〈 第10章 〉              〈1.2.3.4.5.6.7.8.9.11
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来る日も来る日も降り続いた雨がやっと上がったかと思うと 晴れ渡った空には蒸せるような太陽が取って代わっていた。まだ太陽の位置の低い今は汗ばむほどでもないが、この分だと日中はかなりの蒸し暑さになるだろう。
そのことも朝食を採る縁を不機嫌にしていた。
薫がキッチンから運んできたコーヒーのお代わりをカップに注いだ音で 縁は読んでいた新聞から目を離した。
「やはり式典には出ないつもりなのカ?」
「ええ、私は剣路と街の中でパレードを楽しむわ。ごきげんようって挨拶はどうも好きになれないのよね。」
「わざわざ人混みの中に行かなくても観覧席が用意されているというのに。」
「あなただって全然楽しくなさそうな顔じゃない。」
「フン、誰が好き好んで。」
今日の式典に出席する忌々しさを思い出して眉根を寄せると 縁はまた新聞へと視線を戻した。

元々蘇州河によってアメリカ租界とイギリス租界は隔てられていたが 合併したことにより両地を行き来する必然性から何本かの橋の建設が進められていた。今日はその中の一本が完成し、盛大な式典が執り行われることになっている。
地元民の税と寄付によってこの地の整備が進められているのだが、当然のごとく多額の寄付を納めた縁は来賓として招かれている。
あまり人との付き合いを好まぬ縁だが、商売を円滑に進めるためには会合にも出席しなければならないし、道路建設だ、軍隊の整備だと言っては多額の寄付をむしり取られることにもなる。そしてその都度、行きたくもない式典に招かれ、愛想笑いの一つも浮かべなければならないのだ。
だいたいにおいて上流階級の人々は 顔を合わせれば金儲けのネタを探り合い、飽きると新しく購入した船や馬の自慢をし、自意識過剰で鼻持ちならない。そんな人々と付き合いなどしたくもないのだが、それでも縁が出かけるのはその話の中に様々な情報が含まれているからに他ならない。政情不安が伴う中国に於いては 誰がどこの地域で権力を握っているとか どこの取り締まりが厳しいかなど 日々動く世界の情報を詳細に掻き集めなければ 自社の荷を円滑に運ぶことが出来ないからだ。
そして今日もそんな気の進まない式典へと縁は出席する予定になっていた。
今日開通する橋は市参事会が特に力を入れていたこともあり、どの橋よりも立派で近代技術の粋を寄せ集めて造られた物だった。それだけに開通式の後には盛大なパレードが繰り出し、各地で演劇や合唱などが披露される事になっており、お祝い行事も目白押しでにぎやかな祭りになるはずだった。そのパレードや観劇は来賓達には特別な席が用意され、ゆったりと観覧できるようになっている。だから今日ばかりは婦人達の好むくだらないゴシップやスキャンダルの馬鹿話につきあう必要もさほど無いだろうと思われ薫を誘ったのだが、通りいっぱいに出る露店を眺めたり、買い食いをしたりしながら街の人々と祭りを楽しむ方が良いと言われ、剣路と二人で出かけるとさっさと決めて断られた。そんなわけで気の進まない付き合いが 更に気分の重いものとなって縁を黙らせていた。

