【雲流れゆく】             〈2.3.4.5.6.7.8.9.10.11

〈 第1章 〉


あの人がまた空を見ている。

剣術の稽古の合間に喉の渇きを覚え、道場から母屋の台所へと向かった薫の目に映ったのは 縁側で眠る幼い我が子を膝に抱き、ぽっかりと空いた時間を 何をするでもなくただ空を眺めている夫の姿だった。
もう何度目だろう? こんな姿を目にするのは・・・・
時折切なげだったり、優しげな表情を見せたりしながら ただ空を眺めている。
そんな姿をこうして不意に遠くから目にする度に 薫の心は寂しさで一杯になる。
空を眺める夫の心に住む人は誰なんだろう・・・
もう十何年も前に亡くした最愛の人だろうか? それとも別の・・・・
いつ頃からか心の奥で消えることなく燻っている熾き火のような嫉妬が また薫の心を焦がした。
それでも夫に直接尋ねる勇気は生まれなかった。
聞けば今あるこの小さな幸せさえも掌からこぼれ落ち、二度と手に出来ないような気がして。
何もかも全てを掛けて愛したと思った人の心は遠く、こんなに側にいても触れることさえ出来ない。
愛されていると思った錯覚は 大人になるに連れて儚く消えていった。

幸せに酔いしれていた自分が子供だったと気づいたのは何時だったのだろう・・・
そう、きっとあの頃から・・・・



剣路が生まれて暫くした頃、女の赤ちゃんを授かった妙の所で 気の置けない友人達と初節句のお祝いをした。
「じゃぁ、剣心、行ってくるわね。」
「ああ、気を付けていっておいで。帰りが遅くなるようっだったら泊まってくるといい。」
「うん、ありがとう。剣路にはちゃんとお昼寝をさせてね。甘やかして遊ばせすぎないようにね。」
「ははは・・・分かっているよ。何も心配は要らないからゆっくりしておいで。」
「うん。じゃぁ、いってきまーす。」
妙の紹介で 結婚してから習い始めた裁縫の先生である由紀と そこで知り合ってすっかり意気投合したみつとの女ばかり4人の集まりとなった。
それぞれに家庭を持つとなかなかこのように集まって お喋りに花を咲かせるというわけにも行かなくなった。そこで、妙の赤ちゃんの祝いを兼ねて 久しぶりに女ばかりで集まろうと みつの提案で今日の運びとなった。
店の近くに新居を構える妙の家の居間には 京都の実家から送られてきたという品のいいひな人形が並び、お祝いの品々や桃の花で飾られている。
「やっぱり女のこはいいわね。こうしておひな様を飾って、何より華やかよね。」
「あら、薫ちゃん。そんなこと言うと罰が当たりますえ。跡取りの男の子をイの一番に授かったのに、うちなんかまだこれからなんぼほど生まなあかんことやら。」
「そうよ、そうよ。優しい旦那様と可愛い子供に恵まれてるくせに 贅沢だわ。」
薫の軽い一言に 結婚2年目にしてやっと出来た女のこを胸に抱いた妙と、まだ子供の居ないみつが異論を唱える。
「私のように子供も3人になると 息つく暇さえなくなるわよ。」
結婚生活の先輩である由紀がやんわりと二人をたしなめる。
それぞれの家庭での出来事や子供のことなど 白酒を頂きながら女4人のお喋りに話題は尽きることがない。そのうちにほんのりと酔いが廻ると 話題は夫婦の夜の事へと移っていった。
口火を切ったのは妙だった。
妙は薫が結婚してから暫くすると養子を取り、今は夫婦二人で「赤べこ」を盛り立てている。おとなしいけれど真面目でしっかり者だと近所でも評判の夫だった。
「薫ちゃんの所は剣心さんは剣客さんやし、体も鍛えてはるんやから夜も強いんと違うの?」
「え〜〜。そんなことない、ない。」
頬を真っ赤にして答える薫に みつが膝を乗り出して笑いながら肘で薫を突く。
「照れなくてもいいじゃないの。立派に子供も作ってるんだから。」
「それを言うなら3人も子供の居る由紀さんの所じゃないの?」
「うちはそろそろ終わりにしたいわ。もうこれ以上子供の面倒を見るのはごめんよ。」
「とか何とか言って、来年あたりもう一人増えているかもしれなくてよ。」
「ほんと、ほんと。」
笑いながら白酒の杯は干されていく。
