〈 第3章 〉               〈1.2.4.5.6.7.8.9.10.11


「あ、弥彦、ちょっと・・・・」
いつものように出稽古に出ようとしていた俺を 縁側から顔を出した薫が呼び止めた。
「なんだい? 薫。」
「ん、ちょっと留守をするからあんたに留守番を頼んどこうかと思って・・・」
「留守って、何処に?」
「うん、浜松の叔父が具合が悪いようなのよ。それで見舞いがてらに手伝いに行こうかと思って・・・・」
「えらく急だな。浜松って言ったらそんなにすぐに帰って来れないだろ?」
「うん・・・行こうかどうしようか迷っていたんだけど・・・・剣路も連れて行くから留守を御願いね。それと・・・これ剣心に渡しておいてくれる?」
そう言って一通の手紙を俺に手渡した。
やっかいな事件が起こるたびに 浦村のひげメガネは剣心を引っ張り出す。今回も福島で立てこもり事件があり、人質を取り立てこもる手練れの犯人達に警察が斬り込めず、膠着状態が続いているという。そんなわけで三日ほど前から剣心は留守をしていた。
「なんだ? 手紙? それなら警察に頼んでおけば直ぐに手渡してくれるじゃないか。」
「うん、いいのよ。忙しいのに手を煩わす程のことでもないんだから・・・」
その薫の言い方と手紙が何となく俺の心に引っかかったが、たたみ込むように
「じゃぁ、お願いね。」
と急いで言う薫にうんと返事をした。
「行くなら行くで昨日のうちにでも言っておいてくれればいいのに・・・変なヤツだな。」
出稽古先へと急ぎながら俺はぼやいていた。

近頃は出稽古もすっかり俺の役目となってしまい、結構忙しい日々を過ごしていた。
流派が違うからと言っていた剣心も 薫が身ごもってからはそうも言ってられなくなり、ひげメガネや警察の紹介で増えた門下生達に 初心の手ほどきぐらいならばと道場を手伝うようになっていた。もっとも剣路が生まれて薫が復帰するとさっさと道場を明け渡してしまい、自分はまたおさんどんに明け暮れていた。
俺の目から見ればちょっと変わった夫婦だった。
小さい頃に両親と死に別れた俺が 夫婦とはなんたるかを知っているわけではないが、世間で言う夫婦とは違うような気がした。
言ってみれば兄と妹、剣心と薫の間に甘ったるいような雰囲気はなく、二人が結婚する前からと何ら変わることもなく俺も含めて三人兄弟のような暮らしがずっと続いていた。
おかしいと言えば剣心の剣路に対する態度も 何処かちぐはぐなような気がしていた。
常日頃、近所の子供達にも優しい剣心だから 自分の子供が生まれるとさぞかしメロメロになるだろうと思っていたが 一歩距離を置いたような態度で接している。
直接親父という存在を知らない俺にとっては 父親というものは母親とはまた違う子供の育て方をするものだと 剣心の態度を見てそう思った。

薫が出かけてから二週間ほどで剣心は帰ってきた。
「ただいま、弥彦。何か留守中に変わったことはなかったかな?」
「ああ、おかえり、剣心。うん、別に・・・・」
「そうか。薫達の姿が見えないようだけれど 何処かへ出かけているのか?」
「ああ、アイツなら浜松のおじさんの具合が良くないとか言って剣路を連れて出かけちまったよ。剣心が出かけてから三日目ぐらいだったかな・・・・」
「ほぅ。浜松のおじさんが・・・・・」
「そうだ、薫から手紙を預かってたんだ。ひげメガネに頼めよって言ったんだけど 別に急がないからって。」
ほいよと少し皺になった手紙を剣心に手渡した。
受け取った手紙が意外にも分厚いことに怪訝な表情を見せたが 直ぐにいつもの笑みを頬に載せて封を切った。が、読み始めて直ぐに手紙をたたみ懐へと仕舞い込んでしまった。
俺へと向けた顔には何の感情も顕しては居なかったが、手紙を読んでいる時に二,三度その眉がピクッと動くのを俺は見逃しては居なかった。
「薫、何て・・・?」
心配げに訪ねる俺に
「ん? ああ、弥彦が聞いた通り浜松のおじさんの様子が随分悪いようだ。しばらくは帰れそうもないと病状など詳しく書いているようだな。後でゆっくり見てみよう。それより弥彦、稽古はいいのか?」
何でもないといった風で答え、話をすり替えた。
俺には剣心がこの話を打ち切りたがっているように思われた。まだ聞きたいことはあったが、何か有れば話してくれるだろうと半ば後ろ髪を引かれる思いで俺は道場へと向かった。