新聞を読む夫の端正な横顔から僅かばかりの不機嫌さを読みとって 薫はこの無愛想さがもう少し何とかならないものかと心の中で溜息をつく。だからと言って人前でへらへら笑う縁など想像も付かないのだが。
五年の生活の中でこういう時は余計な話はしないに限ると知っている薫は 朝食を採るために黙って自分の席に着いた。そこへ乳母の玉紋(ユィウェン)に伴われて仕上がったばかりのチャイナ服に身を包んだ剣路が はしゃいだ声で朝の挨拶をしに現れた。その姿を見て神妙な顔つきだった薫に笑みが広がった。
「まぁ、玉紋、なんて可愛いの。剣路にとてもよく似合ってるわ。本当にありがとう。」
玉紋は薫と剣路がここに住むようになってから剣路のためにと縁が雇い入れた中国人の乳母だが、気さくで気持ちの優しい婦人で 日頃から剣路の面倒をとてもよく見てくれていた。日本から来た薫は他の西洋人達のように支那人だからといって差別をすることもなく、使用人であっても知人か友人と同じように接していた。だから玉紋もまたより一層剣路を大切に扱ってくれていた。その玉紋が日頃世話になっているお礼だと言って 今日の日のためにと自分の給金の中から生地を選び、剣路のために仕立ててくれたのだ。その仕上がったばかりの服を着ている剣路は 今日の祭りへ出かけることに早くも胸を躍らせて薫の腕にかじりつかんばかりだった。
薫の声に再び新聞から目を上げた縁が 剣路の姿を見て眉をひそめた。
「なんだ? その格好は?」
「とっても可愛いでしょう? 玉紋が剣路のために縫ってくれたのよ。」
にこにこと笑顔で答える薫に 縁はメガネの奥から覗く不機嫌そうな目つきをより険しくした。
「そんな服で出かけるつもりなのカ?」
「あら、どうして? 本当の支那の子供の様によく似合っててよ。」
「だから言ってるんじゃないカ。」
「いいじゃない。街へ出たってみんな本当の支那の子供だって思うわよ。街の人たちと一緒になって祭りを楽しむのにはうってつけでしょ。堅苦しい洋装なんかじゃ心から楽しめないわよ。」
「お前も知っているだろ? アイツらの支那人を見る時の目つきを。そんな姿をあの鼻持ちならない奴らに見られたら何を言われるか分かったものじゃない。」
「私は平気よ。言いたい人には言わせておけばいいのよ。肌が白かろうが黒かろうが同じ人間じゃないの。差別する方がどうかしてるんだわ。それに気取ってばかりのあの人達より、街で出会ったここの人たちの方がよほど気さくで気持ちが良いわ。」
「後で困ったことになっても知らないからな。」
「困ることなんて無いわ。それでもうおつき合いをしませんなんて言うんだったらその方が助かるぐらいよ。」
「フン、勝手にしろ!」
どうあっても服を着替えさせる気のない薫に業を煮やして 読んでいた新聞をテーブルへと叩き付けるようにして縁は席を立っていった。
「奥様、申し訳ありません。やっぱり他の服を選んで参ります。」
薫と縁のやり取りを見ていた玉紋は済まなさそうな顔をして謝り、はしゃいでいた剣路の表情はすっかり曇ってしまっていた。
「まぁ、玉紋、あなたが謝ることなんて無いわ。こんなに可愛いんだもの。だから今日はこのままで出かけるわ。」
「でもそれでは旦那様が・・・」
「いいのよ。あの人ったら今日は式典に出なければならないものだからイライラしているのよ。だから剣路の服装にまであたりちらしたりして。気にしないでちょうだいね。さっ、剣路もそんな顔をしてないで 物わかりの悪いお父さんなんか放っておいて一緒に朝食を食べちゃいましょう。」
おろおろする我が子の頭を撫でるようにして 薫は剣路を席に着かせた。

縁にすれば別に他人がどう思おうと構わないのだが、口うるさい大人達の噂話を聞いた子供達が剣路をからかったりしないだろうかと危惧をしたまでだ。それに今日は祭りの日だ。大勢の人が一度に街に繰り出してくる。人種の坩堝(るつぼ)のようなこの街で一部の特権階級にある人々のような身なりで有れば、街の人間もそれなりに気を遣ってはくれるだろう。だが、支那人と見なされたらどんな扱いを受けるか分かったものじゃないと心配をする。
自分の身内には強い愛情を寄せる縁だけに 剣路のことについても何でも気に掛かる。裏社会でも表社会でも顔の利く徳林(ドゥリン)

