〈 第11章 〉              〈1.2.3.4.5.6.7.8.9.10


昭和五年、初夏。
「おじいちゃん、おじいちゃんたら・・・もうっ。」
柔らかな温かい手が俺の肩を優しく叩く。
「おじいちゃんたらまた空を見ていて眠っちゃったのね。起きてよ。おじいちゃんにお客様なんだから・・・」
女学生となってからは少しませた口をきくようになった孫の佳奈子に肩を揺さぶられ 俺は縁側でのうたた寝から目が覚めた。
「客って、誰だ?」
「知らない、見たこともない人。さっきから玄関で待ってるわよ。」
ほんとに呑気なんだからと くるくるとよく動く瞳が俺にそう告げていた。
「いったい誰だろ・・・・」
道場を息子に譲り隠居の身となってからは 俺を訪ねてくるのは碁を打ちに来る近所の年寄り連中ぐらいだ。
その目に送り出され、玄関へと急いでみると 一目で田舎から出てきた百姓と見て取れる 慎ましい身なりの老人が上がり框に腰を掛けていた。
「お待たせして申し訳ない・・・ええっと・・・どちら様で?」
俺の顔を見て慌てて立ち上がった老人が深々と頭を下げた。
「ワシは長野県に住む木下作蔵と言うもんです。明神弥彦様で?」
「ああ、明神弥彦は確かに私ですが・・・・」
上がり框には風呂敷包みが置いてある。農家の百姓が物を売りに来たにしてはわざわざ俺を名指しにするのもおかしなものだ。会ったこともないこの老人が何故俺を訪ねてきたのか皆目見当も付かないまま 深い皺の刻まれた実直そうな顔を眺めていた。
「ああ良かった。あんたに届けるように頼まれた物がありましてな、もっと早くに来たかったんだが、田植えやら何やら重なったもんで・・・とうとう今日になってしまいましたわ。どうかご勘弁を・・・」
「えっと・・・それでその届け物というのは?」
「ああ、これは用事がすっかり後回しになってしまって。実は相楽左之助さんから頼まれたもので・・・」
「左之助!! あんた、左之助を知ってるのか!?」
もう俺は掴みかからんばかりに身を乗り出していた。
「あ、ああ、そりゃ、もう。」
「どこに!? 左之助は今どこに居るんだい!?」
がしっと老人の肩を握り前後に揺する俺に 申し訳なさそうなそして同情を含んだ顔をして老人は俺に告げた。
「左之助さんはもう一月にもなるだか前に亡くなりまして・・・」
「死んだ・・・・? 左之助が・・・・・?」
「ええ、それでワシは左之助さんが亡くなる前にこれをあんたに渡して欲しいって頼まれました。あんたにとってはとっても大切な品だから 必ず届けて欲しいと言われたわけでして・・・」
そう言って老人は牛蒡の束でも包んであるような風呂敷包みを差し出した。
結び目を解くと藁を巻き込み、茣蓙の上から解けぬように大事そうにしっかりと何重にも結ばれている。俺にはもうそれが何であるのか判りすぎるほどに判っていた。固く結ばれた紐に手を掛け、解く時間ももどかしい。
左之助の行方と共にこの手に戻ることはないのかもしれないと半ば諦めかけていた。慌てて開いてみるとやはりそれは この四十年間まったく目にすることの無かった剣心の逆刃刀だった。
俺にとっては何物にも代え難く、生涯忘れることの出来ない持ち主への懐かしさが胸に迫り、手に取り抱きしめていた。
その様子にわざわざ遠方から届けた甲斐があったと老人は何度も頷き、
「やっぱりあんたにとって大切なものでしたか・・・・ワシもこれで役目が果たせましたわ。」
そう言って人の良さそうな笑顔を向けた。
「ああ、それからこれも預かっておりました。どうぞお納めを。」
そう言って手渡されたのは封筒ぐらいの大きさの油紙で包んだ書状だった。それを胸元に納めながら是非左之助の話を聞かせてくれるようにと頼み、ここで良いと遠慮する作蔵を離れへと案内した。

