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 恵が到着した日から降り続いた雨は、一度は上がったものの、溜まった洗濯物が乾く間もなくぐずつきだし、もう三日も降ったり止んだりを繰り返している。それが時々雷雲を伴って、所構わずすさまじい轟音を上げてゆく。昨日は白川に、今日は東山に雷が落ちたと、白べこの客に聞いたものか、弥彦と薫が代わる代わる伝えていった。
 雨戸の閉めきった部屋で、少しでも風を入れようと、左之助は開いた胸に団扇を使っているが、あおぐ度に蒸し暑い空気が右に左に揺れるだけで、全身からあふれ出す汗はいっこうに引きそうにない。左之助の隣で手ぬぐいを額に当てて拭っている恵も、先ほどから何杯も麦茶をお代わりして、ふぅふぅ言っている。
「こう暑いとやりきれねぇなぁ」
 左之助は一段と高くパタパタと団扇を仰ぐ音をさせながら、気軽に立ち上がって閉めきった雨戸を半分ほど開いた。
「雨が吹き込むわよ」
「なに、かまうもんか。少しぐれぇ濡れねぇと、このままじゃ茹で蛸みてぇになっちまう」 
 眉をしかめる恵に、背を向けたまま返事をし、開いた雨戸の間から半分身体を乗り出した。
「おっ、雨、もうすぐ上がりそうだぜ」
 自慢の髪型に雨粒を幾つもつけ、その頭をがしがしと手で擦りながら、左之助はさっきのように布団の上にどかりと胡座をかいた。そしてまた、パタパタと団扇を使いだした。
「俺達ゃこんなにふぅふぅ言ってんのに、コイツと来たら暑いも寒いも感じねぇで、平然とした顔で寝ていやがる。いったい何時まで眠ってるつもりでいやがんのかね」
 仰いでいた団扇の先を剣心に向けて、剣心の顔を覗き込み、ついで恵の方へと顔を向けた。
「さぁ、いつまでかしらね・・・・」
 気のない返事をして、背に垂らした髪を上げて襟足を拭いている恵に、左之助は一段身を乗り出した。
「お前ぇにもわかんねぇのかよ?」
「それが判るぐらいなら、苦労はしないわよ」
 この数日間、同じ事を何度も問うと辟易して、左之助のつきだした額をぺちりと叩いた。
  開いた窓から風が抜けて、蒸し風呂のような部屋の空気を、徐々に外へと押し出しはじめている。その風に時々煽られて、剣心の前髪がふわりふわりと額の上で躍っている。
 数日前に比べると恵の治療の成果か、わずかではあるが、頬にほんのりと赤みが射し、心なしか、その寝顔も穏やかな表情のように思われる。脈も一頃に比べるとずっと落ち着いてきたし、縫合された傷もしっかりとつき、抜糸の日も近い。だが、肝心の意識の方はまだ戻らず、相変わらずピクリとも動かないで、眠り続けている。
 ―――こんなに心配させやがって・・・・・
 何も知らぬげで眠り込んでいる剣心の顔を見ると、この数日来の心労が思い起こされ、少し恨めしくも思う。
 ―――俺の怪我もたいしたもんだったらしいが、その怪我より、おめぇのことの方が、はるかに俺には痛かったんだぜ。わかってんのか、やい、コラ! 早く目を覚ましやがれ。
 恵が来てからは、幾度となく剣心の顔を覗き込んでは、心の中でそう呟いている。神にも祈るような儚い願いが、少しづつ確証となって変わりつつある気がしている。
 だが、もしかすると・・・・
 そんな思いが、時折胸をかすめていくことも事実だ。 そしてそんな時には、東京で剣心と過ごした楽しかった日々を思い出したりして、気を紛らわせている。
 左之助はごろりと布団の上に横になった。そして、また東京で過ごした日々を思い出し、まだ剣心と行っていないところや、やっていないことを数えては、元気になったらあれもしたい、これもしたいと思いを巡らせはじめた。そうしているうちに、いつの間にかうとうとと眠りについてしまった。