を護衛につけておけば大丈夫かと思い直して 執事に言伝て式典へと向かった。




街は想像以上の賑わいだった。
日頃から商売には余念のない中国人はもとより様々な国の露店や店が建ち並び、右からも左からも甘い匂いや香ばしい匂いが流れてくる。珍しい商品や得体の知れない代物などを売る掛け声が 雑踏を掻き分け響き渡る。それらを眺めるだけでも子供はもとより大人達でさえわくわくと胸が躍るようだ。
薫は剣路の手を引き、その一つ一つの店を冷やかしながら歩いていた。その後ろには体格の立派な徳林がさして面白くもないような表情で付いてくる。
家を出る時に一緒に馬車に乗り込んできた徳林に「どうしたの?」と訊ねたら、縁に護衛をするように言われたという。こんな強面に一緒について来られたんじゃせっかくの祭りが台無しだと思ったが、追い返せば後で縁と揉める事になるだろう。それも面倒だと思い、そのままにした。

本当にあの人ったら心配性なんだから・・・
夫の好意を少し迷惑に感じたが、いざ街に出てみると人が溢れ、徳林が目立つこともなく、居ようと居まいと親子二人の楽しさに水を差すことはなかった。
剣路はおもちゃやお菓子の売っている店の前に来ると必ず立ち止まり、飽きずにじっと眺めている。屋台にぶら下がった数々の玩具は どれも子供の興味を惹く物ばかりだ。薄い板に彩色が施され、猿や鶏が紐を引けば踊り出したり、餌をつついたりする玩具や、木槌におもりをつけ振り回すとカンカンと音のする玩具など 目を飽きさせる物はない。剣路はその中から木ぎれが三枚付いていて振り回すとギーコギーコと音のする玩具を 薫にねだって買ってもらった。そして次には舐めると顔中真っ赤になりそうな大きな飴菓子をねだった。母親にすれば眉をしかめそうなその色も子供には魅惑的に映るらしい。たしなめたがどうしても欲しいという剣路に 仕方なく一つ求めて手渡した。だが、薫は剣路にその飴菓子を買い与えたことをすぐに後悔した。大きすぎるその菓子は案の定、剣路の手をベタベタにし、服にまで赤い色がべっとりと着くのだ。
「お母さん、ちょっと手を離して。」
飴菓子と格闘している剣路は薫の手が邪魔で仕方がない。
「はぐれちゃうわよ。こんなに大勢の人なんだもの。」
「大丈夫だよ。手を繋いでたら食べられないよ。」
薫の心配などおくびにも気に掛けず、飴と格闘している我が子の姿を見て、早くこの悲惨な状況から脱出したい薫は それもそうかと溜息混じりに頷いた。そして、代わりに剣路の肩に手を置きながら通りを歩きだした。
所狭しと居並ぶ店々は もちろん子供だけでなく大人達も目を輝かせそうな食器や装飾品なども売られている。どこかの国で採れたというまばゆいばかりに輝く石や、タイの国から取り寄せたという透けるような絹の織物など 薫の注意を引くには充分すぎる商品が並んでいる。薫も思わず足を止め、見とれることもしばしばだ。やがて、その一つを手に取り眺めていたが、ふと気づくと今まで隣にいたはずの我が子の姿が見えない。
「徳林、剣路は? 剣路の姿を見なかった?」
後ろにいたはずの徳林を振り返る。人々よりは視線の高い徳林も 親子の退屈な買い物に飽き飽きしていたのか 顔は明後日の方向に向いていた。急に薫に名を呼ばれ、慌てて自分の任務を思い出した様な表情を見せた。
「いえ、隣にいらっしゃったんじゃぁ・・・」
間延びしたような徳林の返事に薫の血相は変わった。
「大変、剣路の姿が見えないのよ。徳林、すぐに探してちょうだい。」
もう買い物どころではなかった。この大勢の中で一度その姿を見失ったら、二度と会えないのではないかとさえ思われるほどの賑やかさだ。二人はすぐに駆けだし、人目もはばからず剣路の名を叫び回った。元来た道を辿り、露天商に尋ね、判らないとなると今度は先へも進んでみた。だが、二人の名を呼ぶ声は喧噪に消され、人々に揉みくちゃにされるだけで思しき姿は見あたらない。細い辻も大通りもくまなく二人は駆け回ったが、街の中のどこを探しても剣路の姿は見つからなかった。





