〈1.2.3.4.5.6.7.8.9.11
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馬車に乗せ家へ連れて帰る間も剣路は放心状態で震え続けていた。
薫が何かを問いかける度に大きな叫び声を上げ泣き出す始末で 事情は何も判らなかった。やっとの事で剣路を寝かしつけ、子供部屋を出ると左之助の後を追わせていた徳林が戻ってきた。街の中で詳しく聞き込んで来てくれたらしく それでおおよその事情がやっと飲み込めた。
剣路の前では気丈に母親らしく振る舞っていたが、薫自身もまた剣心の死を受け止めるには衝撃が大きすぎた。そして悔やまれるのは自分自身の不注意だ。剣路から目を離さなければ、それよりも前に縁の注意通りに剣路を着替えさせていれば こんな事にはならなかったのにと思うと 後悔の涙が後から後から湧いてきた。

玉紋に剣路のことを頼み、薫が左之助の家を訪れたのは夕刻近くになっていた。
河からほど近いその家の扉は開いていて 何人かの男達が慌ただしそうに出入りをしていた。玄関口に佇んで訪なうと左之助の船の乗組員らしき少し小太りの男が顔を出した。自分の名前を告げ、日本からの知り合いだと言って左之助に会わせてくれるように頼んだが 男は首を横に振るばかりだった。
「ダメだ。サノは誰にも会える状態じゃねぇ。ケンシンを二階のベッドに運んでからずっと閉じこもったままで俺達でさえ誰も口を利いていないんだ。」
「薫が来たとそう伝えてくれればきっと会ってくれると思うの。お願い、左之助に会わせて。」
そう言って薫が男と話している間にも 二階の部屋の奥から地の底から這い上がる様な獣じみた声が聞こえてきたりした。その声を聞いただけで薫は胸が痛み、涙が零れた。
「聞こえただろ? 俺達が連絡を受けてここへ来てからもずっとあの調子なんだ。静かになったと思ったら急に叫び出したりして。あんたが来たことは話せるようだったら伝えておくよ。だから今日は帰んな。」
泣いている薫を気の毒に思ったのか ぶっきらぼうな言葉の割には男の声は優しい。
「じゃぁ、明日も来るから。左之助の気分が落ち着いたらそう伝えてちょうだい。」
「ああ、言っておく。カオルと言えば判るんだな?」
「ええ、お願いね。」
出入りをする男達の誰に聞いても様子は分かりそうにないと悟って 仕方なく薫は肩を落としてその家を辞した。
馬車に揺られて家路につく間にも左之助の声が耳の中でこだまし続け、まだ受け入れることの出来ない現実が真実なのだと薫の心を責め苛んだ。

翌日も薫はその家を訪ねた。
今日は扉が閉まっており、外壁の白い漆喰が訪問者を阻むように中の物音ひとつさえ通しはしない。扉の前に立ち躊躇(ためら)いがちにノックすると 徳林ほどの上背のあるたくましい白人が顔を出した。
昨日のように自分の名前を告げて左之助に会わせてくれるように頼み込んだが、応対に出た男は同じように首を横に振るばかりだ。左之助の様子を聞くと今日は朝から静かだという。だが、やはり二階の部屋に閉じこもったまま誰とも口を利いてはいないらしい。扉の外から声を掛けると返事はなく、中でしきりに話している話し声が聞こえたと言うことだった。
「サノはきっと気が狂っちまったんだ。無理もないよ。あんなに仲の良い二人だったんだから・・・」
沈痛な面持ちで男は薫にそう告げた。
「あなた達が居ることを左之助は知っているの?」
「さぁ・・・みんなそれぞれ扉の外から声を掛けたんだが、誰にも何も返事をしなかったから判っているのかどうか・・・」
「食事は・・・摂ってるの?」
「イヤ・・・扉の外に置いておくって言ったんだけど手をつけた様子はなかったよ。俺達ももうどうしようもなくて どうしたものかと話し合っていたんだが・・・」
開いた扉から中をうかがうとリビングの中に屈強な男達が所狭しと十人ばかり顔を寄せ合っている。不安げに2階へと視線を送っている者、囁く様に声を潜めて話している者、誰もが沈痛の面持ちで暗く沈んでいた。
「そう・・・・」
「せっかく訪ねてくれたが会うのはどうも無理だぜ。あんたが来たことは伝えておく。聞いてるか聞いてねぇかはわかんねぇけどな・・・」
