〈1.2.3.4.5.6.7.8.10.11
                             9-1.9-3


「まぁ、あなたったら、また見てるの?」
井戸で冷やした麦茶を俺の元へと運びながら 燕がくすくすと笑い声を立てる。
年中竹刀の音や掛け声が響く道場も この盆と正月だけは誰一人訪なう者とて無く、屋敷の中は嘘の様に静まりかえっている。
暇を持て余した昼下がり、俺は縁側に腰を掛けてもう何度も読み返した剣心からの手紙を読んでいた。
「ほら見ろよ、燕。剣心からの手紙も もうこんなに貯まったぜ。」
文箱の中に大事に仕舞ってある手紙を一掴みにして 燕の目の高さに持ち上げて見せた。
「ほんとうに。よくマメに手紙を書いて下さるわね。その度ごとにあなたの嬉しそうな顔ったら・・・・まるで恋文のよう。」
そう言ってまた燕は声をあげて笑う。臨月を迎えた腹が大きくせり出して 燕が笑う度にそのお腹も大きく揺れる。
「ちぇっ、からかうなよ。」
ふてくされた俺は傍らに置いていた地球儀に手を掛けて 大きくくるりと回転させた。
剣心から手紙が届く様になってから 舶来雑貨屋で求めたものだ。
左之助と絶えずどこかへ移動をしている剣心は その所在の地をいつも手紙に書き留めてきた。だが、世界の国の名前など皆目知らない俺にとってはまるで見当も付かない。見たこともないイギリスの言葉を弟子の一人に教わりつつ、地球儀に書かれたアルファベットを辿って国を見つけ そこへ朱で数字を書き入れていた。つまり、一番に届いた手紙の国に一と書いたわけだ。そうして置けば、剣心が辿った道のりがいつでも一目で理解できる。その数字は特に中国、朝鮮、東南アジアに多かった。その一つを指さして燕を振り返り、剣心が伝えてきたその国の様子を俺は語り出した。
「ほら、ここの国なんかあのでっけぇ象に人が乗ってるんだぜ。信じられるか?あの象を」
「乗り物代わりに使ったり、材木を運ばせているんでしょ?」
俺に皆まで言わさずに燕が後を先に言った。
「ちぇっ、何だよ、人がせっかく話してやってんのに。」
「フフフ・・・だってその話ならもう何十回となく聞かされているんだもの。誰だって覚えちゃう。他にだって言えるわ。」
そう言って楽しそうに燕はケラケラと笑っている。
剣心が行ってしまってから 早くも三年の月日が流れていた。その三年の間、今の様な会話は燕と俺の間でもう何度となく繰り返されている。燕が笑い、俺がふて腐れる。夫婦の穏やかな時間は いつもそうして過ぎていた。
燕の涼やかな笑い声の中に 誰かが玄関で訪なう声がする。
「今日は誰とも約束はしてねぇはずだが・・・」
首を傾げる俺を残して 燕は返事をしながら玄関へと向かっていった。何か受け答えをしているなと思ったら 突然に「あなた、あなた来て。」と 常にはない燕の大きな声がした。燕がこんな大きな声を出すなんて いったい何事かと俺は慌てて玄関へと走り出た。その理由は玄関の外に荷車が三台も並べられ なにやら荷物がぎっしりと積まれている。運んできた男達の半被には『山城屋』と白い文字が染め抜かれていた。
『山城屋』と言えば、あの地球儀を求めた雑貨屋だ。盆のこんな日にまるで心当たりのない荷物の山を届けに来るなんて狐か狸にでも化かされたようだ。呆然とした面持ちで俺は運んできた店員の一人に訊ねた。
「いったい何事だってぇんだ?この荷物は。」
「へい、あっしらは番頭さんに急いでこの荷物をお宅に届けるようにと言われただけでして。別に手紙も言付かって参りました。」
店員は胸元から出した白い封筒を俺に手渡した。
「あなた、きっと剣心さんや左之助さんからだわ。『山城屋』さんと言えば近頃は海運業もなさっているって聞いたから きっと言付かってきたのよ。」
「へい。この荷物はうちの船で今朝早くに港に届いた物でして。それで早速お宅に届けに来たわけなんですがね。」
「でも、なぜ・・・・」
俺の疑問などお構いなしで 燕はさっさと荷物を居間の奥の部屋へと運び入れさせている。受け取った手紙の裏を返してみると差出人の名前は書かれていなかった。それが俺の心には妙に引っかかった。
剣心ならばいつも『剣』と小さく書き添えられている。表に書かれた『明神弥彦様』という文字もまるで剣心とは違う筆跡だ。
俺が悩んでいる間にも荷物はすっかり運び込まれ、店員達は引き上げていった。
奥の八畳の部屋は並べられた荷物で半分ほどの畳が埋まっていた。その荷物はどれにも綺麗な紙で包装がしてあり、柔らかそうな紐で可愛らしく結ばれたりしていた。
大きなお腹が前屈みになるのを邪魔しているが 気にもならないらしく、 燕は荷物の前に座り込み 次々と包装を解いていっている。中から出てきた品を見て、喜びのあまりに素っ頓狂な声を上げた。
「見て、見て。あなた。なんて綺麗な織物なの。私、店の近くでこんな綺麗な織物を羽織ったご婦人が 西洋の服を着て歩くのを見たことがあるわ。」
それは繊細な糸が幾重にも絡み 小さな幾何学模様を描いている風呂敷ほどの大きさの布だった。
そして、また違う箱を開けては燕のはしゃいだ声があがる。
「わぁ、こっちは赤ん坊の服だわ。なんて可愛らしい。」
次々と開く贈り物の数々は どれも生まれてくる俺達の子供のために選ばれた品だった。どうやら送り主は剣心と左之助に間違いなさそうだ。
「でも、なんで、アイツら俺達に子供が生まれるって知っていたんだろう・・・・こっちからは一枚も手紙を届けられないってぇのに・・・・」
「本当に。まるで神様か仏様のようね? どこにいてもちゃんと私たちのことを見守っていてくれてるようで。」
「本当に気味が悪いや。」
「まぁ、そんなことを言うと罰が当たるわ。こんなに沢山のお祝いの品を届けて下さったのに。ねぇ、手紙も一緒に受け取ったんでしょう? 早く読んでみて。」
「ああ、そうだったな。」
あまりに突然の出来事に 俺は手紙を読むのを忘れていたことにやっと気が付いた。
改めて取り出すと やはり先ほど覚えた不信感が胸を覆う。もしかしたら封筒が破れてしまって中身を入れ替えたのかと無理に思い込んで 分厚い封筒の封を破った。
中からは十枚ほども有ろうかと思われる白い便箋が出てきた。そして、繊細な青いインクの文字でその手紙は綴られていた。

