〈 1.2.4.5.6.7


それから二日後、剣心が部署の片隅に有る作業場で 片山と持ち帰った金型を点検している時だった。
「緋村。」
涼しい声に振り向くと 営業1課に勤めている従兄弟の雪代縁が立っていた。
一目で分かる仕立てのいいスーツが 北欧系の出かとも思えるような色素の薄い肌に映え、酷薄な微笑に精悍さを添えている。持って生まれた品のよさのせいか 値段の張るスーツを まったくと言っていいほど嫌みを感じさせずに着こなしている。
社内では営業1課の貴公子などと女子社員からは もてはやされているようだ。
縁の身形にはいつも金がかかっている。よく金が続くものだと剣心は思うが、資産家である彼の実家を考えれば さしたる支出でもないのだろう。
彼の祖父は医者で父親は弁護士だ。だから縁は当然、医者か弁護士になるのだろうと剣心は思っていた。だが、剣心が工学系の学部に進むと後を追うように縁も理工学部に進学し、新津機工に勤務したと聞くと 何を思ってか縁もこの会社に入社してきた。そして今はこの会社の花形とも言える営業1課で やり手の営業マンとして活躍している。
同じ会社と言っても営業1課は4階に有り、フロアーが違うので顔を合わせることは滅多とない。その縁がわざわざ階を降りて 剣心の部署へと顔を出すのも珍しいことだ。
いつものように底の知れないうっすらとした微笑を頬にのせて佇んでいた。
「どうした? お前が来るなんて珍しい。」
「敏腕マネージャー様の仕事ぶりを拝見しに、ね。」
相変わらず嫌みなヤツだと 剣心の眉がぴくりと動いた。
性格は服装とは違って 少し鼻につくと剣心は思う。しかし、それも長い付き合いで縁の性格は知り尽くしているので その言葉をいちいち気に止めることはない。それでも時折、ムッとするのは その自信に満ちた表情の所為かもしれなかった。
「と言うのは冗談だが。今日、ちょっと時間取れるか?」
「何だよ? 急に。」
「お前に話があってさ。少しつきあえよ。」
「今日でなくちゃダメか?」
「ああ。なにぶん俺は忙しいものでね。」
縁が人の都合にかまうことは余り無い。その容姿のせいでもてはやされ続けたためか、あるいは生来の自信に満ちた性格のせいか、幼い頃より自分の決めた都合で物事を運ぶきらいがある。
「忙しいって、どうせ女にだろ?」
「モテないひがみか?」
「悪かったな。モテなくて。」
「フフフ・・・で、どうなんだ?」
「仕方ない。じゃぁ、7時でいいか?」
「フン。やっぱり残業するのか? ご苦労なことだ。じゃ、7時にロビーで。」
「分かった。」
「遅れるなよ。」
縁は言いたいことだけ言うと さっさと踵を返した。
柔らかそうな髪を揺らしながら、長い足で長身の身体を扉口へと運ぶ。その後ろ姿をPCの隙間から盗み見る女子社員の溜息が 剣心の耳にまで届いていた。



ロビーで落ち合ってから 会社の近くの居酒屋へと二人は向かった。ここは鰯が名物で 様々な調理法で楽しませてくれる。その店の奥にあるこじんまりとした座敷に二人は座を占めた。ここならば内密の話をしても漏れる心配がないと縁が言ったからだ。
「で、いったい何の話だ?」
天ぷらや梅肉和えなど一通りの品を注文し、店員が室内から立ち去ってしまうと おしぼりで手を拭きながら 早速剣心が聞いた。
「お前と飲むのも久しぶりだというのに 相変わらず愛想のないヤツだ。」
「愛想がないのは生まれつきだ。何を今更・・・」
「フン、そうだったかな・・」
薄い笑いを鼻の先にのせて 縁は銀縁の眼鏡を指先で持ち上げた。さして視力は悪くはないはずだが、小作りの眼鏡が彼を理知的に見せている。それも計算しての愛用だろう。
「もう少し愛想を振りまいた方がいいぜ。親切にも従兄弟のよしみで とっておきの情報を教えてやろうと思って誘ってやったんだからな。」
「情報? どんな話だ? 言ってみろ。」
言われた愛想は抜きで 剣心はその先を促す。色恋沙汰の話なら苦い顔をするが、仕事関係の話となると どんな些細なことでもすぐに興味を示す。思った通り食いつきはいいなと 縁は軽く笑う。
「フフ・・・驚くぜ。不二電気が危ないらしいぞ。」
「えっ!!?」
思わず絶句した。