「わかったわ。明日、もう一度訪ねてみるから。そう左之助には伝えてちょうだい。」
「ああ、無理かもわかんねぇけどな・・・」
男はそう言い残して静かに扉を閉めた。
鼻先で閉まった扉の前から立ち去れずに しばらく薫はその扉を眺めていた。左之助の悲しみの深さがひしひしと伝わるようだ。そしてまた自分の不注意が胸に刺さり、運命の皮肉さに涙ばかりが溢れた。
その日も為す術もなく薫は焦燥して家路についた。
そしてその翌日も無駄かもしれないと思いつつ、腕一杯の花束を抱かえて言葉通りに薫はその家を訪ねてみた。
今日も小さな家は息を潜めて静まりかえっている。扉を叩くと最初の日に話を聞いた男が現れた。
「おっと・・・花屋かと思ったぜ。あんたか。また来てくれたのか。」
「今日は左之助に会える? ねぇ、左之助の様子はどうなの?」
勢い込んで訊ねる薫に 男は少し微笑んだ。
「ああ、今日は会えるかもしれねぇ。ちょっと待ってろよ。二階に声を掛けてくるから。」
男は身軽な足取りで二階への階段を駆け上っていく。その様子を見てやっと左之助の気分も落ち着いたのかと安堵の息を吐く。すぐに戻った男は薫を中へと招き入れ、「会うそうだ。奥の扉だからな。」そう言って階段の上を指し示した。
大きな花束を抱かえたままうっすらと埃のたまった階段を上がって行き、教えられた通りに三つ有る扉の一番奥の部屋のドアを叩いた。
「左之助。私、薫よ。」
扉の外から声を掛けると小さく「ああ。」と応えが返ってきた。ドアのノブに手を掛け静かに扉を開くと澱んだ空気が一気に流れ出してきた。 
昼間だというのに窓にはカーテンが引かれ、蒸された空気が肌に纏わりつく。壁際には大きなベッドが置かれており、その中央にはすっかり綺麗に清められた剣心が静かな眠りについていた。そしてその隣の椅子に腰掛けて左之助は肩を落として俯いていた。
「左之助。私、私・・・なんて言っていいか・・・」
「嬢ちゃん・・・昨日も一昨日も来てくれたそうだな。悪かったな。」
薄暗い部屋の中で力無くゆっくりと顔を持ち上げた左之助を一目見て 薫は驚いて息を呑んだ。眼下は落ち窪み、頬は痩け、無精髭の生えているその顔には深い陰影が刻まれている。 カーテンの隙間から漏れる光の中でもはっきりと見て取れた。あの精悍だった左之助の面影はどこにもなく、心の憔悴がそのまま顔に顕れている。その姿を見ただけで薫の目からはもう涙が零れた。
「ううん、そんなこと・・・それよりも私、謝らなくっちゃ・・・・あなたにも剣心にも・・・」
「嬢ちゃんが謝ることなんか何にもねぇよ・・・」
腹に力が入らず気だるげに返答する左之助の声は 何もかもが投げやりのようにも聞こえる。
剣心を知る仲間として悲しみを分かち合いたいと差しだそうとした薫の手は 左之助の空虚な心の前で拒絶されたようにも感じて 駆けよりかけた足は部屋の中央で止まった。肩を落とし、取り出したハンカチで目元を拭きながら 聞いて欲しかった詫びの気持ちを語り出す。
「ううん、私の所為だわ。私が剣路から目を離したばっかりに・・・・」
「・・・子供が迷子になるなんて事はどこにでも有る話じゃねぇか。ただ、その偶然が重なっちまっただけで・・・」
「でも・・・あの朝、縁からも言われたの。剣路にそんな格好をさせるなって。それなのに私はあの人の差別意識だと思って・・・この街がどんなところだか知っているつもりで居ながら・・・・」
「それを言うなら俺も同じこった・・・・逆刃刀を持って出ようとした剣心に 置いて行けって言っちまったんだから・・・・」
「ごめんなさい、ごめんなさい、私・・・・」
「嬢ちゃん・・・自分を責めんなよ・・・偶然に偶然が重なっちまった・・ただそれだけのことだ・・・・」
「でも・・・でも・・・」
「・・・・俺達がいくら自分を責めたって剣心はもう戻ってきやしねぇんだから・・・」
呟くように言った左之助の一言は 左之助こそ自分自身を責め続け自身へと言い聞かせているようだ。後悔と絶望にひっきりなしに心を苛まれている、一昨日からの左之助の取り乱し様が如実にそれを物語っていると思えると 薫の目にまた新たな涙が溢れてきた。

