< 1.2.3.4.5.7> 


約束の日に無事手形は落ちた。
山中の人柄を思えば疑いようもなかったが、それでも剣心は得意先を回る合間に社に電話を入れ、確かめずには居られなかった。
「換金出来てます。」との経理の答えに思わず笑みが零れ、長い間の胸のつかえが下りるような気がした。
この知らせを早く左之助にも教えてやろうと思い、左之助の携帯へと連絡を取った。逸る気持ちの所為か、呼び出し音の音がやけに長いように感じる。5回ほどコールを聞いて やっと受話器の向こうに左之助の声がした。
「相楽、無事、手形が落ちたぞ。」
「うん。わかってる。一昨日に寄ったときに 親父さんが間違いないって言ってたからな。」
弾む声で左之助へと告げた剣心へと返ってきたその声は 山中への確たる信用を置いた響きがする。それはこの3ヶ月足らずの間、深夜まで苦労を共にした連帯意識によるのだろうが、しっかりと頷く声は頼もしささえ感じさせる。
「お前のお陰だな。山中さんに話は聞いたよ。」
「俺もお前が来たって聞いた。金持っていったんだろ? 親父さん、すっげぇ喜んでたぜ。」
「ああ、だけど、俺の出る幕じゃなかったな。余計なことだったみたいだ。」
「そうでもないぜ。あそこの息子が これからの材料の仕入れのために 自分のマンションを売る気で居たみたいだからな。親父さんは お前のお陰で嫁にも肩身の狭い思いをしなくて済むって喜んでたぜ。お前って、つくづくお人好しだな。」
受話器の向こうでお人好しだと感心したように言う左之助に 剣心は笑った。そしてその意味を悟って 左之助も明るい笑い声を立てた。それで会議室以来、ぎくしゃくしたままになっていた二人の溝が 剣心にはすぅっと消えたように感じた。
「なぁ、相楽・・・」
「ん?」
「その・・・今日、お前の都合さえ良かったら、その・・・」
「何だよ? 何言いよどんでんだよ?」
「うん、あの、二人で打ち上げをしないか? 前に飲みに行こうって言っててそのままになってたし・・・」
「おっ、マジ? 行く、行く!」
「じゃ、夕刻に社で。」
「おう。さっさと仕事を片づけちまわぁ。お前も誰から呼び出しがあっても 今日は携帯に出るなよ。電源、切っちまえ。」
「そんなわけにいくかよ。でも、今日は空けるようにしておくよ。」
「ああ、絶対だかんな。」
「お前も藤崎さんに断っとけよ。」
「えっ!??」
「いや、何でもない。じゃぁな。」
はしゃいだ気分でつい余計なことを言ってしまったが、慌てた左之助の声が可笑しかった。
近頃まともに話をしていなかった左之助を誘うのには少し勇気が要ったが、今日ばかりは誰でもない、左之助と飲みたい気分だった。この晴れやかな気分も 左之助になら分かるだろう。
左之助が返した二つ返事を思い出して 剣心はまた笑みが零れた。





「かんぱーい!!」
ダイアモンドのように煌めく夜景を眼下に スカイビルの最上階にあるビアホールで 二人は高らかに祝杯を揚げた。
ビール会社の直営店のここは 小粋な造りが好まれ、仕事帰りのOLやサラリーマンでいつもにぎわっている。新津機工の近隣では 一番のカップルのデートスポットにもなっていて 藤崎などと行く焼鳥屋や居酒屋よりも左之助の年代にはウケるだろうと剣心が選んだ。が、「なかなかいい雰囲気がじゃねぇか。」と 店内を見回して左之助が喜んだのはジョッキを揚げるまでで、料理が運ばれてくると 綺麗に盛りつけてあるばかりで高くて物足りないと 遠慮無く不平を言った。
「んじゃ、どこが良かったんだよ?」
「沢山食えるところ。」
ワタリガニのスパイスソース和えにかぶりつき、足を口から出しながら左之助が言う。指や頬に赤いソースをぺったりと付け、まるで子供のように無心にもごもごと口を動かしている。その豪快な食べっぷりを眺めるだけで 剣心は腹が一杯になるように感じ、さもありなんと溜息混じりに言った。
「いいよ、遠慮無く食えよ。今日は俺が奢ってやるよ。お前、頑張ったもんな。そのご褒美にな。」
奢りと聞いた途端に 現金にも左之助の頬が緩んだ。