不二電気と言えば業界でも大手で その下請け会社は数知れない。ましてその孫請けともなると星の数ほどにもなる。影響を受ける会社も1社や2社ではないはずだ。
「危ないってあそこは確か四菱銀行が受け皿になるとか聞いたが・・・?」
「それが粉飾決算をしていたのが明るみに出たのさ。内情は相当ひどいものらしいぞ。」
「そんな・・・」
「すぐに銀行も手を引く。今まで投入した資本も押さえるそうだからな。そうしたら倒産は免れないだろう。どうしようもないらしいぜ。」
昨今の不景気で業績は芳しくないとは聞いていたが まさか倒産するとは夢想だにしなかったことだ。リビルドサービスで受け持つ取引先の中にも 不二電気の息の掛かったところが何社かあった。そして、一番気がかりなのは先日取り交わしたばかりの契約だ。山中製作所は 不二電気の下請けだったはずだ。それらを素早く頭の中で整理しながら 剣心が気遣わしげに聞いた。
「明るみに出るのはいつか分かるか?」
「さぁ、そこまでは・・・・だが、そんなに余裕はないはずだぜ? 週が開けたら、或いはその次の週か・・・いずれにしても近々のことだろうな。」
「で、その話はどれぐらい広まっているんだ? もう部長にも報告したのか?」
「まさか。わざわざあのバカに知らせて手柄にしてやる気はないね。それに四菱銀行でもまだ極秘中の極秘の扱いだぜ? 誰も知っちゃ居ないさ。だからとっておきの情報と言ったんだ。」
「そんな話を何でお前が・・・? 今度は銀行の女か。」
今まで縁がもたらした情報は 些細なことでも外れたことがない。そんな大事なことを漏らすのなら 縁とはただならぬ関係にある女性だと見るべきだろう。
「相変わらず勘の鋭いヤツだな。」
剣心に図星を指されても別に悪びれる風もなく、トレードマークのような冷ややかな微笑を口唇にのせ、グラスを口元へと運ぶ。
綺麗な口唇が酒で濡れ、その艶やかさは男の剣心でも見惚れるぐらいだから 女にとっては騎乗の王子様にでも見えるのかもしれない。それを武器にして世間の波を泳いでいる縁は 充分にしたたかだ。
「向こうが逆上せてデートをせがむから 2,3回付き合ってやったら ぺらぺらと喋ってくれたのさ。」
「縁。お前、専務の娘と付き合っていたんじゃないのか?」
「何だ? 説教か? 別に付き合っちゃ居ないぜ。専務の所に遊びに来た時にエスコートぐらいはしてやったけどな。」
「女遊びも大概にしろよな。そのうちに新聞沙汰になっても知らないぞ。」
「ご心配をどうも。だが、そのお陰でこうして情報を得られるし、それに、俺はそんなにマヌケちゃ居ないつもりだぜ?」
「お前ってヤツは・・・」
縁の綺麗な眉目を眺めながら 剣心は大きく溜息を吐いた。
「次から次へと・・誰とも本気で付き合う積もりはないのか?」
「お前なら付き合ってやってもいいぜ?」
「馬鹿馬鹿しい。ちょっとは真面目に聞けよな。」
「心外だなぁ。俺は至って真面目に答えたつもりだけどな。それよりかさ、いい物見せてやろうか?」
剣心の言うことなど真面目に聞くつもりはないらしい。その眉目に相応しく やることにも万事抜かりのない縁は 絶対の自信を持っているようだ。もうこの話はごめんとばかりに話を逸らし、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「何だよ?いいものって。」
「俺の初恋の相手の写真。」
「へぇー。初耳だな。お前にそんな相手が居たのか?」
「フフ・・・見たら驚くぞ。この前、ちょっと整理をしてたら懐かしい写真が出てきてさ。ほらっ。」
そう言ってパスの中から取りだした写真を剣心の前に置く。一目見たなり、剣心は飲みかけたビールのジョッキを取り落としそうになった。
「お前! こんなもんをパスの中に入れておくなんて人が悪すぎだぞ!」
それは剣心の中学時代、正月に縁の家で写した物だった。だが、ただの姿ではない。女装させられた時の物だ。
「可愛いだろ? なかなか良く撮れてると思うぜ?」
縁は人の悪い笑顔を満面に浮かべ、予想通りの剣心の反応に満足げだ。
「何でこんなもんを後生大事に持ってるんだよ!」
「お袋に見せたらさ、懐かしいって大喜びだったぜ? だからパソコンでちょっと色を修正してプリントしてやったら、今、額に入れて飾ってるぜ。」
