〈 第5章 〉              〈1.2.3.4.6.7.8.9.10.11


左之助が日本に帰ってきたと 出稽古の帰りに赤べこに寄った弥彦が聞き込んできた。
「今、昔なじみと連れだって赤べこを出たそうだけど きっと夜にはこっちへやって来るぜ。」
少しでも早くそのことを伝えたかったのだろう、全速力で走ってきたのか息を切らしながら頬を紅潮させて 早口にまくし立てる。

左之助が・・・・

何度また逢える日を胸に描いたことだろう。
半ば諦め、もう逢うことはないと自分自身を戒めてきた。
それでもこの神谷の屋敷に住み続けていたのは こんな日が来ることを心のどこかで期待していたからなのかもしれない。
驚きと戸惑いで口が利けずにいると
「どうしたんだよ、剣心。左之助に逢えるのが嬉しくねぇのか?」
声を上げて喜ぶとでも思っていたのか 期待はずれの表情に弥彦が不満の声を上げる。
「そんなことはござらんよ。ただ、急なことで吃驚しただけでござるよ。」
「だったらもっと驚いた顔をしろよ。せっかく俺が情報を仕入れて来たってぇのに・・・なぁ、剣心。何かご馳走でも作って待っていてやろうぜ。アイツ、今もきっと大食いだぜ。」
「と言っても今日は何もたいしたものはござらんよ。」
「だと思って、ほら。」
得意げな笑顔を浮かべ 左手に提げていた紙包みを剣心に手渡す。
「赤べこで牛肉を分けてもらってきた。これで牛鍋でも作ればいいじゃねぇかよ?」
「ふむ、食べることになると手回しがいいでござるなぁ。」
「何だよ、せっかく俺が気を回してやったのに。」
「はは・・すまぬ。では弥彦も手伝ってくれぬか?」
「ああ、じゃ、ちょっと竹刀を置いてくらぁ。そうだ、央太にも知らせてやらなくっちゃ。アイツは部屋か?」
「ああ、多分そうだと思う。読書をするとか言っていたでござるから・・・」
気が逸るのかこちらの返事も待たずに 央太の名を呼びながら弥彦は部屋の奥へと駆けだしていった。

左之助に再び逢える事を待ち望んでいたのは 自分のみならず弥彦も同じ気持ちだったのだろう。顔を見れば絶えず口喧嘩をし、兄弟のように騒いでいた。弥彦の左之助を慕う気持ちは大きく、その成長に一役かっていたようだ。
左之助という人物は常に周りを明るくし、そのまっすぐな心根が恋い慕われる。
あの広い胸に魅了されるのは自分ばかりではないだろう。
抱きしめられ、求められ、その心に包み込まれてどれほど安らぎを覚えたことだろう。
自分の剣の腕への憧れだと判っていても その心にすがり付いた。
自分の弱さを黙って受け止め、見守っていた。
そんな左之助は今、どんな男になっているのだろう。
七つの海を自由に駆け抜け、大空のような大きい男になっていればいいと願う。
自分の腕からもこの狭い日本からも抜けだし、自由に羽ばたいて駆けているならば この苦い胸の内も少しは軽くなるだろう。
辛い別れも無駄ではなかったと思えるだろう。
左之助が今幸せであるならば・・・心からそう願う。

