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 目覚めたときには左之助は、自分が眠っていたことに気づかないでいた。
 ぼんやりと焦点の合わない目に、黒い大きな瞳が、ぶしつけに左之助を覗き込んでいるのが映っていた。その目に驚いて大きく目を見開いた途端に、見覚えのある少年の顔が笑み崩れた。
「やっと目が覚めたか。もう夕刻だぜ」
「あん・・・? 俺は眠っちまってたのか・・・?」
「眠っちまってたなんてもんじゃねぇぜ。まるで死人みたいにピクリとも動かねぇで、本当に死んじまったんじゃねぇかって心配したぜ」
 そう言って嬉しそうに笑った。心配したという割には、鬼の霍乱とでも言いたげな皮肉が、笑い声の中に含まれている。だが、目は気遣わしげに左之助を映しているところを見ると、あながち嘘でもないようだ。
 弥彦の皮肉に反撃を加えようと身体を起こしかけて、左之助は体中の痛みにうっと呻いた。
「起きちゃいけねぇって。医者が三日は絶対に安静にしてろってさ」
「三日ぁ? バカ言うな。俺の売りは打たれ強さだぜ? こんくらいの傷、どうってこたぁねぇ」
「お前はそうでも、内蔵はそうでもないらしいぜ。医者が言うには何度も打たれた所為で、内蔵がかなり腫れ上がってるらしい。動くと、いつその腫れが破れるかわかんねぇって。そうなったらマジに命が危ないらしいぜ?」
「あん? 脅かすなよ」
「だからしばらくは、布団の中でじっとしてろってさ。薫にお前の世話係を言いつけられたんだけど、この弥彦様が世話をしてやるんだ。ありがたく思えよ」
「けっ。誰がお前の世話なんかに・・・」
 そうは言っても、ほんの少し身体を動かすだけで、小指の先まで痛みが走る。これはマジに弥彦の世話になるしかねぇかと、諦めにも似たため息が心中に洩れる。
「俺が赤ん坊にやるみたいに、お前に食わせてやれってさ。その様子じゃ厠にも行けねぇしな。赤ん坊ついでにちょうどいいや。なんならおしめでもあてとくか?」
 日頃の喧嘩相手が手も足も出ないのが嬉しそうで、鬼の首でも取ったかのように、勝ち誇った声で笑った。
 だが、そう言う弥彦も左之助の隣に敷いた布団に伏せっていたらしい。そこから這いだして左之助に憎まれ口をきいている。
「そう言うお前の怪我はどうなんでぇ?」
「俺はお前と違って若いからな。今日一日寝てたら大丈夫だろうってさ」
 若い、を特に強調する弥彦が小憎らしくもあったが、左之助の世話を言いつけられて嬉々としている様子に、不思議と腹は立たなかった。
「おいっ、それよか剣心はどうなんでぇ?」
 ハッキリと目覚めた頭には、弥彦への反撃よりも先ほどから気になっていた剣心の様子が知りたい。
「うん・・・ずっとあの調子だぜ・・・・」
 左之助を通り越してその向こうへと視線を送った弥彦の浮かない表情に、その時になって初めて左之助は、自分を挟んで反対側に剣心が寝ていることを悟った。
 そっと首を回してみると、そこには死人のように青ざめた剣心の寝顔があった。
「意識はまだ戻んねぇのか?」
「うん、全然・・・・ずっと静かに眠り続けてる・・・」
「そっか・・・」
 弥彦の言い方だと昨夜からの様子に変わりはないらしい。良くもない代わりに悪くもないと言うことだろうと、小さなため息をついて左之助は自分を納得させた。
「なぁ・・・剣心、助かるよな? 死ぬなんてコトねぇよな?」
 今にも泣き出しそうな表情で、弥彦は左之助にすがるような視線を送ってきた。
 日頃ませた口をきいていても、年端のいかない子供には、この現実は重すぎて受け止めかねているらしい。
 親とも兄とも頼む剣心の容態を、心から気遣っている様子には、身内を心配する情愛が込められている。頼りとする男二人が、揃って死人のように眠っているのでは、さぞかし心細かったことだろう。それで左之助の顔を覗き込んでいたのかと納得すると、憎まれ口も安心感の反動で、冗談めかした心配も弥彦の本音だったのだろうと思い当たった。
「あったりめぇじゃねぇか! こんくらいでくたばるような剣心じゃねぇって。
 俺が何のために必死でここまで連れ帰ったと思っていやがんだ。こんくらいのことでくたばるようなら、そん時にゃ、俺があの世まで行って剣心をぶちのめしてやらぁ。そんで連れ帰ってやっからよ、だから心配すんなって」
「うん。そうだよな。頼んだぜ」
 泣き笑いのような表情で、弥彦は大きく頷いた。
 人の生死に関わるような運命などは、誰がどうあがこうとどうにもならないことは、早くに両親を亡くした弥彦には、充分過ぎるほどわかっている。だが、それでもこのいじらしい少年が抱いている不安な気持ちを、少しでも軽くしてやりたいと思ったし、事実、肉親にも似た左之助の言葉は、弥彦を元気づけるのに、少しは役だったことだろうとも思う。そしてなにより、左之助自身も半ば本気でそう思った。

 ―――冗談じゃねぇ。コイツがこのままくたばるわけはねぇんだ。くたばらせてたまるかよ!

