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 心配していた雨は、一日降っただけで上がり、替わりにむせるような熱を運んできた。雲は去りきらないで、霞んだようなぼぅっとした日差しが町に漂っている。
 昼には到着すると聞いていた恵は、その日の午後遅くになってから白べこの暖簾をくぐった。  京都駅までは薫と弥彦が出迎えに行っていたが、昼になって薫だけが一足先に戻ってきた。左之助が、どうしたのかと訊ねると、弥彦は恵を案内していると言う。着いた早々呑気に京都見物かと思ったら、途上、二人から剣心の様子を聞いた恵は、その足でまず玄庵の医院へと足を運んでいるらしい。さすがにしっかりしてやがるぜ、と左之助は言い、いつもはボロクソに言って、喧嘩ばっかりしているクセに、と薫に笑われた。
 くすんだような蒸し暑い空気を団扇で払いながら、恵の到着を待って何度か窓から往来を眺めて過ごしていると、階下で賑やかに出迎える声が聞こえ、ついでその集団が階段を登ってくる気配がした。やっとお出ましかと思う間もなく襖の向こうに数人の足音が聞こえ、続いて華やかな笑顔が、襖を開いて顔を見せた。恵は両手いっぱいに荷物を持ち、弥彦にも数種類の紙袋を持たせていた。
「おう!女狐。遠いところ遠方からわざわざご苦労さん」
 布団の上に座ったままで片手を上げる左之助を、恵は口の端を歪めて睨んだ。
「誰が女狐よ! それが遠路はるばる診に来てやった医者に対して言う言葉? まぁ、いいわ。それより思ったより元気そうね。まぁ、あんたの場合は殺したって死ぬタマじゃないけど」
「ちぇっ、何言ってやがんだ。こっちは本当に死にかけたんだぞ」
「本当に死にかけたかどうかは、後でちゃんと診てあげるわ。覚悟しときなさいね」
 恵はふふんと鼻で笑い、それで左之助との再会の挨拶を終わらせた。
「それよりも剣さんのことよ」
 そう言うと、恵は駆け寄るように左之助と剣心の布団の間に割り込み、剣心の枕元に座った。そして弥彦に指示し、持ってきた荷物の中から、様々な医療道具を取り出させると、剣心の胸を開いて診察を始めた。
 固唾を呑んで全員が、恵の手元を見守る。
 玄庵が決して劣る医者だと思っているわけではないが、やはり気心の知れている恵の方が、皆の信頼も厚い。何より剣心を助けようという意志は、どんな医者よりも強いだろうと思う信頼感が、誰の顔にも溢れている。期待と緊張感で部屋の空気はぴんと張りつめていた。
 一通りの診察を終え、ふぅと恵がため息をついた。
「どうなの? 恵さん。剣心の容態は・・・・」
 切迫した表情で訊ねる薫に、ふわりとした笑みを零した。大輪の花が咲いたような、その笑顔が頼もしい。
「意識が戻るまでは安心は出来ないけど、でも大丈夫よ。剣さんの息があるうちは、どんなことをしても助けて見せます。そのためにこうして来たんだから。だから安心しなさい」
 薫の表情がくしゃりと崩れた。
「さっすが、恵だぜ。これで剣心も一安心だな」
 弥彦も満面の笑みを浮かべた。
 だが、左之助だけは腕を組んで、黙念と恵の背中を見つめていた。
 降ったり止んだりを繰り返す外の梅雨空のように、笑顔は見せていても、どこか怪しげな翳を刷いていた薫と弥彦の表情が、からっと晴れ渡ったような笑顔に変わっている。恵との再会とその頼もしい言葉への安心感とで、久しぶりに部屋の空気は和やかな雰囲気に包まれた。

 恵は薫の煎れた茶で一服すると、薬の調合に取りかかるために必要なことを、薫と弥彦にてきぱきと指示を始めた。二人がその準備のために部屋を出て行ってしまうと、後に残された左之助は、一段声を落として恵に囁いた。。
