〈 第6章 〉              〈1.2.3.4.5.7.8.9.10.11



茜色の雲がたゆとう空に 家路を急ぐ雁たちが群れをなして渡っていく。隅田川の橋はこれから出かける者や帰る者が行き交い、町は急速に夜の顔へと変わっていく。暮れなずむ通りに早々と掲げられた行灯の火が 店々の名前をぼうっと浮き上がらせ 仕事帰りに一杯引っかけていく客を心待ちにしている。教えられた通りの角を曲がり、一町ばかりも行くと左之助の指定した「小笹」と書かれた行灯が 通りに面した門前に置かれているのが目に入った。予想に反して黒板塀で囲まれた瀟洒な造りの料亭で 稽古帰りの竹刀を提げた姿では中に入るのを一瞬ためらわせるほどだった――


昨日赤べこへと顔を見せた俺に燕がすぐに寄って来て、人気のないのを見すませて左之助の伝言を耳打ちした。
「お昼に左之助さんがいらっしゃって弥彦君へ明日の夕刻「小笹」へ来るようにって。もし都合が悪ければ他の日を聞いておくように言われたんですけど。」
「左之助が? 用事があるならうちに来ればいいのに・・・・なんだって・・・??」
「何でも弥彦君一人で出て来てくれとのことでしたけど。」
左之助の用事が何であるかは計りかねたが、またやって来ると言いながらいっこうに顔を見せぬ左之助に 文句の一つでも言ってやろうと思っていたところだ。実際左之助はあれ以来一度も顔を見せていない。その間に一度自分の郷里へと帰っていったが 信州の実家へ央太を連れて帰ると言う時も本人は現れず、代わりに使いの者を寄越して央太を連れだした。その実家からも戻って一週間も経つというのに 肝心の左之助からはなしのつぶてだ。俺の苛立ちもそろそろ限界を迎えようとしていたから渡りに船とばかりに燕へと二つ返事で答えた。


―――― 打ち水をされツヤツヤと光る玉石を踏んで玄関で訪なうと 品のいい女中が顔を出し、左之助が待ちかねているとすぐに二階の一室へと案内をしてくれた。磨き込まれた廊下の床を踏みしめ突き当たりの部屋へと誘われる。立ち止まった部屋の襖越しに 左之助と女性の笑う声が聞こえてきた。左之助一人で待っていたのではないことにいささかムッとする。
「失礼します。お連れ様がお見えになられました。」
「おぅ、やっと来たか。入ってもらってくれ。」
襖越しの女中の声に向かってすぐに左之助からの応えがある。
開けられた襖の向こうには左之助と美しい芸妓が膳を前にして並んで座っていた。 まさか左之助が茶屋遊びの接待をしてくれようとも思えず、いったい何の用事で呼ばれたのかと戸惑う面持ちで立ちすくんでいると ひどく上機嫌な声で左之助が席に着くように促してきた。言われるままに席に着くが 大輪の花のようにあでやかな芸妓がやけに左之助と親密そうで 何とも居心地の悪さを覚える。
「ハハハ・・・どうした?弥彦。そんなにかしこまって・・・あんまり綺麗なんで見とれたか?」
「バ、バカやろー。そんなんじゃねぇよ。」
「アハハハ・・・照れるな照れるな。燕ちゃんには言いやしねぇよ。」
「違うって言ってんだろ!」
「まぁ、ムキになるな。おまえは昔からバカ正直なんだからよ。この通り、弥彦は女が苦手と来ている。昔話はまたゆっくりとな。」
年上の貫禄かそれともこういう場所で遊びなれているのか余裕を見せて俺を諫め、後の言葉は芸妓へと送って席を立たせた。
「ホホホホ・・・・それじゃ左之助さん、近いうちにまた・・・どうぞごゆっくり。」
裾捌きも艶やかに席を立って俺へと一礼するとその芸妓は部屋を出て行った。
「少しも顔を見せないと思ったらこういう理由( わけ) か・・・・」