その日から剣心は何かをずっと考え込んでいるようだった。
食器を洗いながらその手が止まっていたり、何時までも同じ着物を洗っていたり、そうかと言えば、道場で何かを斬り払うように何時までも剣を振るって形の稽古をしていたりと俺の目には不自然と映ることが多くなっていた。
常とは違う剣心の態度に「何かあったのかよ?」と尋ねてみたが 「何でもないよ。」と笑顔でごまかされた。


俺と剣心だけの生活が2ヶ月ほど続いたある日、朝の稽古を終えて母屋へ昼食を取りに戻ってみると、薫が帰っていた。
「おい! ちょっとの留守とか言ってたけど随分ゆっくりだったな。」
俺は多少の皮肉も込めて薫への挨拶代わりとした。
「うん・・・ごめんね・・・・」
いつもなら俺の皮肉を直ぐに感づいて反対に怒鳴り返したりするのだが、俯き加減にやけに素直に謝った。常とは違う薫の態度に面食らいながら そこで初めて小さい暴れん坊の声が聞こえないことに気がついた。
「剣路は?」
「うん、直ぐに戻るからそのまま預けてきたの・・・・」
「え〜〜? また行くのかよ? 一家の主婦がいつまで家を空けてんだよ!」
薫が居なければそれだけおさんどんの役目が俺に回ってくる。その鬱陶しさに俺は抗議の声を上げた。
「うん・・・ごめんね・・・・」
何を言っても俯き加減で謝る薫に拍子抜けして
「一体どうなってんだ・・・・」
ぼやきながら俺は昼飯を掻き込んだ。
その間剣心はずっと黙っていた。
薫と剣心の間に漂う空気が何処か不自然なものに感じながらも 俺は昼からの出稽古へと出かけていった。

何かある・・・・朧気ながら二人の間がしっくりと上手くいっていないことに不安を感じて 俺はその日の稽古を早々に切り上げて帰宅することにした。
いつものように裏門から入り、そのまま厨へと向かう。不安な気持ちが俺を急がせたのか随分早足で歩き、喉がカラカラに乾いていた。瓶から柄杓で水をすくい上げ、口まで持っていこうとした時に大きな声が聞こえ、俺は危うく柄杓を落としそうになった。
「いい加減にしろ!」
奥の方から剣心の怒鳴る声が聞こえた。
俺はにわかには信じられなかった。
あの剣心が大きな声で怒鳴るなんて・・・・
それも薫に向かって・・・・
俺はその場に凍り付き、耳だけが奥の部屋を探っていた。
だが、声が聞こえたのはその一言だけで、あとは不気味な静寂がこの屋敷を取り巻いていた。俺の予感が的中したことに愕然としながらも 俺は奥の方に気づかれないようにそっと自室へと戻った。

翌朝の食事には薫は起きては来なかった。
俺は色々剣心に尋ねたかったが 剣心の表情がそれを許さなかった。
重い気持ちで赤べこへと出かけ働いていたが どうにも二人のことが気に掛かり、その日はさんざんな失敗続きだった。やっと仕事を終えて帰宅したのは もう日暮れも近くなっていた。