 最初に気がついたのは、やはり恵だった。
「剣さん!!!!!」
 恵の悲鳴とも絶叫とも取れるような叫び声で、左之助は目が覚めた。そして続いて、薫と弥彦の
「剣心!!!!」
 と、同時に叫ぶ声が聞こえた。
「どうした!!??」
 もしや!?という思いが一瞬頭をかすめ、その思いに心臓が、キューッと縮こまるような気がして、動悸は早鐘のようにバクバクと脈打った。驚いて飛び起きて剣心の方を見る。すると、そこには、目をぱっちりと開いた剣心の顔が、薫の背中越しに見え、思わず自分の目を疑った。
「左之助! 剣心が、剣心が・・・・・」
 振り向いた薫が、後は声にならないで、笑っているような顔で、涙で顔をくしゃくしゃにしている。
「やっと目が覚めたのか、剣心。心配させやがって・・・・」
 弥彦も目に大粒の涙を浮かべて、半分ベソをかきながら笑い、恵も袂で目頭をそっと押さえている。その状況を左之助は、夢を見るような目で見ていた。
 剣心の意識が戻った瞬間だった。
 目覚めたばかりの剣心には、みんなの大騒ぎが何によるものなのかわからず、呆然とした表情で、ひとりひとりの顔を見つめている。
「みんな・・・無事で・・・・」
「みんな無事だぜ。誰一人欠けちゃいねぇ」
 矢継ぎ早に涙声で弥彦が言った。
「そうか・・・・良かった・・・・」
「剣心ったら、こんな時まで人のことを心配して。どっちが心配したと思ってんのよ」
「そうだぜ、剣心。本当に心配したんだからな」
 薄く笑みを零す剣心に、薫と弥彦が同時に声を上げ、そして喜びを確かめ合うように、二人で肩を抱き合った。
「剣さん・・・みんなでどんなに心配したことか・・・」
 恵もこの喜びを噛みしめるように、剣心の顔をじっと見つめながら言った。その声が終わらぬうちに、大騒ぎをしている声に驚いたのか、葵屋の面々と冴も次々と階段を駆け上がってきた。
 それに気づいた薫が声を上げた。
「操ちゃん! 剣心の目が覚めたの!」
「本当!? キャーー!! やったね! 薫さん!! 緋村、やっと意識が戻ったんだ」
 バタバタと足音をさせ、剣心に飛びつくようにして、操は部屋に駆け込んできた。それに続いて翁が姿を見せ、その後ろには冴も顔を覗かせている。
「おお、緋村君、心配したぞ」
「ようご無事に・・・・」
 操をはじめ、翁、冴と次々に剣心の顔を覗き込んでは、意識が戻ったと口々に言い、満面の笑みで肩をたたき合って喜んだ。その後ろには白、黒、増、近江女の顔も見える。その騒ぎを、起き抜けの姿勢のままでじっと見つめていた左之助は、不意に輪の中心から顔を背けた。そのまま剣心の顔を見ていると、不覚にも涙がこぼれそうに思えた。
 ―――長かった・・・・・
 あの志々雄との闘いの日から、今日という日を迎えるまで、出口の見えない暗い洞窟を、果てしなく彷徨っているような気がしていた。それは、幾千の夜を過ごしたようにも思えて、今日という日を望みながら、実際にやってくると、今、目の前にある光景がすぐには信じられず、夢ではないかとさえ思える。 
 しみじみとした感慨が、胸の内に迫り、大きな喜びが、沸々と湧いてくるのが感じられ目を伏せた。そして同時に、安堵の思いが静かに広がっていった。
 目頭を指で押さえる左之助の視覚の端に、襖の陰でふっと微笑を漏らす蒼紫の姿が映っていた。
 いつの間にか雨はすっかり上がっていた。開け放された窓からは、梅雨の終わりを告げるまばゆいばかりの夏の日差しが差し込んでいた。

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