『明神弥彦様
                           雪代(神谷)薫』
薫だって!!

手紙の最初に書かれた差出人の名前を見て 俺はぎょっと目を剥いた。
もう何年もその名前を口にすることはなかった。いや、その存在すらも忘れようと努めてきた相手だった。その薫が何で今更・・・・この荷物の山は薫が送ってきたものだというのだろうか・・・・
多くの疑問が一度に押し寄せ、俺の頭はひどく混乱した。興奮した心臓を押さえようと一呼吸を置いて 再び手紙に目を戻した。

『突然の便りにさぞかし驚いていらっしゃることだろうとお察し致します。
ですが、どうか最後までこの手紙を読んで下さることを切に切にお願い致します。
この手紙にはどうしてもあなたにお伝えしなければならない重要なことが書き記されていますから、くれぐれも途中で破いたりなさらない事を心から願っております。』

俺の薫への気持ちを察しての前置きだろうが、最後まで読めという注意書きがくどすぎる。それはこれから先に何か読んではならない様な 恐ろしいことが書かれている気がして俺の心臓は収まり掛けた鼓動を早鐘の様に打ち鳴らしだした。

『早いもので私が日本を発ってから五年の月日が過ぎようとしています。
何も言わずに騙す様にして出て行った私を あなたはさぞかし恨めしく思ったことでしょう。幾度となくあなたに詫びの手紙をしたためながら、勇気が無くて今日まで出さずじまいになってしまいました。
そして、やっとあなたに届ける最初の手紙が こんなお知らせになってしまうなんて。
つくづく運命の皮肉さというものを感じさせられます。
そして、この事実をどうあなたにお伝えすればよいものかと終始悩み、この手紙を綴っております。ですが、どのように言葉を繕ってみても事実に変わりがあるはずはなく、あなたの受ける衝撃を想像すると ただ、ただ言葉もありません。
どうか気を静めてお聞き下さい。
私たちが憧れ、愛してやまなかった緋村剣心という人物は 今はもうこの世の人ではないのです。』