踊るように階段を駆け上がってくる足音に クスッと忍び笑いを漏らして剣心は走らせていたペンを置いた。その日の気分がそのままの行動となって顕れる左之助はまるで子供のようだと思う。予想通りに勢いよく扉が開かれ左之助の弾んだ声がした。
「おーい剣心、そろそろ祭りに出かけようぜ。」
朝早くから事務所に少し用事があるからと出かけていた左之助が パレードの時間に合わせて戻ってきた。
「って、何だ? また弥彦に手紙を書いてたのか? 月が変わったら日本に戻るってぇのによ。」
「ああ、だが、弥彦も拙者達がどうしているか気に掛けているだろうからな、日本へ帰ることも先に知らせてやろうと思ってな。」
「お前もマメだねぇ。」
「それにお前がこんなに沢山の品を買い込むから 部屋を掃除して空けておけと言っておかなくては。そうだ、たまにはお前も手紙を書いてやれ。」
「あぁん? 俺はそう言う物は苦手なんだよ。」
「そんなことを言わずに、ほらっ。弥彦に子供が生まれるんだ。祝いの一言でも書いてやれ。」
渋る左之助へと剣心は自分の持っていたペンを差し出した。
「祝いねぇ・・・何か照れくさくってよぉ。」
「改まる必要はないだろう? いつもの話してる調子で書けばいい。」
「そうかい、じゃぁ、お前の後に続けておくぜ?」
「ああ、構わない。弥彦もきっと喜ぶだろう。」
剣心の書いた後へと続きを書き出した左之助の手元を覗き込んで 剣心がくすくすと笑い出した。
「左之。お前の文字って金釘流だな。」
「お前に言われたかねぇや。」
「なになに・・・いよぉ、弥彦。お前も親父になるんだってな。」
「オイ、コラッ、覗くなよ。」
「ハハハ・・・本当にいつもの調子だ。」
「テメェ、剣心!!」 
持っていたペンを放り出してとうとう左之助は剣心を羽交い締めにした。

左之助が運ぶ荷物と共に二人は七つの海を飛び回っていた。その合間合間に上海へと戻り、次の荷を運ぶまでのひとときをいつもこの部屋で過ごしていた。黄浦江の北に位置するアメリカ租界のこの家は 日本を離れる前に左之助が剣心と二人で過ごす為にと用意をしたものだ。飾り気のない小さな家だが この家に灯が灯る時にはいつも二人の笑い声が溢れていた。

取っ組み合いをして子犬のようにじゃれ合って、それから軽く口づけを交わしてやっと手紙は書き上がった。
「祭りのついでにフランス租界にある日本郵船へと立ち寄って この手紙を出していこう。」
「おぅ、早くしねぇとパレードが始まっちまうぜ。」
「お前がさっさと書かないからだ。」
「まだ言うか、テメェ。」
再び手を出した左之助の腕をひょいと避けて 剣心は壁に立てかけてあった逆刃刀を手に取った。
「ほらっ、早くしないと始まるんだろ?」
「ん? お前そんなもん持っていくのか? 今日は祭りだろ? 警備も厳しくて余計な詮索をされるぜ。」
「それもそうだな。ついいつもの癖で。」
「今日はそんな物騒なことは考えねぇでせっかくの祭りだ。おおいに楽しもうぜ。」
「だからと言って飲み過ぎるなよ。家まで引きずって帰るのはごめんだからな。」
「へん!誰が。お前こそ背負うのはごめんだぜ。」
誰かが聞けば馬鹿馬鹿しいと思う痴話喧嘩をしながら 二人は街へと繰り出していった。