「せやけど、男はんって可愛いもんですなぁ。」
「かわ・いいの・・・・・??」
夢見るような表情でにこやかに言う妙に 意外そうな顔で薫が聞き返した。
「そらそうどすやろ? 床の中で甘える姿を見てたらなんやえらい可愛なりますなぁ。」
「そうそう。うちなんて昼間は偉そうに丁稚や手代を怒ってるくせに 夜になると私に抱きついて『何時までも私の側に居ておくれよ』なんて言うのよ。」
手広く小間物屋を営む清兵衛の元へと後妻で入ったみつが 嬉しそうに言った。
「あの清兵衛さんが? おみっちゃんの所なんかあんなに年が離れているのに?」
何とも不思議そうに尋ねる薫に
「年なんて惚れてしもたら関係あらしまへんえ。」
「そうよ。いくら年が離れていたって甘えるのは同じよ。」
「そうなの? お由紀さんの所は?」
「うちもそうよ。あんなお堅い仕事をしていて仏頂面をしているけれど 昼と夜では全然違うわよ。尤も子供達の前では威厳を取り繕っているけれどね。」
「なに? 薫ちゃんの所は剣心さんは甘えやしはれへんのですか?」
「う・・・ん・・・そんな事って一度もないわ・・・・」
「あきまへんなぁ、そんなことでは。もしかしてそんなお年でお褥下がりなんかしてはるんと違いますやろな?」
「えっ? それに近いかも・・・・」
「そらあきまへん。薫ちゃん、もっとしっかりせな剣心さんは女子はんには結構人気があるんやから 他の女に取られてしまいますえ。」
「アハハ・・・まさか・・・」
「まさかなんてゆうてたら手遅れになりますえ。」
「そうよ。薫ちゃん。もしかしてもう他に誰かいい人が居るかもしれないわよ。」
「それこそまさか・・・・」
「剣心さんに限ってそんなことはあらしまへんやろけど、そないな事続けてたらそのうちに夫婦の危機を迎えてしまいますえ。」
「そうそう。いいわ。今日は丁度いい機会だから私達がみっちり教えてあげるわ。」
「いったい薫ちゃんの所はどうしてるのか言ってご覧なさい。」
心配半分、興味半分に女友達は薫を囃し立てる。自分たち夫婦のことでこんなに話が盛り上がってしまったことに戸惑いを覚えながらも 酔いも手伝って薫はぼそぼそと話しだした。
「だって・・・結婚して直ぐに子供が出来たし・・・・出来たら出来たで剣路は夜泣きがひどくて・・・・それで、別々の寝室で寝ることになったんだけれど。」
「それで、今もそのままなの?」
「うん・・・だって、今更・・・・」
「そないな事ではあきまへん。ええか、薫ちゃん。そもそも夫婦というのはやねぇ・・」
それから後はみんなのよってたかっての講釈が始まった。
それぞれの話を聞くうちに 何となく日頃不安に思っていたことや不満が徐々に形をなして薫の心の中に刻み込まれていく。
一度芽生えた不信感は 拭い去ろうとしても容易に薫の心を手放さず、翻弄する。
日常のささいな疑問が薫の心に小さな棘を突き刺していった。


夫は結婚してからも変わることなく薫には優しかった。何時も穏やかな笑みを浮かべ、たまの薫の我が儘にも声を荒げることなく、困ったような溜息を吐くだけだった。
世間的に見れば何処に不満があるのか?と疑う余地もないほどに 剣心は立派な夫の役を演じていた。
が、何かが違う・・・・・・・
どこか二人の間に風が吹くような空間が存在している。
それが何故なのか、違う物が何であるのか分からぬままに月日を過ごし、薫の心は答えを求めて彷徨い続けている。
そして思い至るのは あの日々の出来事・・・
それは何より夫に知られたくない、知らせたくない出来事だった。薫の心の奥深くに仕舞い込まれている思い出したくない過去であり、もし知っているのなら、二人の結婚生活は同情の上に成り立っているのかもしれない。そんなことは薫の自尊心が許さなかったし、思い出すことは剣心を裏切ることだと信じて疑わなかった。
しかし・・・もし剣心の罪の意識が剣心を薫の傍に居させているのだとしたら・・・
そう思う時、薫の心には悲しみがこみ上げ、震えが止まらなくなる。
しっかりと掴んでいたはずの幸せは 砂上の城のように風に揺られてはかなく崩れていくようだった。
すべてはあの日々の出来事が。