堪っていた鬱憤を吐き出すように眉をしかめて左之助へと嫌みを言ってやる。俺へと酒を注ぐために銚子を持ち上げた手が空中で止まり、黒い瞳は膳の上から俺の顔へと移りしばし呆けたように見つめ、あきれたとばかりに言葉を吐き出した。
「バーカ。ちげぇよ。お前も覚えてねぇか? 俺の長屋の斜め前に住んでいたおさきさんのところに目鼻立ちの整ったかわいい女の子が居たじゃねぇか? 弥彦よりはちょいと年上だったかな・・・? あのおゆき坊だぜ。」
「へっ??」
言われてみれば確かに左之助の長屋で桃割れに髪を結った色の浅黒い女の子を見かけたことはある。おゆきという名前までは覚えては居ないが 会えば必ず笑顔で俺へと声を掛けてくれていた。
「もっともお前には 女と言えば小せぇ嬢ちゃん以外は目に入らなかったんだろうけどな。」
あらぬ誤解を受けた敵討ちを取ってニヤニヤ笑いながら俺へと酒を注ぐ。思わぬところで自分へと話を振られ、照れと悔しさで慌てて言い返す。
「ち、違ぇーよ。俺は剣の稽古に忙しくって女なんか目に入らなかっただけでぇ。だけどあのころは色が黒かったんじゃねぇのか?」
「あの頃は母親を手伝って外で荷売りなんかしていたからなぁ・・・七年も経ちゃぁ、女はコロッと変わっちまうってこったな・・・・」
「恐ぇーな・・・・・」
女の変わり身の見事さに 俺は毒気を抜かれた。
「銀達と飲んでる座敷で偶然に会ってな、それで此処を教えてもらったってぇ理由だ。今日もこの後、此処で座敷があるそうなんだが、まだ少し時間があるからって俺の相手をしてくれて居たんだよ。お前の考えているようなコトじゃねぇよ。」
「どうだか・・・・」
まだムキになって言い返そうとしたが、それも大人げないと後の言葉を引っ込めて話題を転じた。

「それより親父さんはどうだったんでぇ?」
「央太から話は聞いたか?」
「ああ、左之助と親父さんがいつ爆発するかってずっとヒヤヒヤしていたそうだぜ。」
「ハハハ・・・あっちは相変わらずだぜ。俺の顔を見たとたんに『どちら様で?』とぬかしやがった。俺も腹ぁ立つから『どうやら宿を間違えたようで。』って言ってやったら『今度からはちゃんと場所を確かめるこった。』だとさ。見かねた央太が自分の連れだって言ったら『倅の連れじゃしようがねぇ。一晩ぐらいは泊めてやるから入んな。』って。まったく年を取ってもかわいげのねぇ。」
そう言って持ち上げた杯をぐいっと一気に煽った。
「だけど、元気そうで何よりじゃねぇか。滅多と会うこともねぇんだから肩のひとつでも揉んでやりゃぁ良かったんだよ。」
早くに両親を亡くした俺に悪いとでも思ったのか 左之助は空いた杯に酒を満たしながら逆らわずに素直に頷いた。
「孝行したい時には親は無しって言うからな。今回は俺も自分で言うのも何だが随分殊勝にしていたぜ。二、三度手は出かけたがよ。」
これでは央太も二人の間でさぞかし苦労をしたことだろう。まったくよく似た親子の意地の張り合いが目に浮かぶようで 杯を口元へと運びながら俺は目で笑った。左之助も照れたように笑みを零しながら、運ばれてきた料理へと手を伸ばす。京風の薄味に仕上げられた春野菜が品よく器に盛られ、見た目にも楽しませる。こんなごちそうをまさか左之助に奢られようとは 七年前には思いもしなかったとまた俺は可笑しくなった。
あちらこちらに箸をのばし、料理を楽しみ、酒を注ぐ。しばし左之助の実家の話に花が咲き、話題が途切れたところで左之助が一呼吸おいたあと口を開いた。

「ところで弥彦、ちょいと気になることを小耳に挟んだんだがな。」
先ほどまでの砕けた雰囲気から改まって左之助の硬い声がする。そう言えば左之助に呼び出されたのだと 何の用件か聞くのをすっかり忘れていたことに気がついて俺も左之助へと目を向けた。
