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 その日は朝からの曇天で、部屋の中は陰気に翳っていた。梅雨の合間の晴れ間は、又思い出したように雲の向こうへと消えていた。
 布団の中にいる左之助からは外の様子は見えないが、町を行き交う人々の声が、昼前には降るだろうと言い交わし、ぼて振りや物売りは、その日の商売の雲行きを心配して声だかに喋る声が、開け放した窓の外から聞こえてくる。
 今日で四日目。
 傍らに眠る剣心は、相変わらず白い顔をさらしたままで、昏々と眠り続けている。
 医者が言った「まずは三日」は今のところ、さしたる変化なく過ぎた。
 ―――あの藪医者め。剣心がそう簡単にくたばるわけがねぇんだ。それを大層に言いやがって・・・
 自分のことにしてもそうだと思う。 
 翌日こそ身体中の至る所がじんじんと疼いたものだが、殊勝にも言われたとおりに布団に伏せっていると、次の翌日からはずっと痛みは楽になった。身体のどこかを動かす度に痛みは走るが、これぐらいならどうということもないと思われてくる。寝ているだけなら、ついついそれも忘れがちになって、自分はほぼ回復したとさえ思えてくる。なのにこの三日間というもの、起き出して厠にでも行こうとしたら、途端に弥彦や薫が走り寄ってきて、左之助を重病人のように布団に縫いつけてゆく。
 ―――みんな大袈裟なんじゃねぇか? あんな藪医者の言うことなんかをまともに受け取りやがって・・・
 そう思うときには、不意に襲ってくる痛みも、呻き声を上げたことさえも、まったく忘れてしまっている。
 要するに左之助は、寝ていることにすっかり飽きてしまっていた。
 だがそれも昨日で終わりだと思うと、心なしか気分が浮き立つようである。
 医者の言を借りれば、今日からは多少は布団の上に起き直っていてもいいはずだ。そう思うと、両手を伸ばし、大きな欠伸をひとつ洩らした。
 こんなに長く寝付いたのは初めてだった。
 以前、剣心の龍槌閃をくらったときでさえ、翌日には元気に町を彷徨っていたのだ。あの時も医者は一ヶ月は絶対安静だと言っていた。得てして医者とは、大袈裟に言いたがるものらしい。
 そう思うと、隣に寝ている剣心もすぐにも起き出して「心配かけたな」と笑顔を見せそうにさえ思えてくる。
 翳る部屋の陰気さとは対照的に、左之助は久しぶりに気分が晴れて、明るい気持ちになるのを感じていた。

 白べこに移った翌日から、この部屋には左之助と剣心の二人だけが伏せっている。
 共に寝ていた弥彦は本人の言う通り、一日伏せっていただけで本来の元気を取り戻し、その日の夜にはたいそうな寝相を左之助に披露してくれた。
「たまんねぇよ弥彦のヤツ。二,三度蹴られて夜中に呻いたぜ」
 そう苦情を左之助が薫に言うと、弥彦はすぐさま薫達の部屋へと引き取られていった。
 その弥彦の元気に竹刀を振る声が、窓の外から響いてくる。
 薫は二日前から弥彦に後を任せ、階下へ降りて冴の手伝いを始めた。冴の好意と言っても、いつ迄続くかわからないこの状況に、世話になり続けることを心苦しく思ったのだろう。昼の二時間ばかりと夕刻の店がたてこむ時間を階下で過ごし、それ以外の時間はここへ来て、なにくれとなく世話を焼いてゆく。そして、それと察した弥彦も、昨日から薫と一緒に店を手伝い始めた。もっとも弥彦の場合は、自分が回復してしまうと、看護だけで明け暮れてじっとしているのが耐えられなかったのだろう。何から何まで側にいて面倒見てやると豪語した言は、たった二日だけであっさり翻してしまった。
 ―――本当に良くやっている
 と、思う。
