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「やめろ! やめてくれ!! 死ぬな。剣心、死ぬなーー!!」
 あらん限りの自分の叫び声で、左之助はふと我に返った。
 まどろんだとも思えぬ浅い眠りの中で、夢を見ていたらしい。
 夜明けが近いのか、うっすらとした明かりが雨戸の隙間から部屋の中に漂っている。夜半まで降り続いていた雨もようやく上がったのか、絶えず聞こえていた軒を打ち付ける雨音も、今は止んでいた。
 ―――それにしても嫌な夢を見たもんだ・・・
 今しがた見た夢の所為で、背中はびっしょりと汗で濡れている。 トクトクと打つ動悸が重苦しく、息苦しい。心臓を鷲づかみにされたような感覚に、重い圧迫を取り除こうと左之助は深く息を吸った。そして今見た夢を思い出して、またぞくりと背中を震わせた。
 それは数人の侍達が斬り合いをしていた。一人の侍を数人がかりで取り囲み、右から左から斬りたててゆく。斬り込まれた侍は身を躍らせ、ひらりひらりと躱しながら果敢にも斬り伏せてゆく。だが、斬られた侍達は様々に姿を変え、その都度立ち上がって、またあらたに斬り込んでゆく。その際限なく続く攻撃に、次第に真ん中で身を躍らせていた侍の情勢が不利になってゆき、無数の手傷を負い始めた。その軍団へと左之助は近づいて助勢に入りたいのだが、自分が追いかければその一軍はその分だけ遠のき、駈けても駈けても近づけない。手傷を負った侍の顔はぼんやりとしていて見えないのだが、中空に舞う赤毛が、交わる刃の光を受けて、時折鮮やかな赤を見せ、それが剣心だということがわかっている。このままでは剣心が斬られてしまうと左之助は焦るのだが、追いかけるほどに一軍は遠のき、ついには小指の大きさほどにしか見えなくなってしまう。やがてその輪の中で、剣心がなますのように斬られはじめた。左之助は逃げろと必死に叫ぶのだが、剣心は赤い 飛沫 しぶき をまき散らしながら、それでも敵の中へと飛び込んでゆく。そしてついに力尽きて膝をつき、緩慢な動作で 刀を振り回しているだけの剣心へと、敵の刃が殺到してゆく。その中の一本が月光を浴びて、青白い不気味な色を放ち、情け容赦なく振り下ろされた。
 
 左之助は額に浮かんだ汗を拭った。なぜそんな夢を見たかは、わかっている。夕刻に聞いた翁の言葉が、抜けないトゲのように左之助の胸を苛んでいる。 この数日間、剣心の様子に何も変わりがないことに、次第に安心感を募らせていた。薫も弥彦も暗い翳を落としていることは確かだが、次第にこの状況に慣れ、始めの時ほど緊張の糸に縛られては居ない。それは誰もが山をのりきったと、明るい希望を抱いているからに他ならない。自分も総じてそうだった。翁の言葉を聞くまでは・・・・
 剣心の脈が弱いと聞いて、寝ている剣心の布団を引っぺがし、すぐにも全身を撫でさすりたいような衝動に駆られた。一心不乱に撫でて、少しでも血脈を確かなものにしたいと思った。
 剣心の死というものを、あの山を下りていたときのようにもう一度自分の前に突きつけられて、言葉もなくうろたえ凍り付いた。

 ―――今の自分が剣心にいったい何をしてやれるのだろう。このまま、ただここで死ぬかもしれない剣心を、黙って見つめているしかないのだろうか・・・・

 そう思うと歯ぎしりするほどの思いに駆られ、瞼の裏が熱くなる。
 そしてそれ以前にも、自分は剣心にいったい何をしてやれたのだろうかと思う。
 お前の力になってやると斎藤の前でも豪語した自分は、いったいどれぐらいの力を発揮できたというのか・・・・
 志々雄の力は自分の予想を遙かに超えていて、剣心にもしもの事があれば、この自分が最後には救ってやれると、本気で思っていた考えの何と甘かったことか。実際には志々雄の言った「いかんともしがたい実力の差」の壁が頑然と立ち塞がっていて、自分はいとも簡単に叩きのめされたに過ぎない。志々雄だけでなく蒼紫にしろ、宗次郎にしろ、剣心が闘った相手の誰一人に、自分は勝利を収めることが出来たのかと思う。斎藤や蒼紫の歯が立たなかった志々雄を前にして、今こうしてここで寝そべっていることが出来るのは、剣心が居たからにしか他ならない。
 護ってやるつもりが、結局の所は護られるしかなかった自分の不甲斐なさが腹立たしく、情けない。ひよっこと言われても仕方がないのだ。
 この数日間、努めて考えまいとしていた思いが、嫌な夢の所為で、一気に左之助の頭の中を駆け巡ってゆく。そして、とめどもなく心を翻弄していた。