「何だよ、気になることって。」
「央太がちょっと妙なことを言いやがるんだ。」
「妙って?」
「ああ、他でもねぇ、お前と嬢ちゃんは仲が悪いのか?って聞きやがんだよ。」
途端に俺の顔に緊張が走ったことだろう。俺も剣心も央太に真実を言ったことはない。僅かばかりの期間、日本へと帰ってきた左之助に 薫のことは伏せておくべきだろうとその言い訳をとっさに頭の中で思い巡らせた。が、そんな俺の表情を左之助が見逃すはずもなく 口元は笑っているが 目ばかりは注意深く鋭い眼光を俺へと注いでいる。探られることを拒むように目をそらした俺の態度は 左之助の直感が正しいことを証明してしまったようだ。俺から目を離さず、杯を傾けながら次の言葉をゆっくりと吐き出した。
「お前と嬢ちゃんときたら、仲が悪いどころか本当の兄弟以上にはしゃいでいたからな。俺にしたら解せねぇよ。『何でそんなことを聞くんだ?』って言ったらお前が嬢ちゃんの話になるといつも仏頂面になるそうだ。」
俺の表情から何一つ見逃すまいと注視する左之助の視線が痛い。俺を呼んだのはこういう理由かと今更ながらに左之助の目的に気がついて戸惑いを隠せない。慌てて苦しい言い訳をした。
「別に薫のことなんか気に掛けちゃいねぇよ。それは央太の思い過ごしだろう?」
「央太は口数は少ねぇが その分黙って人を観察していやがる。あいつが間違った見方をしているとは思えねぇんだがな・・・・」
何処までも俺を追いつめる手は緩めるつもりはないらしい。
黙っている俺にさらに左之助が言葉を継ぐ。
「道場でたまに嬢ちゃんの話題が出ることもあるそうだな? その時には剣心はあの通りヘラヘラしてやがるが お前は不機嫌そうに黙っているか その場から席を外すそうだ。他の奴らは別段気にも留めちゃいねぇようだが 一緒に暮らしてる央太には何となく判るんだろうよ。」
「・・・・・・・」
「弥彦、いったい何があった?」
「何がって・・・・・別になんにもありゃしねぇよ。」
すねたような俺のものの言い方に左之助の眉が吊り上がる。
「俺にしらばっくれようなんざ十年早いんだよ。お前は子供の時から思ったことはすぐに顔に出るタチだ。それとも七年も離れていたらもう俺はツレでも何でもねぇってか?」
どこまで白を切り通せるのか 俺の頭はうまい言い訳を考えるために 忙しく立ち働いていた。が、友達がいが無いとまで言われれば黙っているわけにはいかない。
「そんなことを今更聞いてどうしようってんだよ? もう済んじまったことじゃねぇか。」
「済んじまったって? どういうこった!?」
「もういいじゃねぇかよ。どうせお前はすぐに船に乗ってまた行っちまうんだろう? それとも此処に残って剣心を慰めてやるとでも言うのかよ?」
「慰めるだぁ? 何だそれ!? 言えよ、弥彦。何があったんだ!!」
しまったっと思った時にはもう遅かった。つい左之助の口車に乗り、言わでもがなのことを口走る。剣心の名を出したことで左之助の疑念はいよいよ深まり、形相は怒気を顔一杯に含んでいる。
「言わざぁこの拳に掛けてもお前の口を割らせてやる。いったい嬢ちゃんに何があったんだ!?」
左之助の怒りはどうやら本物らしい。此処で自分が何も言わなければ、直接剣心に詰め寄りかねない。それはまたとんでもなく剣心を苦しめることになるだろう。剣心が繕った嘘を自分が解いてしまったことへの罪悪感を感じ、噛みしめた奥歯がキリリと音を立てる。額に青筋を立てて俺を睨み付ける左之助に どう言い繕うとも沈める術は無いと判断して渋々口を開いた。
「出て行ったんだよ。」
「出ていったぁ? どういうこった?」
「どうもこうもねぇよ。ある日剣路を連れてあの家から他の男のところへ行っちまったんだよ。」