 帰り着いた夜には、薫は自分たちの姿を見て心配のあまり、何度も何度も目に涙を浮かべていた。その鬱屈した表情は翌日まで続き、いつ降り出すとも知れない梅雨の天気のような暗い陰を浮かべていた。だが、夜が明ければうって変わり、まるで何事もなかったかのように元気な声で弥彦に指示し、男達の看病をし、昼前になると階下の手伝いに降りて行った。そして客の空く時間にはまたここへ戻ってきて、世話を焼いていく。その間は、左之助の言う冗談に笑い、弥彦をたしなめ、常と変わらぬ素振りを見せている。
「アイツ、あれでもかなり無理してんだぜ」
 薫が部屋を出て行ってから、弥彦がそうぼそりと呟いた。
「本当なら剣心の側を一時でも離れたくねぇだろうに・・・」
「じっとしてられねぇんだろう・・・」
 左之助がその心中を察して言うと、弥彦もその気持ちはわかる気がすると、大人びた口調で同調した。
 時折浅い息をして、苦しげに顔を歪める剣心の寝顔を、いつこと切れるかとここでじっと見守り続けているのは、あまりにも辛いのだ。
 薫は薫なりに今できることを考え、左之助までが伏せっている今は、自分が中心になってみんなを引っ張って行かなくてはと思ったのだろう。そのけなげな心がわかれば、左之助でさえも涙がこぼれそうだ。
「ここでずっとじっとしているよりはいいんじゃねぇか。少なくともその間、ここの空気は忘れてられる」
「そうだな」
 剣心の白い寝顔を見守りながら、弥彦もため息をつくように呟いた。

 あれから二日。
 ―――穏やかな日常が戻りつつある・・・後は剣心だけだ・・・
 隣の剣心の横顔をちらっと盗み見て、左之助はそう思った。
 薫と弥彦が店に出ている間は、 時折操や葵屋の人々が様子を見に部屋へ顔を覗かせるが、それ以外の時間は左之助は剣心と二人きりだった。
 青白い剣心の横顔を見ては、早く血色が良くならないかと願いつつ 、日がな一日顔を眺めて過ごしていた。
 だが、それももう少しの辛抱だ。暫くすれば剣心も意識を取り戻し、日に日に良くなってゆくのだろう。
 玄庵は様子を見に、毎日顔を覗かせている。状態を聞く度に、
「まだまだ油断はならん。じゃが、みんなで一生懸命看病すれば、きっと良くなるじゃろうて。そう思って看病に努めてあげなされ」
 オウムが繰り返す一つ覚えのように、毎回そう言って帰って行く。
 なかなか安心するような言葉は聞けないが、なぁに、医者とは人を不安に陥れていくらのもんだろうと、左之助はタカをくくり始めている。
 明後日には連絡を受けた恵もここへ到着すると聞いている。 この様子では恵の出番は無いかも知れないと、今朝の左之助はかなり明るい展望を持っていた。


 夕刻になって薫と弥彦が部屋を出て行ったのを見澄ますようにして、翁が部屋を訪れた。
「すっかり世話になっちまったな。色々とすまねぇ」
 殊勝にも左之助がそう挨拶をすると、
「なぁに。こちらも緋村君達の世話になっておる。蒼紫をあのように連れ帰ってくれて、感謝してもしきれんぐらいじゃ。そんな気遣いは無用に願いたいものじゃて」
 そう言って鷹揚な笑顔を見せた。そして、君もかなり回復したようだの。いや、重畳、重畳。と、布団の上に起き直った左之助を見て相好を崩した。しばらくは左之助の体調のことなどをあれこれと訊ね、世間話をしていたが、何か用件があって訪れたはずの翁は、一向に本題に入ろうとしない。
「ところで爺さん、なんか用かい?」
 左之助は訝しんで、話の水を向けた。
「うむ。そのことじゃが・・・」