それは白髪の一人の青年が 非常な恨みを持って剣心へと繰り広げた復讐劇のひとコマ。
殺された姉の恨みを晴らさんと様々な手口で責め立て、戦いを挑んできた。傷ついた剣心を尻目に仲間の手を借り、薫を拉致した事から薫の不幸は始まった。

クロロホルムで失神させられ気づいたときには 東京湾に浮かぶ孤島の一軒の洋館に寝かされていた。脱出を試みる薫に部屋の扉はいとも容易に開いた。なぜならば、鍵を掛けたところで逃げ出す場所は他にはなく、島全体が監禁場所となっていたからだ。
寂しい洋館に暮らすのは 復讐者である雪代縁と薫のただ二人だけで、他に人影は見あたらなかった。
復讐に異様な執念を燃やす縁を薫は恐れたが、心配をよそに特に危害は加えられなかった。
何故自分が此処に監禁されているのか、復讐の手だての一つとして殺されないのか 考えれば考えるほど薫にとっては不思議だったが 取りあえずの身の安全に安堵の息を漏らした。
薫に何を仕掛けるでも無く、黙って静かに自分の時間を過ごしている縁を見て、ホッと胸を撫で下ろし、案外紳士なのかもしれないなどとの薫の勝手な思いこみは 無惨にも3日目の夜には打ち砕かれた。