「剣心、剣心ってば。」
「うん? どうした?弥彦。」
「どうしたじゃあねぇよ。何度呼んでも返事もせずに何を考えこんでんだよ?」
野菜を切る手が止まっていたらしい。その様子を訝しんで弥彦が口を尖らせる。
「ああ、すまぬ。ちょっと昔のことを思い出していた。左之助は何が好きだったかと思ってな。」
「アイツは何でもいいんだよ。口ん中に入りさえすれば。」
そう言う弥彦の方が今はゴミ箱のようによく食べる。その気持ちのいい食べっぷりは 左之助もそうだったと思い出して口元がほころぶ。
軽口をいいながら支度をし、膳を並べて左之助を待った。
が、左之助は夜が更けても現われなかった。
「剣心、アイツ、少し冷てぇんじゃねぇか? 七年もたったら俺たちのことなんか忘れちまったんだぜ。」
先ほどまで央太へと左之助の思い出話をひとしきり話して聞かせていた弥彦が そろそろ腹の虫を押さえるのも限界と見えて 箸で茶碗を叩きながら恨めしげな目つきを剣心へと送った。
「そんなことはござらんよ。左之は昔から町の者には人気があった故 きっと、みんなが離さないのでござろう・・・」
「でもそれにしたって何とか抜け出せるんじゃねぇのか?」
「ははは・・・そうむくれるな。腹が空いているからそんな気になるのでござろう。もう待たないで食べてしまおう。今日はご馳走でござるよ。」
「そうだな。来ないヤツが悪いんだからアイツの分まで食っちまおう。後で腹ぁ減ったって言って来たって後の祭りだからな。」
三人揃って浮かれた気分で居ただけに その日の夕食はやけに寂しく感じられた。
行灯の芯が燃える音さえ静かな屋敷にこだまするように思われ、弥彦へと言った言葉は自分への慰めではないかと思う。何をおいても一番に此処へやって来るだろうとの期待は見事に裏切られた。
弥彦や央太の前では努めて気取られないようにしていたが 片づけを終え、床にはいると堂々巡りの憂鬱に捕らわれる。

左之助が自分を許すはずがないと思う。
誰よりもまっすぐな気持ちで恋い慕ってくれていたその気持ちを どんな形であれ、裏切ったのは自分なのだから。
自分が忘れられないからと言って 左之助がそうだと言えるわけがない。もしかすればもう友だとさえ思ってもらえないのかもしれない。
手を伸ばしても左之助に届かないと思えばこそ あえて目を瞑っていた考えが頭をもたげ己に現実を知れと諫める。
せめてもう一度逢えるなら、良き友で在ったと思われたい。せめてそれぐらいは・・・・
こんな女々しい気持ちなど絶対に悟られてはならぬと改めて心に誓った。


翌日の午後、誰もいない道場で一人剣を握っていた。
左之助の帰郷の知らせは心を乱し、何をしていてもつと手が止まり考え込んでしまう。
剣を握り、気を引き締めれば 胸の内に堪る黒いもやも少しは晴れるだろう。

見えぬ敵を瞼の裏に思い浮かべ、耳を澄ませ、心を澄み渡らせる。気に触れる一瞬の時を待ち、無の世界へと浸る。
頭の中に思い描いた敵は微動だにせず、静かに闇の中に佇む。
五感の総てを無の中へと注ぎ込み、唯ひたすらに時を待つ。
心気が一つに重なり、気が充実する時を。
柄を握る手から剣の重みが消え、身体と一体となる。
そうして過ごす無想の時間の中で ふと張りつめた神経に触れる気配を感じた。
何処までも真っ直ぐで隠すことのないおおらかな気配を。

来た。

七年前と何ら変わることなく無防備なほど明るい。
「左之助か?」
背に感じる気配に瞑想に浸ったまま声を掛ける。
「お前が剣の稽古たぁ、珍しい。」
懐かしい声が静かな道場に響く。その声にゆっくりと剣を引き鞘に収めながら振り返った。
戸口に肩を預けて、軽く手を挙げ「よぉ。」と笑顔を零す。陽に焼け、昔よりも浅黒くなった肌に白い歯がまぶしい。
「拙者も年だ。身体が鈍っていかぬ。近頃は道場が空いているときに 時折こうして気を引き締めることにしている。」
ようやく見せた懐かしい顔にほころぶ笑顔を挨拶代わりにして、左之助へと返事を返した。
「よく言うぜ。気配だけで俺を悟っておきながら。昔とちっとも変わっていねぇじゃねぇか。」
「そんなことはござらぬ。この頃では弥彦にも敵わぬよ。」
「おめぇが? 嘘をつけ。それより弥彦はどうしたぃ?」
「ああ、今は出稽古に行っているよ。昨夜はお主が来ると思って待っていたんだが、いつまで経っても姿を見せぬのでずいぶんむくれていたでござるよ。」
「おっ。情報が早いじゃねぇか。まっ、赤べこに顔を見せりゃ此処へはすぐに連絡がくるよな。俺も昨夜はすぐに引き上げるつもりが 懐かしさのあまりちょいと酒を過ごしちまった。目が覚めたら朝んなってた・・・・」
頭をかきながら照れ隠しのように話す素振りは 昔と少しも変わりはしない。
この七年の間に左之助がすっかり変わってしまったのではないかという不安は 自分の思い過ごしに他ならないと 昨夜からの気鬱が氷解していく。
「それより、髪・・・切ったんだな・・・」
左之助が好きだと言った長い髪は今はもう短く切り揃えられている。昔と変わってしまった容姿に 左之助が言外に何か言いたげな表情をする。
「文明開化の世でござるからね。」
何も気づかぬ振りをして額にかかった髪を跳ね上げ 時の流れは此処にもあると左之助の言葉を遮って明るく笑ってみせた。



