〈第7章〉               〈1.2.3.4.5.6.8.9.10.11


長い足を無造作に投げ出して 頭の下で組んだ両腕を枕代わりにしながら 左之助は漆喰で塗られた白い天井をずっと見つめていた。
そろそろ出かけなければ、そう思いながらぐずぐずとベッドの上から降りられないで居る。
このホテルから 神谷の屋敷まで左之助の足でも一時間近くは掛かるだろう。昼前までにたどり着かなければ日常の用事に追われている剣心は 出かけてしまうかもしれない。そんな心配をしながらまだ体を起こせずにいるのは 心が決まらないからだ。
友達( ダチ ) だって言うんならもうちょっと顔ぐらい見せろよな。せっかく日本に帰ってきたって言うのによ。」
そう弥彦にも言われたように 帰国してからたったの一度しか神谷の屋敷へは足を運んでいない。剣心の幸せを見届ければそれで付くと思った諦めも 存外自分の思いきりの悪さを見せつけられるだけに終わってしまった。引き裂かれるような胸の痛みに耐えかねて なんのかのと自分なりの理由を設けては 訪ねることを先延ばしにしてきた。だが弥彦がもたらした意外な話の展開は 違う意味で更に左之助の悩みを深くした。 あんなにもさらっと笑顔を浮かべて自分の幸せを語る剣心のあの嘘は 何より自分を拒絶しているのではないかという考えに囚われる。左之助の熱情に巻き込まれるようにして始まった恋は 剣心にすれば一時の遊びだったのかもしれないと 離れていた年月の長さが思いを儚くする。それは左之助を金縛りにし、いっそう神谷の屋敷から遠ざけた。
小娘のように情けないと思う。そう思いながら 逢えば自分の胸の内を吐露してしまいそうで会えずにいる。実際、普段の左之助なら物事に対してこんなに迷うことはない。喧嘩屋と呼ばれた頃から今に至るまで 自分の本能とも言える直感的な勘で行動を起こしてきた。そして、それは過たず、いつも左之助を正しい方向へと導いてくれていた。だが、こと剣心のこととなるとその直感が働かず、立ちすくんでしまう。剣心の背景が話を複雑にしているが、何より笑顔で武装した剣心自身に いつもの自分の向こう意気の強さが影を潜め、臆病になっている。明日には出航の準備のために横浜へと戻らなければならないこの時になってさえも 心を決することが出来ないでいる自分の弱さが腹立たしかった。
「チッ、為るようになれ、だ。」
軽く舌打ちをして身体を起こすと 椅子に掛けてあった上着を取り、ようやくホテルを後にした。


築地にあるこのホテルは 元は鉄道敷設の為にやって来たイギリス人達の仮寓だったと聞く。技術のない日本は技師や工夫までもをそっくり輸入した。そんな彼らの住処だった洋館が 町のあちらこちらに点在する。それはひとつの新しい町を造り出し、見知らぬ文化を日本の中に広げる一役を担った。役目が終わり主の居なくなった洋館は 西洋かぶれの役人や珍しい物好きの商人に引き取られ、新たな使命を果たしていた。
帰国した当初は昔ながらの旅籠に宿を求めた左之助だが 久しぶりに日本の宿に落ち着いてみると 襖一枚で仕切られた部屋は絶えず人の話し声が聞こえ、時には相部屋を求められ、煩わしいことはこの上もなかった。
俺もすっかり西洋にかぶれちまった と思う。長い海の上での生活が左之助の好みを変え、習慣を変えていた。それは同時に日本を離れていた時間の長さをも思わせた。


明治五年、和田倉門内の旧会津藩邸から出た火が、銀座から築地にいたる一帯を焼き尽くし、時の知事であった由利公正の号令の元、汐留から銀座までの通りは 煉瓦造りの建物に変えられた。明治も十八年ともなると町はすっかり西洋風に作り替えられ、異国の生活の長い左之助にとって ここは本当に日本かと帰国した当初は首を傾げるばかりだった。しかしそれも建物ばかりは西洋風でも 中で働く人々が皆着物姿であるちぐはぐさに 左之助は一人失笑する。
ガス灯の建ち並ぶ通りを 今日も苦笑を頬に浮かべながら北上していった。