「コイツ・・・・すぐに分かったんだ・・・一目見るなり『剣路だ。』って・・・なぁ、何年離れていたと思う?・・・・・子供なんてすぐに大きくなって顔が変わっちまう・・・・・・・・・なのに・・・」
膝の上で組んだ手に額を落として独り言のように呟き続ける左之助の言葉がそこで途切れる。胸の内に込みあげる悔しさを堪えようとしているのが 組んだ手が小さく震えているのでも判る。
「・・・俺が止めるのも聞かずに走って行っちまいやがった・・・・誰かが困っていたら迷わず死地に飛び込んでいくのがコイツの性分だ・・・・でも、普段ならあんな馬鹿なことはしやしねぇ・・・・・何にも見えてなかったんだ。コイツには剣路を守ること以外、何にも・・・・」
絞り出すように呟く声が薫の上を素通りしていく。薫には左之助の言っている意味が理解できないで居た。それではまるで剣心が我が子のことを恋い慕っていたようではないか。そんなことは有るはずがないと遠い記憶の一遍を綴ってみる。
「・・・自分のことなんか何にも顧みない、それが親ってもんなのかもな・・・」
「剣心が?・・・・・・」
「口には出しゃしなかったが コイツはいつも剣路のことを気に掛けていた・・・・小さい子を見ると懐かしそうにするんだ・・・判るんだよ、一緒に居てると・・・」
「剣心が剣路のことを?・・・・・うそ・・・・」
「嬢ちゃんがそう思うのも無理はねぇ・・・・だがよ、コイツはずっと自分を許せないでいたんだよ。嬢ちゃんを守りきれなかったことをな・・・・コイツにとってあの事件はあの島で終わっちゃ居なかったんだ。」
「だって、だって剣心はいつも剣路のことを・・・よそよそしくて・・避けていたのに・・・・」
「それを嬢ちゃんは剣心が剣路のことを縁の子だと気づいたからだと?・・・・・」
言いにくいことをはっきりと左之助に告げられて 一瞬薫の肩は震えた。だが、今自分が縁と暮らしている事実一つを取ってみても この旧友はすべてを承知しているのだろう。身の縮む様な思いをしながら か細く返答した。
「・・・・・ん・・・・剣心から・・聞いたの?・・・」
「ああ、だいたいはな・・・だけど剣心は知ってたんだよ、最初から何もかも承知で嬢ちゃんと一緒になったんだ。だが、嬢ちゃんにはそんな負い目は感じて欲しくなかったって・・・自分の所為で嬢ちゃんを辛い目に遭わせてしまったって。今度こそ、嬢ちゃんの本当の幸せを守ってやりてぇってな・・・」
「うそ、だったらなぜ?・・・剣路が大きくなるに連れ、剣心が剣路を避ける様になったのは・・・」
「人の気持ちってぇのはうまくいかねぇもんだな・・・・・コイツは誰よりも剣路が可愛かった。本当に目の中に入れても痛くねぇって俺にしゃぁしゃぁとぬかしやがった・・・でもな、そう思いながら自分がのうのうと暮らすことが許せなかったんだ。コイツの心の中にはいつも人斬りだった自分が居て、その罪を片時も忘れちゃ居なかったんだ。剣路が大きくなるに連れて剣路の中に縁の面影を見たんだな。実際、縁が剣心のことをまだ恨んでいるかどうかなんてぇ事は関係ねぇんだ。コイツにとって縁を思い出すことは 殺めてしまった人のことや嬢ちゃんを守りきれなかった自分の非力さを思い知らされることだったんだ・・・・・その度に悔やんで、悔やんで、それでも悔やみきれないでずっと自分を責め続けてた・・・だから・・・剣路を避けてたんじゃねぇんだよ、剣路を畏れていたんだよ・・・自分の犯した罪をな・・・・」
「そんな・・・そんなことって・・・」
「本当に不器用な生き方しかできないヤツだったんだ・・・」
「私の所為だったの? 私を守りきれなかったから・・・・だから剣心は・・・・・私は・・剣心が本当のことに気づいたから、だから・・だから、私や剣路のことを疎ましく思っているのかって・・・・」
「自分の生涯を掛けて守ってやりたかったって、嬢ちゃんも、剣路も・・・・・・それだけは嘘じゃねぇ・・・」

過ぎ去った日々が怒濤のように押し寄せてきた。笑ったことも泣いたこともすべてが剣心の笑顔と一緒になって 薫の心の中に溢れた。いったい自分はどのように剣心を理解していたのだろう。剣心の何を判っていたのだろう。すべてを知ったつもりでその実、何も気づかないでいたことの後悔が 訳の分からない衝動となって薫の心を突き上げる。その重みに押しつぶされるかのように薫はそこに(ひざまづ)き、声を出して泣き続けた。