 さりとて今の自分に何が出来るわけでもない。だが、目を離さずに剣心を看ていれば、自分の目の届くうちに、剣心が息を引き取るようなことは断じてあるまいと思えてくるし、そう願い続けていれば、きっと思いは届くはずだと、日頃の無信心も忘れて、どの神にというでもなくそう思う。そして、その願望は本気で信じる事に値する気がしたし、強く思うことで、自身の不安な気持ちを追い払いたかった。それは昨日からずっとそう思い続けていたことだ。
 だから加療の後、医者がすぐに横になって休むように言ったときも、自分は大丈夫だと言い張り、夜を徹してそのまま看病する気で居た。剣心の目が覚めるまで、何日不眠不休になろうとも、やり通す覚悟で居たのだ。
 そんな左之助を、薫をはじめ周りの人々は心配し、口々に諭しはしたが、頑として聞き入れなかった。周りは本気で怒ったり呆れもしたが、そのうちに諦めて、薫の、なら好きにすればいいわ、と言う言葉と深いため息を最後に、みんな口をつぐんだ。
 それから暫くして、しばし席を外していた翁と湯飲みを持った医者が部屋に戻ってきたと思うと、それでは元気が出るからこれを飲むようにと、薬湯の入った湯飲みを左之助は勧められた。それは葛湯か何かと思われた。
 どろっとした液体が口の中でほろ苦く、そして甘みを帯びて広がった。ほどよく人肌に温められたそれは、医者の言葉の所為か、疲れた身体をささやかではあるが、癒してくれるような気さえしたのだ。だが、それから後、十分と経たないうちに記憶は消えている。
 ―――あの医者、一服盛りやがったな・・・
 自分が意識無く眠り込んでいた事態が、そこまで思い出したときにようやく呑みこめた。
 ―――それにしても・・・・・・
 先ほどから目に映る部屋の様子が昨夜とはずいぶん違う。畳を通して、階下から絶えず聞こえてくる賑やかに談笑する声や、時々高らかに笑う声は、相当数の客のもので、宴会でも催しているのか、醤油を煮詰めたような慣れ親しんだ臭いがする。存外、葵屋の被害は自分の思ったよりも小さかったのかも知れないと思った。
「なんかえれぇ賑やかだな。人を集めて牛鍋でもやってんのか?」
 鼻を鳴らして間延びした左之助の問いかけに、弥彦はなぜか声を上げて笑い出した。
「ここは白べこだぜ。白べこの二階。だから牛鍋の臭いがすんのは当然だろ」
「はぁ? 白べこぉ!? なんで・・・? 俺が帰り着いたのは葵屋だぜ? いつのまに・・・」
 狐につままれたような顔をしている左之助を見て、弥彦は更に笑い出した。
「やっぱりお前、何にも気づいてなかったんだ」
 笑い転げた弥彦は、ああ可笑しいと、目尻に浮かんだ涙まで拭き取って、左之助を見つめている。
「やい、弥彦! いったい何がそんなに可笑しいのかちゃんと説明しやがれ」
 左之助は、意味もわからず笑われる弥彦の態度に向っ腹が立って、声を荒げた。
「んじゃ、説明すっけど、怒んなよ。実はだなぁ・・・」
 笑い声を呑み込むための、えへんと咳払いをして、もったいをつけてから弥彦は話し始めた。
 弥彦の説明によると、葵屋の惨事を聞きつけた冴が、昨夜遅くに訪ねてきて、ぜひ白べこの二階を使ってくれるようにと勧めてくれたのだそうだ。崩壊した葵屋にそのまま怪我人を寝かせるわけにもいかず、これからの思案をしていたところなので、渡りに船とばかりに夜が明けたら移ることに決めたのだという。そこで剣心は仕方ないにしても、左之助をどうするかでみんなで議論が行われた。目覚めるまで待てば、きっと左之助はどんなに言おうと自らの足で歩いてゆくだろう。それはそれでまた大儀だから、ここはひとつ寝ている間に、戸板に乗せて運んでしまえと大方の意見はすぐに纏まった。そこで夜が明けきってから白尉と黒尉、それに近隣の若者達の手を借りて、一番に左之助を戸板に乗せて白べこまで運ぶことになったが、途中で葵屋や白べこを知る人達に何人も出くわしたそうだ。驚いて理由を知りたがる人々に、最初のうちは事細かに説明していたものの、それが何度も繰り返され、数が増えるごとにだんだんと煩わしくなり、そのうちに付いてくるに任せるようになった。事情を知らない人々は勝手に想像し、噂をしあった。中には葵屋の惨事を知る者も居たので、それらの人たちが、わけしり顔で話し出し、噂が噂を呼んで、行列はだんだんと長くなっていった。何人もの人間が、運ばれる左之助の後をゾロゾロと付いて来て、また、その行列を見て途中から加わったばあさんなんかは、お経まで唱えだした。そうなるともう立派な弔いだ。町役はお悔やみを言いに来るし、町内からは香典まで持ってこられたと言うのだ。それだけ葵屋も白べこも贔屓の客が大勢いて、町のみんなからも慕われているということだろう。 そして極めつけは白べこの階段を登るときに、斜めになった左之助の身体がずり落ちそうになって、戸板から足や手がはみ出した。それを見た途端に、ばあさん達がこぞって南無阿弥陀仏と大合唱をしたのだという。その声に驚いたのかどうかタイミング良く左之助が、ううんと唸ったものだから、仏が生き返ったと叫ぶ者もいれば、仏を疎略に扱うから早速化けて出たのだと喚く者も居て、上へ下への大騒ぎだったのだそうだ。
「誰が手配したのか知らねぇけど、坊主まで来たのには参ったぜ。お前、危うく野辺送りになるところだったんだぞ」
 何度も目に溜まった涙を拭きながら、弥彦は大笑いをしている。そして、もっとも俺は自分の足で歩いてきたけどな、と、余計な一言まで添えて、更に高らかな笑い声を上げた。
 先ほどの弥彦の言う「まるで死人みたい」は、本当に仏にされかけたのだということか。
 自分の知らない間の出来事とはいえ、そんな格好の悪いことになっていたとはと、左之助は反論する言葉もない。そして、一服盛った医者を、ことさら恨む気持ちになった。
 そんな話をしているうちに、襖の向こうに足音が響き、元気いっぱいの様子の操が顔を見せた。
 弥彦が今朝のいきさつを説明していたところだと言うと、また一緒に笑い転げ、一通り笑ったところで急に殊勝な顔つきになって、剣心の様子を覗き込んだ。
「緋村、まだ意識が戻んないね・・・・」
「ああ、あれだけの出血だったからな・・・もうちょっとかかるんじゃねぇか?」
「うん、そうだね。玄庵先生もそう言ってたし・・・薫さんもみんなも心配してるんだから、緋村には早く元気になってもらわなくっちゃね・・・」
 昨夜から一睡もせずにみんなの看病に当たっていた薫は、今は別室で仮眠を取っていると操が告げた。
「心配要らないわよ。薫さんが眠っている間は、この操様がちゃーんとあんた達の面倒は見てあげるからね」
 そう言って操は、ポンと一つ胸を叩いて笑顔を見せた。
「お前もあっちへ行って寝てろよ。そう枕元でギャーギャー騒がれると、うるさくっておちおち寝てられやしねぇ」
「なんですって!」
 お子様二人は元気が有り余っている様子で、放っておけばこのままここで取っ組み合いでもしかねない有様だ。
「おいっ、おめぇら! 剣心が寝てるんだぜ。ちったぁ静かにしろよ」
 見かねた左之助が声を掛けると、二人は顔を見合わせて押し黙り、ひそひそと囁き合った。
「また後で様子を見に来るからね」
 操はバツが悪そうに、早々に部屋を引き上げていった。