城を左手に眺め武家町に入ってくると 懐かしい佇まいにほっと胸をなで下ろす。御一新からこちら、藩が無くなり、職を失った大名や旗本達の多くはその屋敷を手放したが、うまく役人に取り立てられたり、商売が軌道に乗った者、また富裕な商人の手によってそれらの屋敷はまだ維持されていた。そんな時の移り変わりは知らぬげに、各々の屋敷の庭から覗く木々は花をつけ、若葉を芽吹かせ、命を謳歌している。
屋敷を包む塗り壁に沿って歩く左之助の眼前に 春の風に煽られひらひらと桜の花びらが舞い落ちた。立ち止まり、名残惜しげに最後の花を散らした落とし主を眺めやる。軸ばかりになった花の額が 緑の葉の間から覗き、無惨な姿をさらしている。
「早いものだな、花も終わりか・・・・」
しばし見つめ、そう呟くとまた本郷へと向かって歩き始めた。


以前の習慣のままに裏の門を潜ると早々と洗い終わった洗濯物が 風に吹かれてなびいている。目的の探し人は見あたらず、開け放たれた障子の向こうにもその姿は見えなかった。ならばと見当をつけて台所へとその歩を進める。はたしてたずね人はそこに居た。土間に立ち、たたきへと前屈みになりながら手を忙しげに動かしている。入り口に立った左之助に背を見せる様な格好だ。
「左之助か?」
振り向きもせず、先日と同様に声だけで尋ねてきた。
「見もしねぇでよく分かるもんだな。」
半分驚かしてやろうと目論んだ当てが外れて、少しがっかりした。その左之助へと朗らかな笑い声をたてて剣心が振り向いた。
「ははは・・・分かるさ。おぬしほどの馬鹿正直な気は誰も持ち合わせては居らぬよ。」
「おめぇ、それはどういう意味でぇ。」
「褒めているのでござるよ。」
「どうだか・・・」
剣心の言葉と裏腹に苦虫を噛みつぶしたような顔を見せ、片方の頬だけで笑って見せる。手に塩をつけ大きなおむすびを握る剣心の側へすぃっと近づくと 皿に盛られた沢庵に手を伸ばした。
「もう昼飯の準備か?」
聞きながら、ぽいっと口の中に放り込み、ぽりぽりと音を立てて奥歯で噛みしめる。
「ああ、もう少しすれば欠食児童が帰ってくるのでな。」
「お前も毎日大変だな。あんな食い盛りを抱えてちゃ。おさんどんで日が暮れるじゃねぇか。」
「と言っても拙者は他に何もすることがないでござるからね。丁度いいのでござるよ。」
受け答えの間にも手は休めず、形の良いおむすびがいくつも皿に並べられていく。
「なぁ、もうすぐ準備も終わるんだろ? 昼飯の用意が出来たらそこの山にでも花見に行かねぇか?」
「花見、でござるか?」
意外な人物から意外な誘いを受けて、剣心は腑に落ちぬといった表情だ。
「ああ、ここへ来る途中に桜を見てな。そういや、花見もしてねぇことに気が付いたんだよ。また帰りゃ、滅多と見れるもんでもねぇし、な。」
「しかし、花ももう終わりでござるよ?」
「なに、かまやしねぇって。あれだけ桜の木があるんだ。気の長いヤツが1本ぐらい居たっておかしくねぇだろ?」
「さて、弥彦達が何というか・・・」
「アイツらは放っときゃいい。俺はお前と行きたいんだ!」
すっかりみんなで行くものと決め込んでいる思案顔の剣心に 思わず語気強く言った一言の意味に気が付いて 
「こっちに帰ってきてからお前とゆっくり出かけることもなかったしな。」
と 指で鼻の頭をこすりながら 取り繕うように慌てて付け足した。その左之助の言葉の中に何かを感じ取ったのだろう。
「ああ、そうでござるな。」
深く頷き、(おもて)を伏せて剣心は応えた。その表情が気になり、左之助は黙って剣心を見つめる。何か言わなければ、そう思いながらも気の利いた言葉は何も浮かんでは来ない。間を持てあます左之助に 急に訪れた二人の間に漂う重い空気を追い払うように
「急な誘いで弁当の中身は握り飯と沢庵ぐらいしか用意できぬが?」
大飯食らいがそれで足りるのか?と 剣心が明るい声で念を押す。その声に助けられ、話題をすり替えた。
「ああ、充分だ。その沢庵はうまかったぜ。それはお前が漬けたのか?」
「ああ、妙殿に色々と教えてもらってな。最近は評判もいいからご近所にまで配り歩いて居る。」
すっかり主婦が板に付いたと 照れた笑いを剣心は浮かべている。その笑顔の中には 薫のための翳りは微塵も見られない。どんな思いを抱いて この神谷の屋敷の中で過ごしたのだろうかと ともすれば左之助の考えはそこばかりに捕らわれる。そんな左之助の物思いを剣心の声が打ち破った。
「左之、そこの湯飲みを二つ出しておいてくれないか?」
忙しげに用意をしながら左之助へと指示をする。
「ん? 茶でも出してくれるのか?」
「アハハ・・・どうした? お前にしたら血の巡りの悪い。花見と言えば酒に決まっておろう?」
「おっ! そいつは豪気じゃねぇか。」
「と言っても酒はこの徳利ひとつきりしかござらぬが。」
剣心が一升徳利を持ち上げ、揺すって中身の重さを量っている。
「どれどれ。」
横から左之助がひょいっと取り上げ、
「中身は八合と見た。ちと足りないような気もするが まぁこれだけあればいいんじゃねぇか?」
「おぬしが飲み過ぎないのであればな。酔った大虎を抱えるのはごめんでござるよ。」
「けっ!八合ばかりで酔いつぶれるような左之助様じゃねぇぜ。」
「とかなんとか、今、おぬしは行く途中でもう一本都合しようと思っていたのではござらぬか?」
図星だったのか鳩が豆鉄砲でも食らったような顔をしている。
「何でわかった?」
「ハハハ・・・・左之が考えそうなことだ。」
何気ないやりとりが心地よい。他愛もない会話の中に お互いの居場所を見つけ、お互いの持ち分を演じている。かつてはこうして日々を過ごしていたのだと それぞれの胸の内に軽い安心感が漂う。ともすればぎこちなくなりがちな二人の会話を 気づかぬふりをして どちらともなく笑いの中に押し込めた。
手早くおにぎりだの煮物だのを重箱に詰め、弁当の用意が出来ると 弥彦へと昼の用意はしてあるとの宗の書き置きを残して 二人はともに屋敷を後にした。