「うそだーーーーーーーーーーー!!!!!」
気づけば俺は大声で叫んでいた。真っ青な顔をしてブルブルと口唇を奮わせている俺のただならぬ様子に 包み紙を解くことに夢中になっていた燕が驚いて俺と手紙とを交互に見比べる。あまりな腹立ちに俺はその手紙を握りつぶして壁際へと放り投げた。
「いったいどうしたの?」
俺の剣幕に驚いた燕が 怪訝な表情で投げた手紙を拾い上げた。
「読むな!そんな嘘っぱちなんか!」
「でも、何を怒ってるのか全然分からないんだもの。」
険しい表情の俺を横目で見ながら 燕は手紙を開いて細い指先で丁寧に皺を伸ばして読み出した。
「えっ? なぁに、これって薫さん?」
その声の調子が突然に変わる。
「う・・そ・・・・・こんな・・こんなことって・・・・」
言葉を震わせていた燕の声が次第に掠れて泣き声に変わり、それから何時までも長い嗚咽が続いていた。俺はその横で呆然と突っ立っていた。
降りしきる様な蝉の鳴き声が響き渡る 蒸し暑くてそして長い一日だった。




一週間後、俺は警察署の白いソファに腰を掛けて浦村が現れるのを待っていた。大きい物から小さい物まで事件のない日などはなく、部下へと指揮をする浦村は忙しそうだった。
程なくきしむほど頑丈で大きな扉が開かれて 相変わらずちょび髭を生やした浦村が愛想のいい顔を覗かせた。
「いやぁ、すっかりご無沙汰しております。程なくお子様もお生まれになるそうでめでたい限りですな。」
昔から警察などと物騒なところで働いている割には愛想が良く 腰が低い。お上の権力を笠に着た官憲は俺の最も嫌いな人種だったが この浦村だけは信用に値する人物だった。
俺は浦村の社交辞令に合わせて礼を言い、しばらくは近況などを語り合った。
「して、明神さんから訪ねて来られるなんて 今日はどういうご用件ですかな?」
何か頼みが有って来たのだろうと察して 浦村がにこやかな笑顔で俺に話の水を向けてくれる。こういうところも俺がこの人物を好ましく思う一面だった。
「実は・・・・」
表向きは俺の結婚と共に剣心は薫の待つ浜松へと行ったことになっている。その嘘とこれまでの経緯を俺は正直に浦村に告白した。浦村なら何を聞いても外へ漏らす心配はないだろうし、親身になって俺の力になってくれるだろうと踏んでいたからだ。
最初は驚き、目を丸くしていた浦村だったが、俺の予想通り
「なるほど、なるほど。それでようやく納得がいきました。」
と 穏やかな微笑を俺へと向けていた。そして話の締めくくりに薫から届いた手紙を浦村に見せた。途端に浦村の表情は強ばり、ある種の緊張感がその顔に走った。
「明神さん、これは本当のことなんでしょうか?」
「ええ、実は今日伺ったのもそのことをあなたに確かめて頂きたくて こうしてお願いに上がった次第なんです。」
「なるほど。」
「その手紙を受け取ってから今日まで私はその内容の真実の程を熟考致しました。いくら家を出たとはいえ、あの薫がそんな嘘を書いてわざわざ私に届けるとは思えません。かと言って剣心が死んでしまったとは 到底信じることが出来ないのです。もし、剣心に何かあったので有れば、一緒にいる左之助が真っ先に私に知らせるはずです。ですが、その事件が起きてからもう二ヶ月近くになろうというのに 当の左之助からは手紙一本、届いては居ないのです。この事実をどう受け止めればいいのか・・・」
「いや、お気持ちはお察し致します。私とてあの緋村さんがそんなに簡単に死ぬとは到底信じられることではありません。」
「今回ほど日本という国が海で隔てられていることを 恨めしく思ったことはありません。お願いです。浦村さん、何とかして調べて頂けませんでしょうか?」
「分かりました。ちょうど外務省に私と同郷の者がおりまして 日頃から懇意にしております。彼なら何とか探ってくれることでしょうから 今夜にでも家へ行って頼んでみましょう。」
「ありがとうございます。これで私も何とか心が落ち着きそうです。」
「ですが、何と言っても海の向こうのことですからな。日にちは少しかかるかと思うんですが。どうか気持ちを落ち着けて気長に待って下さい。」
「ええ、それはもう充分承知をしております。もう一人で為す術もなくイライラしていることを思えば・・・・本当に恩に着ます。」
「とんでもありませんよ。私も緋村さんにはずいぶんお世話になりましたから これぐらいの事でご恩返しが出来るとは到底思えませんが。良いご報告が出来ることを祈っております。」
心安く俺の頼み事を引き受けてくれた浦村に 何度も礼を言って俺は署長室を引き上げた。
これで真実が分かるだろうと思うと 昨日までの雲を掴む様な心許ないやるせなさが 少しは癒される様な気がした。
足音の響く長い廊下を抜けて警察署の玄関を潜った。冷たい石畳の階段を下りて行くと焼け付くような太陽に熱せられた外気が一気に押し寄せてきた。
眩しい日差しの中に入道雲が沸き上がり、季節は一向に変わる気配を見せなかった。