その夜、薫にあてがわれている部屋で入浴を済ませた後の髪を梳いていると 突如として縁が姿を見せた。
剣心から受けた傷は幾分痛々しいもののかなり体は自由に動くようで 薫はその回復の早さに目を見張った。
幾らか酔っているのか 何時も何の感情も映し出さない暗い瞳は その日は狂気の色を帯びていた。
「な、なに?・・・・・」
薫は縁の突然の侵入に驚き、立ち竦んだ。
嘲笑笑 ( フフフ ) ・・・・何とはご挨拶だナ・・・・」
「な、何の用よ、今頃・・・」
「モチロン用があるから来たんダ。人註の仕上げの用ガ・・・・」
そう言って哄笑する縁の唇は吊り上がり、薫を睨め付ける瞳は妖しく揺らめき、蛇が蛙を襲う前の輝きに似ていた。
その縁を気丈にも睨み付け、精一杯の抵抗を見せて薫は問い返した。
「私を殺すつもり?」
「嘲笑笑・・・コロス?・・・・そんなつもりならわざわざこんな手間は掛けナイ。尤も今頃はお前の葬式が華々しく開かれているだろうガ。アハハハハ・・・・・」
「葬式? どういう事よ。私は此処でちゃんと生きているし、死体もないのに何故死んだことになるのよ! いい加減なことを言うと承知しないわよ。」
「フフ・・ハハハハ・・・・デハ教えてやろう。仲間の一人に腕のいい人形師が居てお前と瓜二つの人形があったとしたら・・・・」
「人形! そんな物に騙される剣心じゃないわ!」
「ハハハハ・・・・それはどうかナ・・・・今頃は嘆き、悲しみ、狂っているかもしれナイ・・・・アハハハ・・・・・」
「けんしん・・・・」
「ハハハ・・・気づかなければそれでイイ。フフフ・・尤も抜刀斎が気づくのも時間の問題かもしれないガ・・・・その為にお前を此処へ連れてきたんダ。」
自分の起てた計画が見事に完遂されることに喜びを覚えるかのごとく 縁の笑いは続く。
「ヤツがお前が生きていると知って喜ぶのもつかの間、フフフ・・・お前が無事ではないと知ったら、アハハハハ・・・・・」
「どうしようって言うのよ!」
「フフフ・・・・ヤツは姉さんを汚したんダ。だから今度は俺がヤツがしたことを思い知らせてやる。ハハハハ・・・・」
「な、なんて・・・・剣心と巴さんは夫婦だったじゃない。汚しただなんて・・・・」
薫が言い終わらぬうちに見るまに憎悪をみなぎらせ表情を変えた縁の平手が薫の頬へと飛び、その衝撃で薫は寝台の上へと投げ出された。
「夫婦だなんて言うな! 姉さんは仇を討つために自分を犠牲にしたんダ。お前になんかその姉さんの気持ちが分かってたまるカ!!」
その顔には血管が浮き上がり、怒りに顔色が赤黒く染まっている。が、何かを思い出したように一つ息を吐くと 恐怖に顔を引きつらせ黙って見つめる薫に向き直り ニヤッとゆっくり笑って縁は言葉を続けた。
「フフ・・・でも、まぁいい。今からお前もその気持ちを味わうことになるんだから・・・・・」
「私に指一本でも触れてご覧なさい! 今、この場で舌を噛み切って死ぬから。」
「フフハハハハ・・・・それもいいだろう。抜刀斎がここへ来た時に お前が死んでいると分かったら どんなに嘆いてくれることダロウ。しょせん死なんて只の一瞬の痛みにしかすぎないんダ。ヤツは己のしたことを一生後悔し、嘆き苦しむダロウ・・・それこそが人註の完成ダ。アハハハハ・・・・」
「人でなし!!」
「ハハハ・・・ナントでも言え。俺は姉さんが死んだ時に 人であることを捨てたンダ。ヤツに復讐するためだけに今日まで生きてきた。お前に恨みはないがお前がヤツの想い人だったことが罪なんダ。恨むならヤツを恨め。」
自分の台詞に陶酔し頬を上気させる縁の姿には 理性の片鱗も見いだせず、狂気のみが彼を支配していると思われた。
縁が危害を加えるなら間違いなく死のうと決心をしていた薫も 今の縁の言葉に何処にも逃げ場がないと悟らされた。
もし自分が死ねば 剣心は自身を一生責め続けるだろう。深い奈落へと落ち、地獄を彷徨う。自分を咎人だと責め続ける剣心にこれ以上の罪を背負わせたくはない。何より、薫へと微笑んでくれるあの優しい笑顔を 失いたくはない。絶体絶命の危機を目前に薫は途方に暮れた。
「お喋りの時間は終わりダ。そろそろ仕上げに取りかかロウ。」
すぅっと目を細め また薫を見つめてニタリと笑う。とっさに身を翻すと寝台から飛び降り扉口へと走ろうとした。が、敢え無く捕まり、腕を取られる。そのまま腕をねじり上げられ寝台の上へと押し倒された。覆い被さる縁に抵抗し、引っ掻き、掻きむしる。馬乗りになられたまま往復で頬を殴られ、薫は気を失い、縁を蹴り上げようとしていた足は空しく弧を描いた。


どれほどの時間が経ったのか、気づいた時にはあられもない自分の姿と股間に異物が挟まったような痛みを感じた。
身体は重く、節々が痛み、起きあがる気力もない。
焦点の合わぬままに天井を見つめ、自分の体に何が起こったのかさえしばらくは分からずにいた。
次第に意識がはっきりとしてくると どうしようもない嫌悪感に襲われ体を洗いたくなった。浴室へ行こうと思いつつ、また縁に出会ったら・・・・そう思うと鳥肌が立ち、気力も萎える。それでも、そのまま休む気にはなれずに のろのろと体を寝台から起こした。
バスローブを羽織り、そうっと廊下を覗いてみたが人の影は何処にもなかった。そのまま祈るような気持ちで浴室へと駆け込み慌てて扉を閉めた。
ぬるくなったお湯が身体の傷のあちらこちらに沁み、痛みが走る。浴槽に身を沈めた時、初めて涙が溢れて来た。
「もう剣心に逢えない。」
その思いのみが薫の心を支配し、悲しかった。
これからの自分がどうなるのか何も分からぬままに 薫は浴槽の中で泣き続けた。
泣いて、泣いて涙も枯れた時 縁の暴力に屈して泣いている自分が惨めに思え 此処で自分が悲しむことは 何より縁の人註に手を貸しているような気がしてきた。そして、何があってももう泣くまいと心に決めた。