本郷から上野山内へと続く道を 男二人でゆるりと歩んでいく。すっかり春めいた風が心地よく襟をくすぐる。温んだ気温に人々の心も浮かれ、湯島天神の境内も詣出る人々で賑わっている。並んだ茶店の店先から幾人かが左之助へと声を掛け、その度ごとに片手をあげて「おう。」と返事を返すのも左之助は忙しげだ。
「長年ここに居着いている拙者よりも 左之の方がずいぶんと顔が広いでござるな。」
隣に並んで歩いている剣心がくつくつと笑う。
「間が空いていてもここら辺りは俺の縄張りうちだ。ちょいと顔を見せときゃ、みんなすぐに思い出してくれるぜ。」
せっかく日本に帰りながら 滅多と顔を見せぬ不実に 遊びが過ぎるのではないかと暗に言われたような気がして左之助はバツの悪い思いをしたが 言った本人にはさらさらそんな気はなかったらしい。誰からも好かれる左之助が 心底好ましいとカラッと晴れた笑顔を左之助へと向ける。
「左之は昔から町の者には人気があるでござるゆえ・・・」
しかし、剣心がそう言っている側から 並んだ茶店のひとつから女が走り出てきて 左之助の前へと立ちはだかった。
「左之さん。また来てくれるって言いながら全然来ないじゃないのさ。今日は寄っていってくれるんだろ? あたしゃ、一日千秋の思いで待っていたんだからね。」
今にも左之助の手を取ろうとする。その手を取られまいと慌てて引っ込めながら
「ああ、悪ぃ、悪ぃ。今日はちょっと野暮用があって寄れねぇんだ。また今度な。」
「そんなこと言って、いつ来るんだか分かりゃしないじゃないか。」
ここで会ったが百年目とばかりに女は食い下がる。
「必ずまた寄るからよ。連れもいることだし、今日の所は勘弁してくんな。」
この顔を見せられれば 女ならば誰もが黙って引き下がるであろう心底すまなそうな表情と とびきりの笑顔を見せて 剣心を促して急いで立ち去ろうとした。
「あん、きっとだよ。来ないとひどいからね。」
左之助の後ろ姿に向かって叫びながら ついその笑顔にほだされた自分自身に 女は地団駄を踏んでいる。後ろ手に手を振る左之助を見て 今日は無理だと分かるとやっと茶店へと戻っていった。
その間にも 剣心に意味ありげに見つめられ、笑いながら
「おなごにもな。」
と言われて とんだ飛び入りがあったもんだと左之助は苦り切っている。
「たった二,三度、飲みに行っただけなんだぜ・・・」
やましいことは何もないと 口の中でブツブツ言い訳めいたことをぼやいている左之助を からかい気味に剣心が疑いの眼差しを向ける。
そんな光景もこの春の陽気の元では和やかに感じられ 胸の内にはふんわりと温かい風が流れた。