「・・・左之助・・・私、本当に剣心のことを何にも解っていなかったのね・・・・解っているつもりで居て、本当に積もりだけだったんだ・・・・・だから私には剣心の心を捕まえることが出来なかったのね・・・」
泣きじゃくりながら話し出した薫の一言が 疲れ切った左之助の神経に触れた。身体のどこかに痛みを訴えるかのように目を細め顔をしかめたが、ハンカチで涙を押さえる薫には見えていなかった。
「剣心はいつも優しかったわ・・・一緒になれた時は嬉しかった。毎日が夢の様で・・・だって・・・私にはそんな日々がやって来るなんて思ってなかったから・・・剣路が生まれて、剣心も本当に喜んでくれてた・・・でも、その笑顔を見るたびに胸が痛んだわ。剣路はもしかしたらって・・・だけど、そんなことをすっかり忘れさせるぐらいに幸せだったの。これで良かったんだって、本当のことには目を瞑って・・・・・・
毎日が賑やかだったわ。剣心が居て、弥彦が居て、剣路が笑ったり泣いたりするたびにみんなで大騒ぎをしたりして・・・・でも、剣路が大きくなるに連れて何かが少しずつ崩れていったの・・・ちょうどそんな時だったわ・・・
剣心が時々雲を眺めていたの・・・時にはずっと何時間もそうしていることがあったりして・・・・最初は何をしているのか判らなかった。雲を眺めながら時々切なそうだったり、悲しそうだったりするの。でもそのうちにそれは誰かを思い出してるんだろうって思う様になったの。何でか判らないけどそんな気がして・・・この人の心にはずっと誰かが住み続けているんだって・・・」
薫の一言一言が鋭い棘となって突き刺さり、左之助は針の筵に座らされているように感じた。自分の与り知らぬ間の出来事とはいえ、剣心と薫の夫婦生活が破綻したその責任の一端を担っていたという思いが左之助の心に重くのしかかっている。もし剣心が自分のことを想っていてくれたのでなければ 薫と剣心はうまくやって行けたのかもしれない。それは、結婚する前から薫を裏切り続けていたという 剣心と自分との二人の共通の足枷だった。
左之助は俯き、自分の手の中で顔を歪め、重い溜息を漏らした。

「私と一緒になったことを後悔しているんだろうと思った・・・・剣心が剣路を見ている時はどこかよそよそしく感じたの。なのに私に気取られないようにって・・・・・・・自分の子供だと思った子が実は縁の子で、でも、それを言い出さないのは剣心の優しさで・・・・・
辛かったわ・・・いっそ怒って責めてくれたらって何度も思った・・・・
そんな時だったわ、縁と偶然再会したのは・・・・・
信じたりなんかしないだろうと思ったの。剣路は縁の子だなんて。でも、血のつながりって何となく分かるものなのね。初めて剣路を見た時に姉さんに似ているって、そう言ったわ。だから、後は自分がすべて引き受けるから出てこいって。でももしかしたらまた剣心への復讐の道具にされるのかと思ったけど、そうじゃなかった・・・あの人、すごく寂しがりやで愛情に飢えていたの。剣路のことをとても可愛がってくれたわ。それを見てやっぱり本当の親子の方が良いんじゃないかって・・・このまま剣路が剣心に疎まれて暮らすよりも剣路のためになるんじゃないかってそう思ったの・・・・剣心の心の中に住む人には勝てない・・・いつまでも届かない思いを抱いているよりはって・・・・
剣心が抱いている心の闇を知っているつもりだったのに、いつか剣路ばかりに目を奪われて私は忘れていたんだわ・・・だから、何も見えなかった。何も判らなかった・・・・剣心の心を振り向かせることが出来なかったんだわ・・・・」
そうじゃねぇ、嬢ちゃん! 左之助は叫び出したい気持ちだった。
薫の幸せを願ったのは剣心だ。そして、その薫と剣心の幸せを願っていたのは自分だ。それは紛れもない。だから二人は別々の道を選んだ。だのに・・・何かが違っていた。すべてが誤算だった。想い出に出来ると思った人は想い出にならず、お互いの心を縛り続けた。ちょうど一つの魂を分け合ったかのようにお互いを求め続け、渇望し続けた。