開け放された縁側からは涼風が流れ込み、少し汗ばみかけた肌の熱を奪って行く。作蔵は武家屋敷が珍しいのか 少しもじもじとしながら居心地悪そうに部屋の中を見回している。氷の入った麦茶を勧めながら、かしこまって座っている作蔵へと話しかけた。
「左之助は私にとって兄とも思えるかけがえのない友人でした。そしてここの主とは懇意にしておりまして 気の合う二人でした。しかし、四十年ほど前に主が亡くなりました時に同じく行方が判らなくなったのです。それ以来方々訪ねたのですがその行方はまったく判らずじまいでした。それが、先ほどあなたの口から思いがけない名前を聞くことになって大変驚きました。どうかご存じの所をすべてお聞かせ願えませんか?」
「へぇ、そりゃもう、ワシの知っていることで良ければ。」
純朴そうな笑顔を浮かべて作蔵は左之助との想い出を語り始めた。


――――― 五年ほど前のことになりますかなぁ。ある日ひょっこり左之助さんがワシらの村にやって来て 村のはずれの小高い農家に住みだしたのは・・・
信州の山深い村なもんだから左之助さんの格好が珍しくて、異国の地から来た人かなどと噂したものでした。ワシらの格好と言えば猿股か着物で、街で見る洋服とも違いましてな、どこかの国の民族衣装かも知れませんが不思議とよく似合ってましたなぁ。
家の前にある小さな畑をよく耕しておいでで、顔を見れば挨拶ぐらいはしたもんですが・・・何と言っても山の中の小さな村ですからな、閉鎖的なところもありまして、左之助さんもあんまり自分から人と関わろうとはしませんでした。
ですが、ワシのばあさんの墓が左之助さんの家の前の小道を上がっていった山の上にありましてな、毎月命日には必ず参っておりました。左之助さんが越してきて二,三ヶ月経った頃でしょうかなぁ、いつもの様にワシはその小道を上がって行ったんですわ。左之助さんの家を越えてしばらく上がると 小道の脇に少し開けてて景色の良いところがありましてな、そんなに広い場所じゃないんですが、そうですなぁ、五,六坪ぐらいですか、信州の山が一望できましてな、ワシはいつもそこで休憩を取るのを楽しみにしてました。だからその場所のことは隅から隅までよく知っているわけで・・・ところがその日はそこに大きな石が一つ置いてあるんですな。ちょうど開けた場所から村を望む様に立ててありましてな、先月まではこんな石は無かったのに いったいどうしたもんかと不思議に思いましたなぁ。よく見ると石の前には野で摘んだ花が飾ってある。これはきっと何かの墓だろうと思いましてな、手を合わせてそのままそこを立ち去りました。しかし、次の月もその次の月もやはり花は飾ってありましてな。その花から見ると毎日お参りをして居るようだし、誰のだか判らないがきっと大事な墓に違いない、そう思いましてな、墓参りの途中なもんですから 持ってたお線香をお裾分けして上げさせてもらったんですわ。
まさか、線香を貰って怒る人もあるまい、そう思いましてなぁ。それからは墓参りにはその墓の分も必ず線香を上げるのが習慣になりましたわ。
そんなある日のこと、いつもの様にワシは線香を持って小道を上がって行ったんですわ。そうしたらその日は石の前に先に人が座ってましてな、誰かと思ったら左之助さんでした。ワシの持ってる花やら線香を見ましてな、
「あんただったのかい。いつもありがとよ。」
そう言ってにっこり笑いまして、その顔が人懐っこそうで遠目で見てる時とえらく感じが違うと思い つい話し込んでしまったんです。
「人様のお墓に勝手に線香など差し上げて失礼かとも思いましたが、少しでも供養になればと思いましてなぁ。」
「イヤ、コイツもまったく知らねぇ土地で思いもよらず知人が出来たって きっと喜んでると思うぜ。礼と言っちゃ何だが、あんたもここで一杯やらねぇか?」
そう言って湯のみを一つ渡されましてお酒を頂きました。それがなかなか上等のお酒でございまして、口当たりの良さについつい過ごす事になってしまいました。話をしている間にも左之助さんは時々湯のみの酒を その石へと掛けたりなさってましてねぇ、まるで三人その場に人が居るかの様でした。その様子に生前はずいぶん仲の良いご夫婦だったんだろうと思いましてな、
「死んだ後までもそうして大事にされて、奥さんもさぞかし喜んでらっしゃる事でしょうな。」
と、こう申し上げたんです。そうしたら、
「コイツは嬶じゃねぇよ。俺が自分の命をやっても惜しくねぇと思った男の墓だ。嫁さんならとっくの昔に二度目の嬶を貰ってただろうな。」
そうおっしゃって笑ってました。この歳になってなんですが、そんなに大事に思える無二の友人に巡り会えた事が 何とも羨ましく思えたことでしたなぁ。