道場から母屋へと移動する間、左之助は「へぇ。」とか「ほぉ。」と左右を見回して声を上げてはしきりに感嘆の声を出す。
「てぇしたもんだなぁ。」
「何を先ほどからそんなに感心しておる?」
「いや・・・世の中はやれ西欧化だの文明開化だのと騒いで ここへ来る間もずいぶんと町並みも変わっちまったってぇのに ここはちっとも変わりゃしねぇ。家具の配置から盥の置いてあるところまで 昔と同じそのまんまだと思ってよ。」
「変な感心の仕方をするな。」
後ろを歩く左之助に剣心の朗らかな声が抗議をする。

剣心がこの家に住み着くようになってから 剣路の部屋が出来たこと以外、変わった物は何一つ無い。それも今は半ば封印された状態だ。以前弥彦が出稽古先で知り合った人物から茶箪笥を安く分けて貰えると剣心に告げたことがあった。茶の間に置いてある今ある茶箪笥はかなり古く、傷だらけで扉の閉まりも悪くなっていたからだ。しかし結局は買うのを辞めてしまった。
神谷の家にある物はどんな物でも剣心には処分することは許されないような気がした。自分がこの家の当主でありながらも 多分にただ預かり、守っているだけのような気がするのだ。その人生の中で初めて家らしい家に住み、もう八年も住み暮らしているというのに終の棲家だと思えたことがない。だから薫がこの家を出て行った後は さっさと弥彦に権利を譲ってしまった。そんな剣心に弥彦は
「まるで野に棲む獣のように 自分の痕跡を残さねぇようにしているみたいだ。」
と言う。冗談めかして言ったその口調の中に弥彦の危惧が見え、その危惧は見事に剣心の核心を突いていた。
まさか七年ぶりに逢った左之助がそんなことに気づくはずもないが 心の内は乾いた笑い声の中に隠した。

茶を煎れてくるからと厨へと立った剣心の背中を見送って 左之助は改めて部屋の中を見回した。長押に掛けられた槍も置いてある屏風も七年前の記憶の儘、一寸たりともその位置が変わっていないように思える。ここでは何もかもが時間の止まったまま、昔に戻る、そんな錯覚さえも起こしそうだった。開け放した障子から望める庭の木々が昔よりは成長し、生い茂っている。僅かばかりにそのことだけが七年の月日を物語っていた。

茶道具と沸かした湯を持って居間へと引き返した剣心は まだ物珍しげに部屋中を見回している左之助を認め、くすくすと忍び笑いを漏らした。
「そんなに物珍しいか?」
一声掛けて慣れた手つきで湯飲みに茶を注ぐ。「お待ちどうさま。」と左之助の前に湯飲みを置く剣心の横顔に向かって
「おめぇ、嬢ちゃんと別居中だってな?」
と 左之助の朗らかな声が投げかけられた。
一瞬、剣心の肩がぴくりと動き、少し間をおいて左之助を見つめ返す。
「誰から・・・・?」
「いや、赤べこで妙から・・・」
「ああ、妙殿から・・・置き去りにされた哀れな亭主を笑っていたのでござろう?」
何かあるのかと左之助が勘ぐる前に 顔一杯の笑顔を浮かべ、拍子抜けするぐらいの明るい声で問い返した。