屋敷は何時も通り静かだったが、ポンポンポンと何かが弾ける音が聞こえる。
庭を突っ切って縁側から居間へと向かうと 夕刻の陽にその背を照らされながらそこに剣心が座っていた。音はその右手から漏れていた。
少し前まで剣路が気に入ってその小さな手から離さずにいたでんでん太鼓が 剣心の右手に揺られて跳ねている。
「剣心・・・・」
ためらいがちに声を掛けてみたが、返事がない。
「剣心!」
二度の呼びかけにやっと振り向き、
「ああ、弥彦・・・何時帰ってきたんだ?」
夢から覚めたような顔で俺を迎えた。
俺の気配も感じ取らずに一体何をそんなに考え込んでいるのだろうかと いぶかる気持ちが俺に性急に質問をさせた。
「剣心、薫は?」
剣心の瞳は一瞬あらぬ方向を見つめ、ゆっくりと視線を戻すと静かに俺に告げた。
「出て行ったよ・・・・」
それは浜松へと出かけたと言っているのだろうか? それとも別の・・・・
その意味を計りかねてその場に立ちつくす俺に 剣心は自分の前をトンと手で叩き、
「此処へ座らぬか? 少し話をしよう・・・・」
と俺を差し招いた。
何かただならぬ事をその口から漏らされるような気がして 俺の心臓は早鐘のように鳴り響いた。そんな心の動揺は 靴脱ぎで草履を脱ぐ時に蹴躓き、「痛っ。」と小さな悲鳴を漏らしたことで 剣心へと伝わってしまったようだ。
俺をいたわるような目で見つめ、おもむろに口を開く。
「弥彦は幾つになった?」
「何だよ。藪から棒に・・・・もうすぐ十六だよ。それが何か?・・・・・」
「そうか・・・・・弥彦も大きくなったな・・・・」
俺は剣心が何を言いたいのか ちょっと計りかねた。次に漏らされる言葉が何であるのか一言も聞き漏らすまいと 剣心の唇ばかりが気にかかる。形の良い唇はどんな言葉を形作ればいいのか迷うように 少し開き掛けては閉じる。そして、小さな溜息を一つ零すと剣心の涼やかな声を載せて やっと音を発した。
「薫は縁の元へ行ったよ・・・たぶん此処には・・・もう戻らないだろう・・・・」
「なっ・・・」
瞬間、俺は剣心が何を言っているのか判らなかった。
その名前も行く先も俺にはまったくの青天の霹靂だった。
「縁って、あの縁なのか?」
「ああ、そうだ。」
「あんの野郎! まだ懲りずに人註の何のと言ってやがるのか! 今度こそ・・・」
「違うんだ。弥彦! これは復讐じゃぁないんだ。」
「復讐じゃないってどういう事だよ? 」
「薫が自ら自分の意思で決めたことなんだ。復讐じゃない・・・」
「何でだよ! 何で薫が縁の元へと行くんだよ! 剣心はそれを許したのかよ!?」
「ああ・・・」
「どう言うつもりなんだよ!剣心!!」
俺は理解を超えたその事実に無性に腹が立ち、その怒りの矛先を剣心へと向けていた。
「わかんねぇよ!なんで、なんで・・・」
「すまぬ、弥彦・・・・」
「あやまんなよ! 何で剣心があやまんだよ! 謝らなきゃならないのは薫の方だろ!?アイツが勝手に出て行っちまったのに 剣心が謝るなんておかしいじゃないかよ!!」
「弥彦・・・・出て行ったのは薫でもそうさせてしまったのは拙者の所為なんだ・・・」
「なんでだよ! 剣心は何時も薫には優しかったじゃないかよ。なのに、なのに・・・アイツは剣心も俺も裏切ったんだ。俺たちよりあんな黒メガネの方がいいなんて! 畜生!」
「弥彦。夫婦には夫婦にしか分からないこともあるものなんだ・・・だから・・・」
「なんだよ、それ! なんだってんだよ!!わかんねぇよ! お子様の俺には理解出来ないってぇのか!? こんな大事なことを一言も俺に相談もしないで。もういいよ!もういい!!たくさんだ!!」
俺自身、もう何を言っていいのかさえ判らなくなっていた。やり場のない怒りが全身を覆い、誰かに何かにぶつけなければ収まらない。そしてそれはさしずめ俺の前にいる剣心へと向かう。だが苦渋に満ちた剣心を見て 俺は俺自身の言葉で剣心を傷つけていることに 自分への怒りが込み上げてきた。。声に載せられない怒りは歯がみとなって現れ、やりきれなさに俺は踵を返し、自室へと駆け込んだ。
後には剣心の「弥彦!」と呼ぶ声が聞こえた。

暮れていく部屋で俺は孤独だった。
信じていた家族という絆が崩れ去り、足許がおぼつかない。
初めて薫や剣心に出会った頃のことが思い出され、あの何でもない日々が幸せだったと今更ながらに思われる。
幾つか事件も持ち上がったが その度に剣心は果敢に挑みその背中から俺は多くのことを学んだ。信じ合える仲間がいて、心から笑い合えた。
やがて、恵が去り、左之助が去り、そして今また薫までもが・・・・
剣心の笑顔に影が差すようになったのはいつ頃からだったのだろうか・・・・
今気が付いてみればいつの頃からか俺たちの間に生じた小さな歪みに すきま風が吹いていたのかもしれない・・・

翌日は剣心と顔を合わせないようにした。いつもより早くに出稽古へと出かけ、いつもより遅くに帰宅した。まだ気持ちの整理が付かず、剣心を見れば多分に余計な事まで言ってしまいそうだったからだ。
そして何より俺が恐れたのは 薫の居なくなったこの家を剣心が出て行くと告げられるのではないかという恐怖だった。此の家の主である剣心が此処を出て行くいわれは無いが、何故かしら俺にはそう思えてならなかった。