 視線を落とした先にある剣心の透き通るような白い顔。
 今、目の前で眠っている剣心は、頬が削げ、肉を落としたその身体は、一回りも小さく感じられて、かげろうのように儚く思える。
 力なく横たえている剣心の手を取ると、左之助はそっと自分の頬に当てた。
 この数日間ですっかり肉の削げ落ちた剣心の手は、骨が浮き出ていて細く頼りない。この小さな手で逆刃刀を振るい、左之助を、延いては自分の信念を、この国を護り通した。自分の肉を斬り刻み、無数に刻まれたあの傷のひとつひとつが、その代償として支払われていったのだ。
 何故そこまでして立ち向かってゆくのか、そしていままで立ち向かってきたのか・・・
 ずっとそうしてこの小さな身体の身を削り、重荷を一身に背負って生きてきた剣心が、その人生が、憐れで悲しかった。そしてそんな剣心を助けてやれなかった自分の無力さが、たまらなく辛かった。
 ―――死ぬな。頼む、死なないでくれ・・・・
 心からの叫びを、そう何度も何度も繰り返していた。
 いつしか左之助の目には涙が溢れ、頬を伝い、それが剣心の細く白い手を濡らしていた。

 どれほどそうしていたのだろう。
「お前・・だったんだな・・・・・」
 剣心のそう言う声が聞こえたと思った。いや、確かにこの耳で聞いた。それは蚊がなくほどの微かな声だったが、音として左之助の鼓膜に響いたのだ。驚いて剣心の顔を見たが、だが、唇は依然として固く閉じられている。
「剣心。剣心! 気がついたのか? おいっ! 剣心!」
 何度も名前を呼び、頬を軽く叩いてもみたが、剣心の唇は動く気配すら見せない。先ほどと変わらず、微かな寝息をたてているだけだ。 変わりなく静かに眠っている剣心を見ると、あれは空耳だったのだろうかと、霧散して溶けていった泡のように、自分の記憶が頼りなく思えてくる。
「なぁ、剣心・・・お前、最後の別れを言いに来たんじゃねぇよな・・・もうこれっきりなんて事はねぇよな・・・・・もう一度元気になって、俺や嬢ちゃんや弥彦の側にいてくれるよな・・・
 この手で俺に触れて、笑って、闘って・・・そしてまた色んな話を一緒に出来るよな・・・
 なぁ、剣心・・・・・そうだと言ってくれよ・・・・・その目を開けてそうだって言ってくれよ・・・なぁ・・・」
 再び手に取った剣心の手は温かく、左之助の涙の所為かしっとりと湿り気を帯びている。頬に当てると薄い皮膚を通して、確かな命の脈打つ音が、微かに左之助の耳へと伝わってくる。
 この音が消えることがないように、永遠に止まることがないようにと、切れかけた糸を繋ぎ止めるように、細い指を握りしめた。


