〈1.2.3.4.5.6.7.8.9.11
                            10-1.10-2


薫の話に息が詰まりそうだった。
俺は何度も途中で涙を零しかけた。だがその度に唇を噛んで薫の言葉を聞いていた。
薫は思い出しては泣き、泣いてはまた語るといった調子で話はなかなか前には進まなかった。その度に俺は自分の想い出の中に浸り、涙を堪えるのに難儀をした。
グスグスと鼻を鳴らし、ひとしきり涙を零した後で 「喉が渇いたからお茶を煎れましょう。」と言って、薫はほの甘い香りのする紅茶を煎れ直してくれた。一口啜ると鼻孔にまで香りは広がって、俺の気分も幾分落ち着きを取り戻した。

「それで左之助はどうしたんだよ?」
高そうな自分のカップにポットから紅茶を注ぐ薫に俺は続きを促した。
「うん・・・私も心配だったから次の日にもう一度左之助の家を訪ねてみたの。そうしたら若い男の人が出てきて、やっぱり左之助の船の乗組員らしいんだけど、左之助はもう居ないって・・・・」
「居ないって?・・・」
「うん、夜明けと共に沖へと船を出したって言うのよ・・私が帰った後、夜遅くに急に乗組員全員を左之助の家に呼び集めたらしいわ。そして、左之助が船乗りの中では一番頼りにしてたらしいんだけど ロイって人に全部譲るから今まで通りみんなでやっていってくれって。急にそんなことを言い出すものだからみんなが驚いて じゃぁ自分はどうするのか?って聞いたんだって。そうしたら私に言った様に『俺は剣心とした約束があるから そこへ・・・。』って言って、みんなが引き留めるのにも頑として聞き入れなかったんだって・・・・」
「いったい何の約束をしてたんだよ? 薫は聞いてねぇのか?」
「ううん、弥彦こそ何か知らないの?」
「知るわけねぇだろ。アイツらが出て行って三年も経ってるんだぜ。その間に何があったのかなんて・・・」
「でも、私がそれを聞いた時、左之助は心ここにあらずって感じで・・・だから私、とっても心配で・・・・・左之助が住んでいた家も左之助の下で働いていたイワンって子に『ここをお前にやるからじいさんと一緒に住め。』って譲っちゃったらしいのよ。その子、みんなからは『ワン』って呼ばれててちょうど弥彦ぐらいの歳よ。左之助がとっても可愛がってたらしいわ。ロシア人と中国人の混血らしくっておじいさんを抱えてて やっぱりすっごく生活が大変らしいのね。だから、左之助は全部上げちゃったって言うんだけど・・・自分は何にも持たないで剣心だけを連れて小さな帆船で出て行ったんだって・・・・」
「一人でか?」
「うん、たった一人で・・・そのイワンって子が泣いて自分も一緒に連れて行ってくれってせがんだそうなんだけど『お前にはじいさんが居るからダメだ。』って言って・・・だからイワンが『死ぬつもりなのか?』って聞いたらしいのね。そうしたら『そんなことをしたら剣心にあの世から追い出されちまう。もっとも死ぬ死なねぇは運次第だがな。』って・・・・」
「アイツ・・・いったい何をやる積もりだってんだ・・・」
「わからない・・・・私、とっても心配で、もしかしたらって・・・そう思うと弥彦への手紙にも左之助のこと何にも書けなくって・・・剣心があんな事になったのにその上左之助までって・・・縁にも言って左之助のその後の消息を辿ってもらってるんだけど 何にも分からないって・・・・」
「左之助がそう言ってんなら大丈夫だって・・・・んっとに・・・手紙の一枚も書かねぇで・・・」
「だから弥彦へと渡す遺品も何も受け取っていないの・・・」
「そっか・・・でも、逆刃刀は? 逆刃刀はなかったか?」
「ううん、何も聞いてない・・・逆刃刀・・剣心に返したんだ・・・・」
「違ぇよ。貸してやったんだ。・・・俺・・・もしかしたら剣心がこのまま帰ってこないんじゃないかと思って・・・・だからアレを持たせておいたら絶対に返しに来るだろうとそう思って・・・・剣心にしたってどれぐらい俺が大切に思っているか知ってるだろう? だから・・・どんな約束よりも確かな約束だと思ったんだよ・・・・」
「そっかぁ・・・・そう言えば左之助が『剣心が逆刃刀を持って出ようとしたのを止めた。』って言ってたわね。じゃぁ、あの家にまだあるのかしら?」
「俺、行ってみるよ。そのイワンってヤツに聞いて確かめてみる。」
「うん、そうね。あれは他人(ひと)に渡せないものね・・・」
「ああ、アレは剣心の心だからな。何としても突き止めてみるぜ。」
それから後も俺と薫の話は尽きることがなかった。
薫と話しているうちに俺の心の中にあったわだかまりもすっかり消えて、幸せそうに語る今の生活を素直に喜んでやることも出来た。今日は縁が剣路を連れて出かけているが 夕刻には帰ってくるから剣路に一目会って行けと言われたが 俺にすればやはり縁と顔を会わせる気にまではなれず、適当な理由を設けてホテルへと戻った。

