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 夕なずむ川の畔に、剣心は懐手にして立っていた。
 沈み行く真夏の太陽は、去り際の惜しむような輝きを川面に放ち、流れに刻まれた水は、魚の鱗のようにちぎれて、ひとつひとつを輝かせ、それが水面からキラキラと反射している。その黄金色の輝きを、剣心は総身に浴びていた。
 剣心の斜め後ろに立つ左之助は、さっきからその姿を、心からの安堵の思いで眺めていた。
 昨日床上げしたばかりの剣心が、夕刻になって、ちょっと外を歩こう、と左之助を誘った。長い間、家の中に閉じこもっていたので、外の空気を吸いたくなったのだと言う。
 準備を整えて階下に降りると、それをめざとく見つけた薫と恵が、まだ早いと引き留めたが、何かあれば左之が負ぶってくれるでござる。心配無用と、左之助を駕籠か馬のように言って出てきた。
 日中は、人も家も溶けるほどの日差しが照りつけていたが、夕刻になって太陽が西に傾くと風が抜け、軒先や往来を彩る打ち水も目にも涼しく、暑さはそれほどでもない。
 日が傾くまで、もう一稼ぎしようと店を開けている小間物屋や、漬物屋を冷やかしながら、ぶらりぶらりと進むうちに、いつしか川の畔まで歩いてきていた。
 日は黄昏れて、目に映る風景を黄金色に変えていた。
 川上からは涼風が吹き、陽の恵を一身に浴び、背筋をぴんと伸ばしているかのような木々の小枝を優しく揺らし、流れゆく水にさわさわと影を落としている。細かくちぎれた鱗は影となり光となって、穏やかに移ろいゆく時を刻んでいる。
 しばらく剣心は、その陽が織りなすいたずらを楽しんでいるかのようだった。
 存分に日光を浴び、その瞳に、暮れゆく京の町や金色に輝く山々を映し、自分を包むおおいなる自然を、肌で感じている風だった。
 それはともすれば、生への主張のようでもあり、生きている証を確かめているようにも感じられた。そして、そんな剣心に満足して、後ろ姿を見つめる左之助の頬から、緩やかな笑みがこぼれた。
 左之助の立つ位置からは、黒い影となっていて、剣心がどんな表情なのかは見えない。だが、胸をそらして二本の足でしっかりと立っている姿には、重症の名残などは微塵もなく、もう気を揉むこともない。束ねた赤毛からこぼれ落ちた髪が、川面の風に吹かれて、金色に輝きながらたなびいている。その頭が、ゆるりと振り向いた。
「お前の声が聞こえたよ」
 唐突に剣心はそう言った。
「えっ? なんのことだ?」
「お前の呼ぶ声が聞こえたんだ。左之。あれは紛れもなく、お前の呼ぶ声だった」
「あれは、って・・・突然、何のことを言ってんだ? いっこうに話が見えねぇぜ。いったい何が言いたいんだ?」
 わけの判らない話を向けられ、左之助はきょとんとした顔を向けるばかりだった。その左之助へと、剣心は頷くように微笑を返して言った。
「あれはきっと冥府への道だったんだろうな」
「あれ・・・・?」
「ああ。夢とも現実ともつかない奇妙なところだった」
剣心はそう言って、長い間、自分が彷徨っていた大地の話を左之助に聞かせた。
「あん? するってぇとお前はあの世に行きかけちまってて、その時に俺の声が聞こえたって、そう言いたいのか?」
「ああ、多分・・・」
 狐狸や迷信の類はおよそ信じないだろう剣心が、いつになく真顔でそう頷いた。
「暗く長い道だった。果てしなく孤独で・・・いつ果てるとも知れないその孤独の中を、ずっと歩き続けていた。そして精も根も枯れ果てて、もう終わらせよう、そう思ってすべてを手放そうとした時に、お前の泣いているような、切ない懸命に呼ぶ声が聞こえたんだ。」
「あん? な、泣いてなんか居ねぇぜ。」
 すぐさま左之助は否定したが、心の動揺が出たのか、本人の知らないうちに、その顔にわずかに赤みが差している。
 それを見て剣心は、そうだろうな、と言って、ゆるりと微笑んだ。
 それは左之助の言い分を信じたような、あるいは自分の推測が当たっていたと確信したような、どちらとも言えない曖昧な笑みだった。
「命を落とすかもしれないことは覚悟の上。お前もそんな生半可な気持ちで、拙者を追いかけてきたわけではあるまい」
「あ、あったりめぇだ」
「だが、それでも・・・このまま旅立ってしまえば、大事な何かを置き去りにしてゆく・・・・お前を泣かせてしまうのだろうと、そう思うと行ってはいけない気がした」
「・・・・・」
「ありがとう。左之」
「れ、礼なんか・・・・言われる筋合いはねぇや。俺は泣いても居ねぇし、呼んでもいねぇ」
「ああ、わかっている」
それが当然だとでも言うように、剣心は大きく頷いた。
「だとしても・・・・今、拙者がこの大地を踏んでいるのは、紛れもなくお前が側にいたから・・・」
「・・・・」
「拙者にこの先、何が出来るかわからないが、どんな時にもお前がくれたこの命、決して無駄にはせぬつもりだ」
「あ、あったりめぇだ!! あんなことが二度や三度有ってたまるかってんだ。 お前が死んじまうんじゃねぇかって、こっちはどんな気持ちで居たと思ってやがんだ」
「やっぱり、泣いてたんだな?」
 左之助の顔を覗き込み、剣心は悪戯っぽい目をクルクル動かして、愉快そうにそう言った。
「な、泣いてなんかいねぇって言ってるだろ!」
「いや、泣いていた、泣いていた」
 左之助は握りしめた拳を突きだして、かたくなに言い張ったが、剣心の大きな目で見つめられると頬が上気して、目を逸らせてしまった。
 それを見て、また剣心が高らかに笑った。
「だからぁ! 泣いてねぇって!!!」
 いつのまにか山々にかかっていた日は落ち、遠くに見える寺の塔や山の端を赤く染め、その夕日が、二人の肩まで伸びていた。
 長い影法師を作りながら、左之助のムキになる声が、夕なずむ河原一帯に大きく響いていた。



                                      了 2007.6