「はぁ!??嬢ちゃんがかぁ?」
想像だに出来なかったのだろう、怒気が消えて突拍子もなく左之助が間の抜けた声を出す。顎が外れそうなぐらいあんぐりと口をあいたままの左之助を上目遣いに眺めて 俺は溜息をついた。
「他に誰が居るって言うんだよ。」
「何でまた?」
「知るかよ!そんなことは! 当の薫からは俺は何にも聞いちゃいねぇんだから・・・」
「お前にも剣心にも何にも言わねぇで出て行っちまったのか?」
「いや・・・剣心とは何か話し合ってたみたいだ・・・後で剣心から薫はあの黒メガネのところへ行ったと聞かされたから・・・」
「黒メガネ?」
「ああ、あの雪代縁さ。」
「縁!!復讐か?」
「いや。違うんだそうだ。薫自らが自分の意志でそう望んで縁の元へと行ったらしい・・・」
「嬢ちゃんが・・・? 自分で・・・? 信じられねぇ・・・」
何を聞いても誰のことかと不審の表情を顔いっぱいに顕せて 目をむいて俺を見つめる。
「俺だって信じたくないさ。あんなに剣心剣心って言ってた薫が ある日突然、はい、さようならって他の男の元へ走るなんて・・・」
「それであいつは黙って嬢ちゃんを行かせたのか?」
「ああ・・・剣心に言わせりゃ、その元を作ったのは自分だからって、これでいいんだって・・・」
「元って? アイツの前の嫁さんのことか?」
「さぁ・・・・俺にはその辺りのことはわかんねぇよ。自分から話すまでは何にも聞いてくれるなってんだから・・・」
あれから薫が出て行ったその理由や経緯を自分なりに考えたりはしてみた。そして壁にぶち当たる度に幾度となく剣心に尋ねてみようかとも思ったが、その度に薄暗い部屋で一人で座っていた剣心の背中が思い出され、何もかもを一人で背負い込み、誰にもその胸の内を打ち明けることのない断固たる拒否の前に 諦めざるを得なかった。それは近くにいながら何の力にもなれない自分の無力さを痛切に感じさせられた。
「ちくしょう・・・・・なんてこった・・・・・」
絞り出すような声で左之助が唸った。俺の言ったことがどうやら本当らしいと解ると怒りが湧いてきたのか 唇をきつく噛みしめている。俺と同じように憤りを覚える左之助になら本音が言える。
「だけど俺にしたら剣心がどう言おうとも 薫が俺たちを裏切ったことには変わりはねぇよ。よりにもよってあの雪代縁って言うんだからな・・・」
薫が出て行ってから誰にも伝えたことのない胸の内を 俺は初めて口にした。
「そんなんでいながら、アイツはぬけぬけと嬢ちゃんとうまくいってるって言いやがったんだ・・・」
膳の上で握りしめられた左之助の拳がぶるぶると震えている。
「お前に余計な心配を掛けたくなかったからだろう?」
「水くさいじゃねぇか! お前も剣心も・・・・・」
なだめようと言葉を掛けた俺をきっと睨み付け、やり場のない怒りの捌け口を求めて左之助が怒鳴る。
「俺にどうしろって言うんでぃ。俺にはわざわざ剣心の傷口を広げるようなことは出来ねぇよ。」
左之助の感情を跳ね返すべく 俺の声も自然と荒くなった。
「くそっ・・・何のために・・・・」
歯がみをして怒気を露わにした左之助の手の中にあった杯が 小さな悲鳴をあげて崩れた。左之助の怒りが何であるのか今ではおおよその見当がつく。子供の時には見えなかったものが 身体と精神の成熟に伴って次第にはっきりとしてきた。自分の身を削りながら贖罪への道を探す最強と謳われた剣客は その闘いぶりの中で子供の俺にも強い憧れと人生の道を示し、その強さに近づきたいという思いは 深く俺の心に根ざした。子供の俺にとっては 兄とも師とも仰ぎ、強い羨望で見つめた剣客も 左之助にとっては憧れだけで終わるには 剣心には引きつけるものが多すぎたのだろう。その精神の強さと優しさの陰に隠れる儚さ脆さに気づけば 手を触れずには居られない。だから左之助は剣心の幸せを願って日本を離れたのだろう。今では俺はそう理解している。