しかしそんなに大事なお方なら何故このようなところに人知れず墓など造りなさったのかと思いましてね、伺ってみたんですよ。
「ですが、何故名前も刻まないでこんな所に?」
「コイツが生きてた時に 自分はいつでも野に屍を晒すつもりで生きてきた。だからもし、自分が死んだらその辺に埋めておいてくれて構わない。こう言ってやがったからな・・・でも、何もねぇとどこに埋めたかわかんねぇだろ? だから、これは俺の目印だよ。それに俺の故郷をいつか見せてやるって約束をしてたからな。ずいぶん昔の話で約束を守るのが遅くなっちまったが・・・」
「昔というと・・・?」
「ああ、もうかれこれ三十年以上も前になるかな・・・コイツが死んじまってから・・・・」
「そんなに前に・・・・じゃぁ、それまではどうなさっておいでで?」
「連れ回してたんだよ。」
そう言って恥ずかしそうに笑われるんですな。
「コイツが死んじまって、俺も生きてる目標が無くなっちまって 明日っからどうやって生きていっていいのか判んなくてな、半ば自棄気味でとにかくコイツを俺の故郷に連れて帰ろう、そう思ったんだ。その頃俺は船乗りだったから、小さい帆船を出してな・・・周りのみんなはそんな船じゃ無茶だ。海に出たらたちまち浪にのまれちまう。自殺行為だ。そう言って反対したけどな、その時の俺は何か不可能なことを可能にでもしねぇかぎり生きていけねぇ、それで死んだら死んだで構わねぇと思ったんだ。もし、無事に辿り着けたら それはコイツが生きてろって言ってるんだろうし、死んじまったら迎えに来てくれたんだろうな。そう思って、な。一種の掛けみたいなもんさ。
案の定、三日目の晩に嵐が来て マストも折れちまって舵も利かなくなっちまった。そのまま潮の流れに乗って漂流する日が何日も続いたぜ。そのうちに食糧も尽きて いよいよ俺も死ぬんだな・・・そう思った時にたまたま漁に出てた地元の漁師に助けられてな、こうして今日まで生き延びてるって理由だな。」
「それで、ずっと外国で生活をなさってらっしゃった?」
「ああ、それでちったぁ俺のツキモンも落ちたのかもしれねぇ。コイツが生きてろって言ってんなら、死に損なった命を何かに使ってやろうと思ってよ。それで、コイツが言ってた『目に映る人々の幸せを守りたい。』ってぇのを実行してみようかと思ったんだ。俺に何が出来るか分からねぇけど何でもやってみようと思った。
んで、砂漠の中で井戸を掘ったり、独立運動に参加してみたり、奴隷解放を一緒になって叫んだりしたんだが、でも、それが目に映る人々の幸せを守ることになるのかどうか、正直なところ俺には判んなかったよ。
社会ってぇのは ちょうどコインの裏表の様に一体になってやがる。弱いもんの味方をすれば他方でまたその社会の仕組みに乗って生きてるヤツも居るわけで、そいつらがその地位を追われるとたちまち弱いもんになっちまう・・・・いつまで経っても、どこへ行っても四民平等もなければ社会の底辺で喘いでるヤツもなくならねぇ。いったいどうすりゃ良いんだと思ったぜ。いつまで経っても答えは見つかんねぇしな・・・・
結局俺に出来たことと言えば しがねぇ自己満足に過ぎなかったのかもしれねぇ。しかし世の中にそんなバカが一人ぐらい居てもいいだろう? そう思ってな・・・
そんなことをしながら気がつきゃ三十年以上も経っちまってた。
俺もそろそろ歳だし、少々疲れちまってな、コイツも三十年以上もうろつきゃそろそろ勘弁してくれるだろう、もうゆっくり眠りたい、そう思ってるかも知れねぇなんてな・・・
一人にするのがかわいそうな気がしてずっと一緒に引っ張り回してたからな。そろそろこの辺りで約束通り、俺の故郷で静かに暮らすのも悪くねぇかと思って帰ってきたんだよ。」
そう言ってまるで酒のつまみ代わりのように気軽に話されるんですが、ワシらのように山の中で明け暮れている人間には どこか遠いお伽噺でも聞いているような気がしましてな、どうにも実感が湧きませんでしたわ。ですが、左之助さんの持つ独特の雰囲気がさもありなんと思われましてなぁ、その人柄や話にすっかり魅了されてしまったんですわ。
「ほぅ、すると左之助さんはこの村のご出身で?」
「イヤ・・・・俺の村はあの山の向こうだな。だが、久しぶりに訪ねてみると生糸でえらく繁栄してて昔の面影はすっかり変わっちまってた・・・それにここは俺にとっても想い出の深い場所だからな、そう言う意味ではここも俺の故郷だと思って、な・・・
それに何よりここは景色が良いじゃねぇか。俺が見せてやりたかった信州の山が一望できてよ。きっとコイツも満足してるに違いねぇぜ。」
そう言ってまた湯のみの酒を墓石に掛けていらっしゃいました。