「お前の家族ってホント! 揃いも揃って人が悪いよな。」
剣心にすれば一生の恥と 思い出したくもない出来事だった。
縁の母親が剣心の養父の姉であり、滅多と顔を見せない養父に業を煮やして 半ば強制的に 正月に縁の家へと招かれたことがあった。沢山のごちそうで歓待してくれたまでは良かった。酒を飲み、たらふく食べ、ひとしきり歓談も終わったところで 大人達が暇を持て余したのだ。その時に縁の母親が 縁の姉である巴の振り袖を作り替えたので お古を捨てるのも勿体ないし、誰か要らないかしら?と話を切り出した。それを聞いた養父がニヤッと笑い、剣心に着せてみようと言うことになったらしい。大人達の暇潰しの余興に 女装をさせたら面白かろうと話はすぐに纏まった。
そんな相談は一向に知らず、縁の部屋でゲームをして遊んでいた剣心が 巴に呼ばれてリビングへ行くと 養父に羽交い締めにされ、瞬く間に振り袖を着せられたのだ。そしてそれを見た縁の母親が あまりによく似合っているからもっと綺麗にしましょうと言って 化粧をし、髪まで結われたのだ。その時の記念の写真が 今縁が見せた一枚だ。
元々女の子とよく間違われていたし、背丈も低く華奢な身体のつくりだから 振り袖は似合いすぎるほど剣心にしっくりと馴染んでいた。
縁の母親は大喜びで手を打ってその気持ちを露わにしたし、縁の父親はほぉと溜息を漏らしたし、剣心の養父に至っては「剣子ちゃんと改名しよう。」と ゲラゲラと大笑いをした。その時の恥ずかしさと言ったら 今思い出しても顔が火照るほどだ。
「俺のお袋は お前が大のお気に入りだからな。この写真も かわいい、かわいいと言って上機嫌だ。小さい頃からよく聞かされたぜ。『剣心ちゃんって本当に良くできた子だ。』ってね。お前を見習うように言われ続けた俺は 堪ったもんじゃなかったぜ。」
「よく言うぜ。お前はお袋さんの出来のいい自慢の息子じゃないか。」
「ああ、だから期待に応えるのもなかなか苦労だったぜ。比べられるお前がいつも1歩リードするからな。」
「お前に言われても嫌みにしか聞こえないね。今だって、うちの社じゃ押しも押されもせぬ売り上げナンバーワンの営業マンじゃないか。諸星精密の今度のプラントだってお前が取ってきたんだろ?」
「まぁな。」
社ではちょっとしたニュースになった縁の大仕事を剣心が言うと さも当然とばかりに自信をのぞかせた。
「とにかく、この写真は捨ててくれ。間違っても社内で見せるなよ。」
「フフ・・・悪いけど俺のPCにはしっかり原盤が残ってるんでね。希望と有れば何枚でも焼き増しするぜ?」
「縁ー!」
にらみ据える剣心をさも嬉しそうに眺めて 縁は哄笑した。
「と言うわけで、俺は小学生ながらもこの時のお前に一目惚れしたというわけだ。これ以上の女が現れない限り、誰とも真面目に付き合うつもりはないね。」
「勝手にしろ!」 
「もとより。ところで、お前の方は大丈夫なんだろうな?」
愉快そうに笑っていた表情を一気に引き締めて 眼鏡の奥から鋭い眼差しを送ってよこす。
「えっ? 大丈夫って、何が?」
一瞬意味が飲み込めず、とんまな受け答えをしたが それと解って内心舌打ちをした。
「とぼけるなよ。俺がわざわざお前に情報を漏らしたのも お前の部署で不二電気の息の掛かったところがあるだろ? 手形なんか掴まされるなよ。」
まるですべてを見透かしたように目を光らせて言う縁の言葉に 剣心は黙り込んだ。縁の話に取り紛れ、このまま黙っていようかと思っていたのだが、気鬱が顔に出たのを 縁は見逃さなかったらしい。
「ああ? ビンゴかよ? 幾らだ?」
「780万。だけどまだ潰れると決まったわけじゃない。」
「何を呑気なことを。手形は何時落ちるんだ?」
「まだ、これからだ。契約の時に手形でと話は決まってしまっているからな。週が開けたら早々の納入だ。参ったな・・・・」
「だったらまだ手の打ちようはあるさ。思いの外整備に時間が掛かるとか何とか言って延ばせよ。ほどなく親方の方がはっきりするだろうぜ。そうすりゃ呑気に設備投資なんかしてられないからな。契約は見事おじゃんだ。」
「そんな簡単にいくかよ。うちの信用にも関わる。」
