オイ、相楽、そろそろ出かけるぞ。」
まだPCにかじりついている左之助に剣心は声を掛ける。
「すんません。10分だけ待って下さい。」
「わかった。じゃ、先に倉庫で荷を受け取って車の所で待ってるからな。15分起っても来なかったら置いていくぞ。」
「わっかりましたー。」

幾ら注意をしても直らない左之助の軽い返事に 剣心はがっくりと肩を落とした。


資材課へ行き、今日の届け先の発注分の伝票を渡す。その品番をPCに打ち込んでもらうと纏めて倉庫で受け取れることになっている。そのまま資材課から倉庫へと通じる扉を潜るとカウンターの向こうに珍しく藤崎の温厚そうな顔が見えた。
途端に剣心の表情が明るいものへと変わり、カウンターへと歩み寄りその初老の人物を呼び止めた。
「藤崎さん。どうしてたんですか? 最近ちっともお会いしないと思ってたんですが。」
「やぁ、緋村。ちょっと腰をやられちまって3日程寝込んでたんだ。年を取ると情けないもんだ。」
そう言っていつもと変わらない温かい笑顔を見せる。目尻に刻まれた皺がいぶし銀のように 深い経験と知識を物語っている。
藤崎は剣心が配属されていた元サービス課の上司だったが、丁度リビルドサービスの部署が起ち上がる時に定年を迎え、今は準社員としてこの倉庫で働いている。剣心としては一から十までメンテナンスのことを教えてもらい、世話になった藤崎にリビルドサービスへ残ってもらいたかったが、腰を悪くしたからと言う本人の希望でこちらの部署へと変わってきた。年寄りには倉庫番が気楽でいいと本人は笑うが、藤崎の機械の知識は相当なもので 今でも剣心は頼りにしている程だ。
「最近の調子はどうだ? 課は上手く回ってるか?」
先輩らしい配慮でいつもそれとなく剣心を気遣ってくれる。こちらの部署への配属願いを出したのも 自分が居ては剣心がやりにくかろうという藤崎らしい配慮の所為だろうと剣心自身は思っている。
「ええ、何とか。みんな良くやってくれてますし・・・」
「の割りには疲れた顔をしてるじゃねぇか。お前さんのことだ。どうせ一人で何もかも背負い込んでんだろ? いけねぇなぁ。いい加減部下を扱き使うことも覚えなきゃ、そのうちお前さんの身体方がまいっちまうぜ?」
「ええ。ですが、やっぱり俺には人の采配は向いてないんじゃないかと・・・」
「何を言ってやがる。お前さんが出来なきゃ誰が出来るってんだ? あのサービスのメンバーを見渡してみろ? 右を見ても左を見ても機械バカばっかりで人に気遣ってやれるヤツなんか一人もいやしねぇ。片山は年は食ってるが人と話すよりも部署の隅で鉄の塊と話す方が好きだと来てるからな。お前さん以外に適任はいやしねぇよ。」
「はぁ・・・」
今朝も部署の片隅に設けられてある作業場の前で 外出の前にしきりと預かった金型を弄っていた片山の朴訥な背中を思い出して 剣心は苦笑を漏らした。藤崎が去った今、一番年長者である片山が当然リビルドサービスの責任者になるだろうと剣心は思っていた。だが、経営革新とかで社内の部署の整理統合が進み、人件費削減からか年功序列が廃止され、適任者を適材適所に配置するという役員会の一致で 社内での縦割り社会は大きく一変した。その先駆けとも成ったのが剣心自身だ。
「その点は俺も山崎も意見は一緒だったからな。俺が辞める時にお前さんを推しといたが、間違いはなかったと思ってるんだぜ?」
人事部長の名前を出し、元気づけるように笑って藤崎は剣心の肩を叩いた。上司だった頃から剣心のことを可愛がり、何かと目を掛けてくれては居たが、離れた今でも気に掛けてくれているのが嬉しい。
「ありがとうございます。ご期待に応えられるかどうか分かりませんが、何とか頑張ってみます。」
「おう。あんまり気張るなよ。ちょちょいとな。気楽にやれよ。」
「ええ。そのうちまた一杯やりに行きましょう。」
「ああ。楽しみにしてるからな。お前さんの時間が空いたら誘ってくれ。」
「はい。それじゃぁ、また。」
藤崎と話しているうちに金型や細々とした部品を載せたリフトが2階から降りてきた。剣心は藤崎に軽く一礼をしてから台車へと積み替え始めた。そして積み終えたところで 伝票の束と部品点数が合っているかを確認し、駐車場へと向かった。その台車を押す剣心の小さな背中を藤崎は目を細めて見送っていた。