「すんげぇ人出だな。日頃からこの街には人は多いけどよぉ。」
「左之。これではパレードを見るのは無理ではないか?」
「おめぇはちっこいからな。おう、じゃぁ俺が肩車をしてやるぜ。」
「馬鹿。子供じゃ有るまいし。少し人混みを避けよう。」
二人は大通りの角を曲がり横の小道を選んだが、大通りほどではないにしろここにも人は溢れていた。その道を港の方へと向かって歩く。しばらく歩くと前方に多くの人が集っていて 口々に円の中心へと向かって何か叫んでいた。
「おっ、何だろ? 何か珍しいもんでも売ってんのか?」
弾んだ声で左之助が剣心へと話しかけたが、近づくにつれそれは恐怖と怒りに満ちた声だと判った。その円陣の中へと身体を潜り込ませて前を伺い見る。
一目見て左之助はまずいと思った。
円の中心には白いドレスを着飾った白人の女性と二人の洋装の男性が立っていた。そしてその向かい側には意味も判らず呆然と突っ立った支那人の子供が 真っ赤な手で飴菓子を握っている。その白人女性の目にも痛いような真っ白なドレスのスカートには赤い汚れがべっとりと付いていて、その汚れを見ながら女性は泣きそうな叫び声を上げていた。その女性を庇うように前に立ちはだかった男達は手にピストルを握り、少し離れた場所に立っている支那の子供へと銃口を向けて叫んでいた。
この状況を見て黙っている剣心ではない。出がけしなに逆刃刀を置いてこさせたことを後悔しながら 自分もまた使ったことはないが相手を一瞬ひるませるのには充分に役に立つ護身用の銃を置いてきたことに地団駄を踏んだ。

「剣路だ・・・・・」
剣心の小さい呟きが聞こえた。
「あぁん? 何言ってんだよ? 支那の子供だろ? それよかどうするよ?」
「あれは剣路だ!」
言葉の終わらないうちに剣心は駆けだしていた。
「おい、待てよ、剣心。」
慌てて引き留めようと腕を伸ばした左之助の手は空を掴み、剣心には届かなかった。左之助もその後を追って走り出す。子供へと銃口を向けていた男の指が引き金に掛かった。剣心はまっすぐに子供の元へと駆け寄っていく。
「止めろ、剣心。行くな!」
前を行く剣心へと声の限りに必死に叫んだ。
剣心を止めようと伸ばした手は まったく届かない・・・
「よせ! 剣心! やめろーーーーー!!」
左之助が叫び終わらぬうちに乾いた銃声が二発、空に響いた。
人々が一斉に叫び、そして水を打ったように静かになった。

緋が宙を舞った。

子供を突き飛ばしまっすぐに伸ばされた腕はそのまま大きく円を描き、踊るように跳ねた髪は日差しを受けてキラキラと紅く輝いた。
伸びた身体は一瞬

(たわ)んで仰け反るようにゆっくりと倒れていった。

「剣心、剣心!!」
泣き声にも似た左之助の叫び声が辺りにこだまする。
駆けより抱き上げた剣心の身体は背中から貫通した弾が 赤く胸を染め上げている。
「しっかりしろよ、今、医者を呼んでやるからな!」
抱きしめ叫び続ける左之助へと剣心の目がゆっくりと開かれ 力無く首を横に振った。
「左之・・・子供は・・・・」
剣心の問いかけに目を上げる。突き飛ばされた子供は茫然自失の体で真っ青な顔をしてブルブルと震えていた。
「大丈夫だ。かすり傷一つ負っちゃいねぇ。」
「よか・・った・・・」
苦しい息の中から子供の安否を確かめると嬉しそうに頬を緩める。その間にも剣心の息は荒くヒューヒューと息の抜けるいやな音がした。何か話そうとして開きかけた口が息を呑み、肺に貯まった血を一気に吹き上げる。抱き上げた左之助自身も真っ赤な鮮血に染まりながら、慌てて指を入れて剣心の口の中に貯まった血を掻き出した。ゴボゴボと小さな咳が続く。
「しっかりしろ、剣心!」
「さ・・の・・・お前を・・・また・・ひとり・・に・・・・・・」
「もういいから、何も喋るな!」
「・・す・・ま・ない・・・」
「何言ってやがんだよ! 二人で日本に帰るんだろうが! 死んだりしたら許さねぇからな!」
剣心の胸から溢れ出す血は止まらず、胸元をびっしょりと湿らせている。
「さ、の・・・」
震える腕が弱々しく左之助の頬に触れようと指を伸ばしかけた。その指に左之助が自分の頬を擦りつける。抱きしめた剣心の口唇が左之助の耳元に重なった。苦しげに漏れる息の中から言葉は続く。
「・・おま・・え・に・・あえ・・て・・・よ・・か・・・」
安心したように息を吸い、頬に触れていた指が落ちた。
「剣心! 剣心!!」
慌てて左之助がその名を呼び続ける。だが、どんなに身体を揺すってもどんなに力一杯抱きしめても その口は二度と開こうとはしなかった。
「うそだろ・・・・・お前が死んじまうなんて・・・なっ、嘘だと言ってくれよ。嘘だって言ってくれよーーー!! 剣心!!!!」
魂を揺るがす叫び声が街の中に響き渡った。