 その日の夜もまた寝ずに看病をするという薫に、その身を案じて左之助は、夜は眠るように言った。だが薫は、自分だけが無傷なのだからと、左之助はまだ動けないだの、弥彦はお子様だから先に寝てしまうだのと色々と理由を述べ立て、なかなか腰を上げようとはしない。それを左之助と弥彦で様々に言って説得し、最後には左之助が、今はそれぞれが出来ることを考え、それを分担して剣心の回復を待つべきだろうとおさめ、嬢ちゃんが倒れて、それで剣心が喜ぶのかいとの一言で、ようやく薫は自室に引き上げていった。

 左之助は暗い部屋で、隣の剣心をじっと見つめていた。そして時折手を伸ばし、剣心の息を確かめる。それが終わるとまた目を凝らし、影になった横顔を眺め続けた。
 寝ているだけしかできない自分に出来ることと言えば、夜を徹して剣心を見守るぐらいだ。不覚にも一服盛られた事を除けば、最初から眠る気などさらさらない。どうせ昼間は誰かが看護についているだろう。その間に仮眠を取ればいい。そう考えて左之助は、夜の時間を引き受けていた。
 一緒に起きて看護をすると言い張っていた弥彦は、行灯の油が燃え尽きるとすやすやと寝息を立て始め、とうの昔に白河夜船だ。夢を見ているのか何か寝言を言っている。そのあどけない声を聞いていると、とにかくも自分達が帰り着いた実感が、しみじみと胸に湧いてくる。
 薫や弥彦の笑顔、気心の知れた屈託のない会話。それらが醸し出す温かい空気。
 すべてが湯水のように心の中へと浸透してくる。
 そして、一人だけ足りない声に、また不安と淋しさをかきたてられた。

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