世間では薫は叔父の病気見舞いと剣路の療養のために浜松で暮らしていることになっている。妻に逃げられた不甲斐ない夫だと世間の評判になっても剣心としてはいっこうに構いはしない。だが、生涯を掛けて守りきれなかった薫のために 薫が愛して止まなかったこの神谷活心流の名誉と それを担い看板を背負っていく弥彦の将来は 何としても守ってやりたかった。剣心のそんな思惑に気づいているのか 或いは気の毒だと思っているのか弥彦の本意は分からないが、剣心が弥彦にそう言い含めた時に 彼は黙って頷いた。以来、誰かが薫のことを尋ねても 子供の居ない叔父夫婦の為に孝養を尽くしていると また、剣路が時々喘息の発作を起こすので 東京よりは空気の綺麗な浜松で療養させているといつもにこやかな笑顔と共に吹聴して回った。そんな嘘は剣心が時折家を空けることで 浜松へ親子に会いに行っていると更に真実みを帯びて世間に伝わった。

「浜松のおじさんとやらの具合は相当に悪いのかよ? もう二年になるんだってな?」
「最近はかなり加減も良いらしいよ。だが、剣路の喘息のこともあるし、両親を亡くした薫にとって親代わりとしてずいぶん世話になったそうだから 出来る限りの孝行をしたいと言って向こうに居着いているよ。」
「そんなんでおめぇは寂しくねぇのかよ?」
「時折拙者も訪ねているし、弥彦のこともあるのでな。来年には弥彦にここを譲って拙者も向こうに行こうかと思っている。」
「仲良くやってんだな?」
「ああ、おかげさまで何とかな。」
もう何度も世間に対して言ってきた そして、そのお陰でどんな時にもさらりと言ってしまえるようになった嘘を もう一度左之助に告げる。
露程も暗さの感じられない剣心の声の調子は 左之助が願った剣心の幸せを確信させた。あのまま自分が此処へ留まれば 剣心にこんな穏やかな日常は訪れなかっただろう。明るく笑う妻とかわいい子供、世間並みの幸せが此処にはある。これで良かったのだと思う。と、同時に左之助の胸に小さな痛みが走った。いつまでも忘れることの出来ないあの二人の日々は 永遠に失われもう二度とは還らないと改めて左之助に告げていた。

「それよりお主はどんな暮らしをしていた? まだ一人なのか?」
湯飲みから茶を一口啜りながら、何でもない世間話のように尋ねる剣心の表情は穏やかだ。
「ああ、まだ一人もんだ。だけど、こんな俺に娘をやるって言う物好きもいてな。今度帰ったらもらおうかと思ってる。」
自分ばかりが持つ苦い胸の痛みをさらけ出さないようにと充分の注意を払いながら、左之助は今の今まで決めてもいなかった結婚話を さも約束事のように持ち出して剣心を見つめた。もう一口茶を啜ろうとうつむき加減だった剣心の表情は読めなかったが、顔を上げた時には満面の笑みをたたえ、
「そうか、それは良かった。幸せになれよ。」と 旧友の祝い事を心から祝福しているように見えた。
胸の中の思いは噛み殺し、「ああ。」と頷く左之助の返事は どこか乾いた響きを持ってカラカラカラと宙を舞い、春の午後の風の中にかき消えた。


空がうっすらと色付こうかという頃合いに弥彦と央太が出稽古から帰宅した。
裏の木戸からいつものように帰ってきた弥彦は 中庭を通してその向こうの母屋の中に見覚えのある長身を見いだし、大きな声で呼びながら駈けていった。
知らない青年から「左之助。」と呼び捨てにされたと一瞬怪訝な表情を見せる左之助もすぐに誰であるかは合点がいった。
「弥彦か?」
「お前ー! よもや俺の顔を忘れたんじゃないだろうな? そんなだっせーこと言うと承知しねぇぞ!」
今にも竹刀で殴りかかろうとする弥彦に笑顔をこぼし、大きくなったと目を見張る。
「そういう気の短いところも変わっていねぇ。確かに弥彦だ。」
日本を離れた時にはまだほんの子供だった弥彦が 今は左之助と変わらぬほどの身長になり、声も低音にすっかり変わってしまっている。だが、すぐにムキになって何の遠慮もなく言い返す言葉も人懐こい笑顔も左之助には覚えの有るものだ。まるで浦島太郎よろしく時の流れに戸惑う左之助を 弥彦の後ろで微笑む少年がさらに驚かせた。
「左之助、央太でござるよ。」
いっこうに気づかぬ左之助に剣心が気を利かせて紹介をする。戸惑いながらもはにかむような笑顔を見せて 弥彦の後ろでじっと左之助を観察するその少年と目が合った。
家を飛び出してからたった一度きり郷里へと戻った時に 知らぬ間に生まれていた弟に 自分が兄だとも告げずに 大きくなったら神谷道場へ修行に来いと言い置いた。その言葉通りにここへ来てそろそろ二年になると言う。小さな胸の中に大きな憧れを焼き付けた人物が 自分の何であるかを今ではすっかり理解をし、いつかは会えるだろうと胸に思い描いていた。小さな声でぼそっとつぶやくように言った「兄さん。」という言葉に 柄にもなく左之助が照れて弥彦の嘲笑を買った。
「でかくなったな・・・・」
どちらへともなく思わず漏らした言い方が 年寄り臭いとまた弥彦が笑った。 