左之助の時間が止まった。
遠巻きに取り囲んで見つめる人々も誰も語らず息を呑んで見守り、(しわぶき)ひとつ聞こえなかった。
抱きしめた身体はまだこんなに温かく 溢れ出す血は止まらないのに 瞼一つ動きはしない。
ついさっきまで楽しそうに語らっていた口唇は 二度と左之助の名を呼ぼうともしない。
朱に染まった剣心の顔は凄惨であるはずなのに 微笑みながら眠っているようだ。
物言わぬ剣心を抱きしめて左之助はそのままそこに(うずくま)り続けていた。


銃を撃った西洋人達はそれで気が済んだのか 或いは誤って異国の人間を撃ってしまったことの罪を問われることを畏れたのか 取り囲む人々の視線に耐えかねてそそくさと円陣の外へと姿を消した。
人々の間から囁き合う声が漏れだし、幾人かは同情して啜り泣いているようだった。
その人々の声を潜めるような話し声とは異質の叫び声が遠くの方から響いてきた。誰かの名前を大声で叫んでいる。その声は次第に大きくなり、人々の円陣を掻き分けた。
「剣路! 剣路! 無事だったのね!!」
薫が大声で叫びながら円の中心へと駆けより我が子を抱きしめた。
我が子の無事を喜び興奮している薫には 廻りの景色を目に入れる余裕もないようだ。薫はただ剣路を抱きしめて泣き出さんばかりに名前を呼び続けている。
その聞き覚えのある声に左之助は剣心の胸元から顔を上げた。
「嬢ちゃん・・・・・」
懐かしいその特有の呼び方が呟くほどの声だったにもかかわらず、ふと薫の耳を捉えて振り向かせた。
「左之助・・・何でここに・・・・」
「・・・その子は本当に剣路だったのか・・・・」
薫の視線が左之助の胸元に移る。
「だれ?・・・それ・・・・・・」
じっと見続ける薫の目が驚愕の色に染まった。
「剣心! 剣心! あぁ、ひどい怪我をしているわ。左之助、何でぐずぐずしているのよ。早く医者を呼ばなくっちゃ!」
慌てて駆けよる薫に左之助は静かに首を振った。
「・・・もう医者は必要ねぇんだよ・・・」
「必要ないって・・・・どういう・・・嘘!!嘘でしょ!!」
沈痛な表情で首を振る左之助に薫の悲鳴がこだました。
「イヤーーーーー!剣心!剣心!何でこんな事に・・・・どうして、どうして・・ねぇ、どうして・・・」
「事情はそこの坊主に聞いてくれ・・・」
「剣路が? 剣路が原因なの? ねぇ、何があったの? 剣路がどうしたの?」
泣き叫び興奮しながら矢継ぎ早に質問する薫を制して 左之助は剣心を抱いて立ち上がった。
「嬢ちゃん・・・せっかく助かったんだ、坊主を早いところ家へ連れて帰りな。」
「待って!左之助! どこへ行くの? 今何処に住んでるの?」
「二人の家へ・・・」
一言だけを残して左之助はそのまま背中を見せた。
取り囲んでいた人の中から誰かが気を利かせて戸板を運んできたが、左之助はそれを断ってそのまま剣心を抱きかかえて遠ざかっていった。
遙か遠くにはパレードのにぎやかな音楽が流れていた。


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