浦村からの返事を俺は一日千秋の思いで待った。
やはり遠い異国の地の情報にはかなりの日数を要するようだ。
その間、俺は気持ちを静めるために常にもまして剣術の稽古に打ち込むようになっていた。体を動かしていれば何も考えないですむ。竹刀を握っている時だけは冷静でいられる。しかし、そう思っていたのは俺だけのようで、実際は相当に厳しい練習を弟子達にも強いていたそうだ。毎日青痣を作らずに帰る者は居なかったし、誰かが必ず戸口まで俺に突かれて吹き飛んでいた。そのあまりの厳しさに終いには陰で「鬼」とまであだ名されるようになっていた。
「あなた、いい加減にして。このままではみんな辞めてしまうわ。」
燕にそう諭されて 俺は初めて自分の精神がまともではないことを知った。
「すまねぇ・・・俺もまだまだだな・・・・」
「あなたの気持ちは分かるわ。何と言ってもあの剣心さんのことなんですもの。」
「ああ・・・本当のことが判るまで考えないようにしてる積もりだったんだがな・・・・なぁ、燕。ちょっと頼みがあるんだが・・・」
「なぁに? 改まって。」
「今、家にはどのくらいの金が有る?」
「さぁ・・・そんなに多くはないけど。何に使うの?」
「俺・・・・・一度上海に行って来ようかと思うんだ。薫に会って直接その口から話を聞いてこようかと・・・浦村のヒゲメガネには調べて貰ってるけど その答えがどうであってもやっぱり俺は自分の目で確かめたいんだ。もし・・・・もし、薫の言う様に本当に剣心が死んじまったのなら 剣心をここへつれて帰ってやりたいし、その遺品だって受け取りたいじゃねぇか・・・・」
「うん・・そうね。それがいいわ。お金なら何とか工面するし・・・」
「すまねぇな、燕。子供も出来て物いりだってぇのに。」
「ううん。それであなたの気が済むんだったら・・それに何と言っても剣心さんのことですもん。」

燕が賛成してくれたこともあって それまで漠然と考えていた上海行きがにわかに現実のものとなった。
日本の国内ですら出かけることの少ない俺にとって 上海は地の果てに出かけるようなものだ。だいたい定期航路があることさえ知らなかった俺は まず『山城屋』で訊ねることにした。先日の荷物の一件もあり、神谷道場の者だと言うと『山城屋』の番頭は上海へは一週間に一度日本郵船から便が出ていること、長崎−上海間で往復三十円ほどだろうと親切に教えてくれた。それで日本郵船を訪ねて色々聞いてみると 横浜から出ている薩摩丸の切符が手配できそうだった。それから外国へ行くのならと 初めての洋服も新調した。そんなこんなで慌ただしく過ごしているうちに ようやく浦村からの返事が返ってきた。