着慣れぬ洋装の上着を脱いでシャツのボタンを外したら、重い溜息が漏れた。
冷たい空間に耐えきれず、ガラス窓に映ったランプの灯りに誘われて窓の外を覗く。ホテルの窓から眺める上海の街は 享楽的な妖しげな色に輝いていた。
何時しか霧雨は上がっていた。



翌日、内藤を連れて薫に教えられた通りにその家を訪ねてみたが、出てきたのは老人で イワンは川の上流の町まで船で出かけているので帰りは二日後になるだろうと言っていた。俺は逆刃刀のことを訊ねてみたが、老人はこの家では見たこともないと言って 首を横に振った。
仕方なく俺は街の中をうろつき、事件の有ったという現場にも出向いてみた。俺が剣心の身内だと言って訊ねると 街の人たちはみんな親切に覚えている限りのことを語ってくれた。中には思い出して泣き出す老婦人まで居て これには俺も相当参った。
左之助の事務所も訪ねてみたが、あれ以来誰も左之助の姿を見た者は居ないし、連絡もないと言っていた。もし何か分かればすぐに知らせてくれるように何度も頼み、俺はそこを後にした。

三日後に再び左之助の家を訪れてみた。その日は内藤は用事があると言っていたが、逆刃刀のことを聞くだけだから筆談でもすれば通じるだろうと高をくくってそのまま出かけることにした。
踊り場へと続く短い階段を上がり扉を叩く。中で「(シー)」と返事をする声が聞こえた。勢いよく扉が開かれ顔を出したのは 俺よりは背の高い金色の髪の青年だった。これがイワンなのだろう。通じるだろうかと急に不安になりながら明神弥彦だと名乗ってみる。だが青年は俺の名前を聞いた途端に大きく両腕を広げて抱きついてきた。
「な、なにっ・・・・」
「ヤヒコ、ヤヒコ、アエタ。ウレシイ。」
片言の日本語でそう言って俺をぎゅうぎゅう抱きしめる。
「ちょ、ちょっと待て! 何だよ、いきなり。」
息も詰まりそうになりながら俺は渾身の力で青年の腕をふりほどいた。それでやっと自分の非礼に気づいたのか謝りながら俺を離してくれた。
「オジイサン、キイタ。ヤヒコキタコト、マッテタ。アエテウレシイ。ズットズットアイタカッタ。」
どういう理由で俺を待っていたのかは分からなかったが ともかくも歓待してくれていることだけは間違いなさそうだ。俺を引きずるように部屋の中へと入れ、台所に置いてある大きな卓の前に座らされた。その間にも青年は居間の老人にはしゃいだ声で早口にまくし立てている。その興奮した様からもどれほど俺に会いたがっていたかは伺い知れた。
「お前、日本語が話せるのか?」
「サノトケンシン オシエタ。オレ、ニホンニイク、マス。ダカラ、オボエタ。」
「何でそんなに俺に会いたかったわけ?」
「サノ、イッタ。ヤヒコトオレニテル。ケンシンイッタ。ヤヒコハケンシンヨリツヨイ。オレ、ケンジュツオボエル。ツヨクナリタイ。」
「へっ??」
アイツらいったい何言ってやがんだ? どこから見ても白人にしか見えないコイツと俺のどこに相似点が有るというのだろうか。剣にしたって剣心の腕にはまだまだ及んじゃいねぇ。理由の解らないままにイワンのじいさんが煎れてくれた茶を飲みながら 俺は片言の日本語に耳を傾けた。