それからはちょくちょく左之助さんとも行き来をするようになりましてな、時々山へ入って兎や雉を捕ったからと言って届けて下さったり、ワシも嫁が作った煮物などを届けたりしました。左之助さんの話はワシの知らないことだらけで 酒を飲みながらその話を聞かせて貰うのが何よりの楽しみでしてな、暇が有れば出かけるといった按配でした。
そんなある日、いつものようにワシが左之助さんのお宅を訪ねると その刀を手にとってじっと眺めてらっしゃる。声を掛けても一心不乱にずっと見つめて居なさるんですな。手元には刀の手入れ道具など一式を置いてらっしゃる。それで
「前身が武士とも見えんのだが、お武家の出ですかい?」
こう訊ねましたところ、
「そんなものは俺の小さい時にとっくになくなっちまったよ。俺の実家は農家だ。自慢じゃねぇが刀なんぞ使ったことは ただの一度だってねぇよ。」
そうお答えでした。今では刀などもすっかり珍しい物になってしまいましたが、時折美術工芸品として蒐集されている方を見かけたりいたします。そういった方は刀の善し悪しを見分けるためにじっと見つめていらっしゃったりする。しかし、左之助さんの持ってらっしゃる刀はこれ一本きりですし、そんな方とは少し様子が違って見えましたから、
「じゃぁ何でそんなに熱心に見つめてらっしゃる?」
と訊ねると
「それはコイツが俺の魂の半分だからな。」
そう言ってニヤリと笑いなさった。そしてまたじっと刀を見て居られる。
その様子がいつもと雰囲気が違いましてな、まるでそこに人でも居るかのように見つめて居なさる。それでワシも横でその様子をじっと見ていたんですな。そうしたら不思議なことに誰かが左之助さんの前に座っているような気がしましてな。イヤ、姿は一向に見えないんです。いくら目をこらしてみてもただ刀があるだけで その向こうは間違いなく茶箪笥などが見えるだけで・・・しかし何となく人の気配がするようで おかしな事もあるものだと思って左之助さんに言ってみたんですわ。
「左之助さん、ワシ、まだ酒も飲んどらんのに早くも酔っぱらっちまってるのか変な気がする。誰かがあんたの前に座ってるような気がして ワシもいよいよ老いぼれちまったわ。」
そう言いましたら、
「おっ、さすがとっつぁんだ。いつも線香を呉れてるだけのことはあるじゃねぇか。」
そんなことをおっしゃる。
「じゃぁ、その刀はあの墓の御仁の物で?」
「ああ、度々手を入れてやったりするんだが、そんなことを言ったのはとっつぁんが初めてだ。コイツも嬉しくてとっつぁんに礼を言いに現れたんだろうよ。」
そう言ってまた刀をじっと眺めて居なさった。
その話を信じたわけでは有りませんが、今思い出しても不思議でしてな、左之助さんとその方との友情と言いますか、心の結びつきの強さに改めて感じ入ったような次第でした。