「んとか? あっ、でも、それだったら奢ってくれるよりも プレゼントをくれよ。記念になるし、俺、来週誕生日なんだ。」
「えっ? そうなのか? じゃぁ、それでもいいけど。で、何が欲しいんだ?」
カニの足を啜るのに忙しい左之助を 覗き込むように剣心は訊ねた。その剣心へと 左之助は少し気遣わしげな目を向ける。
「ん、何でもいいか?」
「あんまり高い物は遠慮しろよな。俺、今少し貧乏だし。」
「ああ、その点は大丈夫だって。あんまり金のかかるもんじゃねぇから。」
気を遣ったのは 高額なプレゼントの要求のためだろうと剣心は思ったのだが 左之助の返事は至って明瞭だ。
「ふーん。で、何? 何が欲しいわけ?」
「うん、後で言う。」
「何で? くれって言っておいて遠慮してるのか?」
「そう言うワケじゃねぇけど・・・。でも、絶対にくれよな。」
左之助にすれば珍しく歯切れが悪い。だが、「絶対に。」という所に有無を言わさぬ力強さが込められている。
「何か分からないけど 高くないんだったらいいよ。約束は守る。」
「おっし! 男と男の約束だからな。」
気軽に返事をする剣心へと 左之助は確約を取り付けたとばかりに 格闘していたカニを手放して 右の拳を掲げて見せた。
先ほどから妙に念押しされるところが剣心は気になったが、何か余程欲しい物なんだろうと 子供じみた左之助の約束を その時は微笑ましく思っていた。


それから二人の話題は山中のことに移り、その再出発を心から喜んだ。当然、剣心は左之助の行動力に触れ、心からの感嘆の声を漏らした。
「うへへ・・・照れるじゃねぇか。」
ビールで少し赤らんだ顔を更に赤めて締まりなくやに下がると 左之助の持つ尖った印象が消え、人のいい十九の幼さが垣間見える。しかし、おだてられるのに少し居心地の悪さを感じたのか 緩んだ頬をちょっと持ち上げた。
「でもよ、本当のことを言うと 俺も最初から親父さんを手伝って何とかしようと思ってたワケじゃねぇんだ。」
「へぇ。と、言うと?」
「うん、お前に何とかするって言ったけどよ、どうしていいか判んなかったし、正直なところ、俺の叔父に金を借りるつもりで居たんだ。その叔父ってぇのが 信州でちょっとした会社をやってて結構羽振りがいいもんだからな。」
「ちょっとした会社って? 台所用品を扱うとか何とかって 山中さんが言ってたな。製造業なら知ってるかもしれない。何て名前なんだ?」
「うん、下諏訪金属工業ってんだ。」
「えっ!!?」
剣心は思わず驚きの声を上げ、絶句した。
下諏訪金属工業と言えば ちょっとしたどころか各キッチンメーカーのOEMを手がけ、大きなシェアを誇る有数の企業だ。そんな大会社ならば二千万円や三千万円の金は物の内にも入らないだろう。それに新津機工の得意先でもある。剣心自身も四年ほど前に その工場の生産ラインの入れ替えのために 機械を搬入しに行ったことがある。
「俺、知ってる・・・・四年ほど前にその工場へうちから搬入したぞ。その時に整備に行ったんだ。」
「うん。知ってるぜ。だって、俺見てたからな。」
「えっ?」
「丁度学校が夏休みで 工場の片づけの手伝いに来いとかって 叔父に駆り出されたんだよ。お前、楽しそうに機械を触ってたよな。」
「あの時にお前居たのか? 全然知らなかった・・・」
剣心はおぼろげに霞む記憶の糸を手繰ってみるが、思い出したのは 高い天井に張り付いた空調の大きなダクトと だだっ広い薄緑色の床だけだ。その遙か向こうで数人の作業員が バタバタと忙しそうに立ち働いていたような気もする。
「工場の隅で段ボールやら工具やらを運んでたんだぜ。あそこって広いし、結構人数も居たからな。最初にお前を見たときに機械整備は女がやるのかと思って吃驚した。ほらっ、お前って小せぇし、華奢だし。でも、すぐに男だって分かったけどな。」
口に運んだジョッキの泡を ぺろりと舌先でなぞって 左之助は悪戯っぽい笑みを浮かべる。女に見えたという言い訳を 剣心が気にしないようにそれでごまかしたつもりらしい。が、言われなれてる剣心は 全く意にも介さないで居た。
