〈1.2.3.4.5.6.7.8.10.11
                              9-1.9-2


船から見たその街は 鈍色の雲が重く垂れこめぼんやりとした霞の中に浮かんでいた。
街全体が泣いている。
そう思えるのは胸に抱えた憂鬱の所為かもしれない。
細かな霧雨に覆われている上海の街は まるで喪に服しているかのようだ。
こんな事でもなければ来ることなど無かったろう異国の街を この目に映しても旅の感慨は湧いてこず、心は重く沈むばかりだ。ただ、七日も揺られた船からやっと解放されるという期待だけが膨らんだ。
程なく着岸すると思われた船は そのまま揚子江を上り始め、河から望む町並みは噂に聞くよりも欧羅巴がそのままそこに存在した。だが、石造りの建物の前には様々な人種が溢れ、鹿鳴館を思わせる様な洋装の人物もいれば 草紙の中で見たような支那人が露天を開いていたり、慌ただしく荷車を引いている。それは丁度黄色く濁った河の流れのように混沌としていた。


港には浦村から連絡を受けた内藤が 出迎えに来てくれていた。役所の人間など几帳面で小難しいと思っていたが、物腰の柔らかそうな人物だった事にホッとして初対面の挨拶と世話を掛けた礼を述べる。
「長の船旅でお疲れになったことでしょう。もうホテルの部屋も取ってあります。先にそちらへご案内致しましょうか?」
穏やかな微笑を浮かべてぴったりと板に付いた洋装に相応しい優雅な動作で 俺を馬車へと誘導する。
「いえ、浦村さんから聞いて頂いてると思うんですが、お願いしたあの住所の人物に先に会いに行きたいと思うのですが。」
「ああ、それでしたら今日あなたが着くことを 先方には連絡しておきました。ここから馬車で三十分ほどの所です。」
「では、間違いなくあの住所に住んでいたのですね?」
「ええ。先方に会ったのは私ではありませんが、使いにやった者が言うにはあなたが来ることを伝えると大変喜んでいたそうです。」
「本当に何から何までお世話になってしまって ありがとうございます。」
「いえ、丁度、政府の偉いさん達も引き上げたところでしてね。私も暇にしておりましたから。」
そう言って馬車の揺れに身を任せながらまた静かに微笑んだ。

窓の外を流れる景色は重厚な建物の銀行や会社などを映したかと思うと 瀟洒(しょうしゃ)な作りの雑貨屋や食品店を描き出す。そうかと思うと通りの間に垣間見える路地裏には 怪しげな店や人々がたむろしていたりする。それらを物珍しそうに眺めていると俺の横顔へと内藤が話しかけてきた。
「ここは不思議な街です。いろんな人種が溢れている。明神さん、どうしてだか判りますか?」
「さぁ・・・」
「それはここが治外法権の場所だからです。イギリス政府の法律もアメリカ政府の法律も及ばない、まして清政府でもない。ここに住む人々によってこの場所だけの法律が適用されるんですよ。言わば一つの独立国家のような形態なんです。今走っているこの通りはイギリスとアメリカの共同租界に当たります。ですが、この通りの一本向こうの道に行けばそこはフランス租界です。法律も税金も違う。元々は長崎の出島の様な狭い範囲に限られていたんですが、イギリスに続いてフランスが、そしてアメリカと租借地が広がりました。ここは商売には適した土地です。ですから多少の悪事にも法律は甘いんです。それによって多くの犯罪者がここへ流れ込み、また貧困に苦しむ者も流入してきたんです。アヘン戦争の後には三百人ほどだった人口が今では六十万人とも七十万人とも言われていましてね、西洋の文化と中国の生活が入り乱れ、富める者から貧しい者までまるで社会の縮図のようです。まさに『魔都』と呼ぶに相応しい街ですよ。」
窓外に流れる景色の多面性を説明しているにもかかわらず、まるで高級料理の食材でも吟味しているかのように聞こえるのは この人物の持つ穏やかさによるものなのだろう。
この街のどこかに彷徨っていそうな左之助のその生活が偲ばれて 目は知らずと見知った顔を探していた。


「ここです。」
内藤がそう言って馬車を停めた時には 俺はにわかに自分の目が信じられなかった。
それはおよそ俺が家とはこういうものだと思う範疇(はんちゅう)からは ずいぶんとかけ離れていたからだ。数丁にも及ぶような長い石組みの塀が続き、その中には鬱蒼(うっそう)と木々が生えている。そしてずっと奥にこの屋敷の屋根が垣間見える。まるで家と言うよりも砦か城塞とでも言った方が相応しいような趣だ。
門を潜り、屋敷へと向かう道すがら 俺は不意に薫のことが気にかかり、不安な気持ちに捕らわれた。この中で薫はいったいどのような人生を送っているのだろうかと。
薫が神谷を出て行った時には 裏切られた気がして俺はずいぶんと薫を恨んだものだった。しかし、年月を経るごとにその恨みは次第に懐かしさへと変わり、薫を思い出す時にも胸が締め付けられるような気分は薄れていた。今、こうして薫へと会いに来て、その屋敷の壮大さに俺は気圧され、薫が召使いのように扱き使われていやしないかとか 不幸な人生を送ってはいやしないだろうかと気に掛かる。もう忘れたと思っていた薫への親愛が急に芽生えてきて、俺は自身で苦笑した。