イワンの母親は娼婦で父親はロシア人だったらしい。母親は早くに病で亡くなり、母方の祖父の手で育てられた。だが、祖父も生活の苦しさからこの租界へと流れてきた人物で上海では底辺の暮らしをしていた。イワンはその容姿ゆえ、いじめられ社会のつまはじきになりながら大きくなった。そのイワンが肩を寄せれる場所はタチの悪い少年達の盗賊団しかなかった。そんなある日、少年達は港に停泊している左之助の船へと忍び込み、荷を盗み出そうとしたが見つかってしまい 逃げ遅れたイワンだけが捕まってしまった。子供といえどもこんな場合は大概が半死半生の目に遭うか、ひどい場合は簀巻きにされて海へ放り込まれるらしい。イワンもロープで縛られ左之助の前へと突き出された。そこで初めてこの船が左之助の船だと知ったらしい。
左之助は船乗りの間ではその腕っ節の強さでちょっとした有名人だったらしく、イワンはどんな目に遭うのかと内心震えながら左之助を見つめていた。
「坊主、この船から荷を持ち出そうなんざ、いい根性をしてるじゃねぇか。」
そう言ってニヤリと笑った左之助を見て いよいよリンチか簀巻きかと覚悟を決めると
「よし、その根性が気に入った。夜が明けたらこの船は航海に出る。帰りは三ヶ月後だ。三ヶ月後、ここへ着いた時に盗めるなら好きなだけ盗んで帰れ。それまでは俺達と一緒にこの船に乗って航海するんだな。」
そう言ってイワンを自由にし、飯まで与えてくれたそうだ。
なんだ、左之助も噂に聞くよりは甘いヤツだと その時のイワンは内心で舌を出したそうだ。
だが、航海が進むうちに乗組員からの信頼の厚さやその気っぷの良さにすっかり魅せられ、また海賊達に出会った時の左之助の胸の空くような暴れっぷりは イワンに強い羨望を抱かせ、上海へと戻る頃には自分も船乗りにしてくれと左之助に頼み込んでいた。
「オレ、ツヨクナリタイ。イジメラレル、デモ、マケナイ。コトシタイ。サノニタノンダ。オシエテ。サノイッタ。
『俺は喧嘩に明け暮れてただけだから人に教えることなんか何もありゃしねぇ。強くなりたいんなら東京の神谷活心流って道場へ行きな。』」
そう言われたらしいが、病弱の祖父を抱え収入はイワンの盗みに頼っていたような生活だったから そのまま乗組員となって収入を得ることにしたらしい。そして、そのうちに左之助が日本へと帰り、年が明けると剣心を連れて戻ってきた。
「コイツは俺の最も頼りとしているヤツだ。俺同様、よろしく頼む。」
そう言ってみんなへと紹介したらしいが、剣心の見た目ゆえか乗組員からは内心失笑を買ったそうだ。
「ケンシン、チイサイ。ホソイ。ミンナワラッタ。ケンシン、イツモワラッテタ。ヤサシイ。コワクナイ。ダカラ、ヨワイデス。ミンナソウオモッタ。」
船乗り達はみんな左之助に心酔していた。左之助に惚れ込み、乗組員になったヤツも多かったそうだから、左之助が剣心を大事にしすぎることに内心では不満を覚える奴らも居たそうだ。
「ジャック、サノスキ。アコガレテタ。ダカラケンシンキライ。イジワルシタ。ケンシンオコラナイ。ダカラモットイジワルシタ。ケンシンヨワイ。カラ、オコラナイ、ソウオモッタ。デモ、カイゾクキタ。ソノトキジャックキラレソウダッタ。ケンシンタスケタ。ツヨイ、スゴクツヨイ。ミンナビックリシタ。」
そりゃそうだろう。飛天御剣流の神速の剣を神業たらしめた技は使えないと言っても その剣を操っていた腕や足は健在だ。並の剣客とは訳が違う。俺は内心ほくそ笑んでいた。
その一件以来、剣心は認められ船乗り達の仲間として迎えられたそうだ。
「オレ、ケンシンニタノンダ。ツヨクナリタイ。
『拙者の剣は人に教えるものではござらん。強くなりたいなら弥彦を訪ねるといい。人に誇れる人のためになる真っ直ぐな剣でなくては。』
ソウイッタ。オレ、ニホン、イマイケナイ。オジイサンイル。ビョウキ。イッタ。
『では、最初の手ほどきだけなら。でも、いつかは訪ねてみると良い。』
ケイコシタ。イッパイ、イッパイシタ。ツヨクナッタラヨワイココロマケナイ。ワルイコトシナイ。オジイサンマモレル。ケンシンイッタ。ヤヒコ、ケンシンヨリモットツヨイ。
『弥彦は拙者にないものを持っている。誰よりも真っ直ぐな勇気と強さを。』
ダカラヤヒコノコトキイタ。『ヤヒコ、ダレ?』サノ、イッパイ、イッパイハナシテクレタ。
『弥彦は俺の弟みたいなもんだ。』サノイッタ。デモ、ケンシンチガウイッタ。『弥彦は心から真のおける拙者達の友人でござるよ。』サノモイッタ。『ああ、そうだな。年は離れちゃ居るが 確かに弥彦は俺達の友人だ。誰よりも近しい信頼の置けるヤツだ。ワン、少し、お前に似てるな。』ソウイッタ。ダカラ、オレニホンイクキメタ。オジイサンゲンキナッタラユク。サノトケンシンノユウジン。オレモユウジンナリタイ。ヤヒコ、アイタイ。」