駐車場では何台かの営業車が それぞれの荷やカタログを積み込んでは発進して行く。その光景は一日の始まりをつくづく剣心に感じさせる。
自分もその列に加わるべく台車から車の荷台へと荷物を積み替え、エンジンを掛けたところで左之助が走り寄ってきた。
「剣心、お待たせ。」
助手席に乗り込むと同時に屈託のない白い歯を見せる。
「オイ!いつも言ってるだろ? その剣心って名前で呼ぶのはよせって。」
車を発進させながら横目で剣心が睨み、いつものやり取りが始まった。
「ああ、だから社内ではちゃんとマネージャーとか緋村さんって呼んでんぜ? 言葉遣いだってなるべく気をつけてるしな。」
「社外でも!だ。」
「何で? 二人っきりなんだから別にかまわねぇじゃん?」
「俺が構う。あのなぁ、何回言えば分かる? 俺はお前の上司! 人の話聞いてんのか?」
この1年間、もう何度やり取りをしたか判らない会話を繰り返す。
「なんだよなぁ・・・・どう見たって俺と同い年にしか見えないってぇのに。」
「見えても見えなくっても俺はお前よりも十も年上なの! 同期でもツレでも何でもないんだからな。」
何度言って聞かせても左之助は剣心のことを二人きりになると名前で呼ぶのを止めない。その方が親しみがあっていいというのが左之助の持論だが、これだけは改めて欲しいと剣心も頑固にその度に注意を促す。最近では外回りの時の二人の挨拶かとも思える程になっていた。
「それが不思議なんだよな。剣心って何かすっげぇ親しみを覚えるんだよな、俺。」
と、ここまではいつも通りの会話だった。だが今朝は更にその続きがあった。
「やっぱ、お前が初恋の相手に似てるからじゃねぇの?」
「お前の初恋?」
初めて聞く左之助の呼び捨ての理由に コイツにもそんな可愛い時があったんだと思うと興味を惹かれ、その話を聞いてやってもいいような気がした。
「ああ、小学校の頃のなんだけどな。俺の隣にすっげぇ綺麗なお姉さんが住んでてよ。」
「俺がそのお姉さんに似てるのか?」
女顔だとよく言われるから そのお姉さんの面影を自分に見ていても不思議はないだろうと剣心は頷く。
「いや、そのお姉さんが飼ってた猫。」

猫だぁーーーーー!!!!?????
コイツ、人をバカにしてんのか? 
あー、やっぱり真面目に聞いてて損した・・・・・・

「ふわふわの毛ですっげぇ綺麗な猫でな。ペルシャ猫だって言ってた。俺一目で恋しちまって・・・ずーっと眺めてたくって抱き締めたくって お袋に俺にもペルシャを買ってくれって言ったんだけど、あんな高い猫なんか飼えますか!って叱られちまって・・・・それからは寝ても覚めてもその猫のことが頭から離れなくなっちまって・・・で、隣の猫を見るのを楽しみにしてたんだけど そのお姉さん、猫と一緒に引っ越しちまったんだ。儚い恋だったぜ。」

知るか! そんな初恋なんか!
馬鹿馬鹿しいにも程がある!

「だから、俺、初めてお前を見た時よぉ、何か昔から知ってるって気がして他人の気がしなかったんだぜ。」

他人だ! 俺とお前はまぎれもなく赤の他人だよ!
俺は生まれてこの方、猫だった覚えは一度もないぞ。
猫と一緒にして馴れ馴れしくされても困るんだよ。

頷くのさえ馬鹿馬鹿しく、口を真一文字に結んで剣心は運転に集中している振りをした。でなければハンドルから手を離し、隣の左之助の後頭部を思いっきり殴ってやりたい衝動に負けたことだろう。
その時、左之助は剣心の横顔を眺めてニヤッと笑った。
「それにもうキスまでした仲だしな。」

うわぁーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!
言うなーーーーーーーーーー!!!!!