俺の背丈の倍は有ろうかと思われる重厚な木の扉を叩くと 中から支那人と思しき老爺が顔を出した。中国語で早口に訊ねられ、『明神』と言っている言葉だけが聞き取れた。俺がそれに気が付いて答えるよりも先に内藤が中国語で受け答えをしてくれる。老爺は深く頷き、俺達を玄関へと導いた後 奥の方へと消えた。
そこは玄関と言う形容が正しいのかどうか疑わせるほどに天井が高く、大理石で敷き詰められた床は冷たい輝きを放っていた。広いホールの正面には二階へと続く螺旋階段が大きな口を広げている。ホールの中央には黒檀の花台が置かれ、大きな花瓶は一面花で溢れていた。
「すぐに呼んでくれるそうです。私はこれで失礼しますが、帰りに馬車が必要でしたらここの者に頼んで使いをよこして下さい。」
内部の豪華さに目を奪われている俺へと小声で告げて 気を利かせた内藤は静かに玄関を出て行った。その内藤と入れ違いのように奥へと続く長い廊下に面した部屋の扉の一つが開かれ、女性が姿を現した。

「弥彦、弥彦なのね!?・・・・こんなに遠いところにまでよく・・・・」
港からここへ辿り着くまでの間に見た西洋の婦人のようにドレスの長い裾を翻し、勢いよく廊下を駆けて来る。結い上げられた髪から後れ毛が零れ、久しぶりに会う薫は 俺の知っている幼さなどどこにも持ち合わせては居なかった。
俺はどんな顔をして良いのか判らず、「よぉ。」と言って歯を見せる。
「こんなに、こんなに立派になって・・・・」
俺の肩をしっかりと掴み、潤む声で抱きしめられた。薫はこんなに小さかったのだろうかと俺の肩までしかない薫を抱きしめながら細い項を眺めていた。そのほっそりとした項から 薫のどこにこんな色香があったのかと思わせる大人の女性の気配が漂っている。見ず知らずの他人を抱いている様で 俺はひどく戸惑った。だが、俺を見て懐かしさのあまり涙ぐみ、その涙を無理に押しとどめようと笑顔を作ったその目元は 紛れもなく俺の知る薫の物だった。
「元気そうだな・・・なんか、薫じゃねぇみたいだ・・・・まるで貴婦人のようだぜ?」
「弥彦も・・・少し会わないうちにお世辞まで言えるようになったのね?」
「その口の悪さは相変わらずだな。」
「まぁ!」
そこで薫はくすくすと笑い、その笑い声に俺の緊張も解きほぐされ、懐かしい姉弟の感覚が戻ってきた。
「本当によく来てくれたわ。こんな所で長話もなんだから こちらの部屋でくつろいでちょうだい。すぐにお茶を運ばせるから。」
昔なら俺の肩を抱いて押しただろうに 今はもうそこには届かない腕を俺の背に回して並ぶ扉の一室へと案内をする。
「弥彦、大きくなったわね・・・」
「あん? 薫が縮んだんじゃねぇのか?」
「本当に・・・月日の経つのって早いものなのね。あの弥彦がもうお父さんなんだものね・・・」
「うん、まぁ、一応な・・・・」
照れて頭を掻く俺を見て 薫がまたくすくすと笑った。

案内された部屋は三十畳ほどの居心地の良さそうな居間だった。壁には暖炉の火が煌々と燃え、床には虎や熊の毛皮が惜しげもなく敷き延べられている。その暖炉を囲む様に深い緑色をしたビロードの長椅子が数脚置かれていた。俺はどこに腰掛けて良いのか判らず、薫に促されるままに暖炉の側に腰を落とした。
「冷えるでしょ?ここは・・・日本なら今頃は小春日和のぽかぽかとした日が続いたりするのだけどここには秋がないわ。夏が終わって雨が続いたと思ったらある日突然冬になるの。」
暖炉へと手をかざしている俺を見て懐かしそうに四季を語る薫はどこか寂しそうだ。こんな立派な屋敷に住んでいても長年住み暮らした日本に愛着を覚えるのだろう。
「ねっ、ここにはいつまで居られるの?」
「一週間経ったら日本への船が出る。それに乗って帰るよ。」
「そんなにすぐに・・・・もっとゆっくりしていけばいいのに、せっかく来たんだから・・・・」
「薫、俺は観光をしに来た理由じゃない。お前から手紙を貰って・・・お前が嘘を付くとは思わない。でも、俺は剣心が死んじまったなんてどうしても信じられないんだ。だから・・・・」
「そうね・・・ごめんなさい。」
「お前の手紙を何度も読み返した。だからだいたいの事は理解したつもりだ。でも、もっと詳しく教えてくれよ。何で左之助から手紙一枚来ないのか、いったい左之助はどうしちまったのか。そこんところも聞きたくてこうして船に乗ってやって来たんだ。」
高ぶる感情を精一杯に抑えて話した積もりだった。だが、薫は俺の目から視線を外して黙って俯いてしまった。
時々暖炉の中で薪の爆ぜる音が静かな室内に響く。壁に掛かった柱時計は ほんの僅かな時間なのにとてつもなく長い時間を刻んでいるようだ。
黒いドレスの膝の上で組まれた手が濡れている。俯いた薫の背中が微かに揺れていた。
「私の所為だわ。手紙にも書いたけど・・・・左之助は仕方のないことだと言ってくれたけど・・・・」
「そんな偶然・・・俺、まだ信じられねぇんだよ。でも、その話が本当なら剣心が望んでそうしたことだろう? お前の所為じゃねぇよ。なぁ、詳しく聞かせてくれよ。」
「・・うん・・・・だけど・・どんなに考えても後悔ばかりで・・・偶然だと思ってみてもやっぱり・・・左之助だって、左之助だって行方は分からないままだし・・・」
「行方が分からないって・・・航海に出たんじゃねぇのか? 話せよ、薫。全部言ってくれよ。」
「・・・ん・・・」
指先が赤く変色するほど組んだ手を握りしめ、やっと薫は顔を上げた。そして静かにその日のことを話し出した。


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