「潰れるところに 信用もクソもないだろ。でなきゃ、お前の首も危ないぞ。」
「・・・・・・」
「お前がヘマをして見ろ。従兄弟の俺の将来にまで傷が付く。」
わざわざ呼び出しての忠告も剣心への配慮ではなく、自分のためだったらしい。いかにも縁らしいと 剣心は苦笑を隠せない。
「取りあえず、何とか考えてみよう。」
「ああ、お袋を悲しませるなよ。なにせ、自慢の剣心ちゃんだからな。」
そう言ってからかうような笑いを 頬に浮かべた。
その後、しばらく雑談を交わし、「お袋がお前が来るのを楽しみにしてるから 遊びに来い。」と 誘われたが、そんな気分にはとてもじゃないがなれなかった。帰って一人で色々と考えることがある。疲れている事を理由に断った。
支払いの時に縁が
「お前のおごりな。」
と 耳もとで小声で言った。今日の情報提供料らしいとは判ったが、空とぼけてやる。
「アルマーニを着てるヤツが人にたかるなよ。」
「俺は情報集めに金がかかるんでね。」
涼しい笑いを漏らし、何食わぬ顔でさっさと店を出て行った。そして別れ際に
「お前は情にもろいところがあるからな。流されるなよ。」
と、肩を叩くことも忘れないのは まったく縁らしい念の入れようだ。
お互いの将来を思えば どんな傷でも避けて通るべきだろうとは分かっている。
誘われるようにそれに頷きはしたものの 剣心の心は重い。
左之助が初めて取ってきた大きな商談を 上手く運んでやりたい気持ちがある。山中製作所を助けてやりたい気持ちもある。だが、すぐそこに来ている現実が 大きく立ちはだかり、すべてを闇に包む。
左之助の得意げな笑顔と山中の嬉しそうな笑顔、未来を告げた縁の冷たい笑いが 夜風の中に代わる代わる浮かんでは消えていった。



翌日の朝、外出前の左之助を会議室へと呼び出した。
誰も使っていないのを確かめ、室内に入ると 左之助が
「何だよ。こんな所に呼び出して。愛の告白か?」
などとニヘラニヘラと笑い、呑気なものだ。
「お前と言い、縁と言い、何でそんなタチの悪い冗談ばかり・・・」
気の重い話をするのに 左之助のためにもと 昨夜まんじりともせず考えたのがバカらしくなってくる。眉間に皺を寄せた表情から左之助が何かを感じ取ったらしく、急に真面目な顔をして黙り込んだ。
「とにかく座れよ。」
手近にある椅子を引き寄せ、目で左之助にも座るように促した。
「話というのは他でもない。山中製作所の例の取引のことだ。」
神妙な顔つきで言う剣心の言葉に 何か自分がへまをしたのだろうかと左之助の目が泳ぐ。しかし、思い返しても何も思い当たるものがないと判ると妙な顔をした。
「あん? 何で? もう契約も交わしたし、納入も納期までには整備は上がるって言ってたし、何も問題はねぇはずじゃ・・・?」
「ああ、うちの方はな。だが問題は向こうの方だ。」
「何で? 何か切羽詰まった事情でも? あの親父さんは約束を違えるような人じゃねぇ。それはお前もよく知ってるはずじゃ・・・?」
「普通ならばな。だが、取引先が倒産となったら 支払いたくてもどこからもビタ一文出てこないだろ。」
「どういうことだよ?」
「これはまだ内密の話だが、不二電気の倒産は免れないらしい。となると 当然、山中製作所もただでは済むまい? あそこはほぼ100パーセント不二電気の子飼いだからな。」
「そんな・・・だったら親父さんはどうなるんだよ?」
「残念だが、どうしようもないだろう。」
「どうしようもないって、潰れるって事か・・・?」
「ああ。」
剣心が重苦しい息を吐いた。それを認めた左之助が 救いを求めるように剣心へとまっすぐに眼差しを向けた。
「ダメだ。そんなことはさせねぇ。新しい取引が始まったって言ってたじゃねぇか? それを納品したら 金になるんじゃ・・・」
「だが、その取引が果たして上手く行くのかどうか、納品したところで幾らになるのか、それで資金繰りの悪化を止められるのかどうかさえもハッキリしてないじゃないか。他への支払いも幾らあるか判らない。すべてを払いきれると思うのか? どう考えたって どうしようもないんだ。」
「だったら・・・どうしろって言うんだよ!?」