それから後も左之助さんとはずっとおつき合いが続いておりましたが、この冬の終わりに村でタチの悪い風邪が流行りまして、春を迎えた頃にとうとう左之助さんも寝込んでしまわれた。ワシら家族で出来る限りお世話をさせてもらったんですが、一向に良くなる気配が無い。長年の無理が祟られたんでしょうな、床を離れられなくなってしまわれたんです。その頃には一日の大半はとろとろと寝て過ごされておりました。ワシも心配で附いておりましたら目を覚まされましてな、急に礼を言われるんです。
「とっつぁん、いつもすまねぇな。」
「なんの、これぐらいのこと。それよりも早く良くなってまた一緒に酒を飲めるようになって下さいよ。」
「ありがとよ、ずっと附いててくれたんだな・・・・」
ずっと眠っておいでだと思ってたんですが、ワシらが側にいることに気が付いておいでだったんですな。
「だがよ、どうやらもう酒はいけねぇみてぇだ。とっつぁん、最後に頼みを一つ聞いてくれねぇか?」
こう何とも気の弱いことをおっしゃられましてねぇ、ワシも言葉に詰まったような次第で・・・・
「頼みなら何でも聞きますが、最後などと気の弱いことはおっしゃらないで下さいよ。」
「そうありたいもんだが、今度ばかりはどうやらいけねぇ・・・・俺が死んじまったらそこにある刀を 東京の神谷活心流って剣術道場の明神弥彦ってヤツに届けてくれねぇか?」
「明神様ですな?」
「ああ、渡せば判るはずだ。」
「その方はいったい左之助さんにとってどういう方で・・・・?」
「俺の・・・大事な友達(ダチ)だよ・・・」
「ご友人で? なら、今からでも連絡して来て頂きましょうか?」
「いや・・・アイツには不義理ばかりしちまった・・・・一度は訪ねてやらなきゃ、そうは思っていたんだがよ・・・顔を見れば昔のことを思い出す。それが辛くってな・・・とうとう訪ねずじまいだ。でも、きっとアイツは判ってくれるだろうよ、そう思ってるんだがな・・・だから、俺が死んでも知らせなくてかまわねぇよ。その代わり必ずその刀を届けてやってくれ。頼む・・・」
「分かりました。必ず届けますよ。」
「すまねぇ。それでもし、神谷道場ってところがもう無かったり、弥彦が居なくなっちまってるようだったら、それをそのまま持ち帰ってあの墓に埋めてくれねぇか?」
「あそこに埋めればよろしいんですな?」
「ああ、アイツに返してやってくれ・・・それでもう心残りは何にもねぇ・・・」
それだけおっしゃって またすぅっと眠ってしまわれた。それからは一向に意識は戻りませなんだ。そして、その二日後でした。眠るように息を引き取られたのは・・・・・
最期に何かおっしゃっておいでのようで 口元に耳を寄せましたら
「これでやっと・・・」 
そう言い残されました。
他に身よりも聞いておりませんし、村の世話役とワシら家族だけでひっそりと弔いをさせてもらいました。墓はやはりあの場所が良いだろうと倅も申しまして、村の見えるあの場所に寄り添うように二つ並べて建ててございます。
ワシも酒の相手が無くなり、今も瞼を閉じれば左之助さんの笑顔が浮かんできて 寂しい思いをしております。
あんなお方にはもう生涯会うこともございませんでしょうなぁ・・・