「なぁ、本当のところはどうなんでぇ?」
「なにが?」
 とぼけたような返事をする恵を、食えない女だと思う。さしたる歳の開きがあるわけでもないのに、こういう時の恵は、人間の裏まで知り尽くしている医者の顔をする。
「何がって・・・・剣心の容態に決まってんだろうが」
「だからさっきも言ったじゃない。絶対に助けてみせるって」
「そうじゃなくって。玄庵から容態を聞いてきたんだろう?」
 そこまで言うと、恵は貼り付けたような笑顔を消した。
「あんたは詳しい話を聞いているのね」
「ああ、あの藪医者め。のらりくらりとはぐらかしていやがったが、一昨日にここの翁が俺だけに伝えに来た」
「そう・・・確かに一昨日までは相当に危なかったらしいわ。でも、昨日診てみると、弱かった脈が少しづつではあるけど、しっかりしてきたって。何があったのかわからないけど、驚いたって言ってたわ。私も先ほど剣さんの脈をとってみたけど、玄庵先生が言っていたより、更に状態はいいみたいなの」
「ほんとか!? なら、剣心は助かるよな?」
「断言は出来ないけど、でも、何としても助けてみせるわ。医者の意地にかけても」
 キッパリと言い切る恵の真剣な表情は、何より頼もしく思えて、左之助の顔にもやっと笑顔が浮かんだ。頼んだぜと言う左之助に、任せなさい、と恵は胸を張って答えた。
「それよりも・・・」
 恵は左之助の顔を改めてまじまじと見つめると、
「あんたも今夜からはちゃんと寝なさいよ」
 と言った。
「俺はちゃんと寝てるぜ。ほれこの通り、身体も動くし、食欲もあるし、だいいち見ての通り、布団に縛り付けられてるからな」
「うそおっしゃい。薫ちゃんや弥彦君は騙せても、医者の私の目はごまかせないわよ。どうせあんたのことだからやせ我慢して、そんな身体のくせに、夜は一睡もしないで剣さんの看病をしてたんでしょ」
「ちぇっ、バレてんのかい」
「その顔色の悪さと目の下のクマを見れば、一目瞭然よ」
 年上の貫禄を見せてほほほと笑い、あんたも案外細やかな神経の持ち主なのね、と婉然とした笑みを見せた。

 すべての準備が整うと、恵は持ってきた荷物の中から、幾重にも包んであるひと包みを取り出した。油紙をほどくと固く縛った木綿の塊が出てきて、またそれを開くと鹿皮の袋が出てきた。その口を開いて、慎重な手つきで恵が取り出した物は、華奢な細いガラスの筒だった。 表面には細かな線が刻まれていて、先には縫い針のような細い金属の針がついている。 左之助が不思議そうに訊ねると、注射器というものだと言った。
「西洋医学の最先端よ。日本では珍しいものだけど」
「へぇー。んなもん、初めてお目に掛かるぜ」
 左之助が興味をそそられ、手元を覗き込んでいると、
「当たり前よ。私も使うのは初めてだもの」
 と、ぎょっとする左之助を尻目に、さも当然とケロリとして言った。
 剣心が危篤だという報がもたらされると、それならばと小国医師が以前、東京大学の客員教授であるホフマン医師から聞いた注射器の話を思い出したのだ。どんなに良い薬も接種できなければ無駄である。きっと役に立つだろうからとの勧めで、恵はそれを借り受けるために、まずは警視庁を訪れた。ホフマン医師と小国が顔見知りであると言っても、大切な器具を貸してもらえるとは思えず、そこで、警視庁大警視である川路に力を借りようと考えたのだ。
「よくあのデコッパゲが協力したな。もっとも剣心がこんな傷を負うハメになったのも、あのオッサンが一枚噛んでんだから、当たり前か」
「最初は渋ったわよ。管轄が違うとか何とか」
「言いそうなこった。んで、それでどうしたよ?」