「納期を延ばせ。あそこならそんなに大事にも成らずに済むだろう。近々本丸のことが明るみに出たら、きっと向こうの方から待ってくれと言ってくるはずだ。」
「いやだ!」
「何で!」
「そんなことはできねぇ!」
「うちの信用とか色々事情はあるが、それよりも損すると分かっててみすみす損は出来ない。」
「んなこと言ってんじゃねぇよ!! お前だって知ってるだろ? 今、あの機械がなきゃ、親父さんの所の新しい仕事が出来ねぇって。これで何とか不景気から立ち直れるってあんなに嬉しそうに言ってたじゃねぇか! それを・・・潰れるかどうかもわかんねぇうちから 俺はそれを潰すことなんか出来ねぇ。」
「だからって、うちが損をかぶるわけにはいかないんだ。どのみち、不二電気が倒産してみろ。山中製作所はたちまちにして資金のやりくりが付かなくなる。それに悪いことにはあそこは不二電気と同じ銀行が 主要銀行だからな。銀行の方でもとっくに調べは付いているだろうから 貸し付けも止まるだろう。そんな状態で780万なんて手形が 落ちるわけがない。」
「それでも俺はイヤだ。絶対に納期は延ばさねぇし、親父さんをがっかりはさせたくねぇ。やれるだけのことはやってからじゃねぇと 納得できねぇ。」
「これは損するだけじゃないんだぞ。お前の将来にも関わってくるんだ!」
「俺の将来なんかクソくらえだ!」
怒りでどす黒く濁った頬を引きつらせ息巻いて言う左之助に 剣心は気持ちを静めて懐柔を試みた。
「なぁ、相楽。一時の同情だけで何とかなるぐらい 世間は甘くはないんだぞ?」
「それでも! 俺は絶対に嫌だ!」
「嫌だと言ってもどうにも成らないことがあるぐらい お前にも分かるだろ? 嫌だ、嫌だと言ってどうするつもりだ? お前に肩代わりして払ってやれる金があるとでも言うのか?」
「金はねぇ。金はねぇが、でも、何とかする方法がまだあるかもしれねぇじゃねぇか。その可能性が全部潰れない限り 俺は絶対に嫌だ!! 納期は延ばさねぇ!」
頑として剣心の言葉に耳を貸さない左之助に 剣心の忍耐も切れかけた。
「そんな戯れ言を本気で言ってるのか! 夢みたいな希望だけで 会社が成り立つとでも思っているんだったら目出度すぎるぞ!」
「見損なったぜ、剣心!」
吐き捨てた左之助の眼差しは冷たい。
「あそこの親父さんが今、どんな状態だかお前だって知ってるじゃねぇか。不幸続きで精も根も果てただろうに。そんな中でも何とか頑張ろうって 必死で働いてやっと新しい取引も滑り出しそうだって時によ。まだ不二電気が倒産したわけじゃねぇ。それに不二電気が倒産したからって 親父さんの所が倒産するって決まったわけじゃねぇ。だのに納入を辞めたら 確実にあそこは潰れるじゃねぇか。」
「判ってる。判ってるけど、どうしようもないだろう! だからって金が降ってくるほど甘くはないんだ。それが現実だ。」
「判ってねぇよ! 俺にはそんな人でなしのするようなことは絶対に出来ねぇ!」
「判ってないのはお前だ! いいか、相楽。人生は同情で立ちゆくほど甘くはないんだ。この先、倒産なんて幾つ有るか分からない。それをお前はいちいちそうやって 何とかなると夢みたいなことを言って駄々をこねるつもりなのか! 商売は慈善事業じゃないんだぞ!! 納期は延ばせ。これは上司としての命令だ。」
「イヤだ! 絶対に延ばさねぇ!!」
「相楽!!」
忍耐の限界を迎えた剣心と どうあっても引き下がらない左之助の視線と視線がぶつかり合う。ずいぶんと長い間 二人はにらみ合っていた。どちらかが腕を伸ばし、襟首を掴んで今にも殴りかかるのではないかと思うほどの緊迫感が 会議室には漂っていた。その均等を破るように何の前ぶれもなく 左之助が視線を外し、席を蹴立てて出て行ったのは10分ほど後のことだ。
「くそぉー!!」
一人会議室に取り残された剣心は 目の前の机を右の拳で思い切り叩いた。

判ってない!
アイツは全然判ってないんだ!
気持ち一つで会社が潰れないんだったら 世の中に倒産なんか有るわけない!!
僅かな金額で憂き目にあった会社も見てきた。
親会社の理不尽さに潰された会社だってある。
だからって人々の同情だけで救われた試しは一度だってないんだ。
望みだけで何とかなるぐらいなら とっくに俺が何とかしてるさ!
こんなに苦しむもんか!