「なぁ、左之助・・・・剣心をそっとしておいてやれよ。お前だってもうすぐ嫁をもらうんだろ? もうお前にはお前の世界があるんじゃねぇか。」
「離れていた俺には そんな資格はねぇってか!?」
「そういう意味じゃねぇよ。だけど、もう俺たちはあのころには戻れない。みんなそれぞれの道を見つけた、そういうことだろ?」
「俺は」
言葉を続けようとしながら ふと目にとまった自分の拳を見つめて何を思ったのか、
「いや、もういい・・・・・」
と それっきり左之助は黙ってしまった。苦いやるせない空気が二人の間に漂う。それぞれの思いと感情が胸の内に去来する。
左之助がこんな時に居てくれたらと 何度思ったことだろう。そうすれば俺たちは何も変わらないで居られたのかもしれない。少なくとも薫や剣心の良き相談相手にはなってくれたことだろう。子供の俺では理解できないその心情も 左之助ならば一条の光を見いだしてくれたのかもしれない。ぼんやりとそんなことを考えていたら いつか過ごした想い出のひとコマが浮かんだ。


剣心が空を眺めていた。そんな姿を何度か目にしたことがある。最初は明日の天気のことでも考えているのかと思った。だが、そのうちにそれは流れていく雲をずっと目で追っているのだと判った。剣心の心はその流れゆく先の見知らぬ大地を彷徨っていたのではないだろうか。 現実感のないその立ち姿に何故かそんな気がした。
そして、それは薫も感じていたのだろう。
あれは庭で二人して竹刀を振り回した後の休憩の時のことだった。ひとしきり薫と汗をかいた俺は縁側に寝そべり、弾む呼吸を整えていた。神谷家の庭の上に広がる秋の空はどこまでも高く澄み渡り 絹を刷いたような雲が薄く空を染めている。その空を眺めて俺の隣に腰掛けた薫が 不意に溜息とともに呟くように漏らした。
「人の心って自由にならないものね・・・・」
「なんだよ、それ?」
「うん? 何となく剣心を見ているとね・・・あの人の心の中には誰か他の人が住んでいるんじゃないかって・・・」
先ほどまで情け容赦なしに俺に打ち込んできた薫とはまるで別人のような 眉を寄せて少し悲しげに見える表情が俺を驚かせ、慌てて飛び起きさせた。
「はぁ? お前おかしいんじゃねぇか? 剣心が浮気でもしているって言うのかよ?」
「ううん。そうじゃなくって・・・・もうずっと前から剣心の心の中には誰かが住み続けているんじゃないかって。」
俺の方へはちらとも顔を向けずに 遠くを見つめ続ける横顔にかすかな翳りが差している。常には見せないそんな表情を訝しみ、注意深く薫を見つめた。
「お前・・・・死人にやきもちかよ? 死んじまった人間と剣心を取り合いしても始まんないぜ。」
「そうなのかしら・・・・」
「何で今更そんなことを気にするんだよ? そりゃ剣心も幕末を生きぬいて来たんだから色んなことがあっただろうけど、少なくとも死んじまった嫁さんよりお前を選んで ここへ残ったんだろう?」
「うん、それはそうなんだけど・・・」
「だったら余計なことは考えねぇでいいんじゃねぇのか? 俺の目から見れば剣心はお前に充分優しいじゃねぇかよ? あんなに大事にされていったい何が不満なんだよ?」
思いつく限りの慰めを言葉にして俺は薫へと訴え続ける。
「うん・・・・」
「剣心だって朝から晩までお前のことばっかり考えていられやしねぇぜ。 お前、剣心、剣心って剣心のことばっかり考えてるからそんな風に思うんじゃねぇのか?」