「明神さん、お返事をずいぶんお待たせしてしまって。やはり外国のことはなかなか思うようにはいきませんな。」
幾枚かの書類を机の上に置きながら 浦村は小さな溜息をついた。先日、俺が訪れた時にはすべての窓を開け放しても 蒸し暑さがじんわりと肌に纏い付いたが、制服をきっちりと着こなしている浦村も今日は涼しげな表情だ。あれから一月半が過ぎていた。
「いえ、やはり時間は掛かるだろうと思っていましたから。それで、どうだったんでしょう?」
一秒でも早く結果が知りたい俺は 身を乗り出す様にして浦村の手元の書類を眺めた。
「残念ですが、どうやら本当のようです。」
浦村は細い目を更に細くして 申し訳なさそうな声で俺へと告げた。
覚悟の上とは言え、一縷の望みを絶たれたその言葉に廻りの景色が傾ぐようだ。暗澹とした思いがずっしりと俺の肩にのしかかる。俯いて黙り込んでしまった俺へと 浦村自身もまた落胆した思いを言葉の端々に臭わせながら その調査の内容を静かな声で話し出した。
「頼んだ私の友人の直属の部下が現地へ派遣されておりまして、内藤というんですが、向こうで暮らしてもう二年になります。その部下へと手紙を出して調べて貰ったんですがね。薫さんが書いてらっしゃったその現場へ行って 実際に現地の人々に訊ねたようです。ちょうどお祝いの式典の日ですからな。人々もその事件のことはよく覚えていたようで、話が合致したそうです。ただ、亡くなったのが誰であったのかまでは分からなかったそうですが、中国人にすればシナの子供を助けた日本人と言うことで 数日噂に上ったそうです。その状況や出で立ちから察するに やはりどうやら亡くなったのは緋村さんだと考えるのが妥当のようですな。本当に残念なことですが・・・・」
親切に語りかける浦村の声を 俺はどこか遠いところで聞いているようだった。
手紙を受け取った時に受けた衝撃に比べれば 時間が俺を冷静にはしてくれていたが、何もかも見失ってしまったような虚脱感は 俺の心にぴったりと張り付いている。それで居ながら剣心の死をまだ信じることの出来ない自分が居る。浦村が告げる現実を俺の心は必死に否定し続けている。外務省の人間が現地にまで出向いて調べた内容だ。間違いはないのだろう。それでも否定し続ける事が 俺の心の平静を保つ唯一の方法だと自然と本能が働いていた。
項垂れている俺に何と言って声を掛けて良いのか迷うような浦村の軽い咳に 俺はようやく顔を上げた。この親切な署長の前で何時までも自分の気持ちばかりに捕らわれているのは失礼なことに違いない。どちらにせよ今日浦村へと頼もうと思っていた用件をやっとの事で切り出した。
「浦村さん、お願いついでと言っては何ですが、もう一つ頼まれごとを引き受けてもらえませんか?」
「何でしょう? 私でお力になれることで有れば何でもお引き受け致しますが。」
「実は上海へと渡ってみようかと思うのです。実際に薫に会って事の真相を聞こうかと思っていたのですが、そう言うことなら遺品などのこともありますし。もう船の便は確保してあるんですが、何と言っても異国の地ですから地理にも言葉にも不自由すると思うんです。それで、その部下の方を私に紹介して頂けませんでしょうか?」
「ああ、そう言うことでしたらお安いご用ですよ。私もその部下をよく知っておりますので 向こうで案内する様に手紙を出しておきましょう。」
「助かります。何から何までお世話になってしまって申し訳ありません。」
「いえ、どうかお力を落とされませんように。」
浦村は俺の要求に対してどこまでも親切だった。その後は上海への細かな打ち合わせなどをして 俺は感謝の気持ちを浦村に述べて席を立った。

署長室の扉を閉めると体中の力が抜けそうだった。明日から何を目標に生きていけばいいのか・・・そのままそこに(うずくま)り声を上げて泣きたい衝動が込みあげてくる。いっそ思いのままにすればこの苦しさから逃れられるだろうか。
薄暗くて長い警察署の廊下をのろのろと歩いていると 不意に剣心の声が聞こえたような気がした。
「お主のその前向きな強さが どんなに心強く思ったことかしれぬよ。」

上海へ行こう。
俺はもう一度自分の心を奮い立たせた。


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