だけど。
だけど・・・・

自分の言ったことは正論だ。新津機工に勤める限り、今の立場にいる限り、会社を守って行くことは自分の務めだ。昨夜から何度も考え、出した結論だ。そしてそれが正しいと 自分自身へと何度も言い聞かせた。左之助の言ってることが通るほど 世間は甘くはない。それは分かりすぎるほどに解っている。
が、心を偽っての説得など所詮付け焼き刃にしかすぎないのだ。
左之助の言い分は まるで自分の気持ちを代弁していたようじゃないかと思う。
あれこれと理屈を並べ立て、教科書通りのような自分の言葉に イヤと言うほど辟易していたのは自分だ。心にもない命令を下さなければいけない理不尽さに 悲鳴を上げていたのは誰でもなく まさにこの自分だ。このどうしようもない腹立ちは左之助にではなく 自分の中の矛盾に向けられたものだ。
人に頼って正論に流されてしまえという甘い考えは 左之助に突きつけられ、目の当たりにして、見事に砕かれた。
自分の力のなさを思い知らされ、(くずお)れ、項垂(うなだ)れ、唇を噛んだ。



その午後、剣心が外回りから戻ってきた時には 左之助はもう帰った後だった。
結局、朝の話以来、事態は進展していない。
左之助の気持ちがどうであれ、決断を下すのは自分だ。
工場長にストップをかければ まずはそれで済む。電話1本でも事足りる。
だが、電話も掛けず、帰社するのを急ぎもしなかった。
戻ってきた時には工場はもう仕舞っていて、みんな帰った後だった。急ぎの仕事もない週末の金曜日は 仕舞うのも早い。そのことを自分への言い訳にして 剣心は何の指示も出さなかった。

重い気分を抱いたまま、いつものように残業をし、リビルドサービスのメンバーのすべてが帰宅してしまうと おもむろに自分の私物の入った鞄を開いた。中をゴソゴソとあさり、取り出したのは預金通帳。記帳された最後の行には 9の後に6つの数字が並んでいた。
金を使うようなこれと言った趣味もなく、付き合いで飲みに行くこともほとんど無いまま、振り込まれるままに貯まった給料は いつしか900万円を超えていた。
剣心の動きは止まり、その数字をじっと眺め続けている。
そうして長い時間を過ごし、ゆっくりと鞄の中へと仕舞った。
それからやりかけになっていた仕事をこなし、深夜になってから一人家路へと向かった。



月曜日の朝、剣心が出社した時には 左之助はすでにデスクに着いていた。こんなに早く出社しているのも珍しいことだ。やはり、週末の例の一件が尾を引いているのだろう。
剣心自身もまた ハッキリと決心が固まったわけではない。この週末の二日間、絶えず揺れ動く気持ちに振り回されていた。
席に着き、デスクの上の書類に手を伸ばしかけた時、挑むように左之助がやって来た。
「納品に行ってきます。ハンコをお願いします!」
部屋中に響き渡るような声でそう言って 叩き付けるように一綴りになった書類を 剣心の目の前に置いた。
納品書の記名の欄には 山中製作所の名前がある。
真っ直ぐに見つめる左之助の目には 挑戦を挑むような色合いが濃く浮き出ている。
衆目の面前でこれ見よがしに差しだしたのは 左之助なりに考え、抜き差しならない状態がベストだと判断したのだろう。
こんなに早く出社をしたのも 先に工場へ行って納品の準備が止まっているかどうかを確かめる為で 左之助もまた この週末は気を揉みながら過ごしたであろう事が伺える。
書類に目を落とす振りをして 左之助の視線を避けた。
いまわの際まで追いつめられながら まだ心は揺れている。自分のやろうとしていることが 本当に正しいのか正しくないのか、情けと義理の間で 風に吹かれる木の葉のように揉みくちゃにされ、方向が定まらない。心と正義が天秤の上で重さを競い合う。
頭上に顔に手元にと 左之助の視線が突き刺さる。息を詰め、剣心の行動をじっと見ている。それは転がったサイコロが どの目を出すのか見守っているようだ。
剣心はのろのろと引き出しを開けた。
そして映画のスローモーションのような動きで 目の前にある印鑑を探し、手に取り、朱肉に浸した。
その一連の動きを 左之助がじっと見ている。痛い視線に 息づかいまで聞こえるようだ。
夢遊病者のように心の定まらぬ表情で 納品書の担当者欄にすでに押してある「相楽」の横に自分の名前を押す。そしてページをめくり、出庫通知書、運搬書等と一連の書類に印鑑を押してゆく。すべてを押し終わると ひったくるように左之助が手を伸ばして取り上げた。
「それじゃ、納品に行ってきます!」