―――― そう言って作蔵は目頭を押さえていた。
左之助の晩年を思えば この人の良い老人にどれほどその無聊(ぶりょう)を慰められたことだろう。最期を看取ってやることの出来なかった無念も そう思えばいくらか癒されるような気がした。
左之助を知る身よりの一人として俺は何度も作蔵に礼を言い、近々その村を訪れる約束をした。
帰って行く時も門口で見送る俺へと何度も振り返り、頭を下げる。その人柄に俺の方こそ頭の下がる思いだった。



陽はまだ高く、初夏の日差しが陽気に離れの縁側に注ぎ込んでいる。
俺は逆刃刀を脇に寄せ、作蔵から受け取った書状を手にしてそこに腰掛けた。
かつて剣心が 住み暮らした部屋を今は俺が使っている。
上海から帰ってきてからもやはりこの部屋に来ると一向に実感が湧かず、今にもひょっこり帰ってくるのではないかと 主が出て行ったそのままに置いていた。しかし剣心は戻らず、人の口にもその名前が上ることがすっかり少なくなった十五年前に 息子夫婦のために自分の部屋を明け渡し、俺はこの部屋へと移った。
今も瞼を閉じれば洗濯の水音が聞こえ、薫と左之助の口げんか、剣心の笑う声が鮮やかに響いてくる。風鈴のかすかな音色、うるさいぐらいの蝉時雨、俺の幸せだった子供時代の光景は いつもそこで止まっている。

あの時と同じように軒先に吊したままの風鈴が 風に揺られてチリリン、チリンと軽やかな音色をたてて遠い記憶の中から連れ戻した。
俺は作蔵から渡された書状を開いてみた。
丁寧に包まれた油紙を開くと 遙か昔、綺麗な色だといつも見とれていた緋色の髪を小さな束にして綺麗な紐で結わえてある。その髪と黄色い染みの付いた 古ぼけた封筒が出てきた。封は切られていて 宛名には「明神弥彦様」と見覚えのある懐かしい筆跡が並んでいる。
取り出した中の手紙はもう何度も開かれては畳まれ、畳まれては開かれたのだろう。折り目は深い皺を刻み、所々よれている。破れかけた箇所には裏から紙を当て綺麗にのりで留められていた。年代を思わせる霞んだ青いインクは 紛れもない剣心の文字を刻んでいた。
四十年前に届くはずだった俺への剣心からの手紙だった。



『 弥彦、燕殿も変わりなく元気でいることと思う。
お前に手紙を出すのも三ヶ月ぶりのことだ。今、俺は左之助の都合で上海に帰って来ている。ここへはもう何度も帰っているのだが いつも人があふれ活気に満ちているのには驚かされる。生あるもの総ての活力がここには漲っているような気がするよ。
先日、警視庁の新市殿に偶然にもこの町で出会った。条約改正に奔走する大隈氏の護衛で訪れたと言うことだった。その新市殿からもうすぐ弥彦が父親になると聞かされ、左之助と二人で大いに驚いたよ。左之助の喜びようはお前にも見せたいぐらいだ。毎日、雑貨屋や衣類店などを訪ねては 男か女かも判らぬというのに生まれてくる赤子の用品を買い込んでいる。もう今では二人の手でも持ちきれぬぐらいになってしまったよ。
今日もこの町では久しぶりの祭りがあるというので左之助と出かけることになっている。開いた市で またぞろ赤子のものが増えることだろうと思う。
来月には一度日本へ帰るつもりだ。そちらに着く頃には 一部屋分ぐらいの祝いの品が用意されているのではないかと危惧している。部屋を空けて待っているがいいよ。
元気な赤子の顔を見るのを楽しみにしているよ。
日本ではそろそろ藤の花も咲く頃だろう。燕殿共々温かくなったからと言って油断して風邪など召さぬよう祈っている。
逢える日を心待ちにして。
                                 剣