知らないうちに涙が零れていた。薫の前でも歯を食いしばったのに 不覚にも俺は見ず知らずの青年の前で泣いていた。アイツらの一言一言が胸に浸みた。一筋流れ出すと堰を切ったように涙は後から後から溢れてきた。
「ヤヒコ、ナゼナク?」
「知らねぇ。アイツらが、アイツらが・・・・」
「オレモサノアイタイ。ケンシンイナイ。カナシイ。」
そう言って俺の肩を抱いた。そして後は二人で声を上げて泣いた。子供の様に思いっきり泣いた。人間の涙は枯れることがないのかとこの時初めて俺は知った。

帰り際にイワンが俺に綺麗な羽のペンを差し出した。
「コレ、ケンシンツカッテタ。ヤヒコノモノナニモナイ。ダカラコレ、ヤヒコニヤル。」
「だけど、これはお前が貰ったんだろ? 大事にしてるならいいよ。」
「サノ、コノイエクレタ。ココニハフタリノオモイデアル。ダカライイ。」
そう言って俺の手を握りペンを持たせてくれた。
極楽鳥の羽の先には青いインクの痕があった。いつも剣心が俺によこしてくれた手紙の文字の色だったと、そう思った。


左之助の家からは時間を掛けてぶらぶらとホテルまで歩いて帰った。通りに並ぶ洒落たレストランや洋品店を眺め、道行く人々を見ながら アイツらもこの雑踏の中で語り合い、笑顔を見せて歩いていたのかもしれないと遠く思いを偲ばせる。
暮れなずむ外灘(バンド)に佇み、大海へと一人船を出した左之助の行方を思う。
結局逆刃刀は剣心と共に船へと積んだと言うことだった。考えてみれば左之助がそんな物を残しておくはずがないのが道理だ。
「バカだよ・・・・お前ら・・・・」
黄色く濁った波は俺の独り言には無関心で 海へと向かって流れて行く。
「さっさと行っちまいやがって・・・・・俺を一人取り残しやがって・・・・
人のこと強いだなんて・・・・勝手なことを・・・・
残った俺はどうすりゃいいんだよ・・・・・」
行き交う船の舷が濁流を切り、白い水を走らせている。濁った河でも上がる飛沫は透明なように いつか俺の迷いも消えるのだろうか。
ひしめく街に船の汽笛が 遙か遠くで鳴り続けていた。




その後薫からは 一人の船乗りがインドの街で左之助を見かけたそうだと知らせてきた。だが、人混みに紛れてしまい、声を掛けることも出来なかったと。だから本当に左之助であったのかどうかはやはり不明のままだと手紙は言っていた。
左之助が逆刃刀を持っているのなら、俺を友人と言うのなら、必ず俺を訪ねてくるはずだ。そう信じて待っていた。
その後も何度か薫からは手紙を貰ったが、剣路の成長を記した物に終始していた。
俺も八方訊ねてみたが、依然左之助の行方は分からないままだった。


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