「だから言ってやったの。軍隊を動かさないで済んだんだから、たかだか注射器の一本なんて安いものでしょって。でもそれでもぐずぐず言うから、だったら山県卿の所へ今から行って、薩摩はアテにならないって言います、って言ったら、すぐに添え状を書いてくれて、おまけに警察官もつけて馬車で送り迎えしてくれたわ。剣さんの京都での活躍の報告は、逐一受けていたみたいだし、志々雄一派が瓦解したって知らせも入っていたみたいだったから。その辺は機嫌が良かったのね。おかげで夜道を歩かなくて助かったわ」
 と、恵は鼻歌交じりだ。
 左之助はまじまじと恵を見つめ、やっぱりコイツに逆らうのは辞めておこうと思った。
 深夜にもかかわらず、訪ねたホフマンは川路の添え状を見ると親切に恵を迎え入れ、詳しい説明をした後、注射器とそれに付随する薬品まで持たせてくれた。
 その注射器に、恵は取り出した幾本かの小瓶から、透明の液体を飲ませている。ガラスの筒に仕込まれたもう一本の尻を、軽く押して液を溢れさせ、ついで先端の細い針を、剣心の腕に刺した。
「後は薬が効いてくるのを待つだけね。きっとこれで大丈夫よ。みんなの元気になって欲しいって願いが詰まってるんだもの」
 そう言って恵は穏やかに笑った。

 日中は鈍い光とむせるような熱を放っていた日差しも、夕刻になって山の蔭に姿を隠してしまうと、替わりにもくもくと暗雲が立ちこめ、ひと雨来るなと思う間もなく、容赦なく屋根と言わず軒と言わず叩き始めた。滝のように落ちてくる雨を、受け止めきれずに落としている屋根から流れるざぁざぁという水音に交じって、落雷が遠くの方でとどろくのが聞こえてくる。左之助はそれを聞きながら、薄い行灯の灯りの下で黙然と剣心を見つめていた。
 恵の治療で、すぐにも良くなるかと思われた剣心には、何の変化も見られなかった。
 左之助が恵にそれを言うと、
「バカね、これだけの怪我が数時間で治るわけがないでしょ。もしそうなら、世の中から死人なんて出ないわよ」
 と、縁起でもないことを言って、左之助を沈黙させた。
 その恵は今は左之助の寝ていた布団で仮眠を取っている。
 長旅で疲れているだろうからと、夜は今までのように俺が受け持つという左之助に、数時間おきに投薬をして様子を見なければならないからと、先ほどまで恵は起きていた。
 今は様子見の時間なのだろう。ちょっと横になるわね、後で交代するから、と言ったかと思うと、すやすやと軽い寝息を立て始めた。
 こうして皆が集まり、剣心に回復して欲しいと願っている。
 その一人一人の心中と顔を思い浮かべて、
 ―――これだけの願いが詰まってんだ、助からねぇわけはねぇ。
 と、左之助は改めて強く思う。
 恵が言うには、玄庵の治療も良かったらしい。さすが、お庭番衆が抱える医者だと、諸手を挙げて褒めそやしていた。その医者にしろ、表だって言いはしないが、陰でみんなを心配し、それとなく気遣ってくれる葵屋の面々や翁にしろ、みんな剣心を助けたいと思っているのだ。薫や弥彦はもとより、少しでもみんなが笑顔になるようにと、絶えず冗談を言って元気を振りまいている操や、関わりは少なかったものの、妙から事情を聞いている冴も、温かく迎えて階下からそれとなく気遣ってくれている。
 そして・・・一緒に山を下りた蒼紫。
 それにあの斎藤でさえも、意識のない剣心を気遣って、黙って道を開けてくれたのだ。
 ―――これだけの願いが詰まってんだ。無駄にされてたまるかよ。
 左之助は食い入るように、剣心の白い顔を見つめ続けた。

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