左之助の明るく元気の良い声で 剣心は我に返った。その時にはすでに左之助の姿は 扉の向こうへと消えかけていた。



事態は縁の言葉通りに展開した。
月末に納入をし、5日の支払日が土曜日に当たっていたため、翌週の月曜日に山中製作所からの手形を受け取った。
しかし、その週の半ばには経済新聞の一面に 不二電気の倒産が大きく報じられたのだ。
分かっていたこととは言え、その報を聞くまでは山中のためにも間違いであってくれるようにと 祈るような気持ちで過ごしていた。だが現実は 甘い期待などせせら笑っているようだ。
人ごととはいえ、不二電気の倒産はどの社員にも大きな衝撃を与え、その日は朝から社内のあちらこちらで憶測と噂話が飛び交った。人が二人集まると不二電気のことが持ち出され、その誰もが神妙な顔つきで語り合っていた。それらの人々の輪の中にも加わらず、左之助は自分のデスクで モニターを睨んでいる。
剣心もまた自分のデスクから離れることもなく、輪の外だ。黙ってキーボードを叩いている姿は 事情の知らない部下から見れば 冷静沈着で頼もしく見えるらしいから 世の中とは何とも皮肉なものだ。そう言って話しかけてくる部下には曖昧に笑ってごまかし、外回りの準備を始めているところへ ゼネラルマネージャーの近藤が 息せき切って飛び込んできた。
と言っても近藤のことを そんなに長い名称で呼ぶ者など社内には居ない。陰ではゼネマネとか日和見という通称で通っているが、本人の前ではみんな部長と呼ぶ。その方が本人も部長職の実感があると言って喜ぶし、ずんぐりと太った外見からもつくづく横文字の似合わない男なのだ。今や、せっかく上役たちが考えたゼネラルマネージャーと言う名称も有名無実と化し、名刺の片隅に書かれるのみとなっている。
その近藤が額の汗を拭いながら 勢い込んで剣心に訊ねた。
「緋村君、聞いたかね? 君の所はどうなんだ?」
4階のフロアーからわざわざ自分で足を運ぶとは相当泡を食ってるなと 慌てふためく近藤を見ながら 剣心はのんびりとそんなことを考えていた。その様子から察するに 出社してから知ったのだろう。相変わらず呑気なものだ。
だが、今日の今日まで近藤に呼び出されもしなかったところを見ると 縁は言葉通り何も伝えはしなかったようだ。どこまでも個人プレーを守り通す縁に 感謝の気持ちさえ湧き起こる。
そんなことを呆然と考えながら、しかし、態度だけは緊急に調べ物をしていたと装って 剣心は近藤に向き直った。
「不二電気のことですか?」
「ああ、そうだ。今、営業1課に問い合わせてきた。まだすべての数字は出ていないが、どうやらたいした被害はないようだ。だが、一人だけ、いつも営業成績の悪いヤツが こんな時に限って売ってきたらしい。が、それも80万ほどだからどうと言うこともあるまい。しかし、君の所は中小企業が主だからな。不二電気の下請けも1社や2社ではあるまい?」
「ええ。今調べてたんですが、ざっと20社ほど有りますね。ですが、多企業に渡って取引をしているところが多いですから 危なそうな所は5社程かと。そのうちの3社には今月、取引がありますが、2社は小物ですから10万ほどでしょう。」
「そうか、それなら良かった。」
すらすらと数字を並べ立てる剣心の言い分を 近藤は安堵の表情を浮かべて聞いていた。
縁から情報を得てから 連日のように各社の情報と売り上げを当たっていた。細かい数字の一つ一つをチェックし、各社の取引銀行まで調べ上げていた。だから、すべての数字はすでに記憶の中にある。しかし近藤は 今朝分かったばかりの不二電気の倒産について こんなに早く調べが着いていることがおかしいと疑いもしないようだ。
「いえ、ですが、1社だけちょっと大物がありまして。」
「大物! いったい何を売ったんだね?」
「部長の所にも もうすでに先月の報告書は回してありますが・・・」
剣心の非難するような視線に 急に咳払いをして
「あっ、いや。ちょっとここのところ立て込んでいたものでね・・・」
と 言い訳がましく目を逸らした。どうせ煩雑な報告とそこに記された膨大な企業の名前など確かめることもないのだろう。よく言えば、剣心を信頼して、悪く言えば、そんなことは中間管理職がミス無くこなすことだとでも思っているらしく、目も通さずにデスクの上に積み上げているだけだ。剣心はそれを知っているが、近藤の言い訳に肯く振りをした。
「レーザー機です。中古販売の方ですが。」
「幾らだね?」
「780万。3ヶ月の手形です。」
「手形か・・・回収の見込みは?」
「さぁ、なんとも・・・・」
「何ともじゃ困るよ、君。」
