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 左之助は眠るともなく眠っていた浅い眠りの中で、ふと目が覚めた。
 傍らで死人のように眠っている剣心の唇から、寝言のような声が漏れたと思ったからだ。
 わずかにその方へ首を回してみる。が、傍らの剣心からはまるでそこが無人のように、ひそとも音はしない。
 外は晴れているのか、薄い障子紙を通して夜空にかかる月の明かりが、剣心と左之助の眠る部屋の中まで洩れている。
 その所為で目覚めたばかりの目にも、ぼんやりと物の形は見定めることが出来る。
 壁際に置かれた箪笥やら行李やらが、黒い山となってこんもりとその影を映す。
 白べこの二階、八畳の部屋に敷かれた布団が二組。小さな小山を築き、わずかに盛り上がっていることで、そこに人が寝ていることがわかる。
 薄ぼんやりとした中で目を凝らしてみるが、傍らの布団は、輪郭を映し出すだけでまるで人の気配がしない。
 左之助は身体を回し、半身になって左手を伸ばそうとした。が、刹那、うっと呻いて身体を縮こまらせた。
 身体中至る所に安慈から受けた傷が激痛となって、そこにあることを左之助に思い出させる。
 ただ横になっているだけなら忘れそうになる鈍い痛みも、今のような急激な筋肉の変化にはついて行けないようだ。ついそれを忘れて、普段通りに身体を動かそうとすると、今のように、不意に襲う激痛に冷や汗をかくことになる。
 帰り着いてから目覚める度に行っているその所作に、身体の方は未だ慣れず、短い呻き声を何度も上げている。
 さすがに自分でも呆れて、身体を折り曲げつつ、闇の中で苦笑を漏らした。
 そして、今度は同じ轍を踏まぬよう、一度縮めた左腕をそろりそろりと用心して、剣心の口元まで伸ばしてみた。
 たったそれだけの動作が苦痛に思われる自分の傷を思えば、余計に隣の剣心が気に掛かる。伸ばした掌に、感覚を研ぎ澄まし、全神経を集中した。

 梅雨の合間の所為だろうか。空気は少し湿り気を帯びている。
 しっとりと纏い付くその夜気を押しのけるように、微かな空気の動きを感じる。わずかな呼吸の温もりが掌に触れると、左之助は安堵の吐息をそっと漏らした。

 ―――まだ生きている。
 それさえ確かめられれば充分だった。


「まずは三日」
 重症の剣心を葵屋へ運んで診せた医者の最初の言葉が、それだった。
 三日とは?
 三日経てば意識が戻ると言うことなのか、それとも命が尽きると言うことなのか。医者の暗い顔を見れば、自ずと答えは後者に導かれる。
 葵屋にさえ運べば、剣心の無事は約束されたと思い極めた左之助の期待を、見事に裏切る言葉だった。
「テメェ、医者なんだろ! 医者だったら医者らしく怪我人を助けろよ!! 何とかしろよ! 」
 にじり寄って詰め寄る左之助と弥彦の剣幕に、葵屋お抱えの医者は、三日が山じゃよ、と言って、後は言葉を濁した。誰の顔にも暗い翳りが浮かび、張りつめた重苦しい空気の間から、薫の嗚咽がひときわ大きくなった。
 医者の胸ぐらを掴んだ左之助に、背後から翁の穏やかな口調が割って入った。
「急く気持ちもわかるが、今は時間が必要じゃ。緋村君のことだ。こんなことでくたばったりはせん。それに玄庵先生は金蒼の名医じゃて。今は先生と彼を信じて意識が戻るのを待つしかあるまい」
 左之助もそんなことは言われなくても、それぐらいの物の道理は心得ている。だが、一分でも一秒でも早く、己の恐怖から解き放たれたい。その気持ちが当たり所のない怒りとなって、握った拳をブルブルと震わせた。
「時間が必要じゃよ、時間が・・・・」
 それは左之助ばかりにではなく、この部屋に集まっている全員へと、延いては自分へも言い聞かせているようにも聞こえ、不安は誰しも同じなのだと思うと怒りの矛先を見失った。
 左之助の背中を慰めるように叩く翁の言葉に、ただ頷くしかなかった。
 誰しもが息を潜めて、紙のように白い剣心の寝顔を見守っている。
 志々雄から受けた腹の傷は、致命傷に至らずとも、流れ出た血の量が夥しかった。それに加えて無数の斬り傷。胸には火薬で負ったやけどの痕と、一瞥すればその闘いのあまりの過酷さを、容易に想像できる。
 医者が調合した薬の所為か、先ほどまで浅い息を繰り返していた剣心は、今は靜になり、死人のように昏々と眠り続けている。
「出来ることはした。あとはこの御仁の生命力に賭けるしかあるまい」
 沈黙の空気を破り、独り言のような医者のつぶやきが、ことさら大きく響いた。それは、深く左之助の耳に残った。