罪があるとするのなら二人が出会ってしまったことだろう。お互いを断ち切れないで居た自分達だろう。
「すまねぇ・・・・嬢ちゃん・・・・・」
「左之助・・・・・やっぱりあなただったのね、剣心の心に住み続けていたのは・・・」
「・・・知って・・・いたのか?・・・・」
「ううん・・・でもそうじゃないかと思ってた・・・・誰よりも剣心を理解できる人、誰よりも剣心と心を分かち合える人って他に思い当たらなかったから・・・・」
「俺ぁ・・・・・・・」
「謝らないで・・・左之助、あなただったことが良かったって思ってる。だって、私悔しくないもの・・・私じゃ剣心を包めない・・・私じゃ剣心を幸せには出来ない・・・・剣心は最初から私には手の届かない人だったのよ。
だから・・・私の選択は間違ってなかったよね・・・・
だって、今・・・私幸せなんだもの・・・・」
止めどなく涙を零しながら真っ直ぐに左之助を見つめて言い切る薫の表情は すべてのことが吹っ切れ、雲の合間から顔を出す太陽のように晴れやかだ。
「縁は本当に剣路を大事にしてくれているの・・・一緒に歩いてる時に誰かから『お父さんによく似ている。』って言われると少し困った様な顔をするんだけど、本当はとっても喜んでいるの・・・・
剣心があの場に居合わせたことは偶然だったかもしれないけど、剣心が剣路を守ってくれたことは偶然じゃなかった・・・」
「嬢ちゃん・・・・見てやってくれよ。コイツ、笑ってるだろ?・・・ 撃たれた時も血を吐きながら 子供は無事だって判ると本当に嬉しそうな顔をしやがったんだ・・・今度こそ、本当に自分が守りたかったものを守りきれて 心から満足してやがんだよ。一番大事に思っていた剣路をな・・・」
「うん・・・剣路を守ってくれて、そして私の幸せも守ってくれたんだ・・・・」
「これでコイツの幕末もようやく終わる・・・・・」
左之助が手を伸ばし剣心の額を撫でるようにして柔らかな朱い髪を梳き上げた。頬に掛かっていた髪が持ち上げられ左之助の指からはらはらと零れ落ちる。透けるような肌にくっきりと残る十字傷が 血の気が失せている今はわずかに浮かび上がるだけだ。その傷を背負い、その傷に振り回された剣心自身は 左之助が言うように今はうすく微笑んでいるようだ。それは一緒に暮らしている時には薫が見たこともないような幸せそうな優しい表情だった。

「そうだ、左之助・・・この花を剣心へ送っても良いかしら?」
足下に置いていた大きな花束を拾い上げながら 薫は左之助へと訊ねた。
「あん? 何でわざわざそんなことを・・・?」
「縁からなの・・・」
「ああん? 縁からだって? ヤツがそんなことをするなんてなんか信じられねぇな・・・嬢ちゃんと一緒になれて感謝してるってぇか?」
「違うの。あの人・・・このことを聞いてからずっと黙り込んでいつも不機嫌そうな顔をしていたの。」
「そりゃ、そんなに可愛がってる我が子を剣心に助けられたってぇのは 縁にすりゃ面白くねぇだろうな・・・」
「私もそうなのかと思ってた・・・・でも・・今日ここへ来る前に『今日も行くのか?』って・・・そうだって言うとこの花を私に差し出して『義兄さんに剣路を助けてくれてありがとう。そう言ってくれ。』って・・・・もし、今日も会うことが出来なかったら玄関先の目立たないところにでもこの花を添えてきてくれって・・・・」
「なんで・・・・」
「それで解ったの。剣心はあの人にとってもまた生きる希望だったんだって・・・・物心着いた時からずっと剣心を恨んできて、その気持ちだけでずっと生きてきて・・・誰よりも大切だったお姉さんを失ってしまっても強く生きてこられたのは いつか剣心へと復讐をすることが目的だったから・・・・・でも、あの島で自分で立てた計画を私を助けてしまったことで自分が潰してしまった・・・巴さんの日記を読んで、巴さんの本当の気持ちを知って、復讐することの無意味さが解ったんだけど・・・でも、だからと言ってずっと抱き続けていた気持ちを切り替えることが出来なくて・・・・復讐は諦めたけど、でもそれでもやっぱり剣心を恨む気持ちは消えていなかったんだって・・・でも、剣心が死んでしまって・・・ そして自分が生きていた支えも消えてしまったんだって・・・うまく言えないけどあの人にとっても本当の意味での幕末がこれで終わったんだって、そう思ったの・・・」