「それなら何で今まで言わなかったんだ?」
「だってお前、全然覚えてねぇじゃん。俺だけ知ってるって何か癪に障るしな。」
「そう言う問題かよ?」
「うん、俺にとってはな。」
再びジョッキを口元に運ぶ前に 左之助は断言して見せた。
何が問題で癪に障るのか 剣心にはまったく分からない。しかし、初めて会ったときから妙に馴れ馴れしかったのは その所為かとも思えた。
「じゃ、何でうちの社に入社なんかしたんだ? あっちの方が大きくて甥っ子ならいい地位につけたんじゃないのか?」
「俺、機械いじりって結構好きだし、まっ、色々と思うところもあってな。」
剣心の問いかけに 左之助はジョッキを片手に 思慮深そうな目の色を見せた。
普段の言動では その場限りの考えで行き当たりばったりに生きているように見えるが、十九は十九なりに自分の人生をしっかり考えているのかもしれない。剣心が思うよりも将来を見据えているところが 時折左之助を大人びて見せている所以(ゆえん)かもしれないと思った。
「ふぅん。じゃぁ、何年かしたら叔父さんの所へ戻るわけ?」
「いや、今は考えてねぇ。でも、子供も居ねぇからお前が後を継げとかって言ってるけどな。んで、話が逸れたけど その叔父ってのが 小さいときから俺のことをすんげぇ可愛がってくれてたんだ。だから俺の頼みなら必ず貸してくれると思ってたんだよ。」
「でも、そう甘くはなかったと?」
「ああ。何で知らないヤツに金を出さなきゃなんないんだ? 世間はそれほど甘くないぞ。バカも休み休み言えって だいたいお前が言ったことと同じようなことを言われてな。けんもほろろさ。」
「ああ、叔父さんにしたら縁もゆかりもない人だしな。」
「ん、それで途方に暮れちまってたんだけど。
けど、見ちまったんだ。お前の書きかけの辞表が引き出しの中に入ってて・・・あっ、でも、わざとじゃねぇんだぜ。たまたま俺一人の時に お前のデスクの電話が鳴って、用件のメモを取るのにペンを持ってなかったから 借りようと思って引き出しを開けたら そんな物が入ってるじゃねぇか。焦ったぜ。」
「ボールペンぐらい持ってろよ。」
自分の所為だとは思うのだが、見られた気まずさについ咎めてしまう。左之助も気が引けたのか 素直に「すまねぇ。」と謝った。謝られると剣心も気が差して言葉に詰まった。
「うっ、ああ、いいよ。そんな物を入れたままにしてた俺が悪いんだし。で、それから?」
「ん、俺、すんげぇ焦った。本当のことを言うと そこまで考えちゃ居なかったし、お前を追い込んじまった責任も感じるし。で、もう一度叔父の所まで走ったんだ。今度は貸してくれるまで テコでも動かねぇつもりでな。」
「バカだなぁ。お前が責任を感じることなんて これっぽっちもないのに。すべて俺の判断でしたことだしな。言っておくが、俺はお前の上司だぞ。」
分かってるのか、コラッと 後は冗談めかして照れくささを隠した。
左之助もニヤニヤ笑いながら「一応な。」と 返した返事は 分かっているのか分かっていないのか。
だけど、以前は苦々しく思ったその会話が 今は何とも温かに心に入り込む。いつの間にか二人の間に築かれた信頼感が 親密さを増させていた。
「で、お前にまで責任を取らせるハメになっちまったって言ったら、その上司も上司だって。揃いも揃ってバカが二人も揃っているのか、俺だったらそんな社員は即刻、左遷するってボロクソに言われちまった。」
左之助の正直な話に 剣心は耳が痛かった。経営者で有れば誰でもそう思うだろう。自分のしたことに今更ながら 溜息が漏れる。
「でもな、その後、ニヤッと笑って『でも俺はそんなバカは嫌いじゃない。』って言ってな、『金は貸してやらないが 注文ならやってもいい。』って、言ってくれたんだ。『お前もその上司もそこまで肩入れする会社だったら さぞかししっかりしてるんだろう。今仕入れてる部品で気に入らない仕上がりのが有るから 出来映えが良かったら全面的に替えてやってもいい。』そう言って図面を渡されたんだ。薄板加工なら親父さんの所ではお手の物だし、何よりいい仕事をするからな。絶対に気に入るだろうって自信があった。最初は300万ほどの注文だけど ウマくいけばこの先、大量に注文もしてくれるだろうし・・・親父さんのためにはぜってぇ取りたいと思ったんだ。帰り際に『自分のやったことだから 後の責任の取りようは自分で考えろ。』そう言われたんだ。