 ―――今日で三日目・・・剣心がくたばるわけがねぇ。
 闇の中で左之助は、差し出した左手を強く握りしめた。



 比叡山からやっとの思いで帰り着いた葵屋は、崩壊していた。
 それは十本刀との闘争の激しさを物語っていた。
 軒は落ち、壁は崩れ去って、気持ちよく客を迎えていた建物は見る影もなく、無惨な廃墟と化していた。
 見つめた左之助は呆然とし、この闘いの激烈さを思って、あらためて背筋が寒くなるような気がした。だが、そのすさまじいまでの破壊力の前に、誰一人屈せず、傷を負いながらも全員無事であったことは、今度の闘いの中でたった一つの喜ばしいことだった。
 その葵屋で、幸運にも崩壊を免れた客間が二、三有り、その中の一部屋に今は全員が詰めていた。
 息を殺して剣心をじっと見守る誰の顔にも、疲労が色濃く浮き出ている。安静が必要なのは、剣心だけではない。肋を折って胸を押さえている操にしろ、ぼろぼろに引き裂かれた袷の胸元から、志々雄と大差ないほどに身体中に巻き付けられた包帯を見せている弥彦にしろ、決してその傷は侮れるほどのものではないのだ。
 ―――よく生き残れたものだ。
 一人一人の顔を眺める余裕が出来た時に、左之助はあらためてそう思った。
 


「よくこんな身体で担いで来なさったものだ」
 剣心の加療の後で、左之助の傷を検めていた玄庵が、眉をひそめてそう言った。
「この御人はもとより、あんただってひどい怪我だ。こんな身体で此処まで辿り着けたのが奇跡のようじゃ。気概だけで担いで来なさったか」
 医者は感嘆の声を上げながら、手際よく左之助の手当を施していた。
 半纏を脱いだ左之助の身体には、二重の極みを幾度も受けた痕がくっきりと浮き出ている。それは、どす黒く腫れ上がり、受けた衝撃のすさまじさを示していた。
「うわぁ。痛そう・・・・」
 後ろから覗き込んだ操が率直な感想を漏らし、薫は瞠った目にまた新たな涙をにじませて息を呑んだ。
「んな、大げさなもんじゃねぇ・・・・・」
 女達の手前、左之助は痛みをこらえてそう見得を切ったが、その実、身体中の至る所がきしむように悲鳴を上げていた。
 本当によくここまで辿り着けたものだと、冷静になってみれば自分でも驚く。
 だが、傷の痛みも己のささやかな驚異も、今はどうでもいい気がしていた。
 ―――んな、大げさなもんじゃねぇんだよ。コイツに比べれば・・・
 一瞥した剣心の血の気のない顔が、左之助の心を覆っている。
 ―――コイツを失うことに比べれば、こんな傷、どうってこたぁねぇんだ・・・・
 必ず助かると信じ、また助けてくれると信じて、重い身体に鞭打って、ここまで剣心を運んできたのだ。だが、期待した医者の言葉は、確としたものではない。
 頑張って踏みしめてきたその足下が、もろくも崩れ去るような感覚に襲われ、その重圧に耐えるように、左之助は唇を噛みしめた。