翌日の夜も縁は薫の寝室へとやって来た。日中はまるで薫が此処にいることを忘れたかのように無関心を装い 話しかけることもなく自室に閉じこもっている。
何か対策をと考え、色々と家中を物色してみたが 縁の侵入を防ぐ為に役立ちそうなものは見つからず、ただ縁の餌食となるのを待つばかりのように思われた。内緒で運び込めるだけの椅子やテーブルで入り口を塞いでみたが、そんな物は何の役にも立たないことを直ぐに思い知らされた。
「無駄な努力のようだったナ。クククク・・・・・お前が足掻けば足掻くほどヤツの苦しむ顔が見えるようダ・・・・」
残忍な笑いを唇に載せ、愉快そうに縁が言い放つ。全身が総毛立ち凍り付く薫に 縁の長い腕が伸びた。
前日と違って意識のはっきりした中で縁に蹂躙されることは 薫の心を非常に傷つけ、このまま死んでしまいたいと何度も願わせた。その度事に剣心の笑顔が脳裏に浮かび、深い悲しみと共に唇を噛んで黙って耐えた。そんな中で唯一救われたのは 縁が薫をおもちゃにすることが目的ではなかったということだった。あっさりと肌を重ね、思いを遂げるとさっさと薫を解放してくれた。
それでも薫自身を踏みつけにしたことにはかわりはなく、悔しさに息も止まりそうだった。
こんな日々を過ごすことには耐えられそうにもない。その夜は此処から脱出する手立てをあれこれと考えた。

ここから逃げ出すには縁のスキを狙って襲い、船で脱出するしかない。そう思い極めて翌日の午後、企てた計画を実行しようと そぉっと縁の部屋を伺った。
ベランダの椅子に腰掛け物思いに沈んでいる縁の様は 襲うには絶好の好機と写った。箒の棒を竹刀代わりに握り、全速力で縁の元へと駈けた。
椅子に座った縁は一人でブツブツと喋っていたが 薫が縁の元へと到達する以前に急に大きな声を上げ、表情を一変させた。薫へと向き直った縁の顔には憎悪が溢れ、凶暴さが増している。
「コイツが、コイツが生きているから姉さんが笑わないんだ!」
そう叫びながら薫の喉を掴み、渾身の力で締め付け始める。
「やはりお前を殺さないと人註は完成しない。死ね!死ね!」
今度こそ殺される。締め付けられる苦しさに喘ぎながら、意識が遠のきかけた時、縁の顔面は蒼白になり喉を絞めていた指が離れた。盛大に嘔吐物をまき散らし、その場の床に座り込み、喘いでいる縁は「姉さん、姉さん。」と 苦しい息の下から呼び続けている。
想像も付かなかった縁のそんな姿に 怖さよりも哀れみを覚えた。
「ああ、この人も幕末の亡霊に苦しんでいる一人なんだ。時代の流れに取り残されて。」
喘ぎ続ける縁を見ながら薫は明治という時代が持つ残忍さを改めて垣間見る気がした。


その夜も縁は薫の元へと現れた。前日と違うのは暗い冷たい眼をして 一言も言葉を発しないことだった。黙って薫を押し倒し、身体を重ねる。そして途中、一言「姉さん」とポツリとその口から漏らされた。耳元で吐き出されたその言葉は 何故か薫の胸を締め付け、
知らずのうちに薫の腕は縁の背へと回されていた。
「どう言うつもりダ?」
ピクッと背中を振るわせると 動きを止めて薫の顔を見つめた。
「べつに・・・」
自分の行動が信じられずに戸惑いながらそっぽを向いたが 腕は貼り付いたように縁の背中から動かなかった。
縁は逡巡するような目の色の動きを見せたが 振りほどきもせず、そのまま自分の行為に没頭した。
縁の動きに身体を揺らされながら、やけに醒めた頭で薫は一つのことだけを見つめていた。
一人の女性を巡ってその対極にある縁と剣心。敵を討つ者と討たれる者。形は違ってもどちらも深くその人を愛していたはずなのに なんて悲しい・・・
心の奥にどちらも深い闇を持ち、闇の深さにもがき苦しんでいる。表面に現れた行動は全く違って見えるけれど 闇の奥に潜む奈落は同じ根元をなしている。縁の恨みの深さと同じ分だけ 剣心の心の傷は深いように思え、己身を十年も流浪に晒したのは自分自身を許せなかったからではないだろうか。そして、復讐することにしか生きる意味を見いだせなかった縁を思うと 憎いだけの男ではなくなっていた。