不忍池の端を通り、上野の山へと足を踏み入れる。花の時期には遅いせいか 花見の客は少ないようだ。上野の桜は彼岸桜、吉野桜、八重桜と咲き進む。今はその八重桜も花の終わりを告げようとしているようだ。それでも残り福にでもありつこうというように 暇をもてあました連中が 葉桜になった桜の下で弁当を広げ各々の春を満喫していた。
「やはり時期が遅かったようでござるな。」
辺りを見回して剣心が言った。もう一週間も前なら 山は華やかな色合とそれを楽しむ人々で包まれていたことだろう。短い命を散らして 今は緑の葉が生い茂ろうとしている。だが左之助は諦めず、何かに憑かれたようにどんどんと山の奥へと進んでいく。

急に桜が見たいと思ったのは 二人で過ごした春の宵を思い出したからだ。満開の桜の下で剣心を抱き、命の尽きるまでこの想いは変わらないと囁いた。あの日のように桜の下で過ごせば、睦言めいたあの言葉を思い出し、何かが変わるのではないか・・・・半分迷信めいた気分で 日本を離れると思えば どこか感傷的になる自分を笑いながら 剣心を誘った。

「絶対に一本ぐらいはあるはずだって。必ず見つけてやっからよ。」
意地になり闇雲に突き進む左之助の足は いつのまにか東叡山寛永寺の敷地内へと足を踏み入れていた。徳川を守り続けたこの寺も 上野の戦争でほぼ焼け落ちてしまったが、およそ三百年の歴史とともに育った森は 深い緑を織りなしていた。
道とも言えぬ獣道を雑草をかき分け進む。そのうちに鬱蒼と生い茂る森の中に うっすらと薄紅色が色づいているのが遠くに見えた。背の高い木々の陰になり、周りよりは幾分気温が低く感じられるせいか 花の時期も遅れたのだろう。落ち葉を踏みしめ近づくに連れ、見事な吉野桜が視界いっぱいに飛び込んできた。時折吹く風に はらはらとその花びらを震わせ、たゆたい落ちていく。桜は誰にも知られることなく ひっそりと静かに咲いていた。

「有ったぜ、剣心。ほら、俺の言ったとおりだ。」
喜色満面の笑みをたたえ勝ち誇ったように左之助が言う。
「ほぉ。これは見事でござるな。よくも散らずに・・・・」
「どこの世界にも他とは違ったヤツが居るもんだぜ。」
「左之の言うことも時には信じてみるものでござるな。」
「時にはってどう言うこった。じゃ、おめぇは花なんか ぜってぇ見つからねぇと思っていやがったのか?」
「桜は桜でも葉桜見物だと思って居たでござるよ。」
桜に見とれたまま軽口を叩く剣心に 酔狂な時季はずれの花見などと ふと思いついた自分の我が儘を満足させるためだけに 黙って付いてきてくれた事を知る。その剣心の思いやりの意味を 今は何も考えたくはなかった。

「さぁ、花も見つかったことだし、団子の方にありつこうぜ。」
そう言って、手にした茣蓙を敷き、左之助はどっかと腰を落とした。剣心も並んで腰を落として弁当の包みを開く。湯飲みに酒を満たし、二人だけの小宴は始まった。
深閑と静まった森の奥から 数羽の鶯が春を告げる。頭上の桜の木では 目白が花の蜜を盛んに啄んでいた。

降りしきる花びらの中 剣心がそっと湯飲みを傾ける。桜の花びらよりもなお赤い、形の良い唇が少し開かれ、あえやかな喉が動いて酒を飲み干す。その一連の動作を左之助はじっと見ていた。
かつて欲しいままに啄んだその唇が 左之助へと向かって愛を求めることは 今はもうない。このまま手を伸ばし、抱き寄せ、ひとつになりたい欲望が 身体の奥から沸々と湧いてくる。いっそ思いを語れば 剣心は受け止めてくれるのだろうか・・・
「どうした? 何をそんなに見ているのでござる?」
痛いほどの左之助の視線に気が付いて剣心が小首をかしげる。
(このまま俺と一緒に・・・・・)
「何でもねぇ。ちょっと酒に酔っちまった。」
出かけた言葉を飲み込んで ぶっきらぼうに答えた返辞は 返って自分の胸の内をさらけ出しているようで 剣心の目が見られない。フイと顔を背け、そのままゴロリと仰臥して目を閉じた。