 夜が明けきるまではそうしていたが、ふたたび剣心の声を聞くことはなかった。
 薄暗い部屋の輪郭がハッキリしてくると、雨戸の繰る音や店を開ける音が聞こえ、次第に往来に人が溢れ出す。その行き交う人々が頻繁に挨拶を交わす頃になると、いつものように薫と弥彦が朝食を下げてこの部屋へとやって来た。
 目が赤いと、訝しむような視線を薫は左之助に投げかけたが、雨の所為か蒸し暑くて眠れなかったのだと言い訳をした。
 剣心の声を聞いたとは、伝える気持ちはなかった。
 あれから何度か呼びかけてみたが、剣心は全く何の反応も示さなかった。こうして夜が明けてしまい、普段と変わらぬ日常がやってくると、剣心の声を聞いたことさえも、あの夢の一連の続きだったのかと思えてくる。半端なことを言って、心配する薫や弥彦にはかない期待を持たせたくはないし、あるいは自分が思ったような、心が翳るような心配もさせたくはない。常と変わらぬ素振りで明るい顔を見せていれば、それにつられて、薫や弥彦の重荷も少しは軽くなるのではないかと思う。
 布団の上に起き直った左之助の前に、薫が朝食の乗った膳を置き、左手しか使えない左之助のために、匙でも掬いやすいようにと小魚の骨を外す。身も細かく取り分けたところで、さぁ、召し上がれと言った。
 左手で使う匙にもかなり慣れ、食事もずいぶんはかどるようになった。自分の回復を思えば、遅々として進まない剣心の容態が、歯がゆく思われる。
 薫はいつものように剣心の額に当てた手ぬぐいを絞りなおし、弥彦は濡れた手ぬぐいで身体を拭き始める。とは言っても、身体中の至る所が巻かれた包帯だらけなのだから、拭くところは自然と足とか手に限られてくる。そのやせ細った身体を小さな手が、この上もなく大切なもののように丁寧に拭ってゆく様は、何が出来るでもなく、今自分に出来る事の中で与えられた精一杯の看護であり、思いやりであろう。それを見れば、どれだけ弥彦が剣心を慕い、その回復を望んでいるかは、自ずと知れてくる。
 弥彦が拭う剣心の筋肉の落ちた腕を、薫は先ほどからじっと見つめている。
「剣心、痩せちゃったね・・・・」
 暗い表情の少女の顔を、ちらっと目の端に止めて、口の中へ入れたばかりの 香香 こうこう をことさら音高くかみ砕く。そして飯を口の中一杯に頬張る素振りを見せて、左之助がさも当たり前のようにそれに答えた。
「ああ、喰わずに寝てばっかだからな。だいたいコイツは普段から食が細くていけねぇや。俺みたいにしっかり喰わねぇから、そんなにちっこいんじゃねぇのか?」
 その左之助を振り向き、下から睨み上げて、狙い通りにすぐさま薫は反撃の声を上げた。
「あんたのは食い過ぎ!って言うのよ。あれだけの怪我をした後に、目が覚めたら腹減った、腹減ったって、何杯お粥をお代わりしたと思ってんのよ」
「十六杯だぜ」
 横からすかさず弥彦が口を挟んだ。
「まぁ、弥彦、数えていたの?」
「ああ。だって俺が何度もよそってやったんだからな。日頃からよく喰うヤツだとは思ってたけど、さすがの俺も呆れたぜ」
「んな驚くほどのことかよ。だいたいなぁ、あれが粥って言えるのかよ。飯粒なんざほとんど入ってねぇで、汁ばっかりじゃねぇか。あんなんじゃ、何杯食っても腹の足しにもなりゃしねぇ」
「だって、玄庵先生が左之助の内臓は傷ついているから、お腹に優しいものしかだめだって言うんだもの」
「ちぇっ、あの藪医者め。言うことがことごとく勘にさわるぜ」
「あら、玄庵先生はいいお医者様よ。左之助だってこうして憎まれ口を言えるぐらい元気になったんですからね。それもこれも玄庵先生のいいつけを守ればこそじゃないの。お陰でそうやってちゃんとした食事も出来るようになったんだから。感謝しなさいよ」
「へぃへぃ」
 連日、男達の面倒を見て、すっかり姉さん気取りになった薫の小言に閉口して、左之助は口を閉じた。
 薫はまだ何か言いたげだったが、茶碗に視線を戻して、又がっつき始めた左之助を見ると、もう左之助の相手はせず、代わりに弥彦の肘をつついて、今朝は何杯食べると思う?などと、クスクスと笑っている。五杯、六杯、七杯と数が上がるごとに二人の忍び笑いは声が高くなり、ゲラゲラと笑い出している。その様を横目で睨んで、わざと仏頂面を作って飯をかき込みながら、
―――それでいい、その方がいい。
 と思う。
 薫も弥彦も始めの方こそ無理をして、元気な様子を見せていたが、根雪が融けるように徐々に本来の明るさを取り戻している。ここで三人揃って暗い顔をつきあわせているよりは、こうして自分達が明るく過ごしていることの方が、誰よりも剣心自身が一番喜ぶのではないかと思う。そうして待っていれば、この重い空気の部屋にもいつか日差しが当たり、春の訪れがやって来ることもあるだろう。
 左之助は残り一口になった飯をかき込んで、ことさら大きな声で「おかわり」と言った。

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