一人で遅い夕餉を台所で取っていると顔を覗かせた剣心に 終わったら剣心の部屋へと来るように告げられた。その改まった態度に 言いようのない不安が俺の胸に迫る。聞きたくない言葉を先延ばしにするように 俺はゆっくりと時間を掛けて飯を飲み込んだ。だが幾ら時間を掛けてみたところで やがては食事は終わる。後かたづけをしながら俺はとうとう観念した。

部屋の中から行灯の光が漏れ、剣心がひっそりと座っている姿が伺われた。障子の外から声を掛けると 「お入り。」といつもの優しい声だ。
親から説教を喰らう子供のような心境で 一つ大きく息を吸って障子に手を掛けた。
剣心は文机に向かって何か整理をしているようだ。その様子に俺は やはり予想は的中したのかと暗澹たる思いに囚われた。
「疲れているところを済まなかったな。いつでもいいような話だが、こういう事は早く片付けた方が・・・・・ん? どうした? そんな恐い顔をして・・・・」
死刑の宣告でも待つような表情だったのかもしれない。振り向きながら話しかけていた剣心は 俺の顔を見ると心配げに瞳の中を覗き込んだ。
「な、なんでもねぇよ。それより話って何なんだよ。」
「立ったままでは話も出来ぬ。此処へお座り。」
普段と変わりない穏やかな笑みを浮かべながら 俺に座布団を差し出した。やや乱暴に俺が座ると 手にしていた茶色の紙包みを差し出した。手紙よりは大きく、油紙で綺麗に包まれている書状だ。中身が何であるのか想像も付かぬ俺の気持ちを読み取って 剣心が説明を始めた。
「この家の権利書だ。弥彦、これはお前の物だ。受け取れ。」
「な、なんで俺が受け取るんだよ! 此処は剣心の家じゃないかよ! 俺を置いて出て行くつもりなのか!? どうなんだよ!」
血相を変えて怒鳴る俺に少々驚いたようだったが やがて小さく声を出して笑い出した。
「ハハハ・・・・・そうか。弥彦はそんな心配をしていてくれたのでござるか。
ハハハ・・・」
「違うのか?・・・笑い事じゃねぇよ。」
「いや、すまない。朝から随分と恐い顔をしていたので まだ怒っているんだろうと思っていたのでな。」
「じゃぁ、出て行ったりしないんだな?」
「ああ、せぬよ。弥彦が大人になるまでは拙者は此処にいる積もりでござるよ。」
「大人になる迄って・・・・?」
「幾ら剣が優れていても十五の子供では道場主とは世間が認めてはくれぬだろう? 名ばかりでも拙者が居た方が 暮らしも立ちゆくでござろうし。」
「そう言う問題じゃねぇだろう? 何でここの家を俺に譲るかってぇのが問題なんじゃねぇかよ。」
「弥彦が収めている流派は神谷活心流でござろう? 拙者は飛天御剣流を誰にも教える積もりはござらん。であればここの道場を継ぐのは弥彦と言うことになる。これは薫と話し合って決めたことでござるよ。」
「剣路は? 剣路はどうなんだよ。」
「弥彦・・・・薫も剣路ももうここへは戻らぬよ。縁の仕事の都合で上海で暮らすと言っていた・・・・もう彼らにこの家は必要のない物なんだよ・・・・」
「なんで・・・・何でこんな事に・・・・」
「悲しい思いをさせてすまぬな・・・・弥彦も色々聞きたいことは有ろう・・・・だが、今は何も聞かずに置いてはくれないか? いつか弥彦にも話して聞かせる時が来るだろう・・・それまで待っていて欲しい・・・」
それ以上何も言えなかった。
家族として聞きたいことは山ほど有った。言いたいことも・・・・
しかし、苦渋の表情を浮かべる剣心にこれ以上追いすがることは出来なかった。俺が立ち入ることの出来ない夫婦の問題がそこにあり、十五という子供の俺では相談相手にすらなれない。俺は黙って頷くしかなかった。
「じゃぁ、一つだけ答えてくれよ。俺が大人になったら此処を出て行くというのは どう言うつもりなんだよ? もう帰ってこないつもりなのか?」
「拙者は元々流浪に・・・また旅をしたくなった・・・こんな拙者でも何処かで何かの役に立つかもしれぬ、そう思うとな。」
「行っちまったままなんて俺は許さねぇからな。もしそんな積もりなら首根っこに鎖を付けてでも此処へ引き留めてやる。」
「アハハハ・・・ありがとう、弥彦。時々は帰ってくる積もりだよ。弥彦が立派にやっているかどうか確かめにな。」
嘘だと思った。いったん此処を出たら二度とは帰らない積もりなのだろう。そんな剣心を大人になるまでの時間を掛けて 此処へ引き留める理由を俺は探そうと思った。


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