その日から二人の関係には徐々に変化が見られた。
縁が薫を見る時には必ずその後ろに剣心の姿を見いだし、憎悪を溢れさせていたのが 次第に険しい表情は消え、薫への扱いは幾分穏やかになった。
薫は恐ろしさしかなかった男に 時代の潮流に呑まれた悲しみを見、哀れみを覚えた。
何の変化も刺激もない孤島で二人の生活は続き、次第に奇妙な連帯感が生まれた。
それでも時折2階の窓から海を眺め、遙か地平線の向こうにあるだろう懐かしい我が家を思い浮かべ、そこに暮らす人々の笑顔を思い出す。

弥彦、左之助、恵さん、そして、けんしん・・・・・
縁は薫が剣心の恋人だから此処へ拉致したと言ったけれど、そう言いきれるほどの繋がりが果たして剣心との間にあったのだろうか・・・・
何時も穏やかな笑顔を浮かべ、薫には優しくしてくれた。同じ家で住み暮らし、側にいた。
しかし、暗い過去を持ちながらその苦しい胸の内は決して剣心の口から語られることはなかった。
この死闘の前に初めて聞いた剣心の人生の片鱗。
人斬りだったと知ってはいても それがどんなことを意味するのか どういう人生を送ってきたのか そんなことに思いも及ばなかった自分を 剣心が恋人と認めていたのだろうか・・・・
刃衛から薫を助けるためには自分の信念を曲げてでも いとも簡単に人斬りに戻ると言い放ってくれた。京都まで追いかけた自分に どこかホッとしたと告げてくれた。それを自分への愛情と捕らえていたが 思い起こせば剣心の口から薫への思いを匂わせるような言葉を 聞いた覚えはないように思う。多分に剣心が好きだという自分の思いに捕らわれ、剣心の優しさも自分への愛情と受け取っていたように思える。
こうして側を離れ懐かしい日々のひとコマひとコマを思い出せば、自分の恋は何の裏打ちもないあやふやな物ではなかったのだろうか。
初めて出会った日から ほのかに芽生えた恋心は次第に薫の心の中で育まれ、揺るぎのない愛情へと形をなしたと思っていた。
しかしそれも縁と関係を持った今となっては 儚く終わってしまった。
縁に囚われの身となった今では もうこのまま誰にも知られることなくこの地で果てたいと思う。剣心に何もかも知られる前に・・・・



縁との奇妙で穏やかな生活は ある日剣心達の来訪で打ち破られた。東京に帰ることを半ば諦めかけていたものの 懐かしい仲間達の顔を見ると郷愁の思いに囚われ、心は浮き足だった。縁と剣心の果てない死闘は繰り広げられ、どちらかが倒れるまでこの戦いに終わりはないだろうと思われたが、呉黒星に襲われかけた薫を縁が助けたことで あっけなく幕引きとなった。
武器密輸の疑いで斎藤に連行される縁に 憐憫の情で薫の心は痛んだ。
もっと違った出会い方をしていたら・・・・
深い悲しみに溺れ歪んでしまった縁の人生の軌道を 罪を償う答えを縁なりに見いだし、いつか修正することが出来たら・・・・・
心からそう願わずには居られなかった。



東京の我が家へと戻り、皆は一件落着と喜んだが、剣心と顔を合わせるのが辛く、薫は自室に籠もり鬱ぎ勝ちの日々を過ごした。そんな薫の様子も縁に拉致された心労が重なったのだろうと回りの温かい解釈は 薫を気遣いそっとしておく時間をくれた。
その間に剣心は恵の治療のお陰か 縁から受けた傷も快方へと向かっているようだった。
薫はあの孤島での日々が夢であったらと願い、幾日も眠れぬ夜を過ごした。
思い出すまいとしても心は二人の男のことに捕らえられ、来る日も来る日も堂々巡りを繰り返す。剣心への復讐の道具にされたと解っていても 剣心への恨みは湧いてこず、縁にさえも憎いと思う気持ちは起こらなかった。