俺に出来ることって言ったら労働力しかねぇじゃん? 何としても親父さんを助けたかったし、お前にも辞めなきゃならねぇような真似はさせたくなかったからな。」
そう言って、少しはにかんだような左之助の表情が 眩しかった。
「ありがとう。相楽。お前のその気持ちに何だか元気づけられた気がするよ。」
ジョッキを口元に運ぶ振りをして 俯き加減で潤みそうになる目頭を隠した。そして、それを悟られないように 「上司が頼りないと 部下のお前も苦労するな。」と、笑って付け足した。笑って同調するかと思っていた左之助は 途端に眉を上げ、飲みかけのジョッキを傍らに置き、怪訝な表情を見せ、そして剣心の目を覗き込むようにして 心配げな声を漏らした。
「なぁ、辞めねぇだろ? お前を辞めさせたくなくて俺、頑張ったんだぜ?」
海の底のように深い色合いを湛え、光の加減で黒々と光る瞳が不安に揺らめき、剣心の答えを促す。こんな自分を心に掛けていてくれた左之助の気持ちに 頭が下がる思いだ。その気持ちに応えるように剣心も顎を持ち上げて 左之助の瞳に微笑みかけた。
「うん、辞めない。お前に負けてられないからな。」
「やった!!」
パチンと左之助が指を鳴らした。
破顔する左之助の笑顔が嬉しかった。
この笑顔にどれだけ応えられるのか分からないが、辞めないと下した決断は間違っていなかったと今は思える。剣心も照れと気恥ずかしさをない交ぜにして 零れる笑顔を惜しみなく見せた。


考えてみれば 左之助とこうして二人で飲みに来たのは初めてだった。
部署での飲み会や歓迎会などは別にして プライベートな時間に付き合ったことは今までなかった。それは部署の他のメンバーに対しても言えることだが、元々付き合いが悪かったのが、今の役職に就いてからは更に時間もなくなり、空いた時間は身体を休めることだけに使っていた。
久しぶりに誰かと心の中から笑い合い語り合う時間は 剣心をくつろがせ、おおいに楽しませる快い時間だった。
文句を言った割りには 左之助は次から次へと料理を注文し、喋る合間にジョッキを空けてゆく。剣心もそれに釣られてジョッキを重ね、気づいたときには二人ともかなり酔いが回っていた。

店を出るときに支払いは割り勘だと左之助は言ったが、どう考えても割り勘負けしているとしか思えない。それならばと 結局剣心が全部支払った。
「奢ってもらったら プレゼントが無くなるんじゃねぇのか?」
と 心配していた左之助には 「その約束は約束でちゃんと守る。」と 言ってやったが、「どうも心配だ。」と、今度は自分が出すからと ショットバーへと連れて行かれた。
そこでもまた話は弾み、グラスを重ねることになり、店を出たときにはすでに終電が無くなっていた。
「うっへー、飲み過ぎちまった。家へ帰れねぇじゃねぇか。」
夜風に赤い顔を嬲らせながら、千鳥足の左之助が言った。
「ああ、俺はタクシーで帰るけど お前は?」
「ああん? タクシーなんかで帰ったらいっぺんに給料が飛んじまわぁ。剣心、お前の家ってここから近いよな? 悪ぃけど泊めてくれよ。」
悪いけどと言ったが 左之助はもう泊まることに決めているようだ。ふらつく足で どんどんとタクシー乗り場へと向かって行く。
「いいけど・・・俺、一人暮らしだから布団っていっても 余分な分は炬燵布団ぐらいしかないぞ?」
晩秋の気温にそれで風邪を引かないだろうかと 左之助の横を歩きながら思いを巡らせる。
「いいって、寝るところだけ有れば充分!」
そう答える間にも左之助は 手を挙げてタクシーを停め、開いた扉の中へと剣心を押し込めて自分もさっさと乗り込んだ。



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