追伸
いよぅ、弥彦。お前もとうとう親父になるんだってな。驚いたの何のってへそが茶を沸かすたぁこの事だ。剣心と二人で思い切り上等の赤ん坊の服を探してやっから 楽しみにして待ってなよ。お前のだらしなく締まりの無くなってる顔を楽しみにしているぜ。
じゃぁな。                           左 』


もう、あれから四十年も過ぎたというのに あの日の二人がまるで昨日のことのように俺の心の中で笑い、語りかける。初めて子供を持つ俺に 二人が肩を並べて幸せな想像をしながら祝いを考えてくれていた姿が瞼に浮かぶ。
この四十年間、左之助、お前はどんな気持ちでこの手紙を読み返していたんだろうか。
二人に訪れたほんの短い穏やかな時を何度も思い返し、過去の中に生きていたんだろうか。
最期まで剣心と共に生きていたお前の心を思うと その強さに感服し、寂しさに涙が零れる。
俺は今でもお前や剣心の背中を覚えている。
いつも前を向いて何かと戦っていた。それは正義のためであったり、この世の矛盾にむかってであったりした。俺はその背中に追いつきたくて 追い掛けることに懸命になっていた。なのに四十年前、突如としてその背中は消えた。
あれからこの国は三度の戦争を経験し、最後の徳川(とくせん)も数年前に亡くなった。江戸という時代は確実に葬り去られ、明治、大正、昭和と時代の変遷は続いている。だが、政治家達は変わらず権力闘争に明け暮れて、本当の意味での民権はまだまだ遠い。
剣心やお前が望んだ「人々の笑顔を守る」という事は なんと果てなく難しいことだろう。

今思い返してみれば、俺が確実に出来たことと言えば自分の倅達を諭し、彼ら自らがそう望んで人々のためにとその職に就いたことぐらいだろうか。
一人で闘い続けた左之助の人生に比べると なんと微量で矮小なことか・・・・

こみ上げる涙で文字が滲む。

剣心、左之助・・・・

俺は心の中でその名を何度も叫んだ。



目の前に置かれた逆刃刀はあの日の儘、柄は血と汗を吸い剣心の人生そのものを物語っていた。
そして磨き込まれた鞘には退色してしまって今ではもうその元の色さえ留めぬ赤い布が巻かれていた。
それはそっくり剣心と左之助を映し出すように俺には見えた。

手に取り左手の親指を鍔に当て静かに鯉口を切ってみる。
抜き出した刃は手入れが行き届き、錆一つ無く見事な丁子の乱れが刻まれている。
光が反射してまばゆい輝きに包まれた刀身は 不殺を貫き通した剣心の信念を写し出すかのようだ。
今も昔もその刃には一点の曇りもない。
鏡のように磨き込まれた刀身に向かって 俺は静かに語りかけた。
「剣心、やっと、帰ってきたんだな。長い流浪だったぜ・・・・・」
物言わぬ刀は黙って光を跳ね返す。
手にした細い抜き身に頭上に広がる一面の空が見えた。
ぽっかりと浮いた雲が一片、刃の中に現れてゆっくりと通り過ぎて行く。
振り返り、見上げた空には白い雲が浮かび、青い空の中を漂って行く。
それは様々に形を変えながら 一つ二つ折り重なり
やがて遙か遠くまで流れていった。


                            了   2004.4
  






長い、長いお話に最後までおつき合い下さってありがとうございます。
るろうに剣心に惹かれ、ぞっこんハマりこんで早9年。
消化不良で終わった原作にどこかで自分なりにケリをつけたいと この話を思い立ったのは2002年の秋でした。当初から最終章は出来上がっていたのに こんなにも掛かってしまったのは やはり10章が辛く、何でこんな物を書いてしまったのだろうと後悔の連続だったから。(笑)
拙い文章で言いたいことのどれほどをお伝えできたのか分かりませんが、楽しんで頂けたのなら幸いです。
お叱りなどもございましたら お気軽にご意見をお寄せ下さいませ。
最後までのご拝読、ありがとうございました。
                          Tsuki