その夜も床に入っても寝付くことが出来ず、虫の声に誘われて庭へと出て月を眺めていた。
澄み渡った空気の中で深閑と冴え輝く月は 薫の心に染み渡り 当て所もない悩みを映し出すかのようだ。
竹取物語のようにひとり月へと帰って行けたら・・・・
この苦しさからも少しは解放されるだろうに。
やり場の無くなった剣心への思いをどうすることも出来ず、諦めようとする気持ちはいとも簡単に恋心に打ち消される。否定と肯定、肯定と否定を繰り返しながら、白く輝く月へと胸の内で語りかけていた。

「綺麗な月でござるな・・・・」
不意に後ろで声がした。驚き振り向く薫に 剣心は静かな笑みを零していた。
「薫殿・・・辛い思いをさせた。すまぬ・・・・」
東京に戻ってからは自室で療養する剣心と 部屋に引きこもる薫は二人きりで顔を合わせることもなく過ごしていた。
「えっ? 辛いことなんて何にもなかったわよ。きっと剣心が来てくれると信じていたから・・・」
頭を下げる剣心に薫はとっさに嘘を付いた。
「それでも・・・薫殿に迷惑を掛けたことにかわりはない・・・」
「迷惑だなんて・・・・イヤねぇ、剣心ったら・・・そんなことはさっさと忘れちゃいましょう。こうして無事戻れたんだし・・・・」
何も気づかれぬようにと願いながら 明るく振る舞う。が、薫の目は剣心を見つめることが出来ず、胸の内を隠すために月に心が奪われている風を装った。
「こうして一つの区切りがついたことを 拙者は巴に知らせたいと思う。薫殿・・・一緒に来てはくれまいか?」
「えっ?」
「新しい人生を始めるために・・・・」
打ち砕かれたと思っていた夢が 突然薫の目の前に舞い降りた。
聞き違いであったと信じられぬ表情の薫に 剣心の言葉が続く。
「返事は聞かせてもらえぬだろうか・・・・」
「剣心、私は、私は・・・・・」
言わなければいけないと思った。でも、言ってしまえば・・・・
この幸せが音を立てて崩れていく。思いも掛けない剣心のこの言葉が 自分に向かって告げられることは二度と無いだろう。その後に来るものは絶望・・・・
恐ろしさに胸振るわせながら それでも勇気を振り絞って剣心に事実を告げようとした。
「剣心に・・・言わなきゃいけないことがあるわ・・・・・」
「ん?」
先を促すように黙って薫を見つめる剣心に 続けるべき言葉が出てこない。何度も声を発しようとするのに 喉は渇き声は喉の奥で空しく空回りをする。喘ぐように口をぱくつかせるばかりの薫に剣心が優しく告げた。
「言いたくないことは言わなくてもいい。誰だって知られたくない過去の一つや二つは有るものだと拙者に教えてくれたのは薫殿ではないか・・・・これからの人生の中で言いたくなった時に拙者に教えてくれればそれでよいのではないか?」
「ん?」と温かく瞳を覗き込まれ ふわりと優しい笑みを見せられて 薫の決心は崩れ、ただ黙って頷いた。
剣心の腕が薫の肩へと伸び 優しく胸の中へと包み込む。
「夜露は冷える。ほら、こんなに冷たい。薫殿・・・部屋へ戻ろう・・・・」

涼やかな虫の音と障子から注す月明かりの中、薫は良心の呵責に苛まれながら剣心の腕の中で涙を零した。それはもう泣くまいと決めたあの日から初めて流す薫の涙だった。


あれから五年・・・・
穏やかに過ごす日々の中で子供が生まれ、幸せに酔いしれていた。日常の細々とした雑用に追われながら あっけなく過ぎ去る時間。子供の成長に目を奪われているうちに 気づけば夫の心を見失っていた。


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