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 目に映る景色はまた一変していた。
 剣心は、今、山の中を歩いている。
 月も星もなく、深黒な夜道だが、鬱蒼とした森の輪郭だけが、ぼんやりとしている。
 脇にある谷は底が見えず、地の果てまでも、すべてを呑み込むかのように口を開いている。
 その不気味さを覆い隠すように、白い霧がわずかずつ形を変えながら、そこに渦巻いている。
 そして森は、耳の奥が痛くなるほどの静けさで覆われていた。

 晦冥にして人っ子ひとり居ない漆黒の道。
 ここへ来るまでのわずかばかり前に、険しい山を登ったことは覚えている。
 どのようにしてそこまで辿り着いたのかは、いつものごとくわからない。
 気がつけば、そこに居る自分を見いだしていた。

 眼前の山は、人を拒むように腹をせり出していた。
 突き立つ山を見つめながら、誰に示唆されたわけでもないのに、登ることが自分の使命だと思われた。
 木の一本もなく、雑草の欠片さえもない岩山だった。
 堅い岩盤には瓦斯の抜けた後か、無数の穴が空き、トゲのようにそれが突き立っていた。
 少しの足場を捜し、岩肌に手を掛け、這うようにして登り詰めた。
 そして、頂上とおぼしき岩に手を掛け、頭を持ち上げると、そこには深い森が広がっていた。
 今、その山道を辿っている。

 どこへ、といいうあてもなく、
 どこに、という目的もない。
 ただ、目の前に道があるから、歩いているに過ぎない。

 道はどこへ続いているのか、ゆるやかな勾配を描いて曲がりくねっている。
 その先は見えないが、谷を挟んで見える対面にある道に、おそらく続いているのだろう。
 その道を、今、重い足取りで一歩一歩、進んでいる。
 闇の中に孤独であることには変わりはなく、深い疲労も、傷ついた身体も、変わらず自分のものだった。

 と、

 シャラン、シャラン、シャラン・・・・

 聞き覚えのある錫杖の音が響いてきた。
 姿は見えないが、音はわずかずつ、近づきつつある。

 シャラン、シャラン・・・

 やがてそれは、対面にある道の深い森の中から姿を現した。
 霧の中で見たように、同じく一人の雲水が、幾人もの行者を従えている。
 雲水達は前よりも近くにいて、その出で立ちさえも今度は剣心の目にもはっきりと映る。
 黒い衣を纏った雲水が、一足ごとに錫杖を振り、顔はまっすぐに前を向き、どこから響くとも知れない読響の声を上げている。
 従う行者達は、白い装束に鈴を持ち、足下は脚絆に草鞋履きで、しっかりとした旅の姿を装っている。その繰り出される足は細く、たおやかな線を描いていることで、行者達はすべて女だということが判る。雲水の経に合わせ、鈴を一振りしながら、足下だけを見つめて歩を進めている。
 それらが、一軍の団体となって、霧の中から浮き出たようにしずしずと進んでいる。


「もし! もし! 頼もう!」
 剣心は叫んだ。
 だが、雲水は振り向きもせず、読響を続けている。
 それに続く女達もチャリン、と鈴を振るだけだ。

「もし! 旅の御坊! お願いでござる! もし!」

 あらん限りの叫び声を上げた。
 だが雲水には耳がないがごとく、前を見つめたままで、読響の声を上げながら通り過ぎてゆく。
 また、女達も誰一人として振り向こうともしない。
 決まった様に歩を進め、その先の森の中へと消えようとしている。。
 剣心は必死に叫んだ。

「もし! もし! お願いでござる!」

 と、その時、最後を歩いていた女が、森の中へと姿を隠す間際に振り向いた。
 静かに首を回し、誰かの呼びかけに応えるように、こちらを伺った。だが、その目には何も映しておらず、また静かに首を戻し、前の行者に従って歩き出した。
 その顔を見た途端、剣心はその場で凍り付いた。

 ―――ともえ・・・・・・・

 総身に冷や水を浴びせられたようにも感じ、記憶のない脳裏に、なぜかその名前が浮かんだ。
 指一本動かせず、息を呑んで白い後ろ姿を見送った。
 行者達の姿がほぼ隠れようとするとき、呪縛から解き放たれたように剣心は走った。
 何が自分を追い立てているのかはわからなかった。
 ただ、追いつくためだけに必死に駈けた。
 が・・・
 突然、足が宙に浮いた。
 踏みしめていたはずの地面はそこにはなく、身体は深い谷の上に浮いていた。
 視界のはっきりせぬ闇に、道を踏み外していた。
 このまま深淵へと落ちて行くのかと思われたとき、手に何かが触れ、腕を伸ばしてそれを必死に掴んだ。
 谷を築いている一本の枯れ木のようだった。
 足下には蠢く霧が、深淵の中へと誘うように、舌を伸ばしている。
 そこから逃れようとするが、腕に力はなく、おのが身体を持ち上げることは出来ない。
 ただ、頼りなく腕一本で、そこにぶら下がっているのみだ。
 この孤独の空間で助けなど来るわけはなく、時間は無為に過ぎてゆく。
 やがて腕が痺れ、とてつもなく自分の体重が重く感じられだした。

 これで、終わりかと思った。
 このまま手を離せば、もう疲れた身体を引きずることもなく、孤独に苛まれることもない。
 身体は深淵へと落ちて行き、足下に揺らめく霧の一部となって、無に帰する。
 もう何ものにも囚われることはない。
 後はこの手を、いつ離すかだけだと思った。
 深く底のない谷は、耐え難い誘惑で剣心を誘っている。
 その霧を見つめ、抗っていた指を外そうとしたときだった。
 誰かの呼ぶ声が聞こえてきた。
 それは「剣心」と呼び、「剣心」なるものを必死に呼ぶ声だった。

「剣心・・・」
 その名前が誰のものであるのかわからなかった。
 だが、必死に呼ぶ声は切なく、哀愁を帯びている。
 もの悲しく呼ぶ声が、霧の中からとも頭上の崖からとも受けとれ、どこから響くのか確としない。
 だが、声は次第に大きくなり、この谷の中に反響しては木霊する。
 その声は、なぜか懐かしく、心に染み通るように思われた。
 一片の想い出すらない記憶を辿り、忘れた記憶を取り戻そうとするが、そうすると記憶は遠のき、もどかしく胸元を通り過ぎてゆく。
 声はいよいよ大きくなってきた。
 それは泣いているようにも聞こえ、剣心の胸を苦しくする。
 ほろ苦く、息苦しく、それでいて甘い感傷をもたらす。

 ―――この声を、自分は知っている・・・・・

 朧気に浮かんだ記憶が、そう確かに自分に言っていた。
 剣心はその声に酔うともなく、その声の持つ懐かしさに身を任せ、心を漂わせていた。
 剣心とは、どこの誰かもわからないが、その悲しげな声に、なぜか自分は、この谷底へと落ちてはいけないのだという気がした。
 だが、腕の痺れはいよいよ激しく、その感覚すらも、最早ない。
 指は一本ずつ離れ、人差し指と中指が頼りなく枝を掴んでいるばかりだ。
 このまま何も思い出せず、この身を無にするのか、と諦めかけた時、誰かの大きな太い腕が、名前を呼びながら、自分の腕をがっしりと掴むのを感じた。
「剣心!!」
 そう呼ぶ声を聞きながら、ああ、それは自分の名前だったんだと、薄れる記憶の中で微かに思った。


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