剣心の心臓は急に誰かの手にぎゅーっと握られたかのように縮み上がり、そして車の天井を突き破って5メートル程飛び上がった。

「あぶねぇ!!剣心!!」 

左之助の声に気が付けば 前の車にのめり込みそうな程テールランプが目前で光っていた。慌てて急ブレーキを踏む。
その衝動で左之助はつんのめり、もうちょっとでフロントガラスに頭をぶつけそうだった。

「まったく・・・ちゃんと前見て運転しろよな。」

体制を立て直しながら、自分の何が剣心をこんなに慌てさせたのかまるで見当も付かないと言った表情だ。
剣心はせめてもその脳天気な頭をガラスにぶつけてくれれば良かったのにと思った。
そうすれば昨夜のことも綺麗さっぱり忘れてくれるかもしれないのに、などとあのおぞましい出来事を無かったことにする方策を探したい気になっていた。

「お、お前が余計なことを言うからだ。」
「うわっ! 剣心真っ赤になってやがんの。もしかしてキスしたの初めてとかってんじゃねぇよな?」
「そんなわけないだろ!」
耳まで真っ赤にした剣心を見て左之助は思いっきり嬉しそうだ。ただし、真っ赤になっているのは怒りと羞恥のためだとは 左之助の想像外だ。

コ、コイツ、大人をからかってんのか?
頭の中では激しく罵倒と反論を繰り返しながら、何でこんなに慌てふためかなきゃならないんだと自分を戒める。

「だいたいなぁ。」
昨日からの疑問をこの際聞き出そうと発した言葉はあっさりと無視をされ、その上に左之助の言葉が覆い被さる。
「だよなぁ。28だもんなぁ。でも、童貞とか?」
左之助のニヤニヤ笑いは更に広がった。
「お、お前なぁ!! 俺が童貞だろうが、無かろうがお前に何の関係があるんだよ!」
「ん? だって、気になるじゃん?」
「何で! 人のことを聞いて楽しいか?」
遠慮無くプライベートのことまで聞こうとする左之助のデリカシーのなさに 剣心の怒りは頂点へと向かいつつある。
「うん、だって俺、お前のこと好きだから。」
「はぁ!!!????? お前何言ってんの?」
返ってきた答えは意外なものだった。
「あれ? 知らなかった? 俺入社してからずっとお前のこと好きだったんだぜ?」
確かに左之助が入社して以来、何故か妙に懐かれているような気はしていた。 
だが、誰にでも愛想が良く、物怖じしない左之助だから そう言う性分なんだろうと単に受け止めていただけだ。
「言っとくがな。俺は男だ! 男のお前から好かれる覚えはない!」
「何で? 男でも女でも好きなもんは好きなんだから仕方ねぇじゃん?」
さも当然そうに言ってのけ、左之助はケロッとしている。まるで漫画に出てくるヒーローが好きだとでも言っているような軽さだ。

コイツ、人をコケにしてるのか?
猫にでも恋するヤツだ。
それが相手は人間なんだから 男でも女でも大した違いはないとでも思ってんのか?
あーー、もう、何だってんだ。馬鹿馬鹿しい!
毎日毎日、女の名前を言ってるその口で よくもそんな冗談が言えたものだ。
本当に俺ってコイツに舐められてるよな。上司だなんて肩書きはコイツの頭の片隅にもないんだろうな。
あー、俺、何か落ち込みそう・・・・・

言われたのがとびきりの美人だというのなら それなりの楽しいドライブになっただろう。美人でなくてもこの際、食堂の賄いのおばさんでも もうちょっと心は引き立ったろう。それが整った顔立ちをしていると言っても どこから見ても男以外の何ものでもない左之助に からかわれているのかバカにされているのか、愚にも付かない告白をされて、落ち込まない方がどうかしている。十も年下の新人にいいように嬲られて、藤崎の期待も泡と化したことだろうと思うと 剣心は泣きたいような気持ちになった。
「あれ? なんか暗い顔してんなぁ。そんなに固く考えないでさぁ、もっとラフに行こうぜ。」
「お前みたいに脳天気に生きられりゃ、誰も苦労はしないだろうな。」
嫌みの一つでも言ってやらないと気が収まらない。少し険があったかとも思ったが 言われた本人は
「そうでもないんだぜ。これでも悩みは色々あるからな。」
と まったく堪えては居ないようだった。


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