左之助の帰国祝いとなった夕食の間も笑い声と賑やかなやりとりが 常は静かなこの屋敷を包む。左之助が話して聞かせる異国の地の冒険譚は聞くものを虜にし、魅了してやまない。海で出会った海賊達や仲間の話、何処までも続く褐色の大地やそこに息づく肌の黒い人々の営み、見たこともない動物たちの話など 弥彦や央太は好奇心をむき出しに いつまでも話をせがむ。
いつか剣心が望んだように左之助の世界は広く果てしない。杯を傾けながら昔よりは陽に焼けた褐色の肌を剣心は眩しそうに見つめ、大海原を自由に駆け抜ける左之助が誰よりも誇りに思え、自分が足枷にならなかったことに安堵を覚える。黒く輝く瞳に映されたであろう遠い異国の地を思い描き、違ってしまった自分たちの道に思いを馳せる。
この地に留まり、左之助の無事を祈りながら日常に紛れて暮らした自分の生活が 左之助の過ごした時間に比べて剣心にはひどく矮小に思えた。


昔よりはいける口になったと真っ赤な顔をして豪語する弥彦がへべれけになり、何とか目を開けようと央太が無駄な努力を重ね始めた頃、宿へ帰ると左之助が腰を上げた。
「おや、泊まって行かぬのか? 床ももうくべてあるというのに。」
昔のようにそのまま腰を落ち着けるだろうと見越していた剣心が 意外そうに目を見張る。
「そうだ、そうだ、泊まっていけぇ、左之助。」
「すまねぇな。明日は朝から人に会う用があんだよ。」
すっかり酔っぱらって死んでも放さじと左之助のズボンを握りしめる弥彦の手をやんわりと解きながら やっと見つけた言い訳に縋るように左之助は席を立つ。何を見ても昔と変わらぬこの屋敷で 変わってしまった自分達の間を見つめて夜を過ごせば 思い出が押し寄せ責め苛む。戸口まで見送る剣心や弥彦に 近々またゆっくりやって来ると片手をあげて その長身を闇の中に忍ばせ帰っていった。



先ほどまで充分に酒を過ごしていたというのに、眠れぬ夜の予感に 剣心は飲み残しの燗冷ましを持ち、庭への雨戸は開け放したまま縁側に腰を落とす。
春と言ってもまだ訪れたばかりのこの季節では冷たい空気が辺りを包み、天に瞬く星は冴え冴えとした光を放っている。
静まりかえった庭には遅咲きの梅の香りが漂い、木戸へと目をやれば立ち去ったはずの左之助が舞い戻ってきそうな気がして。
「どうした?」と問えば、「またお前の顔が見たくなった。」と 照れた笑顔を見せて 月明かりの中に立っていた七年前の左之助の面影を 庭の木立の中に探す。
「きりがないではないか。」
一途な心を嬉しく思いながら「しようのないヤツ。」と諭していたあの日の自分。
「キリは着くぜ。お前が俺の気持ちを分かってくれたら。」
悪戯っぽい笑みを浮かべて真っ直ぐに自分の思いを告げる。
幻は何時かは消えるものだと言った自分が 何時までも幻に振り回されている。時は移ろい、人はそれぞれ流されていく。流れることも出来ず、幻を消すことも出来ぬ自分は 何処へ流離えばいいのだろう。

また一口、喉を濡らした酒が消えかけた思い出を映し出した。


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