「剣心への恨みもこれで本当に消えちまったってか・・・・」
「うん・・・・」
「やっと許されたのか・・・・なんか、虚しいな・・・」
「だから、この花はあの人からの本当の感謝の気持ちだと思うの。そして、さよならの・・・」
「何となく複雑な気分だが・・・・でも、それで縁がこれから本当の意味で嬢ちゃんと幸せになれるんだったら 剣心も心から喜ぶだろうよ。枕元に置いてやってくれよ。剣心によっく見えるようにな・・・」
「ん・・」
跪き、腕に抱いた花束を剣心の枕元へとそっと降ろして薫は静かに剣心へと語りかけた。
「剣心・・・・剣路を大切に思っていてくれてありがとう・・・・・いろんな事があったけど・・・あなたに出会えて良かった・・・・・・・」
後はもう言葉にはならなかった。
剣心と初めて出会った夜から今日までのことが走馬燈のように駆け巡り、想い出は尽きぬ泉のように溢れ続けた。辛いことも悲しいこともあったはずなのに 胸に浮かぶのは剣心の優しい声と笑顔ばかりで 何時までも薫を(いにしえ)の中に閉じこめた。そして、気づけば左之助がいつの間にか後ろに立ち、薫の肩に手を置いていた。その手の温もりから二人の思いは呼応して想い出を共有し、時を忘れて心の中で語り続けていた。


どれほどの時間が過ぎたのだろう。不意に左之助が薫に声を掛けた。
「そうだ、嬢ちゃん・・・一つ頼まれてくれねぇか?」
「うん、 なぁに?」
「そこに置いてある荷物なんだけどよ、弥彦に赤ん坊が生まれるってんで剣心と選んだんだ。月が変われば日本へと帰って剣心と届けてやるはずだったんだが、こんな事になっちまったし・・・悪いが代わりに弥彦へと送ってくれねぇか?」
左之助が示す荷物の山は部屋の隅から剣心が眠るベッドの足下にまで(うずたか)く積まれている。大きなベッドと机の他は家具らしい家具もほとんど無く殺風景な部屋の中に 色とりどりのリボンでくるまれた綺麗な包装紙の山が置かれているのは ちぐはぐな印象を覚える。
「まぁ、弥彦に赤ん坊が? あの子ももうそんな歳になったのね・・・・・やっぱり燕ちゃんと?」
「ああ、似合いの夫婦だったぜ・・・」
「そう・・・だけど左之助は日本へ帰らないの?」
「俺は・・・・弥彦へと会わせる顔がねぇや・・・・アイツにとって剣心は絶対的な存在でただ一人の身内だったからな・・・・日本を旅立つ時もまるで剣心の親の様な顔をして 剣心のことをよろしく頼むって言ってやがったんだ・・・・任せとけって言ったのによ・・・・・アイツに剣心のことを知らせてやってくれよ・・・・」
「でも・・・弥彦も直接左之助から聞きいた方が・・・・・」
「・・・俺にはとても出来ねぇよ・・・頼む。」
「分かったわ。ちゃんと日本へと届ける。私なんかの手紙を弥彦が読んでくれるかどうか分からないけど 剣心と左之助の気持ちを出来るだけ伝えるわ。でも、いつか弥彦を訪ねてあげて。あの子、きっと待ってると思うから・・・」
「ああ、いつかな・・・すまねぇな、嬢ちゃん。」
「ううん。そんなこと・・・」
「じゃぁ、嬢ちゃんが来たら分かるようにしておくから手の空いた時にでも送ってやってくれ。」
「って、左之助、どこかへ行くつもりなの?」
「俺は・・・・コイツとした約束があるからな・・・・・」
そう応えた左之助の眼はどこか虚ろに彷徨っている。
「どこへ?・・・遠いの?・・・・」
「そうだな・・・ずいぶん遠いかもしれねぇ・・・」
焦点の定まらぬ眼で遙か遠くを見つめて曖昧に言葉を濁す言い方に 薫は胸を締め付けられるような不安を覚えた。
「左之助・・・・また会えるよね?」
目の色を伺い精一杯の思いを込めて左之助を見つめる。
「ああ・・・元気に生きてりゃまたどこかで会えるだろうよ・・・・」
生きてりゃな・・・・二度目の言葉は左之助の心の中で呟いた。


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