「や、やあねぇ。そんなに一日中剣心、剣心って言ってないわよ。」
「そうか? 結構言ってるぜ? 今度数えておいてやろうか?」
「馬鹿! そんなことしたら絞めるわよ。」
「ちぇっ、俺は親切で言ってやったのに・・・だけど、誰かの心を一人の人間のことだけで埋め尽くすなんて無理な話だぜ。余計なことは考えずに お前はお前のつかんだ幸せをしっかりと握っていればいいんじゃねぇかよ? なんと言っても今は剣心の嫁さんは薫一人なんだからよ。」
子供の俺の言葉でも少しは慰めになったのだろう。どことなく不安気だった面持ちが 剣術小町と言われた元来の明るい表情に変わった。
「そうね・・・そうよね。ありがとう弥彦。」
「やけに素直じゃねぇかよ?」
「なによ。人がせっかく素直にお礼を言ってあげてるのに。」
「それがお礼って態度かよ?」
「何ですって!?」
そして、休憩時間はなし崩しに次の竹刀への撃ち合いへと発展していった。
恋愛経験もなく、まして女の気持ちなど理解の外の俺には その時は薫の嫉妬心が 一人で空回りしているのだろうと少々馬鹿馬鹿しく思った。
幼なじみに毛の生えたような恋愛だが、来年には燕と祝言をあげることになっているこの頃になって、あのころの薫の気持ちが何となく理解できるような気がする。いつも相手が何を考えているのか知りたい、知らなければ不安になる、それは、恋をすれば誰もが感じるごく当たり前のことなんだろう。あの時の薫は確かに剣心に恋をしていた。


「人の心って簡単に変わっちまうものなのかなぁ・・・」
夢から覚めたように呟いた俺に じっと考え込んでいた左之助も顔を上げ
「うん? なんだ、弥彦? 早くも来年の祝言を前にして気弱になってんのか? 燕ちゃんとお前なら大丈夫だろ?」
自分のことを心配しているとでも思ったのか にやりと笑って見せる。
「ん・・・・そう言う理由じゃねぇけど・・・でも、薫だってあんなに剣心に執心していたんだぜ?」
「変わるヤツもいれば永遠に変わんねぇヤツもいる・・・・変わらないで藻掻いてるヤツも居るさ・・・・」
「変わらないで居られたら・・・・・・なぁ、左之助、俺はあのころが一番幸せだったような気がするぜ。」
「あの頃か・・・金はなかったけどなんか毎日が楽しかったな。」
「結局俺はずっとあの頃を追い求めているだけかもしんねぇ・・・闘いの連続で気の休まる時もほとんどなかったけど、気の合う仲間が集い、いっつも前を追いかけてた・・・」
「昔を追い求めるにはお前はまだ若すぎるぜ。お前はお前の時代を生きて 今度はお前が時代を担っていく番じゃねぇのか?」
「それを言うなら左之助だってまだまだこれからって歳だろう? 剣心だって隠居って歳でもねぇし。」
「はは・・違ぇねぇ。」
言葉は肯定しながらも、その態度と声は自分の時代は終わったとでも言いたげだと俺は感じた。昔の左之助は 鋭利な刃物のような部分がぎらついていたのに 今日はすっかり老成したかのようだ。その態度の違いは 俺に左之助の海の上での生活の苦労を想像させた。
「時代か・・・・時間は優しくて時には残酷なものだな・・・」
「ああ・・・そうだな・・・・」
俺たちの上を通り過ぎていった時間を懐かしむかのように 俺の言葉に大きく頷いて左之助は目を伏せた。

涼やかな風鈴が鳴る内庭で剣心が洗濯をしている。その隣では薫と俺の竹刀を打ち合う音が響き、恵のからかう笑い声がこだまする。そして左之助の怒鳴り声、剣心の困ったような苦笑い、そんな風景に俺はその日、いつまでも左之助と浸っていた。何でもない日常がどんなに幸せだったか噛みしめながら。


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