 志々雄のアジトからの脱出は、まさに命からがらだった。
 狂った方冶の破壊に、頑強だと思われたアジトは、至る所で爆発を起こした。岩盤が崩れ、支えていた梁は頼るところを無くし、すべての物が落ちるに任せていた。
 それらを避けながら、渦巻く埃と立ち上る煙の中、前を行く蒼紫の背中を追いかけるのが精一杯だった。
 どこをどう走ったのか、記憶は定かではない。
 長い廊下、迷路のような通路、それらが突然に崩れだし、あるいはすでに崩れていて、しばしば行く手は塞がれた。幾重にも重なった瓦礫の山をくぐり抜け踏み越えて、精も根も尽きかけたとき、やっと視界が開けた。
 眼前にあるのは、覚えのある森だった。
 日が沈むまでにはまだ時間があるらしく、まばゆいばかりの日差しが、深い陰影を森に与えていた。梅雨の合間の西日の熱は、深い山中までは届かず、空気は涼味を帯びている。時折、木立を縫う風が小枝を揺らし、鳥たちは家路へと辿るまでのひとときの歌を楽しんでいる。その一見平和そうに見える森に、不似合いな爆発音が背後から時折響く。その何とも言えない、ちぐはぐな奇妙な感覚に、無事脱出できたという現実感はまるで無かった。
 そのまま逃げるように余波の来ないところまで駈けどうし、大木が作る深い陰影に駆け込んだ。柔らかな下草の生い茂るその場所に来て、そこでようやく左之助は足を止めた。そして、傷を検めるべく、剣心を横たえた。気にはなりながらも脱出の間中は、剣心の様子に構って居るどころではなかった。
 剣心にはすでに意識はなく、わずかに袖が残っているだけの袷も袴も腹部からの出血で、どす黒く汚れている。そしてまた新たな出血が、その上を赤く染め続けている。これが生きている人間の顔色かと思われるほど透き通るように青白く、精気はまるで感じられなかった。人形のように身動き一つせず、何度も呼びかけた名前にも、剣心からの応えはない。
 ―――とにかく葵屋へ運ばなくては。
 気持ちばかりが焦った。
 簡単な処置の後、剣心を背中に負ぶった。心にあるのは一刻でも早く葵屋へ運ぶことだけだ。だが、そんな気持ちとは裏腹に、足は鉛を含んだかのように重かった。
 アジトを脱出するまでは、無我夢中だったせいか、何の雑作も感じなかった。それがひとたび息をつけば、平常の感覚が戻り、身体に受けたダメージを思い知らされる。
 常ならばその重みさえもまったく苦にならない剣心の体重が何倍にも感じられ、急く気持ちをことごとく足腰が裏切る。踏み出した一歩に膝が笑い、切り株に足を取られそうになる。歯を食いしばりながら突き進む左之助が、何度目かの足を滑らせそうになった時、背後から不意に声が掛かった。
「見ては居れん。代わってやろう」
 驚いて振り向いた左之助の目に、何の表情も示さずに立っている蒼紫の姿が映った。
 つい数時間前まで剣心の命を狙い、最強の華を手にするために修羅になりかけていた男が、そんな思いやりを示すなどとは、とても信じられなかった。
 味方かと言えばそうではなく、だが敵かと言えば、剣心に敗れ、共に志々雄に立ち向かった立場からすれば、仲間と言うことになる。さりとて、剣心の命を案じるほどのつき合いであるわけもない。まして、今の左之助の身を案じる甘い男でもないはずだ。
 そうか、と左之助は思った。
 剣心との約束だと言っても、かつての仲間を裏切った蒼紫が、おめおめと仲間の所へ帰れるだろうか。それにはそれなりの理由が必要なのだ。
 その真意のほどを判じようと、左之助は蒼紫の目を見つめたが、そこからは自分自身を庇護する弁解らしきものは見いだせなかった。ただ目の前にある左之助と剣心の姿を、静かに映し出している暗い瞳があるだけだ。
 蒼紫が寄せるお庭番衆への気持ちを思えば、蒼紫とは元来そう言う人物なのかも知れない。敵対し、冷酷な部分ばかりを見ていたのかもしれない。そう思い直すと左之助は、緊張の糸をほどいて蒼紫に答えた。
「あんたの気持ちはありがてぇ。だが、こればっかりは譲るわけにゃいかねぇんだ。コイツを待ってる嬢ちゃんや弥彦の所へ、俺が絶対に連れて帰るって約束したからな。すまねぇな」
 それを聞くと、そうか、と抑揚のない声で短く答え、蒼紫は又静かに歩き出した。 忍びの術を心得ているせいか、蒼紫はほとんどと言っていいほど足音を立てない。だが、時々忘れた頃に、カサコソと微かな落ち葉の音をさせるのは、蒼紫がその身に受けた傷が浅くない所為だろう。その時になって左之助は、蒼紫が今まで自分の後を歩いてきていたことに初めて思い及んだ。
 蒼紫も剣心の天翔龍閃と志々雄からの反撃で、その身体に相当のダメージを受けているのは確かだが、剣心を背負っている自分よりは、身体は軽いはずである。それにもかかわらず、左之助を追い抜くことなく、その歩調に合わせて後ろを歩いていたのは、ひとえに蒼紫の気遣いだったのだろう。それと気づかせることなく示すその優しさこそが、今も葵屋の面々に御頭と敬われ、恋い慕われる所以なのではないかと思った。
 蒼紫とはそう言う人物なのだ。そう思うと左之助は、急に笑みがこぼれた。その笑みを口元に残したまま後ろを振り返った。
「なぁ、御頭サンよぉ。代わりと言っちゃなんだが、一つ頼まれてくんねぇか?」
「なんだ?」
「負ぶった俺からはコイツの様子が見えねぇ。だから、コイツになんか変わったことがあったら、その時にゃ教えてくれ」
 一瞬蒼紫の目に、痛ましいものを見るような色が走った。が、すぐにそれは消えて、感情のない静かな声で、わかった、とだけの短い返答があった。
 そしてその後は、お互い言葉もなく、黙ってまた歩き続けた。

