〈 第4章 〉               〈1.2.3.5.6.7.8.9.10.11


白い波を蹴って船は滑るように蒼い海を走っていく。東風を一杯にはらんだ帆は大きく張りだし、澄み渡る空へと胸を張るようだ。
次第に増えるカモメの数は 陸が近いと船乗り達に教えてくれる。
コックのボビーが甲板から空へとむかって投げたパン屑に 数羽のカモメが群がり 旋回をしながら掠め取っていく。そんな光景にこの航海も無事に過ぎたと安堵の思いが湧くのも何時もと変わりはない。
だが、今回ばかりは遠くに霞む黒々とした山々や霞の掛かったような空の色、まだ見えぬそこに息づく人々の姿までも想像して心は躍り、胸は高鳴る。

帰ってきた・・・・・

七年ぶりに踏む祖国の土は 俺を忘れては居ないだろうか・・・
異郷の地にあっても片時も忘れることの無かった恋しい人々・・・
そして何時も真っ先に思い出すのは 剣心・・・・・・
灼熱色の肌を惜しげもなく陽にさらしながら、遠くに浮かぶ面影に語りかける。
そんな左之助の瞳は懐かしさに溢れていた。

日本に戻ろうと思ったのは一ヶ月前。左之助が所有する船の親会社の社長であるロバートに呼ばれた後だった。
「どうかね?昼食でも一緒に食べながら話そうじゃないか。」
最近は少し脂肪の付いてきた身体を重そうに揺らしながら、見ていた書類から目を離し、左之助へと人なつこい笑顔を見せた。
父の代にイギリスから上海へと渡り、所有していた一隻の船を元に船会社を興し、中国で取れる茶葉をイギリス本土へと運んで財をなした。
今では最新の蒸気船を二十隻も持ち、イギリスはもとより世界各国へと様々な国で取れる物産を運んでいる。その大会社の社長であるロバートは左之助をことのほか気に入り、何かにつけ力になり面倒を見てくれていた。

そもそも日本を飛び出したときに乗り合わせていたのが ロバートの会社の船“アイベリア号”だった。
水夫の中に混じり、その船の一番下っ端として雑用全般に扱き使われた。荒くれの海の男たちに決して引けを取ることはなかったが 金もない左之助としては幾らかの給金を貰うために我慢をした。中国へと渡り、そこでまた違う船で世界へ乗り出そうと心に決めていたからだ。

西欧諸国が産業革命を機に貿易を盛んに興し、アジア諸国へと進出するようになると それぞれの地域の近海に於いて海賊の出没もまた激しくなっていった。
日本を出てから忙しくも穏やかに過ぎていた海の上での日常に 東シナ海に入ると突如として暗雲が立ちこめた。
港へと近づく船に果物や食料を売り歩く中国人の船が近づいて来た。大きい声で呼ばわり盛んに色々なものを売りつけていく。岸に着く迄待ち切れぬ男達が 荷を訊ねたり値切ったりしている。と見えたのも束の間、気づけば数十隻の箱船に囲まれ、あっという間に武装した男たちが乗り込んできた。
日頃腕っ節の強さを自慢していたアイベリア号の乗組員たちは 蛮刀を持って迫る海賊たちの前で為す術もなく右往左往するばかりで船上は混乱を極めた。
船底で遅い昼食を取っていた左之助の耳にも甲板でのただならぬ騒ぎが聞こえてきた。
「おうっ、なんだ、なんだ?」
喧嘩と聞けば血が騒ぐ左之助としては 一暴れするいい機会に恵まれたとあわてて船上に駆け上がってみると 辺りはすでに血飛沫が飛び交い、海賊の何人かは船室へと乱入しようとしていた。
「おっと、待ちねぇ。ここから先は一歩も通しゃしねえ。先へ行きたかったらこの左之助様を倒してからにするこった。」
その言葉を皮切りに日頃堪っていた鬱憤を晴らさんとばかりに 群がる海賊の中へと躍り込んだ。素手で向かってくる左之助に海賊達は当初、余裕の笑顔を向けていたが 蛮刀を振り下ろしたときには めいめい床に這い蹲らされることとなった。十人二十人と見る間になぎ倒し、そのままの勢いで海賊の首領とおぼしき男の元へと駆け込むと 問答をするいとまも与えずにあっけなく倒してしまった。指揮官を失った海賊達は狼狽し、海へ飛び込む者、悲鳴をあげて逃げ出す者など、めいめい潮が引くように見る間に引き上げてしまった。