彫りの深さが影を作る端整な顔立ちを 湯飲みの陰から剣心は盗み見る。
かつて雄弁にその思いを語った黒い瞳は 今は何も語ろうとしない。引き結ばれたその唇は 誰に向かって愛を囁くために再び開かれるのだろう。
小さな嫉妬が剣心の胸を刺す。
今日ここへ誘われたその理由は 痛いほどこの身に沁みている。
口に出して言えないさよならが 湯飲みの酒と共に飲み干されていく。
諦めても諦めても 尽きせぬ想いが胸の内から湧いてきて ただこうしていることさえも息苦しく感じられる。
こんな俺をお前は馬鹿だと笑うだろうか。
気を抜けば溢れるのではないかと思う涙を飲み込んで 滲む視界の中でじっと左之助を眺めていた。

寝ころんだままうっすらと目を開けて 左之助が問いかける。
「昔、花見をしたのを覚えてるか?」
「ああ、あの頃は恵殿や・・大勢で賑やかでござったな。」
知らなければ聞き逃すその間に入る名前は 剣心の口からは語られない。別れたことをおくびにも出さない剣心が 今は恨めしい。そうやってすべてを水に流し、自分とのこともまるで始めから何もなかったかのように 過去の中に閉じこめてしまうのか。胸の内は何一つ見せぬまま、友人という名を借りて左之助に接するその態度は いっそ見事なほどだ。

「花見と言えば賑やかなものと相場は決まって居るが 今日は寂しいぐらいに静かでござるな。」
訪れる人もない森の奥深くで 舞い散る花びらの音さえ聞こえそうなほどの静寂が 二人を取り巻いている。飲み干した湯飲みを膝の上で両手で包み込み、木の葉陰から時折飛び立つ鳥の羽音を聞きながら剣心が呟く。
「こっちへ帰ってきてから騒ぎすぎたからな。こんぐらいが丁度いいぜ。」
「久しぶりの日本は楽しめたようでござるな?」
先ほどの事を暗に絡めて言っているのだろう。フフフと軽く笑って左之助をからかう。
「まっ、長い間留守をしてりゃ、誰彼なしに懐かしくってツイな。それに用事も色々重なっちまって・・・」
「いつ帰るんだ?」
聞きたくはない、しかし今日、左之助が訪ねてきたときから旅立ちの日が近いことを予感し、気になっていた別離の予定の日を訊ねる。震えるかと思った声は 意外にも冷静さを伴って吐き出されたことに 剣心自身が驚いた。
「明日・・・・横浜へと向かう・・・・」
剣心への未練が 左之助に旅立つ日を告げることを躊躇わせ、歯切れの悪いものにした。
「そうか・・・・」
予想していたこととはいえ、あまりにも早い別れに剣心の胸に衝撃が走る。だがそのショックも刹那の瞬間に胸の中に押し込めると、まっすぐに顔を上げ いっさいの感情をいつものように笑顔の中に隠した。
「今度花見をするときは きっとかわいい子供をその膝に抱いていることでござろうな。」
二人の未来が重なることはないと ハッキリと告げる残酷さを 世間話の常套句にくるんで剣心が微笑む。
もうこれまでだ。覚悟を決めて、
「ああ、青い目の嫁さんもついでに拝ませてやるぜ。」
ともすれば歪もうとする己の表情をやっと堪えて 左之助は笑って見せた。
「ああ、楽しみにしている。また帰って来いよ。」
微笑んで言う剣心の言葉の中に 二度と逢う事はないだろうと 微妙な響きが含まれているように感じ取りながら
「ああ、すぐに帰ってくるぜ。」
再びこの地に戻る事はないだろうと思いつつ、左之助が答える。

かの日、二人で過ごした花の夜の想い出は 霞のように山の向こうへと儚く消え、かすかに期待した縁担ぎなどは 己の戯れ言にしか過ぎぬと舞い散る花びらが笑う。
花の色が変わるように 人の心も移ろい あの日、花の下で誓った恋は 今確かに終わりを告げられた。


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