 今にも萎えそうな小刻みに震える足で大地を踏みしめた。砕けそうになる腰で、剣心の重みを必至に支えた。何が何でも葵屋へと辿り着く。そのことだけを必至に念じた。
 時折、無意識のうちに漏らす、声にもならない剣心の呻き声が、左之助の耳朶をかすめていった。それは何もしてやれない自分の無力を思い知らされ、胸が締め付けられるようだった。が、同時に、背中の剣心が生きている確かな証でもあり、その度に、安堵の胸をなで下ろした。

 山の斜面はだらだらと続いていた。
 杉や檜の林を抜けたかと思えば、椎や楢が生い茂り、それが時にはシダや雑草で覆われていたりした。道は気まぐれに右や左にくねり、時には緩やかな登りになったりもしたが、眼下に見える京の町は、なかなか近づいては来なかった。
 初夏の日差しは沈む前のいっそうの輝きを、麓の村々へと与えている。目にも眩しいその黄金色の光が赤く染まり出すのも、そんなに時を必要とはしないだろう。
 今朝、斎藤や剣心と辿ったときには、こんなに遠かったのだろうかと思った。
 あの闘志をむき出しにして意気揚々と歩いていた自分は、どこに消えてしまったのだろうか。
 剣心と軽口を叩きながら、ともすれば花見気分でこの道を辿っていた今朝の自分を思えば、怖さに震える今の様が惨めに思えた。

 左之助は、ただただ怖かった。
 時折耳の中へと届くその苦しげな声が、いつ止まるかもしれないと思うと、身体中が凍り付きそうだった。
 血止めに当てたサラシは、とうにその役割を放棄し、印半纏を越えてジワジワと左之助の背中を濡らし始めていた。自分の流れる汗とも違う嫌なぬめりが、腰から全身へと恐怖を伝えていく。
 剣心の命の水が、惜しげもなく零れ落ちてゆく感覚。
 一滴一滴したたるごとに、命の火が細くなってゆくようで、この上もない焦りと叫びだしたいような恐ろしさに、足がすくみそうだった。
 剣心を永遠に失うかもしれない、そんな縁起でもない予感が胸をかすめる度に、無力で泣くしかできなかった幼い自分と重なった。
 もうあんな思いは、二度とはしたくない。大切な人を失う苦い経験は一度で充分だ。
 例えすべての神が見放したとしても、その運命に逆らい、扉をこじ開けてやる。なんとしても剣心を無事葵屋へと運んでやる。
 そう思い返し、そう思うことで、傷ついた身体を叱咤した。そしてまたそう思えば、くじけそうになる心に、気力がみなぎるような気がした。
 この上もなく重い足も、腹部から伝わる疼痛も、剣心を失うことに比べれば、何でもないことだと思えた。
 ―――俺が絶対にお前を嬢ちゃんや弥彦の所へ帰してやる。だから死ぬな。それまで絶対に死ぬんじゃねぇぞ、剣心。
 呪文のように何度もそう心の中で呼びかけ、呼びかけることでそれは左之助の強い意志となり、あらん限りの気力を振り絞って、左之助は山を下りていった。

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