この事件が元で左之助はちょっとした英雄になり、船上での待遇も格段に良くなった。
喜んだ船長は社長のロバートにも引き合わせ、このまま船に乗ってくれるように頼みこんだ。聞けばアジアはもとよりヨーロッパ、アメリカと世界中を旅するという。左之助としても知らない船に乗るよりは 気心の知れてきた連中と旅をする方が幾分楽しめるだろうと了承した。
それからはアジア各地で海賊の被害に遭う度に左之助は暴れ回り、一年も起つ頃には東シナ海で左之助の名前を知らぬ者は居なくなっていた。
荷を安全に運んでくれるとロバートの会社の評判は上がり、運搬の依頼も増えた。ロバートは左之助を会社の重要なポストにと望んでくれたが それならばと資金を借り受け船を一隻購入し、下請け会社として働くことを希望した。
仕事は順調に進み、気が付けば七年の歳月が流れていた。

陸に上がったときは常連のバーで飲み明かし、そのまま泊まり込むのが習慣となっている左之助が 二日酔いの頭を振っているところへ 部下の一人がロバートが呼んでいたと言付けを持ってやって来た。

「いや、昼飯は食べてきたばかりなんで・・・・」
「それは残念だ。では、コーヒーでもどうかね?」
「ああ、じゃぁコーヒーだけ・・・。で、用事って何ですかね?」
「ああ、そのことだがね、君もそろそろ所帯を持ってはどうかと思ってね。」
「はぁ?」
「年柄年中あちらこちらを飛び回っているが、君ももう二十七だ。妻や子供が居たっておかしくない年だろう? そろそろ落ち着いてもいいんじゃないかと思ってね。」
「結婚話ですか・・・・?」
「ああ。実は私の娘はどうかと思って 一度君に尋ねようと思っていたんだが・・・・」
「セシリアと?」
「ああ、どうかね?考えてはくれないだろうか?」
「イヤ、そんなことを急に言われても・・・・」
「娘は君のことを思っているようなんだが・・・私もそろそろ年だ。後身に道を譲って孫でも抱きたいと思ってね。」
「はぁ・・・・」
「そうは言っても私の会社を譲るとなるとその辺の男では取り仕切れまい。君なら安心して任せられると私は思っているんだがな。」
「はぁ・・・・しかし・・・・」
「それとももう約束をした人でもいるんだろうか? それならば無理にとも言えないがね。」
「いや・・・そんな人はいませんが・・・・あの、しばらく考えさせて貰えませんか?」
「ああ、今すぐにと言っても決められる事じゃないだろう。よく考えてくれたまえ。」
「ええ・・・それじゃ俺はこれで・・・」
「ああ、いい答えを期待しているよ。」
にこやかに送り出され、左之助は半ば放心状態でロバートの書斎を後にした。
ロバートの家には何度も出入りをし、家族のように扱ってもくれ、セシリアとは気心が知れていたが 妹のように思っていた左之助としては結婚の対象として見たこともなかったし、だいいち結婚などと考えたこともなかった。

「約束した人はいるのかね?」
ロバートの言葉が響く。
約束など口にすることも適わぬ相手・・・
「約束か・・・・・」
溜息とともにぽつりと漏れた。

港の埠頭でマストの上を飛び交うカモメを見つめ、頭の中で交錯する思い出と自分の心に向き合っていた。。
いつまでたってもけりの付かない自分の思いを断ち切るにはいい機会かもしれない。
アイツの幸せそうな顔を見れば 少しは諦めもつくだろう・・・
帰ろう、日本へ。
今度こそ決着をつけるために。


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