「ですが、向こうも不二電気から手形を振り出されているでしょうから 無傷というわけには・・・」
「どこだね! それは。」
「山中製作所です。」
「山中製作所・・・あそこは確か先代からの取引だったな・・・あそこならまだ何か言い訳も出来るだろう。とにかく、極力努力してくれたまえ。まったくの回収不能に陥ったら 私も責任が問われるからな。」
近藤は早くも役員会での追及を思って 顔をしかめた。
「ええ、出来る限り。」
「頼むよ!」
自分の保身の心配だけをして さっさと近藤は出て行ってしまった。何の指示も出さず、ややこしいことはすべてそちらで考えろと言った態度だ。いつものほほんとしていて 心配事はゴルフと取引先の機嫌だけだ。不二電気のことを漏らしていたら とてもじゃないが納入など出来なかったことだろう。そんな近藤への反感から 剣心は罪悪感が少し薄れるような気がした。

近藤が立ち去ると 剣心はマネージャーである自分の立場を思い出した。
もう賽は投げられた。後はどれだけ穏便に事を運ぶかだけが重要だ。
「相楽。」
自分のデスクで気遣わしげにこちらを伺っていた左之助を呼びつけた。
「いつでも機械を引き上げれるように 準備と情報収集だけは怠るなよ。」
「分かってるよ。」
冷たく言い放つ左之助の鋭い眼光を見て、嫌な役目だと思った。
まるで死にかけた重症患者の息を引き取る間際を待っているようなセリフだ。
心の中に苦いものが込みあげてきて 顔をしかめて飲み下した。





土曜日に出勤してくる社員はほとんど居ない。仕事に追われた中堅社員かミスをして上司に絞られた新人だけだ。
剣心の部署でも出社してきたのは 剣心と片山の二人だけだった。
片山はそこが定席のように いつも通り部署の片隅の作業場に座り、背中を見せている。
「片山さん、精が出ますね。」
剣心が声を掛けるとやっと振り向き、今気づいたばかりのような表情を作った。
「あっ、緋村、さん。どうもこれが気になってね。」
言いにくそうに敬称を付けるのもいつものことだ。言われた剣心もいつも背中がむず痒くなる。いくら剣心が片山の上司になったからと言って 長年、片山の後輩で居た身としては緋村と呼び捨てにされた方がしっくりと来る。年功序列は廃止だと言っても やはり物事には順序があると思うのだ。
「家で家内の顔を見てるとうるさくってね。ここでコイツを弄ってた方が 気が休まるんですよ。」
そう言って動かす手には ドライバーやら六角レンチやらが握られ、さも忙しげに剣心から視線を逸らす。

つくづく自分には管理職は向いていないと思うのは いつもこんな時だ。
片山は昇進など望んでは居ないようだが、それでも後輩から指示を受けなければいけない立場は 片腹痛いに違いない。 それを思うと剣心の心は いつもずきずきと痛む。
その後ろ姿に気づかれないように ほぅっと溜息を吐き、デスクの引き出しから真っ白な便箋を取り出した。そして滅多と使わない万年筆を手に持ち、一行目に「退職願」と書いた。

あれから色々と考えた。
左之助の言い分は甘すぎる。だが、それに同調し無下に出来ない自分が居た。
自分にしても山中には 特別の思い入れがあるのだ。
あの人の良い経営者を更に困らせ、路頭に迷わせることなど 自分の中の良心が許さない。
左之助には納期を延ばせと言いながら、それを拒絶する態度に 心のどこかで救われていた。左之助への説諭は 自分に対する言い訳でしかない。結局納品書に黙って印を突いたのも 自分の心に従ってのことだ。
自分の預金を差しだしたところで 背任と言う言葉は心の中からは消えない。誰が責めなくても 知っていながら会社を裏切ったことは 自分が一番よく知っている。
そんな甘い考えで この先部署を纏めていくことなど到底出来ないだろう。
そう思うと 責任の取り方は一つしかないように思う。
だが、今すぐ辞めるつもりではない。この顛末を見届ける責務が自分にはあるだろう。だから手形の期日までは 自分の任務を全うするつもりでいる。もし、損失を掛けたならば その時の責任はすべて自分が負えば、左之助への負担も軽くて済むだろう。この先、少し居心地は悪くなるかもしれないが、あの性格ならば苦にすることもなく上手くやっていくだろうと思う。
窓から差し込む明るい日差しの中で ぼうっとそんなことを考えながらペンを動かした。
静かな土曜のオフィスには 片山が時折たてる金属を叩く音と 紙の上を滑るペンの音だけが のどかにこだましていた。


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