 途端に好々爺然とした笑顔は消え、腕組みをして左之助から視線を外す。まだその先の言葉を言おうかどうしようか迷っているようにも見える。しばらくそうして何事かを考え込んでいるようだったが、ひょいと隣の剣心へと顔を向けると、緋村君のことを玄庵先生からどのように聞いておるかな?と訊ねた。
「あん? 医者がどうかしたのか? あの藪医者の言うことはいつも同じだぜ。みんなで一生懸命看病したら良くなるだろうって。さっきも判で押したように、同じ事を繰り返して帰って行きやがった。それがなんか?」
「やはりそうか・・・・」
 訝しむ左之助に、翁は深いため息を一つ零した。
「玄庵先生の本当の見立てを、君にだけは言っておいた方がいいじゃろうと思って訪ねたのじゃが・・・」
「違うのかよ?」
「うむ・・・かなり状態は悪いそうじゃ。脈が弱い、とな。いつ何があってもおかしくない、その状況は何も変わって居らんと玄庵は言っておった」
「そんな・・・・あの藪医者は三日が山だと言ったんじゃねぇのか!? その山もこうして無事乗り越えて、後はだんだんと良くなるばっかりじゃねぇのかよ!?」
「うむ。儂もそう思って居った。緋村君の事じゃ。これしきのことを乗り切れぬはずはあるまいと、そう願って居った。じゃが、一方で医者の見立てがあることも確かなことなのじゃ・・・・
 玄庵が言うには、最初に緋村君を診たときには、これはもうとても助からんと思ったそうじゃ。あれだけの怪我にかなりの出血じゃ。ここまで息をしているうちに辿り着けたのが、不思議なぐらいじゃと言って居った。
 じゃから、とても三日も保つまいと・・・
 じゃが、こうして彼は頑張り続けておる。並の人間ではとても考えられんことじゃそうじゃ。
 それもこれも並々ならぬ強靱な意志と、鍛え抜かれた身体を持っている彼ならばじゃろうて・・・・
 じゃから、あるいは万に一つ、助かることがあるかも知れんと、玄庵は言って居った。何よりも本人の生きようとする意志が大切なのじゃと・・・
 じゃが、かなり危ないことも確かなのじゃて・・・・
 あのように、けなげに頑張って居る薫君や弥彦君を見ていると、彼らのためにも無事乗り切って、一日も早く良くなって欲しいと願わずには居れんのじゃが・・・」
「・・・・・・」
「緋村君の本復を信じて頑張っている薫君や弥彦君には、とても玄庵の言葉を伝える気にはなれん。また、本当のことを言って不安に陥れるよりも、このままわずかずつでも良くなっていっていると思わせていた方が、彼らにとってもいいんじゃないかと思っての・・・・・・
 じゃが、君は緋村君が懇意にする者の中では一番の年長じゃし、なにより男じゃ。緋村君にもしもの事があったときには、君が彼らの力になり、支えなければならん。君自身が取り乱したりせんように、その覚悟だけは持っていてもらおうと思ってな。こうして老婆心ながら訪ねたわけじゃ」
「・・・・・・」
「君にとっても玄庵の言葉は辛いじゃろう・・・じゃが、万に一つの助かる可能性があるというならば、儂らはそれを信じて、彼の生命力に賭けるしかあるまい。必ず助かるとそう信じて、彼の意識が戻るのを祈るしかあるまい・・・・」
 蒼ざめた顔で左之助はじっと耳を傾けていた。知らない間に握りしめていた拳が、瘧のようにブルブルと震えていた。背中が氷水をかけられたように冷ややかに感じ、胸の動悸は耳の奥で大きな音を立てて木霊していた。
 返す言葉もなくうつむく左之助を、今は一人にしておく方がいいと思ったのだろう。君も辛いじゃろうが、元気を出すように・・・そう言って静かに腰を上げると立ち去った。
 無意識のうちに握りしめた指先が、冷たかった。

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